ある数学徒の疑問と考察

だふやふ

1. 疑問

 12時半、私は6階の談話コーナーで歯を磨いていた。前日から研究室に泊まり込んで一睡もせず輪講の準備に取り組んでいた私は、その作業が一段落ついたと思える頃、前日から溜め込んだ過剰なカフェインと思考作業による心身的困憊で朦朧とした意識の間で、己の落ち着く場所を探すのに苦労していた。学食で軽い昼食を済ませた私は授業の前に歯を磨く事にした。ほとんど五月の近傍に入っていたその日は正しく五月(近傍)晴れとでも言うような晴天であり、朝の6時半に眠気覚ましと言って屋上で研究室の同期とともにラジオ体操さえしたのを覚えている。私は口に含んだ歯ブラシを小刻みに動かしながら、談話コーナーの窓から横浜の空を眺めていた。遠くはみなとみらいを臨む麗美なパノラマも、私の近眼には小さすぎた。他方、近くは他の研究棟を挟む小路を歩む幾つかの旋毛がくっきりと見えた。その時の私は、どういうわけか、風を欲していたらしい。窓の取手に手を掛けると意外にもその窓はいとも容易く開いてしまった。天気の割に五月の風は冷たく、白色のパーカーを羽織った首元に吹き込む流体はカフェインによる興奮を覚ましてくれた。窓の桟に手をついて身を乗り出すと、生い茂った常緑樹に歯ブラシについた歯磨き粉の液が垂れてしまった。その雫はほぼ一定の速さで曲線を辿った。その一瞬間、確かに私の時計は止まっていた。私の中にあったはずのものが、私の体から遠ざかっていくのを私はただ見つめることしかできなかった。やがてその雫は姿を消した。不思議と、私の目には往来を乗せた小路がとても近くに見えた。今、この場所でこの窓から飛び降りると私はどうなってしまうのだろう、という問が自然と私の脳裏に浮かんだ。こんなにも近い地面に向かって、見えざる羽根を広げることに、何をためらう必要があるだろうか!

 その時の私は、今まで私が生きてきた二十数年の年月の中でもっとも死に近い存在だった。6階の談話コーナーという稠密な空間において生と死が混在していた。それでも、3次元実ユークリッド空間のハウスドルフ性によって私は幸運にも生と死を分離することが出来た。いや、このセンテンスには誤謬がある。実のところ、私はこの場所が6階だということを知っていた。だから、ここから飛び降りれば死を免れ得ないことなどは容易に想像できた。故に、私は生を選択した。さらに、その選択は私の真の弱さによるものも大きい。要するに、私は消えかけたロウソクのような意識の中で、正しい判断を示せなかったしその判断が真実に正しいかも示せなかったのだ。

 私が死を免れた昼休みが終わるとすぐ輪講が始まった。一夜漬けの準備は功を奏し、教授や上級生からの指摘を大方捌くことが出来た。私が一週間考え込んで、解き終わるのに当日の朝までかかった命題は、思いの外至極単純な応用であった。しかし、教科書に記された普遍的事実とは関さない部分で私の精神的疲労は限界を迎えようとしていた。ホワイトボードに書くマジックを持つ手は震え、声は普段より有意に低い周波数を響かせていた。私が命題1.7を説明し終えるや否や、ついにその時を迎えた。意識が途切れる。私の中の全ての思考が停止し、私は私が何であるかを文字通り完全に見失った。偶然にも教授がその説明の補足のいくつかを挿入したため、私が言を失ったことをその教室にいた誰一人として気付くことはなかった。当然、私はその教授の補足を全く覚えていない。暫くして白板に並べられた数式の羅列を見て、私は現在数学をしていることを思い出した。ただ、正常な意識を取り戻した代償として、私はある一つの奇妙な疑問を抱かざるを得ない状況に陥った。「私は数学をしているのか?」

 突如として私の深層から放たれた一つの問は自己同型写像(おそらく単位)によって再び私の深層に静かな音を立てて入り込んで来た。それは聞いた経験のある音の中で最も不快なそれであり、耳を手で塞いでも頭の奥でその音が鳴り止むことはなかった。その音に自分をかき消されることのないように、私は最大限の奮闘によって輪講の発表を完遂した。結局私はその音の正体がわからぬまま授業を終え、研究室で仮眠をとるとその音は消えていた。

 私はその時、ある種の哲学を必要としていた。それは私の行為に理由を付けるために用いられるものであって、それ自体が学術的な理論体系を為す必要は必ずしもなかった。一見すると無為な遊戯のように感じられるこの学問を、私はなぜ、自らの命を削ってまで中心的に取り組まねばならないのか。他者についても同様に問われる。ここで、ただ単純に興味関心や知的好奇心を以てそれらの解とするには、そう結論付ける勇気や自身が私には無かったし、尤もその説明では明らかに不十分だった。もっと抽象的で一般的な根拠によって推論をなされなければ、私にとってその問自体がとても意味のないものになってしまうからだ。私には精神を排除した無機的な論理と手法が必要だった。

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