一話 黒ムシと春告げの梅 ②


 保の実家は八王子だ。吉祥寺にある大学まで通いきれない距離ではなかったのだが、部屋はあるからうちに来いと大叔父が言ってくれたので、甘えることにした。

 大叔父の草次郎は吉祥寺の一角に構えた、ガーデンショップに住んでいる。一階が店舗スペースで、二階が居住スペースなのだ。

 先ほど保を小突いた久世啓介は、十年ほど前からここに住み込んでいる職人だ。いまや家族同然で、葉月や保にとっては頼れる兄貴分だ。

 啓介に初めて会ったのは確か、彼がここに住み込む前だった。保は七歳かそこらだったように思う。そして彼の見た目はその頃からほとんど変わっていない。

 草次郎に言わせると、あれは十代の頃からあんな感じでちっとも変わらん、そうだ。

 啓介の第一印象は、何を考えているのかわからないおっかない人、だった。

 いまでは笑い話だが、あの頃は本当にそう思っていた。ちなみに草次郎も葉月も、昔の啓介は考えていることがよくわからない奴だったと言っていたから、そう思っていたのは保だけではなかったようだ。

 その何を考えているのかわからないおっかない人は、現場でちょこまかして、切った枝や落ち葉に足を取られてよく転ぶ保を危なっかしいと思ったらしく、気づくと近くにいて、転びかけるたびに掴まえてくれるようになった。それに気づいてからは、おっかない人から優しい人のカテゴリーに移動した。

 あれから十年以上経っているが、啓介の考えていることがわかりやすくなったかというと、実はそうでもない。

 啓介はもともと感情の起伏が乏しい質なのだ。笑いもするし冗談もたまに言うのだが、親しくない人にはそれが伝わりにくい。彼を良く知らない人間からは、あの人はいつも怒っている、というあらぬ誤解を受けることが多いらしい。

 その誤解をいちいち解くことをしないのは、きっと面倒だからなんだろうなと、保は思っている。

 丹羽家の人々が本当のところをわかっているから、彼はきっと気にしていないのだ。

 着替えている最中、カレンダーが視界に入った。ここに来てからそろそろ一ヶ月半になる。草次郎と啓介との三人生活にもだいぶ慣れた。

 草次郎の一人息子である葉月は、七年前結婚と同時に独立している。彼は毎日西荻の家から出勤してくるのだ。

 ちなみに大叔母の文月は五年前に亡くなった。女手のなくなった家は、少し大変だったようだが、最近やっと落ち着いてきたという。

 進学を機に、保が吉祥寺の丹羽家に来ると決まったとき、まあなんとかなるさと大叔父は笑っていて、どうにかなるよと啓介も頷いていた。

 どう考えても、なんとかなりそうにもどうにかなりそうにも、感じられない空気がそこにあった。

 保の母は、ため息をついて据わった目をした。そして、翌日より保は母からあらゆる家事のスパルタ教育を受けさせられた。

 炊事洗濯掃除は言うに及ばず、アイロンがけに靴磨きまで、母が家でやっていることを徹底的に叩き込まれること一ヶ月ちょっと。それはもう大変で、毎日恨み節を炸裂させたものだ。が。

 ここに来て、ご飯にふりかけと梅干、乾燥わかめを入れただけの味噌汁、適当に剥いただけの山盛りキャベツ、という夕食を前にしたとき、保は母に心から感謝した。

 そして、それなりにおいしい料理を作る料理人を手に入れた草次郎と啓介も、保の母に心から感謝した。

 保がいま使わせてもらっているのは、昔葉月の部屋だった場所だ。

 ここに住むにあたり、保は祖父と幾つかの取り決めをした。

 大学から帰ったら、大叔父の店であるガーデンショップの手伝いをすること。

 学校が休みの日は朝から仕事を手伝うこと。

 用事があるときは事前に申告すること。

 学費と最低限の生活費以外は働いて稼ぐこと。つまりは、ガーデンショップで真面目に仕事をして、働きに準じた給料を得ること。

 ほかにも細かいものがいくつかある。

 大学で親しくなった連中にこんな話をすると、気の毒がられたり笑い飛ばされたり、お前んち堅すぎだよと半分呆れられるのだが、家風なんだから仕方がない。

 何しろ代々職人の家柄だ。職人というのは、頑固で筋が通っているものなのだ。

 店を手伝うときは、保も作業着になる。といっても店の制服があるわけではない。

 ボタンのシャツでも長袖のカットソーでもなんでもいいが、ずるずるとした丈の長いだらしがないものはだめ。下は作業がしやすいように乗馬ズボン。ときには地下足袋もはくが、ワークブーツやスニーカーでもいい。

 その辺りは、保の祖父耕一郎が社長をしている八王子の造園会社と同じだ。

 会社名は『栽園』という。

 丹羽耕一郎の自宅と会社は八王子だが、丹羽家は代々吉祥寺に居を構えていた。

 いま草次郎の店があるこの場所だ。

 八王子の家は、もともとは耕一郎の妻で保の祖母、咲の生家だったのだ。

 咲の生まれた重森家も造園家で、植木や苗木を栽培する山や土地を持っていた。重森家のひとり娘だった咲と結婚した耕一郎は、会社を八王子に移し、もともとの土地は弟の草次郎に引き継がせた。

