一話 黒ムシと春告げの梅 ⑤
「……………」
保は遠くを見る目になった。
ふっ、大学の近くのパティスリーには不釣り合いな、重く恐ろしげな話を聞いちまったぜ。そんなおどろおどろしい話だって最初に聞いてたら、もう少しそれらしいところを選んだぜ。
そう考えたが、すぐにそれを打ち消した。
いやいや、あそこで正解だった。もしそんな効果満点なところで聞いていたら。
「………」
改めてぞぞっとした保は、苦い思いで口をへの字に曲げた。
丹羽家の家業は庭師なので、木にまつわるあれやこれやを、おそらく保はほかの人よりずっとたくさん知っている。
木は、怖いのだ。
特に怖いのは桜で、あんなに凶暴な木はほかにないと、祖父が常々こぼしていた。
桜以外にも怖い木はある。ほかは、どの種類が、というわけではなく、木によるらしい。怖くない木もあるし、怖い木もある。
怖いかどうか、見てわかるのがプロなのだそうだ。まあ、祖父によれば、プロを名乗っていてもそれがわからない職人もいて、そういう手合いは痛い目を見るらしい。
だから、梅の木にも怖いものがあるだろうし、怖くないものもある。
香澄の言う梅がどちらなのかは、正直なところ保にはわからない。
彼女の夢は、ただの思い込みだと保は思いたい。でも、あのパティスリーで話を聞いていたとき、保は妙にひやりとしたし、ぞっともした。
ああいうのをかっこよく堅苦しい言葉でいうと、戦慄した、とかになるんだよな。
保は、自分はそれほど臆病者ではないと思っているし、家族たちもそれは否定しないだろう。歳の離れた妹は随分怖がりなのだが、頼れる兄の座はこれまで揺らいだことがない。
そして保は、自分はそんなに鈍感でもないと思っている。嫌な予感が外れたことがない程度には。
力を貸してほしいという香澄に、保は一日考えさせてほしいと返して、そこで話はいったん終わった。
香澄は国立のほうに住んでいるらしい。吉祥寺駅まで歩く彼女と、保は途中まで一緒だった。
清楚な美人と連れ立って歩く機会なんて、そうそうない。能天気に喜べる状況でなかったことだけが悲しい。
「……はぁ」
深々とため息をついて、保はカウンターに交差させた腕を乗せ、顎をつけた。
隣の啓介が、行儀が悪いぞという目をしたが、気づかないふりをした。啓介は咎めるようなことは言わず、自分の仕事をしている。
香澄の力になってやりたいと思う気持ちはあるものの、あまり関わりたくないのが保の本音だ。
うかつに関わってとばっちりを受けたら嫌だなと思うし、相手がどんなに美人でも、自分のほうが大事だ。
でも、美人の頼みだ。美人に頼まれたら、そうでない人の頼みより、ちょっとやっぱり、断るのはもったいない気がする。そんな悲しい男のサガを、保は素直に認めてもいる。
だって芳垣先輩はとっても美人なんですよ、俺。お近づきになれるチャンスを潰していいのか、本当にいいのか。
葛藤していた保は、生垣の隙間から店を覗いている小さな影を見つけた。
「あれ…」
あの子だ。この間もああやって覗いていた。何か用があるんだろうか。
「啓介さん、あの子……」
「ん?」
手を止めた啓介に示そうとした保は、生垣の隙間にいたはずの女の子が、一瞬目を離した隙に消えているのに気づいて、ふっと息を呑んだ。
保の示しかけたほうに目をやった啓介は、何もないことを訝って首を傾ける。
「なんだ?」
「……や……いま……」
言いかけたとき、保の頭のどこかでこんな声がした。
自分にだけ見えているなんてこと、ないよな。
こんな時間に、あんな小さな子がひとりで、どうして外を歩いているんだろう。
すうっと血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
「保?」
いささか心配している様子の啓介が眉根を寄せる。保はあちらこちらに目をやってから、頭をぶんぶん振った。
「いやいやいやいやいやいや、気のせい、きっと見間違い。さっきあそこに誰もいなかったよね!?」
啓介は目をしばたたかせた。何しろ彼はずっとディスプレイを見ながらキーボードを叩いていた。たとえ誰かいたとしても、それを認める余裕はなかったのだ。
「……誰もいなかったんじゃないのか?」
「そうだって言って! 力強く断言しちゃって! 啓介さんがそう言ってくれたらそういうことにするから!」
もはや半泣きの保に、啓介は怪訝そうにしながら応じた。
「……まあ、いなかった、ということにしておけ」
「うん! そうだよねありがとう!」
両手を握りしめて力いっぱい頷く保に、啓介は腕組みをして椅子の背もたれに体を預けた。
「それはそうと、さっきの先輩の話だが」
「あー、それはもういい。俺にはどうにもできないし。明日ちゃんと謝る」
「いや、そうじゃなく…」
「あっ」
啓介が何かを言いかけたところで、壁の時計を見た保は目を?いて立ち上がる。
「まずい、夕飯作んなきゃ」
ばたばたと奥に入っていく保の背に、啓介は呟いた。
「……まぁ、いいか」
◇ ◇ ◇
翌日保は、教室や図書館など、香澄がいそうな場所を捜して歩いた。
「いないなぁ…」
喫茶室をぐるっと見て、踵を返す。と、あまり会いたくない男広崎が、女の子を連れてちょうど入ってきた。
「あっ、庭師」
だからいい加減庭師言うんじゃねぇ、と怒鳴りつけてやりたい気持ちをぐぐっとこらえたのは、広崎の隣にいる女の子が沈んだ面持ちで、泣いていたように見えたからだった。
