冬を瓶に籠めて

神楽坂

冬を瓶に籠めて

 福岡に来てから、初めての冬を迎えた。

 薄い雲がたなびく夕焼け空の下、自転車をこぎながら私は晩ご飯に考えを巡らせる。

 十二月の一週目から社内の様々な部署の忘年会が金曜日から日曜日まで続き、健康という言葉を忘却したような食生活を強いたために、さすがに体が「あっさりしたもの」を求めている。

 自転車のカゴには白菜、玉ねぎ、ジャガイモ、ニンジン、そしてベーコンが入っている。冷蔵庫には少し前に買っておいたコンソメがある。もう難しいことは考えない。ただただ野菜をコンソメスープでコトコト煮る、いわゆるポトフを傷ついた体にお見舞いしてやるのだ。胃の中に甘く煮た野菜スープが染みわたるイメージを膨らませながら会社から帰る道を急ぐ。

 それにしても、と自転車で冬の風を切りながら思う。十二月の夜の道を、こんなにも快適に自転車を走らせることができるのが未だに信じられない。私が生まれ育った新潟県の街では、十二月の頭になると積雪が十センチ程度に達し、自転車に乗ることなどもってのほか、普通に歩くことさえも難しかった。外に出るときは完全防寒、頭の先から足の先まで鎧のような服装をしていたが、今は薄手のコートの下にスカートを履いている。地元だったらあり得ない服装だ。地元だったら熱さすら感じるほどの鋭い冷気がスカートに潜り込んで体を襲う。外に出て三歩で家に逃げ帰るだろう。

 そんな季節感のズレもあり、まだ冬になったという実感が持てずにいた。せいぜい深まった秋、ぐらいにしか認識できないでいるのである。

 アパートの駐輪場に愛車を留め、カゴからビニール袋を取り出し、部屋へと急ぐ。

 閉めたかどうか心配だった鍵を無事に開ける。部屋に入るとビニール袋を冷蔵庫の前に置き、コートを脱ぐ。1Kのアパート。家賃も安価で、自転車なら博多の中心街にもすぐに行けるということもあってそこそこ気に入っている。

 地元新潟の大学を出て就職した会社の初めての配属先が福岡に決まり、親元を離れることが発覚したときは、思わず唾をごくりと飲んだ。今まで無条件に寄りかかれる柱がすっぽりと消えていく感覚が私を襲った。

 今年の三月に福岡に移住して、まだ何もなかったこの部屋に来たときにも、これから始まろうとしている新しい生活の営みへの期待と、見知らぬ土地で、一人で生きていかなければならないことへの不安が交互に私の体を押し寄せていた。

 あれから七カ月が経とうとしている。うだるような夏と、柔らかな雨に彩られた秋を通り抜け、暖かさの余韻を含んだ冬に差し掛かった。忙しい日々の流れに不安はゆっくりと溶けていったが、やはり生活の一番底の部分には不安は沈殿していた。

 部屋着に着替え、早速料理にとりかかる。

 白菜と玉ねぎはざっくり大きめに切る。ジャガイモは厚めに輪切りにして少しレンジでチン。ニンジンは少し小さめの賽の目状に切って白菜たちと一緒にざるにいれておく。最後に長いベーコンを半分に切る。福岡に来てから買った、一人用の土鍋にそれぞれの食材を並べ、水をいれる。そして多めにコンソメをいれて、塩と胡椒をそれぞれ二振りする。蓋を閉じて、火をつける。最初は強火で沸騰させて、弱火に切り替える。私は白菜の芯がくたくたに柔らかくなるくらいが好きなので、長い時間煮込むことにする。換気扇を廻して、鍋に蓋をして、冷蔵庫へと向かう。中から冷やしておいた赤ワインを取り出し、小さな白いキャビネットからワイングラスを用意してリビングのテーブルに戻る。赤ワインは常温で飲むことが推奨されているが、私はどちらかというとキンキンに冷えている赤ワインの方を好む。この冬に温かいポトフと冷たいワイン。なんともコントラストがよいではないか。

 野菜が仄かな火によって煮込まれる音をBGMにしてゆっくりとワインを飲む。食道を渋くも甘い液体が通り過ぎていき、ぷは、と息を吐く。

 テレビもつけずに、ワインをゆっくりと飲みながら窓の外に広がる夜を見つめる。鍋から生じるぐつぐつという音が、この部屋の静寂さを裏付ける。一人暮らしを始めると、もちろん部屋の中で声を出す機会が爆発的に減少する。服の擦れる音とか、フローリングが軋む音とか、そんなこそこそとした生活音だけが部屋に満ちていて、人間の声が満たされることは少ない。

 その静寂は私が息を吸うのと同時に不意に体内に入り、体を蝕む。ほんの一瞬、過ぎ去ったら忘れてしまうような刹那ではあるけど、しかし確実に静寂は私の体を侵す。

 今までの人生の中で「孤独」という言葉をじっくりと噛みしめたことはなかった。学校に行けば周りにクラスメイトがいたし、何よりも家に帰れば家族がいた。そんな生活の中では孤独を感じる暇さえもなかった。

 こうして誰も知らない土地に来れば、否応なく一人でいることが強いられ孤独と向き合わなければならない。小さな孤独が体の中に宿ると、寂しさを餌にしてその体を大きくしていく。孤独が成長していけば、考えなくてもいいことをどんどん考えるようになる。このまま福岡に住み続けていたら、人生の中で家族とあと何回会えるのだろうか、という考えたくないことが私の意志に反して頭の中に現れる。

 私の体にざわざわとした感情がせり上がってきたところで、部屋のインターホンが鳴った。我にかえった私は慌ててテーブルから立ち上がり、モニターで来訪者の姿を確認する。モニターには小包を抱えた宅配便のおにいさんが映っていたので、玄関に向かい、扉を開ける。

