一話 黒ムシと春告げの梅 ③


◇     ◇     ◇



 翌日、なんと広崎は大学の門前で保を待ち構えていた。

「おお、たもっちゃん! おはよう、待ってたぜ!」

 保はげんなりとしながら返した。

「……そーかい」

 会った途端に無性にいやーな気分にさせてくれるとは、考えようによってはすごい奴だ。これが可愛い女の子だったらいいのになーと現実逃避したくなったが、意味がないのでやめた。

「一応調べてきた」

「ありがとうたもっちゃん! 心の友って呼ばせてもらうよ!」

「やめろ、気色悪い」

「つれないなぁ」

 がっかりしたそぶりをしてみせる広崎に、保は幾つかの策をメモしたルーズリーフを渡す。

 昨日別れ際にメールアドレスを交換しようと言われたのだが、メールを打つのが面倒だからと断った。これは本当で、保はほとんどメールをしない。

「ありがとな、たもっちゃん。試してみる」

 ほっとした顔で笑う広崎に、そうしてくれと保は応じた。

 この件はこれで終わった。




 終わったはず、だった。

「何やっても全然効果がないんだぜ、どうしてくれんだよ」

 目の下にクマを作った広崎が、げっそりとした顔で保の前に立ちはだかったのは、ルーズリーフを渡してから五日ほど経ってからだった。

「日に日に増えてくんだよ、もう俺おかしくなりそう」

 風呂でもトイレでも、気づくと羽アリが、ときには女王アリが落ちてきたり、壁や床を這っている。

 彼が住んでいるのはアパートの二階なので、駆除剤は使ってもあまり意味がない。そもそも羽アリは移動してくるので、巣を作るアリを駆除する薬剤では用途が違う。

 できる限りの隙間はふさぎ、アロマオイルや木酢液も買ってきて、入ってきそうなところにまいてみたというが、一向に効果が見られないという。

「管理会社に苦情入れたら、生き物だしそういう季節だからどうにもならないって冷たいもんでさ」

「そりゃそうだろう」

 いまくらいの時季は羽アリが飛ぶ季節なのだ。

 保はふと首を傾げた。

「まさかと思うけど、それシロアリじゃないだろうな」

 念のために問うと、管理会社からそれはもう確認されたそうだ。

「さすがに間違えねーよ。どう見ても黒アリ、その辺にいるのに羽が生えただけ」

 ちょうど道端を黒アリが這っていたので、広崎はそいつを指差しながら不機嫌そうに吐き捨てる。

「ほかになんかないのかよ」

 ふと、広崎の人相が変わってきたなと思った。ああ、頬が少しこけてきているからか。日増しにイライラが募ってもいるのだろう。

 こっちまで心がすさんでくる気がする。

「と、言われてもなぁ。そういう時季だからってのは本当だし。少ししたらいなくなるだろうから……」

「それまで我慢しろって!? 勘弁してくれよー」

 頭を抱えた広崎は、あやのところにころがりこむかなと聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。

「ま、頑張ってくれ」

 これ以上保にできることはないので、話は終わりと言外に伝えて背を向ける。

 広崎は保を恨みがましい目で見ながら低く唸った。

「でもなぁ、綾より麻巳ちゃんのほうがいいか…」




 大学の近くにはフランス菓子のパティスリーがある。白い壁にアイビーが伝い、南仏のような趣と雰囲気を漂わせている店だ。二階がイートインスペースになっていて、少し長い時間レポートを書いたり本を読んだりしていても咎められることがなく、居心地がいい。近隣の主婦もよく子供連れで訪れている。

 草次郎や葉月は結構甘いものが好きで、いつも三時におやつの時間を設けている。

 今日はあそこのケーキを買って帰ろうかなと考えていた保は、門を出たあたりで呼び止められた。

「丹羽保くん?」

「はい?」

 反射的に振り返った保は、そのままほけっと口をあけた。

 パステルカラーの小花が散った柔らかそうな生地のワンピースにロングカーディガンをまとった、いまどき珍しい、清楚な雰囲気の美人だった。

「ごめんなさい、急に呼び止めて。あの、このあと時間ある?」

 見覚えがある。確か一学年上の美人だ。名前は確か。

「あ、私、文学部二年の芳垣香澄と言います」

 知ってます、と言いそうになって、慌てて言葉を?みこむ。

「はぁ…」

 なんとも間抜けな相槌だと、保は自分が情けなくなった。

「ちょっと、相談というか、話を聞いてもらいたいんだけど…、いい?」

 何がどうなってこんなことになっているのかさっぱりわからなかったが、美人の頼みを断れるほど、保は冷たい男ではなかった。というよりも、美人とご一緒できる機会などそうそうないので、降ってわいたチャンスは活かすべきだと、保の心が全力で訴えていたのだった。

