【無料試し読み】結城光流『吉祥寺よろず怪事請負処』

KADOKAWA文芸

一話 黒ムシと春告げの梅 ①

 校門からレンガ造りの校舎までつづくケヤキ並木は、どの樹も立派でまっすぐのびている。

 ケヤキは武蔵野市の市民の木なのだと、この大学に入ってから知った。

「うんうん。元気な樹はいいよ」

 木漏れ日の落ちている石畳を歩きながら、保は満足そうに頷いた。

 道の両側につづくケヤキ。青々とした若葉、苔むした太い幹。風が吹けば若葉が揺れ、さわさわと葉擦れがこだまして、目にも耳にも涼しい緑の季節だ。

 明るい緑色が目に優しい。爽やかな風がはらむ緑の匂いが心地いい。

 そんなとき、この爽やかな情景に似合わない叫びが聞こえた。

「あっ、いた! 待ってくれ、たもっちゃん!」

「…………」

 保は待たずにすたすたと歩いていく。

 声の主は、同じ高校から進学してきた広崎だ。

 同じクラスになったことがあるのは高二のときだけで、取り立てて親しかった覚えもないが、彼はやけに親しげに接してくる。

「たもっちゃん、待てって!」

 声が近づいてくる。どうやら保めがけて走っているようだ。

 並木の前で固まってしゃべっていた女の子たちが、保の後ろのほうに顔を向けた。

「陽太ー、どうしたのー?」

「ちょっとねー」

 保はそうっと、肩越しに振り返った。

 広崎が女の子たちに囲まれている。

「さっき綾が文句言ってたよー。昨日約束すっぽかされたって」

「えー、すっぽかしてないよ、ちょっと遅くなったらもういなくってさー」

「謝ったほうがいいよー。かなり怒ってたもん」

「マジで!? わかった、サンキュ」

「このあとヒマ? みんなでお茶するんだけど、陽太も来ない?」

「今日はムリだー」

 広崎は人好きのする顔で適当に受け答えしている。

「もー。じゃ、明日ね」

「いいよ。じゃ明日」

 ぱたぱたと手を振って、広崎は彼女たちと別れてまたこっちに駆けてくる。

 肩越しにそれを眺めていた保は、感心した。

「さすが……」

 親しくはないが、知ってはいる。

 広崎陽太はモテるのだ。高校ではバスケ部のレギュラーで背が高く、そこそこ整った顔立ちで、人懐こくて爽やかだし、調子が良くて話もうまいから、とにかくモテる。高校時代モテていた彼は、大学に入ってもやはりモテているらしい。

