児童文学作家・小説『物語の時間』
くさなぎ そうし
お題46『児童文学』 タイトル『物語の時間』
「……ミミ、ごめんね、気づかなくて」
私は愛犬のミミに寄り添いながら
足を悪くした彼女は散歩ができない反動でおしっこができず、腎臓を悪くしてしまったのだ。
ミミの細かい息遣いを聞きながら彼女の体を擦る。彼女が悶え苦しむ姿を私は気づかなかった。いや、気づいていながらも大丈夫だと思っていた。ミミだけは絶対に大丈夫だという思いがこれまで過ごした年月で塗り固まっていた。
「苦しい? 大丈夫、ミミ?」
きっと人間なら大声を上げて叫ぶだろう。だがミミはぐっと耐えるような仕草で懸命に堪えていた。私の前で弱い姿を見せたくないようだ。
「すぐよくなるからね。大丈夫、大丈夫」
医者にいわれた言葉とは裏腹に私は彼女を励ます。すでに寿命なのだ。肺炎を起こしている彼女の息遣いは荒く、呼吸をするだけで辛そうだった。
……ミミ、まだいかないで。
私は涙を堪え切れず部屋を出た。暖房が入った部屋にいるのに、体は芯から冷え凍えそうだった。
突如、一緒にベッドで寝ていた記憶が蘇る。日々体が大きくなるミミと私は同じベッドを共有し、家族の絆を深めていった。夏は熱く冬は暖かく、暗闇の中で温もりを感じるたびに彼女への思いが膨らんでいった。
……お願いだから、ミミ。私を一人にしないで。
覚悟が足りなかった。いつかは来るはずの別れを、私は何もせず、ただ一緒にいることで忘れようとしていた。
……もっともっと一緒にいたかったのに。
「
母親の言葉と共に部屋に戻ると、ミミは私が目を離した隙に息を引き取った。まるで私にいたずらを仕掛けたように微笑んで。
ミミを優しく抱くと、まだ暖かい体温が流れ込んできた。私は忘れないように、何度も何度も、顔を埋め彼女の毛の感触を体全体に刻み込んだ。
◆◆◆
「鈴木さん、ちょっと」
上司の顔を見ると、眉間に皺が寄っていた。元々そういう顔なのだが、私を見る時は、でこの皺までおまけでついてくる。
「明日で月末だけどね。いいたいことはわかるでしょう?」
「……はい」
ホワイトボードを見ると、私の分だけノルマが達成されていないのがわかった。もちろん理解しているのだが、取れないものは仕方がない。
「公務員だからって甘くみたらいけないわよ。わかった?」
「……はい。すいません、頑張ります」
私は彼女に礼をして席を離れ、溜息をついた。
……どうして私は今、ここにいるのだろう。
机の上には雑然と置かれた書類とハガキがある。どれもノルマ第一優先で配られたものだ。売り上げは大切なのだろうけど、どうも今の状況に実感が沸かない。
ミミが亡くなって半年、私はもぬけの殻になっていた。きちんとしていたノルマも、営業成績も、何もかもどうでもよくなっていた。
「大丈夫、顔、死んでるわよ?」
「……ああ、大丈夫、ごめんね」
私は同期に口だけで返事した。
「このままだと部署、移動されちゃうよ?」
「……うん、それもわかってる」
部署が移動になった方がいい、と私は思った。自宅にはミミの生きた証が未だ残っている。それを眺めるのすら億劫なのだ。またその証が徐々に消えていくのも辛い。
「あまり気を落とさないで頑張ってね、課長、最近ぴりぴりしてるから」
「……うん、ありがとう」
頭を下げて私は近くに置いてあるミミの写真を見た。そこにはふっくらとして尻尾を立てている、元気な彼女の姿が映っていた。
◆◆◆
「……はぁ、ただいま」
私は自宅に帰るなりスーツを着たままベッドの上に倒れこんだ。明日が休みだというのに気持ちは一向に晴れない。
「……もう止めようかな、この仕事。元々向いてないし……」
郵便局の仕事は入りたくて入ったものではなく、ただ受かったから続けていただけだった。私が一番なりたかったのは図書館司書で、本に囲まれた生活がしたかったのだ。そこにはきっと計算も、販売も、ノルマもなく、本が好きな人で賑わっているだろう。
「もういいや……今日はこのまま寝ちゃおう」
そう思って仰向けの体制を変えようと思った時、ミミに噛まれて出来た手の傷跡が見えた。
「……ああ、ミミ。会いたいよ」
彼女の体温が未だ私の体には刻まれている。火葬場の人にまで感じられた体温はきっと私達が寂しがらないように残してくれたのだろう。
「また噛んでもいいから、戻ってきてよ、ミミ」
