二十歳のおばあちゃんへ

高尾つばき

桜の舞う丘の上で

 今日は本当によい天気だ。

 なんだか久しぶりにこんな青い空を見たよ。

 

 えっ、家の中に閉じこもってばかりだからって言うのかい。

 うふふ、そんなことはないさ。

 たまにはこうして空を見上げることもあるんだよ、この頃はね。

 

 ここの桜並木は、本当にきれいだ。

 薄桃色の花が、ほら、あんなに輝いている。

 心にしみてくるって言うのかなあ。

 こうして両手の親指と人差し指で四角を作ってさ、のぞいてご覧よ。

 青地に桃色の、世界でたった一枚きりの名画が出来上がる。

 理系のぼくでさえ、詩の一篇でも書いてみようかな、なんて気分になるね。

 

 そうだ、初めて腕を組んで歩いたあの川辺も、瞳に映る風景の半分以上が満開の桜だったっけ。

 二人して仰ぎながら桜花の舞う道を歩いていてさ、写真を撮っているおじいさんに、ぶつかりそうになってしまったんだよね。

 あわてて「ごめんなさい!」って二人同時に頭を下げて。

 その見事なシンクロに、おじいさんも笑顔で手をふってくれた。

 ぼくらは空いているほうの手で頭をかきながら、クスクス忍び笑いをして今度は慎重にゆっくり歩き出したんだ。

 

 よく覚えているねって。

 

 当たり前じゃないか、かすみさん。

 ぼくはきみの元先生であり、恋人であり、そして夫なんだから。

 数学の公式はど忘れしたって、かすみさんとの思い出はいつだって鮮明によみがえるんだ。

 

 だからね、かすみさんと出会ったあの日。

 まっさらなセーラー服を着て、好奇心旺盛な様子を隠しもせず教室の席に座っていた姿だって、はっきりと覚えているんだよ。

 なんだか小さな子どもみたいに、大きな瞳だけを楽しそうにキョロキョロと動かしてさ。

 高校一年生というよりも小学生みたいなあどけなさに、初担任のぼくは思わず苦笑してしまったんだ。

 今だから言うけど。

 

 あははっ、恥ずかしがらないでよ。だって、本当のことなんだから。


 かすみさんと過ごした高校の三年間は、あっという間だったなあ。

 

 でもね、きみが卒業して、すぐにぼくの伴侶はんりょになるだなんて想像もしていなかった。

 だってぼくは一回り以上、先輩だったんだもの。

 かすみさんから見たら、オジサンの部類そのものじゃないか。

 

 それはもちろん嬉しかったさ。

 ぼくが生まれて初めて恋をした、たったひとりの女性なんだから。

 ぼくは教師として、若い人たちに世の中の素晴らしさを、生きていくことの誇りをどうやって教えていこうかって、それだけをずっと考えていたからね。

 誰かを好きになる、そんな恋愛感情なんて、まったく頭にはなかったんだよ。

 きみに出会うまでは。

 晩熟おくてだなんて言われると、なんだか恥ずかしいけど。

 同僚の先生や悪友たちに、散々冷やかされたんだぜ、結婚式のときには。

 

 うん、今日はね写真を持ってきたんだ。

 ほら、見てごらん。

 ちょっと枚数を撮りすぎてしまったようだな。

 あははっ。

 

 あの子が、ぼくたちの菜々ななが母親になっただなんて、いまだに信じられない気分だ。

 菜々が産声うぶごえを上げて、ぼくが初めてこの両腕で抱いたときの感触は、そう、昨日のことのように忘れちゃいない。

 こんなにも軽いのかって、驚いてしまった。

 人形のように小さくて、それでも温かくて。 

 握りしめていた手を精一杯に広げて一生懸命泣きながらおかあさんを、かすみさんを呼んでいたっけ。

 早くその胸に抱いて下さいって。

 

 残念ながら、それを叶えてあげることはできなかった。

 でもね、今度は菜々がしっかりと新しい命を抱きしめていてくれる。

 かすみさんが命と引き換えに、この世に誕生させてくれた菜々がね。

 

