台湾食堂と魔法のスパイス

深水えいな

第1話

「わー、着いた着いた!」


「思ったより近かったな」


 空港から降りると、そこは東京から飛行機で約三時間の外国、台湾。

 係員に投げられたのか、少し凹んだスーツケースを転がすと、人ごみに乗って空港の中を歩く。


「外国とはいっても同じアジア人ばっかりだし、あまり外国に来たっていう感じがしないな」


 両替をしながら呟くと、付き合ったばかりの彼女の香菜が鼻をヒクヒクいわせながら辺りを見回した。


「でもやっぱり日本とは違うよ。何かこう、匂いが違う」


 嬉しそうに目を輝かせる香菜。


「匂い?」


 香菜に言われ、僕も辺りの匂いを嗅いでみる。


 空港内のレストランから香ってくるのか、それとも現地の空気が元からこうなのか分からないが、確かに嗅ぎなれない妙な匂いがする。何だか落ち着かない。


「嫌な匂い!」

「美味しそうな匂い!」


 同時に言う僕と香菜。

 

 香菜は口を尖らせる。


「えっ、嫌な匂いかなあ?」


「何か薬臭くないか? 漢方薬みたいというか」


「薬かあ。確かに八角や山椒みたいな匂いはするけど、そんなに嫌?」


「僕はあんまり香りの強い香辛料は好きじゃないから」


「ふーん、そうなんだ」


 残念そうにする香菜。


 元々香菜は台湾じゃなくてタイやインドネシアへに行きたがっていた。


 それを台湾にしたのは、台湾の方が近くて治安がいいからというのもあるけど、僕がパクチーの匂いのする料理やココナッツの香りのするカレーが苦手だから。


 台湾なら中華料理だろうから大丈夫だと思っていたけど――もしかすると、台湾も香辛料の利いた料理の国なのだろうか? 

 

 空港から出た僕たちは、バスに乗って市街地へと向かった。遠ざかっていく空港。


 窓の外では等間隔に植えられたヤシの木が午後の日差しを浴びてきらめいている。いかにも南国と言ったその光景に、ようやく外国に来たのだという実感がわいてくる。


「ふう、初めての外国だからどうなるかと思ったが、思ったより簡単にバスに乗れたな」


「そうだね。日本の空港より単純で分かりやすいかも」


 僕は目の前を走る団体客向けのバスをちらりと見た。


「でもさ、やっぱりパックツアーの方が良かったんじゃないのか。その方が楽だし、安心だし」


「そんなのつまらないよ」


 力説する香菜。


「お決まりのコースをぞろぞろ歩くなんて。旅の醍醐味は、未知との遭遇にあるんだから」


 どうやら香菜は旅行においても刺激を求めるタイプらしい。


「それよりも見てほら、パイナップルの木があるよ。パイナップル、食べたいなあ。台湾に来たからにはマンゴーも食べたいし」


「バナナも有名だよな」


 ホテルの近くでバスを降りる。すると丁度バス停の目の前に、フルーツジュースの屋台があった。


「ねえ、生ジュース飲みたくない?」


「そうだな、俺も喉が乾いた」


 屋台のメニューに目をやる。やたら沢山ある上、全て中国語だ。


「このオレンジのがマンゴーかな? でもオレンジかもしれないし他のフルーツかもしれないし」


 香菜がメニューの前で悩んでいる隙に、僕はメニューを指差し注文した。目の前に赤いジュースが運ばれてくる。


「それ何?」


「スイカのジュース。『西瓜』の文字が読めたから注文してみた」


 爽やかな甘みが水分を失った体を一気に潤す。


「ああ、さっぱりしてて美味しい。香菜はどれにするの?」


「うーん、じゃあこれにする」


 香菜がよく分からない中国語のメニューを指さす。


「なんて書いてあるの」


「分かんない」


 あっけらかんと言う香菜。


「大丈夫なのか? 分からないのに注文して」


「でもさ、こういうのってワクワクしない? 旅先で新しく美味しいものを発見するのって楽しいって思うんだ」


「でも不味いかもしれないだろ」


「不味かったらそれはそれで話の種になるじゃない? ある意味オイシイよ」


 香菜の怖いもの知らずっぷりには関心してしまう。僕にはとても真似出来ない。


 やがて茶色っぽいジュースが運ばれてくると、香菜はそれを一気に飲み干した。


「んんんんんん!」


 ジュースを飲んだ香菜が声を上げる。


「どんな味?」


「紅茶だ! すごく甘い」


 ジュースじゃなかったのか!


