下
何度目かわからない、曲の終わりかと思うような激しい装飾がされた主題の変奏を私が弾き終えると、そばで聞いていた
「――――うん、そんな感じ」
「できてた?」
「ああ。最初に比べたら、だけどな。あとは、今の感じで練習すればいけるだろ」
「やった」
やっと桃矢君に褒めてもらえた。嬉しくて、私は思わず手を叩いた。
桃矢君の指導は彼女だろうといつも厳しくて、駄目なところを容赦なく指摘してくる。普段はさり気なく優しいところを見せてくれるのに、あの優しさはどこにいったのってくらい。
でも、指導を途中で投げ出したりしない。最後までちゃんと教えてくれる。ピアノについては自分にも他人にも常に真面目な人だ。だからこそ、褒めてもらえたときは素直に嬉しいし、達成感がある。
これで、少しは桃矢君に近づけたかな。ピアノの才能で張り合えるわけないけど、だからと言って諦めたくない。彼女なんだから、せめて上手くなる努力をしていたい。
「ほい、ご褒美」
と、桃矢君は鞄から小さいペットボトルを取り出すと、私に渡してくれる。私が好きなリンゴジュースだ。それもまた嬉しくて、私の顔は自然と笑顔になる。
ピアノにもたれ、自分もペットボトルの清涼飲料水を飲みながら、桃矢君は楽譜を見下ろした。
「にしてもお前、よくこれやる気になったよな。長いし暗いし。もっと優しい雰囲気の曲のほうが、お前のイメージに合ってると思うんだけど」
「桃矢君にとって私はそんなイメージ?」
「お前の外見と性格でこれとか『メフィスト・ワルツ』が合ってるってほうが、不思議な感性だろ」
と、桃矢君は苦笑する。つられて私も笑った。
「ん~まあ、なんとなく? そういう気分だったの」
「どんな気分だよ」
桃矢君は呆れたように言う。まあそうだよね、何から何までが怖い曲だもの。難しいし。
フランツ・リストの『死の舞踏 怒りの日によるパラフレーズ』は、若い頃に旅行先で見た一枚の絵画に着想を得て、リストが長い歳月をかけて完成させた曲だ。正式なタイトル通り、グレゴリオ聖歌の『怒りの日』のフレーズが、技巧を凝らしたいくつものアレンジで繰り返されていく。
――――怒りの日。それは世界が灰燼に帰す日
――――ダビデとシビラが予言したように
――――その恐怖はどれほどのものなのか
――――審判者が現れ、すべてのものが厳しく裁かれるだろう
そんなおどろおどろしい歌詞で始まる旋律が主題であるだけに、この曲はほとんどが不気味な空気に包まれている。穏やかで優しい部分も一応はあるけど、すぐに次の主題の変奏が上書きしてしまう。サン=サーンスが作曲した同じタイトルのものより禍々しく主題は彩られ、終わりを目指していく。
だから、私にはこの曲が難しい。編曲して短くしたとはいえ、それでも高度な技術が必要な曲には変わりないし。単に弾けるだけじゃなく音の粒を澄ませることにまで注意するとなると、かなりの集中力が必要になってくる。
それでも、今の自分なら、リストが描こうとしたんだろう光景を描ける気がするの。
『死の舞踏』は、流行するペストに怯えて狂乱する人々のさまを描いた芸術の一パターン。
『怒りの日』は、キリスト教の終末思想。過去から現在に至るすべての死者がよみがえり、神の裁きを受ける日。
リストがイタリアの墓所で見たのは、『死の勝利』というタイトルのフレスコ画だったって、先生は言ってた。どんな絵だったのかはわからないけど、同じ名前の他の絵からすると、きっと大きな鎌を持った骸骨姿の死神が主役の絵だと思う。人々の命を刈り取って、恐怖に惑う人々を冷ややかに見つめてる。
恐怖と死が人間を狂わせ、命乞いさせるんだ。逃げられないとわかっていても、言わずにいられない。
殺さないで。連れて行かないで。おいて行かないで。
生きていたい――――――――
…………――――――――?
頭の中で流れる桃矢君の演奏による『死の舞踏』を聞きながら曲想に思いを巡らせていた私は、桃矢君が私を見つめているのに気づいた。でも桃矢君の目の焦点は、私に合ってない。遠くを見てるみたいな目だ。
桃矢君、考えごとしてる…………?
