一話 黒ムシと春告げの梅 ⑦


◇     ◇     ◇



 週明けの夕方、帰宅した保はカウンターに座っていた。隣では啓介が問い合わせのメールに返信を書いている。

 時々小さく唸って文面を考えている啓介の横顔を、保はじっと見ていた。

 しばらくして、啓介がぼそっと言った。

「……気が散るんだが。なんなんだ、さっきから」

 手を止める啓介に、保は口をへの字に曲げて唸る。

 そのとき、お客が入ってきた。

「あ、いらっ……」

 反射的に振り返ったまま、保は目を?いて固まった。

 入ってきたのは、あの女の子だった。

 硬直する保の横で、息をついた啓介が立ち上がった。

「いらっしゃい。……どうしたのかな?」

 女の子の前で膝を折って目線の高さを合わせた啓介に、保も慌てて倣った。

「あの……」

 彼女はおもての温室を指さした。

「あの、カーネーションを、ください」

「え…?」

 意表をつかれて目をしばたたかせる保に、女の子は握りしめた小さな手を差し出す。

 そろそろと開いた手のひらには、百円硬貨が三枚のっていた。

「これで、たりますか?」

「…え…と……」

 温室で咲いているカーネーションと、女の子の手のひらを交互に見ながら、保はどうしようかと思った。

 あれは売りものではないのだ。葉月が趣味で育てているもので、毎年母の日に家族に贈るために咲かせている。

 母の日。

 瞬きをして、保はカレンダーを見た。もう過ぎている。

 保と啓介に、女の子は必死に言った。

「ママ、いま、にゅういんしてて……。あした、かえってくるの。でも、ほかのおみせだと、おかねがたりなくて……」

 そうかと、保はようやく合点がいった。

 温室の中でずっと咲いているカーネーション。母親の退院が決まったら買おうと思っていて。でも、自分の持っているお小遣いで足りるかどうかがわからなくて。それを尋ねる勇気をなかなか出せなかった。