「タピオカだ。タピオカが入ってる!」


 タピオカミルクティー。それが謎のジュースの正体だった。


「タピオカ、タピオカ、美味しいな」


 歌う香菜。賑やかな奴。


 日差しが指すように痛い。ごみごみした排気ガスの匂いのする空気。目眩のするような湿気の高い日だった。


 未知の国、未知の料理。ここには知らないものが沢山ある。


 ***


 ホテルで少し休んだ後、僕たちは晩御飯を食べに出かけた。


 日は沈んだが、辺りはまだ蒸し暑い。ビルや街灯の明かりが辺りを照らし、夜の外国だと言うのに危険な感じは全くない。


「わあ、都会だね、台北」


「そりゃまあ、首都だからな」


 少し歩くと何やら行列ができているお店が目に入ってくる。


「あれってガイドブックに載ってた有名なお店じゃないかな。入ってみようよ」


 僕が指をさすと、香菜は首を振った。


「ああいう観光客向けの店より、もっと現地の人が食べるようなお店に行きたいな」


 確かにそうかもしれない。現地の人向けのレストランの方が安くて美味しいというのはよく聞く話だ。


 そのまま裏路地をずんずんと歩いていく。曲がりくねった細い道。辺りは繁華街と違って薄暗く、飲食店の小さな提灯の明かりだけが小さく光っている。


「あ、犬だ」


 急に香菜が立ち止まる。目の前を柴犬を貧相にした様な犬がスタスタと歩いていく。


「さっきも居たよな。台湾って、野良犬多いのかな」


「あの犬について行ったら美味しいお店にたどり着くんじゃない?」


「そんなバカな」


「いやいや、犬の嗅覚を馬鹿にしてはいけないよ」


 すると犬は一軒の食堂の前で立ち止まり匂いを嗅ぎだした。


「犬が立ち止まったぞ」


 慌てて犬の後を追いかけると、煙に乗って空港で嗅いだあの匂いが漂ってきた。漢方薬みたいな匂い。


「凄い香辛料の匂いがする」


 恐る恐る食堂を覗き込もうとすると、食堂のドアがガラリと開いた。


 汚いエプロンをしたおじさんが外へ骨を投げ犬を追い払う。


 その様子を見つめていると、おじさんの目と僕の目がバッチリと合った。


 おじさんはニコリと笑うと僕たちに何か言って店に入るように促す。多分「いらっしゃいませ」と言ったのだろう。


「仕方ない。これも何かの縁だ。ここにしようか」


「うん。それがいいね」


 中に入ると薄暗い店内ではランニングシャツに股引姿の酔っ払ったおじさん達が酒盛りをしている。厨房から漂う強い香辛料と油のような匂い。


「えらく汚い店だな」


「案外こういう所が美味しかったりするんだよ」


 メニューを広げると、そこには大きなレストランにあるような写真も英語表記もなく、あのおじさんが書いたのであろう手書きのメニューがずらずらと並んでいた。


「全然分からないな」


 知っている中華料理の名前を探そうとしたが、麻婆豆腐もエビチリも酢豚もない。


 しばらくメニューと睨めっこをしているとやっとのことで「肉餃子」というメニューを見つけた。


「僕はこれにする」


「じゃあ、私はこれとこれ」


 香菜が指さしたメニューを読んで見ようとしたが、よく分からない漢字が書かれている。


「なんでそれにしたの? 中国語読めるのか?」


「読めないけど、これは『菜』って字がつくから野菜で、これは『肉』がつくから肉だと思うの。あとは勘」


 あっけらかんと言ってのける香菜。相変わらず適当だ。


 手を上げておじさんを呼ぶ。


「ええと――」


「ジャパニーズ?」


 どうやら僕たちが話しているのを聞き、日本人だと気づいたらしい。


「イエス。ドゥーユースピークジャパニーズ?」


「ノー!」