広崎は駆け寄ってくると、怒ったように声を荒らげる。
「アリ退治の方法どうなったよ」
保の中では終わっていたのだが、広崎の中ではまだ継続中だったらしい。なんて迷惑な。
「知らねぇよ。俺いま、それどころじゃないんだ」
目をすがめた広崎は、瞬きをして何やら合点のいった顔をした。
「こないだ香澄ちゃん先輩にお前のこと話したら、なんか相談があるようなこと言ってたな。それか」
「かすみちゃんせんぱい!?」
なんだその呼び方は、広崎の分際でなれなれしい。いや、広崎の分際だからこうまでなれなれしくしても許されるのか。おのれ広崎、うらやましい。
「香澄ちゃん先輩なら、さっき見かけたぞ。ああでも、暗い顔してたなぁ。あとでなぐさめに……」
ふいに、隣の女の子が低く唸った。
「陽太」
途端に広崎は不機嫌そうに押し黙る。そうして肩をすくめた。
女の子は広崎が斜め掛けしているショルダーバッグを掴んで引っ張りながら、保に外を示した。
「芳垣先輩なら、中庭にいたよ」
「ずいぶん親切だな、綾」
広崎の語気に険がある。
綾と呼ばれた女の子は、広崎を睨めつけて言い返した。
「何か文句ある?」
広崎は何も言わなかったが、その目は不満だと雄弁に語っていた。
彼女は保に目を向けた。少しだけ、瞳の光が柔らかくなった。
「ついさっきだから、まだいると思う。急いで行ったほうがいいよ」
「サンキュ」
一応礼を言って、保はそうだと思い出した。
斜め掛けにしていたボディバッグのポケットから、USBのフラッシュメモリを出して広崎に押しつける。
「なんだ?」
フラッシュメモリの青いボディをしげしげと見つめる広崎に、保は半分据わった目で言った。
「なんか、うちの職人さんが、部屋でその曲かけてみろって」
「は?」
「よくわかんないけど、もしかしたらアリに効くかもしれないらしい」
朝、家を出る寸前に啓介に呼びとめられて、渡された。何の変哲もない記録メディアだ。保もよく使っているタイプの、安価なフラッシュメモリ。
音楽データが入っているので、エンドレスで流しつづけるようにということだった。
「どんなの?」
目の高さにメモリを掲げて尋ねる広崎に、保は首を振った。
「さあ。俺は聞いてないから知らない。とにかく、試してみれば?」
「おう。気が向いたらやってみるわ」
言いながらパンツのポケットにメモリを無造作に突っ込む広崎は、少しいらついているようにも見えた。
気が向いたらかよ礼のひとつも言えよと思ったが、ふたりはどうもそれどころではないらしい雰囲気だ。これはあれか、いわゆる修羅場か。
「じゃあな」
喫茶室を出てからそっと振り返ると、綾は広崎を責めるような眼差しで、何かを訴えているようだった。対する広崎は、一応謝っているそぶりを見せている。
でも、保が見る限り、誠心誠意をもって、という感じはあまりない。上辺だけ取り繕っているみたいだ。彼らの周りだけが妙に暗い感じがする。
なんであんな奴がモテるんだ。調子がいいからか、顔がいいからか、口がうまいからか、全部だろうなああ畜生。お前なんてその子に痛い目に遭わされてしまえ。
我ながらどす黒い嫉妬だよなという自覚を持ちつつ内心で毒づいていた保は、広崎のショルダーバッグから黒い点のようなものが出てきて落ちたのを認めた。
点、点、と。黒いものが幾つか出てきて、地面に落ちる寸前にふわっと浮き上がる。
保は思わず足を止めた。
広崎も、彼のショルダーバッグを?んでいる綾も、どうやら気づいていない。
よく見れば、広崎の背中にも黒い点が幾つか張りついていた。
「羽アリ……?」
家に出る羽アリがバッグの中に入り込んでいるのに気づかないまま登校して、それが這い出てきたのか。
幾つかの黒い点は、どこかに飛び立っていった。
「うわ…」
冷たいようだが、保はずっと、羽アリ程度で騒ぎすぎなんだよと思っていた。
だが、気づかないうちにバッグの中に入り込んでいたり、服にへばりついている、というのは、かなり嫌だ。
広崎のことは好きではないが、見てしまった以上、人として何かこう、できることはしてやったほうがいい気がする。
「仏心を出してやる、ああなんて親切な俺。とりあえず広崎、気が向いたらじゃなくて、言われたとおりにやってみろ。効くかは知らんけど」
ぶつぶつと口の中で呟きながら中庭に向かった保は、後ろから呼びかけられた。
「丹羽くん」
振り返ると、捜していた相手が駆け寄ってくるのが見えた。
香澄はやけに切羽詰まった面持ちをしている。
「お願い、一緒に来て」
言うなり保の腕を掴み、走り出す。虚をつかれた保はバランスを崩してつんのめりかけたのを何とか堪え、香澄に並んだ。
「え、先輩、どうしたんですか」
ジーンズにカットソーというシンプルな服装が、彼女のスタイルの良さを引き立てている。昨日のワンピースも似合ってたけど、こういうスポーティな格好も結構いいですね。
なんてことをうっかり思った保に、香澄は血相を変えて答えた。
「さっき母から連絡があって、新しく頼んだ業者が梅の木を今日伐りに来るって」
「えっ」
「止めなきゃ。お願い、手伝って」
校門を出て、バス停にちょうど停まっていたバスに駆け込みながら、保ははっと気がついた。
しまった、一緒に来ちまった。
この期に及んでお断り申し上げるなど、できようものか。いや、無理だ。
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