 そのまま話をするには、校門前は人通りが多く落ち着けない。

 引かれるかなと一瞬迷ったが、保は香澄をパティスリーに誘ってみた。すると彼女は応じた。

「丹羽くんが良ければ。A.K Labo は私もよく行くの」

 そう笑う香澄はとても魅力的で、こんなにきれいな人と一緒にお茶を飲めるなんて滅多にないチャンス。保の人生はじまって以来のビッグイベントだ。

 どんな相談をされるのかは、この際横に置いておく。

 一階でドリンクを注文し、二階のカフェスペースに上がる。レポートを書いているらしい女の子と、本を読んでいる女の子がひとりずつ。四人がけのテーブルに近所の主婦らしい三人組がいて、楽しそうに話をしている。

 一番奥のソファ席に相向かいに座った保と香澄は、とりあえずドリンクを口にした。保はアイスのカフェオレで、香澄は季節の紅茶だ。

「……広崎くんから聞いたんだけど」

「はい? 広崎って、広崎陽太?」

 香澄は頷く。保は思わず天井を仰いだ。

 おのれ広崎、こんな美人とも親しいとは、なんてうらやましい奴なんだ!

「一昨日だったかな、広崎くんが、羽アリで困ってるって言ってて」

「ああ、言ってましたね、はい」

 奴め、あちこちで騒いで同情を買おうという魂胆か。そして大概の女の子たちはそれに乗るんだぜ、ああうらやましい。

「丹羽くんに撃退法を聞いてあれこれ試してるんだけどなかなか効果が出ないって。そういう仕事のお家なのに」

「……はぁ」

 そんなことまであちこちに吹聴してるだと。営業妨害になったらどうしてくれる。

 明日抗議しようそうしよう。

 半眼でストローをかじる保に、香澄は確認する口調で言った。

「丹羽くんの家、植木屋さんなんですって?」

 保はひとつ瞬きをして、目を泳がせた。

「……うーん、植木屋、ではない、ですかねぇ。植木もやってますが、それ以外にも色々と」

 カップをテーブルに置いて、香澄が身を乗り出してきた。

「え、庭師なんでしょ? 庭師って、植木屋さんとは違うの? 庭木を手入れしたりとか、そういうこともしてる? 害虫を駆除したり、病気の木を治したり、とか……」

「ああ、やってますよ。実家でも、うちでも」

 保の言い回しがひっかかったのか、香澄は怪訝そうに首を傾げた。

「あ、僕んち八王子なんで。じいちゃん、えと、祖父が社長で造園会社やってます。いまは親戚の家に居候してて。ガーデンショップなんですけど、ご近所の庭の手入れとかもやってますよ」

「そう…」

 香澄は頷くと、真剣な面持ちでこう言った。

「こんなこと言うと、驚くかもしれないんだけど」

「はい?」

「木を、守ってもらいたいの」

 保は思った。

 いきなりそんなこと言われたら、そりゃ驚きますがな。




 ガーデンショップ『栽‐SAI‐』は、入った正面に小さな接客用のカウンターがある。

 店番はそこに座って応対をしたり、かかってきた電話に出たり、郵便物の仕分けや問い合わせメールのチェックなどを行う。

 ホームページは一応あるのだが、頻繁に更新をしているわけではない。『栽‐SAI‐』の歴史、業務内容、これまでに手掛けた庭の画像、連絡先など、必要最低限の情報を掲載した簡素なつくりだ。

 これは、仕事の合間に啓介が作成したものだと聞いている。

 カウンターに座って頬杖をついた保は、夕日が差し込んでくる窓をぼんやり眺めながら、口を開いた。

「……俺、みんなに言いたいことがある」

 保の横で問い合わせのメールに返事を書いていた啓介が、ディスプレイを見たまま応じる。

「どうした、保」

 保の目が据わった。

「俺は庭師じゃなくてただの大学生なんだ」

 目をしばたたかせた啓介は、ここで手を止めて保に顔を向けた。

「は?」

「もう、聞いてくれよ啓介さん」

 相変わらず羽アリが出ると文句を言っている広崎のこと、帰りがけに呼び止めてきた美人の先輩のこと。

 わーっとまくしたてて、保はくわっと牙を剥く。

「そんなの全部プロに頼めーっ!」

「まったくだ」

 保の気が済むまで相槌を打ちながら聞いていた啓介は、腕を組んで背もたれに寄りかかった。

「黒い羽アリねぇ…」

 思案顔をする啓介に、体ごと向いた保は足を広げた間に手をついて、渋面を作った。

「広崎のことはいいよ、アリくらいでガタガタ騒ぐなって言っとく」

 ついでに、あちこちで庭師なのに云々と言いふらすんじゃねぇと凄んでおこうそうしよう。

 少し止まっていた啓介の手が再びキーを叩きはじめる音を聞きながら、保は香澄との会話を思い出した───。

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