 元気よく返事をするおじさん。どうやら日本語が話せるというわけでは無いらしい。ついでに英語もそんなに上手ではない。人のことは言えないが。


 とりあえずメニューを指さして注文する。しかし肉餃子を注文したところでおじさんは首を横に振った。


「NOミート。ベジタブル、OK!」


 どうやら材料が切れていて肉餃子は作れないらしい。肉餃子の上に書いてある野菜餃子ならばいいということで、仕方なく野菜餃子に変更する。


 他にもおじさんは僕らの頼んだ料理にことごとくNOと言い、メニューを変えさせた。結局僕らはおじさんの言うがままに料理を頼むハメになった。


「どんな料理が来るんだろう?」


 楽しそうに笑う香菜。


 少しして野菜餃子が運ばれてきた。


「水餃子だね」


 香菜は運ばれてきた餃子を見て目を丸くした。これは予想外だった。しかも想像していたよりもかなり量が多い。


「サービス、サービス!」


 おじさんが親指を上げる。なんだか陽気なおじさんだ。


「とりあえず食べてみよう」


 口に入れると、濃厚な野菜の旨味とにんにくの風味がじゅわりと口の中に広がった。


「んー!」

「美味い!!」


 シャキシャキしたキャベツの歯ごたえとモッチリした皮の相性も抜群でジューシー。

 まさか肉の入っていない餃子がこんなに美味しいとは。


「キャベツと、あと何だろうこの緑の」

「ニラかな。タケノコも入ってる」

「今まで食べた餃子の中で一番美味いぞ、これ」


 夢中になって餃子を食べていると、続いて青菜の炒め物が運ばれてくる。


 ほうれん草に似た野菜をただ炒めただけでとても美味しそうには見えなかったが、口に入れると、これがびっくりするほど美味しい。


「ただの野菜炒めがこんなに美味しいなんて!」

 

 味付けは恐らく塩とニンニクだけだが、これだけでご飯が何杯でも食べれそうなやみつきになる味だ。


 最後にご飯の上に豚肉の乗った丼が運ばれてきた。


 豚の角煮を細切れにしてご飯に乗せたその料理は、口の中に入れた瞬間トロッと脂身が溶け、最後にフワッと中華独特の香りが口の中に広がる。少し濃いめの甘辛ダレがご飯に染み込んでいるのも堪らない。


「うん、これも美味いなあ」


 あれほど嫌だった香辛料の匂いも全く気にならない。僕は夢中になって角煮丼にむしゃぶりついた。


 夢中になって食べていると、店主のおじさんが厨房の電気を消し、僕たちの横のテーブルにどかりと腰掛けた。


「店じまいの時間なのかな?」


 おじさんは尋ねた。


「ユア、ネイム?」


 香菜を指さすおじさん。


「カナ」

 

 香菜が答えると、おじさんが紙とボールペンを渡してくる。どうやらどういう漢字を書くのか知りたいようだ。


 香菜が自分の名前を書くと、おじさんは大声を出して笑い出した。


「何で笑ってるのかな?」

「さあ」


 おじさんはひとしきり笑ったあと、店で酒盛りをしているおじさん達にも紙を見せにいった。すると酔っ払いのおじさんたちの間でもどっと笑いが起きる。


「なんだろう?」


 耳を澄ますと、何やら「パクチーパクチー」と聞こえてくる。


 おじさんがこちらに戻ってきて何やら説明を始める。


「分かった。このおじさん、『香菜』は中国語で『パクチー』って意味だって言ってるんだよ!」


 香菜もゲラゲラと笑い出す。

 確かに、自分の娘に「パクチー」と名付けるなんておかしな話だ。


「パクチーガール!」


 名前のおかげで香菜はおじさんたちの人気者になった。陽気なおじさん達と、片言の英語と身振り手振りを使い、あれこれ語り明かしていりうちに、台湾食堂の夜は更けていったのだった。