…………。
「桃矢君……?」
「っ…………ああ……悪い」
私が桃矢君の制服の袖を引っ張り声をかけると、桃矢君はやっと我に返った。ぼんやりしていた目の焦点が、私に合わせられる。
…………ああほら、また。桃矢君、ごまかした。
でも、これ以上食い下がるなんてできない。私は諦めるしかなかった。
冬休みが終わってから、桃矢君はずっとこんな調子だ。私が話しかけてたり手を引っ張ったりしているのに静かだから振り返ってみたら、大体は何か考えこんでる。何を悩んでるのか聞いてみてもはぐらかされるだけ。聞かせてもらえない。
――――――――私は桃矢君の彼女なのに。
……………………。
耐えきれず、私は椅子から立ち上がって背伸びした。ちょうどペットボトルの口を閉めたところで反応が遅れる桃矢君の頬に手を伸ばして、自分の顔に近づける。――――キスをする。
桃矢君は一瞬戸惑うように身体を固まらせると、それから私を抱きしめてくれた。頭に回した手で、私の髪を撫でてくれる。
違うの。桃矢君、私はこんなことしてほしいんじゃない。もっと強く抱きしめて――――深くキスしてほしい。塞いだ唇を離したら、悩んでることを打ち明けてほしい。幸せも悩みも――――『好き』も、私は全部分けあいたいの。
悲しくて、悔しい。キスをしてるのに、抱きしめられてるのに、幸せだって心から思えない。喉が涙で震えて、どうしてって言葉が頭の中で何度も繰り返される。
でも、私はそれを口に出せない。そんなねだって無理やりなんて要らないもの。そんなの、みじめだよ……。
去年の秋に付き合い始めて、二ヶ月半近くが過ぎて。桃矢君を独り占めできて幸せが募っていく毎日を私は送ってるのに、雪みたいに消えてしまえばいいのに不安は少しも消えず、私の喉へ向かって嵩を増していってる。キスも抱きつくのも、いつも私から。『好き』なんか、一度も言ってくれない。
――――――――そして、今もまた。
唇を離しても、桃矢君は私を離さなかった。もちろん、私も抵抗なんてしない。桃矢君の心臓の音だって聞き逃さないように、彼の胸にぴったり頬を寄せる。
「……お前、結構甘えんぼで大胆だよな。見た目に合ってるというか、合ってないというか」
「桃矢君ひどい。私、そんなに子供っぽい?」
「違う違う。優しくて柔らかいってことだよ。元読者モデルだしな?」
私がむくれてみせると、桃矢は笑って私を宥めようとする。最後なんか、おどけたふうで。また私の頭を撫でる。
「心配すんな。大したことじゃねえから」
「…………」
……ああ、また積もっていく。広がっていく。そして、私はまだ女の子として好きになってもらえてないどころか、悩みを打ち明けられる相手とすら思ってもらえてないんだって思い知らされる。私たちの関係は少しも変わってない。皆が羨ましがってくれる素敵なカップルになろうとしてもがいてる、痛々しい二人のままだ。
――――桃矢君は、
「……桃矢君。さっきやったところから、もう一回弾いていい?」
「ああ。俺が言ったこと、忘れんなよ」
「はい、桃矢先生」
私がくすくす笑うと、もう一度私の頭を撫でて桃矢君は私を離す。桃矢君の体温とか身体の官職とかが急に遠ざかって、でもまだ自分の身体に生々しく残っているのが胸が痛くなるくらい嬉しくて、さみしかった。
私が演奏会でリストの『死の舞踏』を弾こうと思ったのは、私みたいだって思ったからだ。死神の大鎌を思わせるペストに恐怖し、踊り狂うように逃げ惑う哀れな人々は、桃矢君の沈黙と言葉に怯える今の私と同じ。怖くて怖くて、心だけでもどこかへ逃げてしまいたいと願ってる。
いつかきっと、死神の大鎌は振り下ろされる。桃矢君の沈黙と言葉が私を切り裂き、二つの片思いを引き裂いた罰を下す。
それは多分、桃矢君が私の想いに応えてくれる前から決まってたこと。わかってた。
それでも私は、『好き』って言わずにいられなかったの。
終焉の舞踏 星 霄華 @seisyouka
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