 そうだ。

 もしかしたら、かすみさんはずっと菜々のそばについていてくれていたのじゃないかな。

 菜々、おかあさんになるんだから頑張れって。


 うん、とっても可愛い女の子だ。

 大きな目元はまだよく開いていないけど、かすみさんにそっくりだと思っているのは、ぼくだけじゃないはずさ。

 あの日、かすみさんとぼくが出会っていなかったら、この世に生まれることのなかった大切な命なんだね。

 

 菜々を神さまから授かったって教えてくれた日は、やっと梅雨が明けた爽やかな日だった。

 学校から帰ってきたぼくに、内緒話をするように耳元で、かすみさんは少し恥ずかしそうにささやいてくれた。

 

 まさかって思いと、とうとうぼくもって気持ちが交錯してね。

 

 かすみさんの両肩を抱きしめて、「ありがとう!」って言いながら、すぐにバンザイを叫んでご近所を走り回ってしまったんだっけ。

 きみにあとで叱られたけどね。

 それでもかすみさんのその時の眼差しは、すでに慈愛に満ちた母の、優しい微笑みを浮かべていたんだよ。

 

 今でも思うんだ。

 きみはぼくと巡り会わなければ、もっと楽しく喜びにあふれる人生を、今まさに満喫してるんじゃなかったかと。

 

 ああ、ごめん。

 これは言わない約束だったね。

 

 ぼくは菜々を育てることに、全身全霊をかけた。

 かすみさんの分も愛情を注がなくては、って思っていたから。

 ぼくは不器用だから、菜々には辛い思いをいっぱいさせてしまったかもしれないなあ。

 

 かすみさんだったら、こんなときにはどう接するんだろうとか、どんな言葉を投げかけてあげるんだろうって、つたないながらも精一杯守り育ててきた。

 いつかかすみさんに、胸を張って報告できるよう。

 

 ところでね、菜々が気丈というか、頑固なのはどっちに似たんだろう。

 

 おとうさんと同じ教師になるんだって、相談も無しにひとりで進路も決めてしまったしなあ。

 高校の国語の先生になったのは、文学少女だったかすみさんの血を引いているからだろうけどね。

 

 菜々が同僚の音楽の先生、隼人はやとくんを家に連れてきたときは、正直ぼくは固まってしまったさ。

 だっていきなり「わたしたち、結婚します」って菜々から言われたんだから。

 隼人くんが驚いて菜々を振り返った顔に、こちらが逆にビックリしたもんさ。

 

 後から隼人くん、こっそりと教えてくれたんだけど。

 本当は隼人くんが先に、「先生、お嬢さんを私にください」ってぼくに頭を下げる予定だったんだって。

 

 菜々はぼくが反対するなんて思っていたのかな。

 仮に異論を申し立てても、あの子のことだ。

 ぼくを一気に攻め落としただろうよ。

 理論立てて話されたら、もうぼくには勝ち目なんてないもの。

 

 うん、頭のいい子だよ、菜々は。

 

 隼人くんは気さくで優しい、とても好感の持てる男性だ。

 彼なら菜々と上手くやっていけると、直感したんだよ。

 

 そういえば、ぼくは、いったいどんな顔をしていたんだっけかなあ、菜々から結婚宣言されたときには。

 これだけは思い出せないんだ。

 あっ、もしかしたら、かすみさんはそのときぼくの横に居てくれて、若い二人を微笑みながら見てくれていたのかもしれないな。

 

 菜々は本当に誰に似たのか、気が強い。

 結婚して、隼人くんと喧嘩けんかするたびに我が家に帰って来てしまってさ。

 すぐにすっ飛んでくる隼人くんのあわてぶりに、ぼくは苦笑せざるをえなかったんだよなあ。

 仲のいい夫婦なんだなって。

 