 ***


 あれから何年も経ったけれど、今だに僕はふとした拍子にあの台湾の食堂で食べた料理が恋しくなることがある。


 日本のどの中華料理屋や台湾料理屋に行っても同じ味の料理は見つからないから、そういう時は仕方なく、自分であの時の料理に近いものを作ってみることにする。


 野菜餃子に入っていた緑の野菜はどうやらニラではなくニンニクの芽だと分かった。


 青菜炒めの正体は空芯菜くうしんさいで、炒める時は塩じゃなくて塩麹、それと生のニンニクを使うのがポイント。世界には僕の知らない食材が沢山ある。


 あとは角煮丼。醤油ベースのタレにオイスターソースや八角、山椒を入れる。香りは少し物足りないが、それなりに味は再現できたと思う。


「これ、匂いきつくない?」


 僕の料理を食べた茉莉花が渋い顔をする。


「茉莉花はこれ、好きじゃない?」


「うん、匂いがヤダ。ニンニクもキツいし」


「そっかあ。美味しいのに」


 自分の作った料理を頬張る。今日のはかなり上手くできたと思ったのに。


「パパだって昔、香辛料の効いた料理は嫌いだって言ってたじゃない」


 妻の香菜が餃子を頬張りながら呆れ顔をする。


「そうだったっけ?」


 今ではもう昔の記憶はおぼろげになってしまっているが、確かにそう言われればそうだったかもしれない。


「どうして好きになったんだっけなあ」


「ほらあれじゃない? 台湾旅行に行ってからよ」


「ああ、あれは楽しかったなあ」


 一人娘の茉莉花が生まれてから五年経つ。


 しばらく旅行になんて行ってないけど、茉莉花がも大きくなってきたし、今度は三人でまた見知らぬ土地に行ってみてもいいかもしれない。


「あなた、夜市で臭豆腐を食べてオエッてなってたわね」


「ママだって博物館で角煮の形をした彫刻を見てヨダレを垂らしていたじゃないか」


「垂らしてない!」


 記憶の奥底で眩しく輝く青春の日々。


 眩しい日差しにうだるような暑さ。そして、香辛料の匂い。


 あの日僕たちは、二人で小さな冒険をした。他の人からしたら、とるに足らない冒険かもしれないけれど。


「なあ茉莉花、中国語でパクチーって何ていうか知ってるか?」


「知らない」

 

「中国語でパクチーはな、香菜って言うんだ」


「じゃあママの名前はパクチーって意味なんだ!」


 茉莉花が大爆笑する。何がツボにハマったのか、茉莉花は苦しそうにお腹を抑えて笑い続ける。


「もう、そんなに笑わないでよ」


「パクチー、パクチー!」


 笑いながら角煮丼を頬張ると、懐かしい香りが鼻の奥に広がる。頭の中に、あの日の台湾食堂の光景が鮮明に蘇ってきた。


 どうして香辛料の効いた料理を好きになったのかは覚えていないが、あの日のワクワクする気持ちはハッキリと覚えている。


 あの台湾食堂の夜は、僕の思い出の中で最も大切なもののうちの一つだ。


 人生は旅行だ。未知との遭遇だ。


 だけれどもどんな試練だってへっちゃらだと今ならば胸を張って言える。


 だって僕は、どんな物も美味しい色や香りに変えてしまう、スパイスを持っているのだから。


 顔を上げれば目の前で、僕の魔法のスパイスたちが腹を抱えて笑っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

台湾食堂と魔法のスパイス 深水えいな @einatu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説