一話 黒ムシと春告げの梅 ⑥


 バスで駅に向かい、電車に乗り換える。吉祥寺から国立まで、中央線の快速でおよそ二十五分。その間香澄はずっと黙っていたのだが、国立に着く寸前にぽつりとひとことだけ発した。

「やっぱり、お祖母ちゃん、あの木を伐ってほしくないって……」

 どう返せばいいのかを保が探しあぐねたときに、電車が国立駅に滑り込んだ。

 香澄の祖母、和江の家までは、そこから徒歩で二十五分ほどかかるという。バスの路線からは外れているので走るしかないかと思ったが、香澄は迷わずタクシーに乗り込んだ。

 おお、ぜいたくだ。と、保は感動したが、それだけ香澄は気が急いているということだ。

 五分程度で目的地に到着し、香澄が料金を支払っている間に保は先にタクシーを降りた。昔からの住人が多いらしく、庭の広い一軒家が目につく。

 手入れの行き届いた、とは言いがたい庭につい目が行く。庭木の手入れなどのご用命はぜひ『栽‐SAI‐』までどうぞ。喜んで出張いたします。

「…いかん、つい」

 ぶんぶんと頭を振っていた保は、路肩に停まった軽トラックに目を留めた。

 見覚えのある車体。ドアに小さく記された『吉祥寺 栽‐SAI‐』の文字と電話番号。

 まさか、さっき香澄が言っていた、新しく依頼された業者というのは。

「おいおい、うちかよ……」

 なんというめぐり合わせだ、できすぎてるだろう。

 ううんと唸る保を、支払いを終えた香澄が急かす。

「丹羽くん、こっち」

「あ、はいはい」

 仕方なくあとについて行くと、彼女は門から庭にまっすぐ向かっていく。

 建物を横切っていくと、視界が開けて、常緑樹の庭木が幾つかと物干し台。そして、話に聞いていたとおり、庭の真ん中に大きな梅の木が鎮座ましましていた。

 その木の周りに、幾つかの人影がある。香澄の形の良い眉が吊りあがった。

「修伯父さん!」

 鬼気迫る香澄の声に、白髪まじりの壮年男性が振り返り、目を丸くした。

「香澄、どうしたんだ」

 突然現れた姪に驚きを隠せない修は、彼女の後ろにつづいて出てきた見知らぬ男に気づいて怪訝そうに眉をひそめる。

「保」

 声をあげたのは、修の隣に立っていた草次郎だった。いつもとは違う、藍色の半纏を羽織っている。芳垣家は日本家屋なので、それに合わせたらしい。

 草次郎の横には、啓介もいた。彼はいつもの紺色のカットソーに乗馬ズボンだが、その上にやはり藍色の半纏を羽織っていた。

 香澄は保の手を呑んで彼らと梅の間に割って入った。

「やめて、伐らないで!」

 必死に訴える香澄の隣で、保は、えーと俺はどうしたらいいんだ、と混乱した。

 うっかり連れて来られてしまったが、草次郎たちが請け負った仕事を邪魔したとなると、あとで確実に説教が待っている。へたをすると、今月の給料カットという最悪の事態になりかねない。

「あの、先輩、落ち着いて…」

 なだめようと試みると、香澄は保をきっと睨んできた。

「丹羽くん、あなたはどっちの味方なの!?」

「え」

 どっちの、と言われても。

 保は梅の木を顧みた。そして、ふと気づく。

 五月だというのに、葉があまりついていない。実もついている様子がない。それに。

「……」

 保は梅をじっと見た。

 心なしか、元気がないように見える。それに、なんだかとても、嫌な感じが──。

 吸い寄せられるようにふらっと手をのばして梅に触れようとした保を、それまで沈黙していた啓介が止めた。

「触るな、保」

 保ははっとして、目が覚めたような顔で盛んに瞬きをした。

「あれ……」

 一瞬、記憶が飛んでいる。のばしかけていた手を、いつの間にか啓介が?んでいた。

「この木はいま、まずい。触ると、使われる」

 何がどうまずくて、何に使われるのか。という質問は、できない空気だった。それに、訊かなくても保には、なんとなくわかる。

 庭師の息子だ。昔から、木は怖いと聞かされて育ってきた。

 香澄が顔色を変えて啓介を睨んでいる。その形相は鬼気迫っていて、人が変わったようだった。

「伐らせない。許さない。帰って、──帰れ」

 彼女の語気が変わる。そして血走った目でその場にいる者たちを凄まじい眼光で睨んだ。

「帰れ。触るな。帰れ、帰れ、帰れ」

 清楚な美人が豹変して、なんとかが原の鬼婆とか、そういったものを連想させる顔つきで繰り返す。

 香澄はさらに、視線で射殺せそうな目を、息を呑んで言葉を失っている伯父の修に向けた。

「お前、余計なことをするなと警告したのに、なぜわからない」

 きれいに形を整えて、桜色のネイルをした指で、修を指す。彼女の鬼気迫る形相と控えめなネイルの色合いが妙に不釣り合いで、大の男が完全に呑まれていた。

 香澄の傍らで異様さに硬直していた保の腕を、啓介が無言で引いた。まろびかかったが、昔と同じように啓介が掴まえてくれているので膝をつくことはなかった。

 それでなんとか、安心できた。

 啓介が手を放す。ぎくしゃくとした動きで香澄を振り返った保は、彼女と、その後ろにいる梅の木を見て、恐ろしいと思うと同時に、必死さのようなものを感じた。

 寒くもないのに、背筋にぞくぞくとした寒気が走って、見れば腕には鳥肌が立っている。隣で黙っている草次郎も青ざめていて、修は色を失いいまにも逃げ出しそうな様子だった。