天井を見ながら呟く。彼女と過ごしたベッドは一人寂しく、私一人では埋まらない。
新しい家族が欲しいわけじゃない。それはそれで心が休まるのかもしれないが、今度は別れのイメージが付き纏う。どんなに楽しくても、いつか来る別れを想像して、きっと無邪気に迎え入れることはできないだろう。
……あの頃は楽しかったな。
ミミが来た頃を思い出す。小学校に入学する前に家族となった彼女は私に一番なついた。幼稚園から帰ってきても、散歩に連れていって欲しいがために尻尾を振りながら近づいてきたのだ。
その頃の私はお気に入りの本があり、散歩に行くのも嫌がっていた。物語の時間が一番至福の時だったのだ。
「……えっと何だったっけ、あの本のタイトル」
私はベッドから飛び降りて好きだった本を探す。兄が読んでいて読み終わった隙に拝借したものだ。確かこの辺に……。
「……あった」
私は埃被った本を取り出した。
そこには『誰も知らない小さな国』と書いてあった。
◆◆◆
母親が作ってくれた夕食を食べて、私は一目散に部屋に戻った。あの児童書を読むためにだ。
「うわぁ、懐かしい……」
私はページを捲りながら挿絵に夢中になった。この本はコロボックルと呼ばれる小人と人間の友情がメインテーマで、1959年に出版されたため、戦争時代の背景も書かれているのだ。
一通り挿絵を眺めただけで物語が蘇っていく。この本の素晴らしい所は、子供の世界だけでなく、大人になってからコロボックルに会う場面にある。当時の私は大人が見えるのだから、子供の私に見えないはずがないとコロボックルを探し回ったものだ。
話の内容はシンプルで、主人公の少年が自分だけしかいない山を見つけ、四季折々を楽しんでいると、そこにカエルの姿をした小人達を発見する所から始まる。彼らが着込んでいるのはカエルの着ぐるみなのだ。作者は誰でも想像できるものにファンタジーの世界を広げ、少女の靴が彼らの船になったりと、子供心をくすぐる仕掛けがたくさん施されている。当時の私は街を歩く度に、小さな生き物は全てぬいぐるみを着た小人ではないか、と想像したものだった。
「本ってやっぱりいいなぁ……」
心が軽くなっているのを実感する。今まで絶望の淵に立たされていたのに、たった数ページ読んだだけでこの物語に夢中になっている。
この物語は主人公が大人になってからがメインだ。戦争時代を生き抜き再び山に戻ると、そこにはやはり小人がいて彼らはお互いを認め合い仲良しになる。最後は山を守るためにお互いに力を合わせハッピーエンドになるのだが、その手法が人の心を説得するリアリティを含んでいるのだ。
私は最初の一ページから物語に入り込むことにした。社会人になった私でも、納得のできる優しい言葉が眠っており本の中に身を捧げていく。
……この中にミミもいたら、楽しいだろうな。
ふっと我に返る。そういえば、中学の頃に小説を書いていたことを思い出す。小説と呼ぶにはほど遠いけど、最後までちゃんと書いた物語だ。
……どこにいったんだっけ、あのノートは。
夢中で探し続けると、引き出しの中に隠されてあった。私は一心不乱にページを捲った。
「……ミミ」
私は堪えきれず涙を流しながらノートを閉じた。
「……ミミ、ここにいたんだね」
そこには生きている頃のミミが涼しそうにお昼寝していた描写があった。私は枕を濡らしながらミミを思い返し声を殺しながら泣いた。
◆◆◆
次の日の朝、私は朝食を目を腫らしたまま食べた後、部屋に掛け戻った。ノートの中のミミに会うためだ。
その頃のミミは元気過ぎて、私達の食べ物でさえ狙うハンターだった。そのおかげで彼女はぶくぶくと膨れ上がり、肉団子を撒き散らすように走っていた。今ではその姿が唯一無二で、どの犬を見ても、彼女を思い起こすことはなかった。
……でも、この中に入ればミミに会える。
私は拙い文章に一生懸命に入り込もうとした。ミミがいるのなら、どこにでも潜っていける。それがミミだとわかる所であれば。
それでも文章を読んでいるうちに、私は段々イライラしてきて、読むのを放棄してしまった。文章が下手すぎるのだ。もっと簡潔に書けるのに、だらだらと同じことを繰り返して、何がいいたいのかわからないし、さっぱり物語は進まない。
改めて『誰も知らない小さな国』を眺める。この本は幼い私にでも、大人の私にでも、すんなりと入ることができた。なぜだろうか。
読み比べていると、明らかな違いがあった。