「お荷物です。サインお願いします」

 急いでいる様子で伝票とボールペンを私に手渡し、私はすぐにサインをする。

「ありがとうございました」

「お疲れ様です」

 小包を受け取るとおにいさんはすぐに去っていった。私はその背中を見送って部屋に戻る。通販を頼んだ覚えはないし、誰からの荷物だろう、と送り主を見るとそこには実家の住所と、お母さんの名前があった。

 何か送ってくれるって言ってたっけな、と思い出しながらリビングへと戻る。しかもただの小包ではない。クール便の荷物だ。小包自体がひんやりとしている。

 テーブルに小包を置き、ガムテープを剥がして、蓋をあける。

 そこには、一つのガラス瓶が入っていた。

 牛乳瓶よりも太く、大きな瓶。金色の蓋も大きなものだ。大量の保冷剤に囲まれて、そのガラス瓶は私がこの段ボールを開けるのを静かに待っていたようだ。

 そのガラス瓶は空ではない。

 ガラス瓶には、白いものがぎっしりと詰め込まれていた。

 一瞬何が入っているのかわからなかった。砂糖か、塩か、それに類する調味料かと思った。しかし、すぐにそれは思い違いであることがわかった。

 この季節、嫌になるくらいに見させられてきたもの。

 冬の象徴、白い悪魔。

 雪だった。

 真っ白な雪が、ガラス瓶の中に詰まっている。

 私は目を疑った。なぜ、瓶詰めの雪が送られてきたのか。わざわざクール便まで利用して、なぜこんなことをしなければならなかったのか。

 私の頭の中にクエスチョンマークがぎっしりと詰まったところで、ガラス瓶の下に敷かれているものに気がついた。ひとまず、瓶詰めの雪を箱から取り出し、その下にあったものを手に取る。

 それは小さな封筒だった。開けてみると、一枚のこれまた小さな便箋が入っていた。便箋を見ると、見慣れた丸文字で

「かわいい瓶が手に入ってなんだかどきどきしちゃったから、新潟の雪を詰めて送ります。そっちは雪も降らないだろうし、ちょっぴり恋しいでしょう。冬のおすそわけです。年末には元気な姿をお父さんに見せてあげてね  母より」

 と書かれていた。

 私はその文章を二回、三回、と読み返した。お母さんのほんのり甘ったるい声で再生される。電話で話すよりも、私の頭にはっきりと刻みこまれるお母さんの声。

「雪なんか送ってどうしろっていうの」

 そう母に反論しながらも、私の顔は綻ぶ。

 一旦便箋を置き、きつく締められた瓶の蓋を廻して開ける。

 ひんやりとした雪の匂いがたちこめる。鼻の奥までその匂いを吸い込むとそれにつれて目の奥にもしみてくる。

 指の先で雪をちょいとつまんでみる。

 ぴりっとした冷たさが指を襲う。この街ではまだ感じたことのない鋭い冷たさ。やんわりと体を包み込むような寒さではなく、神経に直接触れるようなむき出しの冷たさ。紛れもない、雪の冷たさ、そして冬の冷たさだった。

 そのまま、つまんでいる雪を口の中に放り込んだ。冷たさと共に、背徳感が口いっぱいに押し寄せる。よく外で雪を食べてお母さんに怒られていたものだ。

 そうやって雪に触れているとお母さんとの日々を思い出す。深い雪の中を一緒に歩くときには、お母さんは手を繋いでくれた。分厚い手袋越しにでも、お母さんの暖かさは伝わってきた。

 雪の冷たさに触れることで、お母さんの暖かさを思い出す。

 そんな奇妙でもあり、心地よくもある温度差が私の体をじんわり満たした。

 そして私を蝕んでいた静寂が、雪の暖かさによって溶かされていく。

 瓶の中の雪にぽたり、と滴が一つ落ち、じんわりと雪を溶かす。

 蓋を閉めて、冷蔵庫の一番上に収納する。雪というのは冷蔵庫に入れておけば保存できるのだろうか。この冬を一緒に越すことができるだろうか。

 そんなことを思いながらキッチンで湯気を吹きだしている鍋を見返す。

 私は雪の詰まった瓶を持って鍋の元へと歩み寄る。コンロの横に置いてある鍋つかみで蓋をぱか、と開く。

 鍋の中では色とりどりの野菜が底から湧きあがる大小の泡によって揉まれながらその身を柔らかくしている。白菜を支える芯はくたっと柔らかくなり、ジャガイモはふっくらとしたベージュ色を蓄え、ベーコンの赤色にほんのりと油の艶がのる。

 私は瓶の中の雪をもう一摘みして、ぐつぐつと煮えたぎる鍋の中に、静かに落とした。

 温かい鍋に、厳しい冬の雪の冷たさが宿る。

 雪は水面に落ちた瞬間にはらりとほどけて、すぐにポトフの中に溶け込んでいった。その光景を見ていると、体に巣食っていた「孤独」の文字が静かに溶けていく感覚を覚える。小さく縮んでいた心が、ふんわりと柔らかさを取り戻す。

 このポトフには、お母さんのお茶目さと、想いがほんの少しだけ混ざっているんだと思うと、自然と顔が綻ぶ。

 私は、一人なんかじゃない。

 雪で暖まった心、ポトフで暖まる体。

 それらを携えて、深まる冬を越えていこう。

 その向こうに待っている春を目指して。

 私は鍋に顔を近づけ、立ち込めるコンソメの匂いを深く吸い込むのだった。

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冬を瓶に籠めて 神楽坂 @izumi_kagurazaka

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