 そして彼は、来るもの拒まずの自称博愛主義者だった。ただの女好きなのだが、それを許せてしまう雰囲気がある男なのだ。

 呟いた保の肩を、追いついた広崎ががしっと掴んだ。

「呼んでんだから待っててくれたっていいだろ、冷たいなー」

 タイミングよく陽が翳ったのか、周りがうっすら暗くなった。

 まるでいまの俺の心そのままだと思いながら、保は深々とため息をついて、仕方なく体を向ける。

「で、なに?」

 広崎は拳をぐぐっと握りしめた。

「ムシが出るんだ」

「は?」

「羽アリが出るんだ、なんとかしてくれ」

 そう言って、広崎は顔の前で手を合わせた。

「毎晩どっかから入ってくるんだよ。助けてくれ、たもっちゃん!」

 拝まれた保は、半眼で唸る。

「……とりあえず、その呼び方はよせ」

「えっ、なんでだよたもっちゃん」

 お前とはそんなに仲良くないからだよと胸の中で唸りつつ、当たり障りのない答えを探していた保と広崎のところに、さっきの女の子たちが追いついてきた。

「なにしてんの、陽太」

「羽アリがどうとか聞こえたよ?」

「そうなんだよー。うちの部屋に羽アリが出んのよ。どっから入ってきてんのか全然わかんないんだわ」

 広崎の言葉に、女の子たちはきゃー気持ち悪いやだーと、甲高い声をあげる。

「俺だってやだよ。だからたもっちゃんに助けてって言ってんの」

 そろそろと逃げようとしていた保は、広崎に腕を掴まれた。女の子たちに気がいってると思ったのに、周辺視野で見てやがったのか。

 女の子たちは本気で嫌そうに顔を歪めている。

「早くなんとかしたほうがいいよ」

「そんなの、アリ退治のなんとかいうのがあるじゃない」

「陽太、なんで……ええと、何くん?」

 初対面の相手に訊かれて、保は仕方なく答える。

「……丹羽」

「丹羽くんになんで羽アリ?」

 もっともな疑問だ。

 広崎はにやっと笑った。

「だってこいつんち、庭師だもん」

「は?」

 目を丸くした一瞬のちに、彼女たちはけたけた笑い出した。

「えー、丹羽くんで庭師?」

「冗談じゃなくて?」

「庭師の丹羽くん、なんかおもしろーい」

「だから羽アリかー」

 ツボに入ったらしく、女の子たちはひたすら笑っている。

 彼女たちと一緒に笑いながら、広崎は調子よくしゃべり出した。

「ほんとおもしろいよなー。あんまりつるんだりしなかったんだけどさ、庭師の丹羽ってのがすげぇインパクトで、もう忘れらんなくてさー」

「そーかい」

 半眼で相槌を打つ保に、広崎は真剣な顔でまた拝んできた。

「庭師だったら羽アリなんとかする方法くらい知ってるよな、頼む、助けてくれ! もう俺ノイローゼになりそうなんだよ!」




「ったく、ノイローゼにでもなんでも勝手になれってんだよ」

 羽アリ退治のプロのテクを調べてくれ、やってくれるだろ、ありがとな期待してるぜたもっちゃんなんせ庭師で丹羽だもんな。

 と、勝手に話を進めた広崎は、じゃあ明日までによろしく、と勝手に決めつけて、やっぱりお茶くらい飲んでくわと言って女の子たちと行ってしまった。

「あいつ、あんな強引だったっけ? 前はもう少し思いやりがあった気がするんだけどな……」

 目をすがめて首をひねりながら、保は家路を急ぐ。

「だいたい、庭師庭師言うんじゃねぇよ! 造園家とかガーデナーとか、いっくらでも言いようがあるんだよ!」

 植木屋でも植樹屋でもいい。作庭家とかトピアリー職人とか、ああそうそう、古くは園丁とも言われた。

 しかし、なじみがいいのはやはり。

「……庭師か」

 深々と息をついてがくりと肩を落とす。

 大学を出て五日市街道を東に進み、八枝神社の角を曲がって大正通りに出る。東急に向かって歩き、カフェレストランの角を左に曲がって少し入ったところが、大叔父の店兼住居だ。

 大叔父はガーデンショップを営んでいる。にぎやかで人の多い吉祥寺の街中とは思えないほど静かな場所だ。道路と敷地の境界線に背の低い樹を何本も植えた生垣になっていて、店の入口まで白い砂利と、敷石がつづいている。

 向かって左側はアルミフレームの温室だ。強化ガラスがはめられていて、採光は申し分ない。整然と並んだスタンドには、ポット苗や鉢植えなど、ガーデニング用の植物がたくさん並べられている。

 温室の中で鉢を手にしていた老人が、保に気づいて手を止めた。

「おう、お帰り」

「草じいちゃん、ただいま」

 大叔父の草次郎だ。帽子のつばを後ろにしてかぶり、首に使い古したタオルをかけている。服装はチェックのシャツに乗馬ズボン。シャツは何枚もあって全部だいぶ古くなっているが、着なれていて作業がしやすいらしく、大概これを着ている。

 温室の前を通って、店の入口のガラス引き戸を開けると、ガーデニング用品を棚に並べていた草次郎の息子が笑顔になった。

「たもっちゃん、お帰り。早かったね」

 葉月も草次郎と同じチェックのシャツと乗馬ズボンだ。

「うん。ただいま葉月ちゃん」

 保とよく似た雰囲気の葉月は、大叔父の子どもだから、保の父と従兄弟同士なのだ。保と葉月の間柄は、いとこ違いと言うらしい。もっと難しい言い方をすると従叔父なのだそうだが、保にとっては親戚の葉月ちゃんだ。

 保は来客用の古い革張りソファに乱暴に倒れ込んだ。葉月が瞬きをする。

「どうした、たもっちゃん」

「聞いてくれよ葉月ちゃん、俺は今日また自分の苗字を呪った!」

 細かいところはわからないまでも、大体のところを察した葉月は、あはははと軽く笑う。葉月も丹羽姓だから、言われてきたことはほぼ同じだ。

「庭師の丹羽なんて、できすぎてるからねー」

「なんでじいちゃんたちはほかの仕事を家業にしなかったのか…!」

 額に青筋を立てて拳を握り締める保の背を叩いて、葉月は苦笑いだ。

「久々に荒れてるね。どうした?」

「仲いいわけでもない同じ高校だった奴に羽アリ退治の方法訊かれるし、よく知らない女どもになんか笑われるし」

「あははは、なるほど」

 葉月は細かいことをあまり気にしない性分なので、庭師の丹羽と言われても保ほど憤ることなく人生を過ごしてきた。しかし、憤らないからといって何も考えないというわけではない。

 保の心情は充分理解できるし、共感もする。

「まぁ、仕方ないよ。これが俺たちの運命さ」

「丹羽氏が庭師で何が悪いっ!」

 がなったところに、事務所のドアがあいて、紺色のカットソーに乗馬ズボンという出で立ちに書類を挟んだボードを手にした、三十歳くらいの男が出てきた。

「保、うるさい」

 ついでにボードの角で頭を軽く小突かれた。

「い、痛い、地味に痛い……」

 涙目で頭を押さえて起き上がり、保は低く唸った。

「痛いよ、啓介さん」

 訴えに対して、啓介は表情をまったく変えない。しかし、それほど怒っているわけではない。そもそも啓介が感情を昂ぶらせて怒るところを、保は見たことがない。

「店に鞄を放り出すな、客用ソファを私物化するなと、何度言っても理解しないほうが悪い」

「う…っ」

 正論過ぎて太刀打ちできない。

「ついでに、帰ったら手を洗って着替えて手伝いをする決まりじゃなかったのか」

 じろりと睨まれた保は渋々立ち上がる。

 啓介の目はやや吊り上がり気味だ。襟足より長い髪を縛って前に流す変わった髪型で、前髪も長めで左目にかかっている。細面で痩身なのもあって、ぱっと見ちょっと狐っぽい感じがする。さらに、百七十をなんとか超えた保より背があるので、見下ろされて睨まれると迫力充分だ。

「……そうでした」

 放り出していたボディバッグを引きずって、二階の居住スペースの一角にある自室に向かった。

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