この本には大切なテーマがあり、人生とは何かということがわかりやすく示されていた。子供にもわかるように優しい言葉で深い所を静かに語ってくれて、人の正しい生き方が垣間見えているのだ。著者の経験則が私の短い人生をより大きく見せてくれるように感じる。
頭の中で様々なイメージが私を支配する。きっとこの人なら、私の死んだミミを生き返らせることができるかもしれない。彼の真似をして物語を作れば、私もミミと再会できるのかもしれない。
最初に浮かんだイメージが波紋のように広がっていく。出会った頃のミミが様々に形を変えて、私の前に現れては消えていく。
足が遅いくせに散歩が好きだったミミ、川に溺れかけ何とか助けると何事もないように体を振ってきょとんとしたミミ、自分のおならでびっくりするミミ、いつも出迎えてくれていたのに尻尾だけを振ておかえりというミミ、足を骨折して痛いともいわないで我慢するミミ、一日以上体温を残してなくなったミミ……。
みみ、みミ、ミミ……。
様々な彼女が私に向かってたくさんの仕草をしてくれる。まるで本当に生きているように、鮮明なイメージが私の頭の中で動き続ける。
……もしかしたら、書けるかもしれない。
自分の右手が痙攣するように小刻みに震え始めた。よく見ると、そこにはミミに噛まれて出来た傷跡があった。
「これ、本当に痛かったなぁ……」
ミミに噛まれた手の痛みが蘇る。散歩の途中、他の犬に絡まれて彼女を止めようとした時、思いっきり噛まれたのだ。絶対に私のことを噛むはずがない、と思っていたのでショックだったが、今ではこれが絆へと変わっている。
この傷跡が私とミミを繋ぐ本当の家族だという
「ちょっとだけ書いてみようかな……」
私は書いてあった部分のノートを破り、それを見ながら新しい文章を作り直していった。
気づけば昼食も取らずに、夜になっていた。
「藍、ご飯よー」
「はーい」
私は階段を駆け下りて、食卓についた。父と母に顔を合わせた後、箸を取る。
「藍、お願いがあるんだけど……」
母は辛そうに私を見る。
「最近、猫がうろついているじゃない? それでミミのトイレをのけようと思っているんだけど」
私は頷くことはできなかった。きっとまたミミがいた形跡を一つ消そうというのだ。
今までの私なら断固拒否しただろう。でも、今なら大丈夫かもしれない。
「……いいよ。その代わり、一週間だけ待って。私もやりたいことができたの」
「やりたいこと?」
父と母が顔を合わせる。
「うん、大切なことなの」
◆◆◆
それから私は仕事を終えた後、ミミがいた場所をくまなくチェックして、イメージを膨らませていった。
当初参考にしていた中学の拙い文章は処分していた。ミミだけの物語が作りたくなったからだ。
イメージを掴んだ後は、シャワーを浴びながら目を閉じ、昨日書いた原稿の続きを想像する。ここ数日、上司の小言も気にならなくなった。それはやっぱりミミのおかげだ。
「よし、書こう」
私は髪の毛が乾く前にPCの電源を入れる。ノートではなく、ワードを使い文章を書くことにしたのだ。そうすれば、勤務中の休憩時間にもミミのことが想像できるようになり、いつも以上に頑張ることができる。
最初は私とミミの出会いだけの物語だったのだが、私達を通して、登場人物が増えていった。それは父や母のような味方ではなくて、私達に立ちふさがる壁として登場した。
それでも私達は負けるわけにはいかない。この世界を生き抜かなければならないからだ。私達は様々な策を練って、状況を打破していく。それはミミのことを信頼して、心の底から大事な家族だと思っているからだ。
PCの隣にあるミミの写真を見た。
……頑張るからね、ミミ。
ミミがいたから私は物語を作ることができる。
それは彼女が、彼女であった時間で、私が私でいれた時間。
それが私の大切な、『物語の時間』になる。
「よし、頑張ろう。お腹一杯食べさせて上げるからね、ミミ」
私は腕を捲くり机に座る。そこにはいつも、お腹を空かせて待つ彼女の姿がある。
未だ消えないミミの体温を纏いながら、私は彼女と過ごした時間を宝物へと変えていく。
さあ、今から『物語の時間』を始めよう。
児童文学作家・小説『物語の時間』 くさなぎ そうし @kusanagi104
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