 そんな中、久世啓介だけは、表情ひとつ変えずに香澄と梅の木を眺めていた。

 しばらくそうしていた彼は、おもむろに両手を上げると、胸の前で拍手を打った。

 二度の拍手は、空気を振動させるほど重く強く轟いて、香澄の体が唐突に沈んだ。

 まるで殴られたような顔で膝をついた彼女は、呆けたように啓介を見あげる。

 啓介は右手の人差し指と中指の先を香澄の額に当てると、小さく何かを呟いた。

 彼の手が離れると、香澄は憑き物が落ちたような様子で、ぽかんと口を開けていた。

「あ……私……?」

 混乱しているようにあちこちを見回して、修に目をとめて首を傾ける。

「伯父さん、どうしたの? 変な顔して……」

 真っ青になっていた修は、恐る恐る口を開いた。

「香澄……お前、大丈夫か…?」

「何が?」

 怪訝そうに問い返し、彼女はゆっくりと立ち上がる。ジーンズの膝の汚れに気づいて、びっくりした顔でぱたぱたと払う様は、さっきとは別人のようだった。

 戻った、と保は思った。何がどう、とは言えないけれど、とりあえずはきっともう大丈夫だと、保は胸を撫で下ろす。

 それまで静かだった草次郎が、腕を組んで口を開いた。

「ひどいもんだな」

「……?」

 草次郎が何のことを言っているのか、保にはわからない。そもそも、この木を伐ろうとした職人が怪我をしたという話なのだ。

 そんな危ないものなのに、なぜ草次郎や啓介がここにいるのだろう。

「草じいちゃん、なんでここに?」

 訝る保に、大叔父は短く答えてくれた。

「北村に頼まれてな。厄介な木で手に負えないとさ。それでうちが請け負った」

 そういえば、数日前に北村造園の社長から電話があった。それを草次郎に取り次いだのは保だ。では、怪我をした職人というのは、北村のところの誰かだったのか。

 それにしても、なぜそれが草次郎のところに回ってくるのか、保にはわからない。

 混乱している様子の保に、草次郎は目を丸くした。

「うん? なんだ、兄貴はお前に何も言ってないのか? しょうがねぇなあ」

「ええ?」

 ますますわけがわからなくなる保だ。

「まあいい。あとで話すわ。それより、啓介、どうだ?」

「待ってください」

 啓介は梅の幹に触れて、耳を押し当てた。それから木全体をじっと見つめる。

 しばらくそうしていた彼は、難しい顔をして振り返った。

「鎮める必要はないですね。というより、これにはもう、何かをする力がない」

 修と香澄がえっと声をあげる。

 彼らに向いて、啓介は淡々と言った。

「さっきので尽きた。──この木は、枯れかかっている」

 幹に触れたまま、彼は天にのびた枝を見あげた。

「お祖母さん、一時は命が危なかったそうですね。どうやらこの木が身代わりになったようです。……もう一度花を見てほしかったと言っている」

 夏を越え、秋を越え、冬を越え。次の春まで、なんとかして命をつなぎ、ほんの一輪でもいい、最期の花を。

 毎年毎年、夫婦は並んで眺めていた。春の訪れを告げる白梅を。

「だから、できるだけ綺麗に咲いた。お祖母さんたちが喜ぶように」

 ──ああ、ほら、和江さん。一年ぶりだ

 ──ええ。今年も綺麗ですねぇ、あなた…

 若々しかった夫婦の面差しは、少しずつ歳を重ねて。真っ黒だった髪に白いものがまじって。目尻のしわが増えて、口元のしわも増えて。

 それでも変わらない、穏やかな笑みを花に向けて。幸せそうに、本当に幸せそうに。

 男が先に旅立って、女は悲嘆の涙にくれていたけれど。次の春に梅の木が花を咲かせると、懐かしそうに、嬉しそうに。涙を一筋流して、それはそれは儚くも美しい笑みを見せた。

 それからは、毎年ひとりで。一方が欠けてしまっても、その姿を写した写真と一緒に。生きていた頃と変わらずに。

「最期のときは静かに見送るつもりでいたのに、そうできなくなった。せめてもう一度だけでいいから、花を見せたかった。だから伐るなと訴えていた」

 職人に怪我を負わせ、修たちの家に災厄を起こし、香澄の夢に働きかけて。

 もう一度。もう一度。もう一度。もう一度。──けれども。

 ふうと息をついて、啓介は修に言った。

「たぶん、夏までもたないでしょう」

 もう一度。それすらも、かなわない。実も、葉も、もう。

 啓介はついと目を細めた。

「それまで手を出さないでいてやることはできませんか。最期の最期までここにいたいと言っているので」

 静かな言葉に、修は梅をじっと見つめた。

「……そういえば…、家を出てから……この梅をじっくり眺めたことは、なかったなぁ……」

 ぽつりと呟いて、彼は何度も頷く。

 それを見た香澄は、目を潤ませた。

 啓介は梅の幹をぽんと叩くと、誰にも聞こえないくらい小さな声で何かを呟いて、離れた。

「終わりましたよ、社長」

「ん」

 応じた草次郎は、茫然としている保の肩を叩いた。

「そら、帰るぞ保」

「あ、うん」

 保は香澄にぺこりと頭を下げる。彼女は笑って、小さく手を振った。

「ありがとう、保くん」

 門を出たところで、啓介がおもむろに口を開いた。

「ところで保、大学はどうした」

「あ」

 途端に、草次郎の眉がくっと吊り上がった。

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