 草次郎は、土地とうわものを継いでから、八王子の会社との差別化を図った。あちらは大掛かりな作庭や植木苗木の育成、環境の緑化研究など、大口の仕事を主に請け負っている。対して吉祥寺の店は、個人宅の植木の剪定や、草木の種や苗や肥料、ガーデニング用品の販売といった個人向けに切り替えた。

 十年前に住居兼店舗の古い建物を改築して、店舗名を『栽‐SAI‐』に変更した。街の雰囲気に合わせてみたんだけどおかしくないかしらと、文月がはにかんで笑っていたのを保はよく覚えている。

 最近では昔ながらの日本庭園だけでなく洋風の庭も手掛けている。評判はそこそこ良くて、昔なじみのお得意さんから、口コミで問い合わせてくる御新規さんもそれなりにいる。草次郎をはじめとして職人たちの腕が総じて良いからだろう。

 保もいつかはそうなる予定だが、いまは半人前どころか八分の一人前になれるかどうかというところだった。

 着替えた保が店舗に顔を出すと、タイミングよく電話が鳴った。

 一番近くにいた保が受話器を取ると、なじみの同業者からだった。

 コードレスの子機を持って温室の草次郎に告げる。

「草じいちゃん、北村さんから電話」

「うん?」

 保から子機を受け取った草次郎は、鉢を指しながら小声で言った。

「あと頼むわ」

「わかった」

 草次郎は先日まいたハーブの小さな芽が出ている鉢に水をやっていた。全体の半分まで終わっていたので、残りの鉢に水をやる。

 スタンドに並んだ鉢は、スイートピーやカーネーション、カンパニュラ。マリーゴールドは花盛りだ。こちらは実は売り物ではない。

「きれいに咲くんだよー」

 声をかけながら水をやり、虫がついていないかを確認する。いたら茎や葉に傷をつけないように取り除く。

 何気なく下を向いた保は、エサを見つけたらしいアリが地面に行列を作っているのに気づき、思い出したくもなかったのに広崎のことを思い出してしまった。

「羽アリ、ねぇ……」

 そんなもの、アリ用の駆除剤でも使えばいいだろう。うちの店でも扱っている。虫にお困りの際は『栽』へどうぞ、と営業してやれば良かったか。

「入り込んでくるってことは、隙間があるってことなんだし、見つけてふさげばいーじゃないか」

 あとは、竹酢液や木酢液を薄めてまくとか、網戸にエッセンシャルオイルのシトロネラやペパーミントをスプレーするとか。

 たぶん、いまの時季は羽アリが巣立ちをして飛行移動するので、広崎の住んでいるところが運悪くアリの通り道になってしまっているだけだろう。

「これくらい、ちょっと調べりゃすぐわかるぞ、広崎め」

 据わった目でぶつぶつ呟いていた保は、生垣の陰から温室を覗いている子供に気づいた。まだ幼稚園くらいの女の子だ。樹と樹の間から、温室の中の植物をじっと見つめている。

 どこの子だろう。

 保が気づいたことに気づいた女の子は、慌てた様子で駆け去っていった。

「……なんだ?」

 首をひねりながら水やりを終えて、温室に施錠して店に戻ると、草次郎たち三人が来客用のソファセットに座って話し込んでいた。

 入って右の窓際には観葉植物の鉢が並び、Lの字型に設置されたソファとテーブルセットの後ろの壁は、作庭やガーデニング関連の本を収めたラックになっている。

 自宅の庭園造りや庭木の手入れ、虫対策など、直接店舗を訪れてきた客との相談や商談のためのスペースだ。

 店の左側はガーデニング用品。

 生垣の隙間から観葉植物が見えるのと、温室があるためだろう、時々生花店と勘違いをした客が来る。ここでは切り花は扱っていないと告げると、大概は間違えたことを詫びながら出ていく。たまに、素焼きの鉢や小さなスコップに目を留めて購入していく人もいる。

 種を見て、育て方を尋ねられることもある。中にはそのまま話が弾んで、家の庭に手を入れてくれということになったりもする。

 めぐり合わせというのは不思議なものだ。

「たもっちゃん、俺たち奥で打ち合わせしてくるから、店番よろしく」

 葉月に頼まれて、保は頷いた。

「わかった」

 事務所に向かう草次郎と啓介がやけに硬い面持ちをしているのが気になったが、訊くことはしなかった。必要だったら話してくるだろう。

 平日は大抵来客はない。床をはいたり、窓やテーブルを拭いたりといった掃除や、ラックの本を種類別に並べ直したりといった雑務が終わると、ほかにすることはない。

「勉強でもするかなー…」

 ふと思い立ち、保はラックから害虫対策関連の本を何冊か抜いた。

「俺、なんて親切」

 ほっとけばいいのにと、頭の中で呆れたような声が聞こえた。しかし、そうした場合、広崎の性格を考えると絶対にうるさくつきまとってくるに違いない。親しいわけではないが、そういう場面を何度も見ているので確信できる。

 適当に策を教えたほうがあとが楽だ。一応感謝をされて、それで終われる。

「羽アリ、羽アリ、と……」

 本をめくっていた保は、視界のすみで何かが動いた気がして顔をあげた。

 生垣のところで温室の中を覗いている子供が見えた。さっきの女の子だ。

「んー?」

 怪訝に思った保は、本を持ったまま店のドアを開けた。

「何か…」

 と、子供ははっとした顔をして、またもや逃げるように走り去ってしまった。

 のばしかけた手の行き場を失った保は、指をわきわきと開閉させながら困惑気味に呟いた。

「おにいさんは、あんまり怖くないよ……?」

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