 保が彼女に気づくと慌てて逃げて行ったのは、おそらくそういうことだったのだ。

「あの、いっぽんでいいんです。おねがいします」

 ぎゅっと目をつぶって頭を下げる女の子を、保は優しく撫でた。

「ちょっと待ってな」

 啓介に女の子を任せて、保は温室に入ると、道具入れから花鋏を取った。

 鉢植えのカーネーションは、葉月が丹誠込めて育てたもので、見事な花を咲かせている。

「許せ、葉月ちゃん」

 あとでちゃんと詫びるが、とりあえずここで一回謝っておく。

 ばちばちと威勢よく、伐ったカーネーションは計十本。

 たくさん抱えて戻ってきた保を、女の子は目を丸くして見つめている。

 啓介が奥に一度引っ込んで、大判のセロファンとアルミ箔とリボンを持ってきた。

 保は思った。

 なぜそんなものがあるんだ、うちは切り花屋じゃないのに。

 ?然とする保の手から花を取り上げると、啓介は手際よく茎の長さを整え、濡らした綿とアルミで切り口を覆い、その上からセロファンを巻いてリボンを結んだ。

 完成した花束を保に渡し、啓介はパソコンの前に戻っていく。

 じっと見上げてくる女の子に、膝を折った保は花束を差し出した。

「はい、どうぞ」

「でも……」

 手のひらにのっているのは硬貨三枚で、花束を買うにはとても足りないはずだ。

 困惑する子どもに、保はにかっと笑った。

「お母さんの退院祝いだから、特別価格でちょうど三百円いただきます」

 戸惑う女の子は啓介に目をやる。彼は黙ったまま頷いて見せた。

 おずおずと差し出された硬貨を受け取って、花束を渡してやる。保と啓介を交互に見て、女の子はようやく笑顔になった。

「ありがとう、おにいちゃん」

「どういたしまして。気をつけて帰るんだよ」

 嬉しそうに手を振って走っていく女の子を見送りながら、保は心の底から安堵した。

 良かった。生きてる人間で本当に良かった。ああ良かった。

 葉月には、平謝りしてからわけを話せば納得してくれると思う。それに、葉月がここにいたら、きっと同じようにしただろう。彼はそういう性格だ。

 カウンターに座った保は、ふと思い出して言った。

「そういえば、広崎がお礼言ってきたよ」

「ふうん?」

 キーを叩きながら啓介は耳を傾ける。

「USBメモリに入ってた音楽流したら、羽アリがきれーさっぱり消えたって。えらく感動してた」

「……へぇ」

 応じる啓介は、妙に意味ありげな顔をする。

「啓介さん、あいつになんの曲渡したの?」

「龍笛の……横笛の曲」

「笛? へえ、アリって笛で追っ払えるんだ、知らなかったなぁ」

 保が感心していると、手を止めて、ディスプレイを眺めながら啓介は腕を組んだ。

「ああ、俺も知らなかった」

「………は?」

 啓介は淡々と言った。

「その広崎なにがしくん、顔が良くて調子が良くて、本命らしき子を放っておいてほかの女の子たちと遊んでるんだって?」

「まぁ……、そうですね、はい」

 当惑しながら保は頷く。

「そういう性格の子は、怒りや恨みやねたみやそねみを買いやすい。そういう負の念が、黒い虫のような形になってまとわりつくことが、よくあるんだ」

 保は、?が引き攣るのを自覚した。

「よ、よく? へぇ…?」

「龍笛の音色は魔や負の念を祓う。本物の虫は逆に寄ってくる。あれを流して消えたなら、まあ、当人が羽アリだと思っていただけで、羽アリじゃないムシだったんだろう」

 おそらくは、「蟲」と呼ばれる類の、実体すらない黒いモノ。

 それを放ったのが誰なのか、啓介には見当がついている。本人はまったくの無自覚だろうが。

「ムシだけで済んでいればいいけどな……」

 呟く啓介はいつものように表情の乏しい顔をしている。それを眺めていた保は、何の脈絡もなくいくつかのことを思い出した。

 そういえば、広崎の周りはなんだか暗い感じだった。

 広崎の近くにいるとやけにいらいらして、嫌な気分になって。言葉遣いも必要以上に荒くなった。

 啓介は軽く肩をすくめる。

「まあ、いなくなったなら良かったじゃないか。ちなみに、そういう人間は負の連鎖を招きやすい。深く関わると碌なことにならないから、適度な距離を取って接することだ。でないと厄をもらうし禍に見舞われる」

 そこで啓介は、保が無反応であることにようやく気がついた。

「なんだ? 目が飛び出そうになってるぞ、保」

 首を傾げる啓介を恐る恐る指差して、保はなんとか言葉を発した。

「啓介さん……何者……?」

「人を指差すんじゃない。……社長から何も聞いてないのか。それは意外だ」

 草次郎も確か、似たようなことを言っていた。あとで話すと言っていたが、おそらくすっかり忘れている。

「なに、いったい、どういうこと!?」

 詰め寄る保に、啓介は天井を見あげた。

「木には怖いのと怖くないのがいるから、怖いのが出た場合は専門家に任せないと危ないんだよ。だからうちはそういうのが回ってくる」

「なんで」

「俺がそういうのの専門家だから」

 更に、啓介はつづけた。

 陰陽師というのだが、そう名乗ると胡散臭いこと極まりないと思われることが多いので、あまり言わないことにしているのだ、と。

「…………」

 保は瞬きをひとつして、考える。八王子の耕一郎が保に何も教えていなかったのは、知れば啓介を見る目が好ましくないほうに変わることを懸念したからかもしれないと。

 それならそれで仕方がない。普通の人には見えないもの、わからないものを扱うこの仕事に、そういうことはつきものだ。

 しばらく啓介を凝視していた保は、うーんと唸って口を開いた。

「……つまり啓介さんは、おっかない木のスペシャリストってことか」

「───」

 啓介が、妙に虚をつかれた顔になった。

 しかし保はそれに気づかず、感心しながら何度も頷く。

「そっかー。なるほどなー。そういう人っていてくれると助かるよね。こないだの芳垣先輩みたいになったら、専門家がいないと大変だもん。啓介さんがいて良かった良かった」

「……そうだな」

 何やら微妙な顔で啓介が応じる。対する保はすっきりした顔でからりと言った。

「そうそう。あの梅の木、まだ少し元気が残ってる枝先を伐って、挿し木しようと思うんだよね。そうしたら先輩のお祖母さんのところに置いておけるし、うまくしたら来年また花が咲くからさ」

 小さな鉢なら家族に気兼ねなく、そばにずっと置いておけるだろう。

 そうしてこれまでと同じように、亡き夫の写真とともに、春告げる花を見ることができる。

 今日香澄にそう提案したところ、彼女は泣きそうな目をして笑った。

 ──すごい。そんなこと思いつくなんて、ほんとに庭師なのね、保くん

 泣きそうな目をしても、やはり美人は美人だった。

「……実にお前らしいよ」

 なんだか呆れているようにも見える面持ちで、啓介が息をつく。

「そう? ただ、どの枝が一番いいか、俺だといまいちわからないから、手伝ってくれると助かるんだけど」

「わかったわかった」

「やった」

 満面の笑みで何気なく時計を見て、保は慌てて立ち上がった。

「あっ、夕飯! …わっ!」

 急いだ拍子に椅子の脚に引っかかってバランスを崩した保の腕を、啓介は反射的に?む。

「あっぶね。ありがと、啓介さん」

 転ばずにすんだ保は、昔と同じ顔で礼を言うと、わたわたと駆けていった。


                               1話完

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