 ぼくは正直に言えば、うらやまましかった。喧嘩できるほど一緒にいられるんだから。

 かすみさんとは一度も言い争いさえできなかった。

 一度でいいから喧嘩したかったな。

 そんなことを言うぼくはおかしいかい。

 だって喧嘩するほど仲がいいって言うじゃない。

 

 二人で過ごした二年間は毎日が幸せの連続で、喧嘩する時間が入り込むすきはなかったってことかな。

 

 かすみさんの怒った顔を見たのは、あの時だけだ。

 菜々を産むのか、それともかすみさんの命を守るかって決めなきゃいけなかった日。

 ぼくがかすみさんの命を優先したいって言ったら、涙をこらえながら菜々を産みたい、この世に生まれて来てほしいって、ぼくを真っ直ぐ見て言ったんだよね。

 ぼくはなんとしてでも二人の命を守らなければならなかったのに、神さまはかすみさんを天に連れて行ってしまった。

 

 運命。

 そんな軽い言葉で決めつけたくはない。

 代われるものなら、ぼくが代わりたかった。

 


 

「かすみさん。

 笑わないで聴いてくれますか。

 ぼくは、今でもあなたに恋をしています。

 もちろん妻として愛しているんだけど、それ以上にぼくはやっぱりかすみさんが大好きで、この気持ちを言葉にするならば、それは恋という言葉なんです。

 

 夫が妻に恋してるだなんて、おかしいって言われるかもしれないけど。

 

 生まれたての菜々を背負って、歯を食いしばって育て上げて、その娘が結婚をして、今日、孫を産んでくれました。

 いつの間にかぼくの頭は白くなって、本を読むにも眼鏡が必要で、今年の紅葉もみじ狩りの季節には赤いちゃんちゃんこを着る齢になってしまいました。

 娘から、おじいちゃんって呼ばれました。

 そんなぼくだけど、かすみさんを想うこの心は今でも、これっぽちも消えてはいないのです。

 

 ぼくはかすみさんが、好きで好きでたまらないのです。世界中の誰よりも、一番大好きなんです。

 

 かすみさんに注げなかった愛情は、菜々と孫にこれからもあふれるくらい注ぎます。

 だからぼくのこの恋心は、すべてかすみさんが受け取ってください。

 

 若い人たちのような真っ赤な灼熱の勢いではないかもしれないけれど、ずっとずっと、ぼくのこの身体がなくなるその日まで、熾火おきびのように燃やし続けます。

 

 かすみさんに会いたいです。

 

 菜々の前では決して口にしなかったけど、恋しいかすみさんに、ぼくは無性に会いたいのです。

 声が聴きたいのです。

 あの川べりを、満開の桜を見ながら、もう一度手をつないで歩きたいのです。

 ずっとかすみさんを守るって、あの日神さまに誓ったのに、守ってあげられませんでした。

 そのぼくが我がままなんて言えやしないのは、わかっています。

 

 かすみさん、ぼくはあなただけをこれからも恋しく想って生きていきます。

 

 空の上で待っていてくれるかすみさんに、再び会える日がいずれ来るでしょう。

 ぼくは二十歳のあなたを、しっかり覚えています。

 だからぼくが探します。

 空の上で、待っていてくれるかすみさんを、必ず見つけます。

 だってぼくはすっかりおじいちゃんの姿になってしまってるから。

 かすみさんが見つけられないかもしれないから。

 安心して待っていてください。

 

 ひとつだけ、お願いしてもいいですか。

 

 再び会えたら、すぐにぼくと手をつないでください。

 今度こそ、もう二度と離れることのないように。

 他の人から見れば、おじいちゃんと孫だなんて、からかわれるかもしれません。

 それでもギュッて手を繋いでください。

 

『わたしの分まで菜々を愛情いっぱいに育ててくれてありがとう』という言葉はいりません。

 だってそんなことは、当たり前だから。

 

 かすみさん、ぼくの永遠の恋人」



 

 今度は菜々といっしょに、ぼくたちの可愛い初孫を連れて来るからね。

 この満開の桜が散ってしまう前に。

 二十歳はたちのおばあちゃんへ。

                          了





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