第4話 見送る者・見送られる者

 かつて鬼が出たという険しい高賀山の麓に、板取いたどり川という渓流がある。現在の関市板取から洞戸ほらどを経て、長良川に合流する。その辺りが、今では郡上市美並みなみと美濃市の境となっている。

 ハダレが同じ郡上の悪党、ヒギリ氷霧に常縁の馬の轡を渡したのも、その国境くにざかいだった。

 といっても、下総に向かう軍勢で、それに気付いた者はないようだった。常縁は知っていただろうが、敢えてそれを口にしなければならない理由もない。

 ヒギリは、ハダレよりも小柄である。ハダレと同じように笠を目深にかぶってはいるが、悪党の看板に似合わず、その手足は「しなやか」というよりも「たおやか」というのが似つかわしい。

 その歩みは、空を駆ける雲の上を行くかのように軽い。馬の蹄と後に続く軍勢のせいで分からないが、ヒギリは足音ひとつ立ててはいない。

 常縁がいたわりの声をかけた。 

「疲れはせぬか」

「まだ一刻も歩いてはおりませぬ」

 答えたヒギリは、常縁の馬の轡を受け取って、郡上の外を行く。それはハダレよりも経験を積んでいることを意味していた。だが、その声は若いというよりも幼い。

 何やら気負うヒギリをなだめるように、常縁は遠い目をして言った。

「井ノ口に着く頃には日も暮れておろう」

 井ノ口とは、現在の岐阜市である。ただし、斎藤竜興を破った織田信長によって改名されるのは100年ほど先になる。

 そこまで待てというわけではないが、ヒギリは「ごゆるりと」と返して軽口を叩いた。

「私は郡上の者に土産でも探してまいります」

 井ノ口すなわち岐阜から何を持ち帰るといっても、この時代はまだたいしたものはない。織田信長の楽市楽座でここが栄える頃とは、西洋の数え方で1世紀違う。


 長良川沿いをやってくる軍勢も、百々ヶ峰の上から見ると芋虫が這っているくらいにしか見えない。

「存外に少ないな」

 この井ノ口で最も高い山にわざわざ登った斎藤妙椿は、足下に控えた津和野つわの三蔵に語りかけた。

 本人も分かりきっていることを敢えて尋ねる主に、屈強の従卒は大真面目に答えた。

「人も馬も兵糧も、郡上ではこれが精一杯かと」

 郡上はほとんどが山である。耕地など、たいしてない。現在は安久田あくだの山肌で栽培されている南天は日本全国に知られているが、これも痩せた土地で人が生き抜くための知恵である。500年以上も昔では、そこにどれだけの人がどれだけの作物を育てて細々と暮らしていたことであろうか。

「東常縁の軍勢と聞いた時はどれほど大したものかと思ったのだが」 

 そう言いながら斎藤妙椿がこんな山の上まで東常縁を眺めに来たのには、わけがある。

 応永18年(1411年)、斎藤妙椿は美濃守護代であった斎藤宗円の子として生まれた。幼い頃に出家していたが、20歳になった頃からは和歌の道に目覚めていた。

 だが、その頃から世の中は随分と物騒になっていた。

 やがて永享10年(1438) には、いわゆる「永享の乱」が起こる。もともと室町幕府に反発していた鎌倉公方足利持氏が関東管領であった上杉憲実に対して兵を挙げたのである。憲実の求めに応じて幕府が援軍を差し向けたため、翌年、持氏は敗死した。

 因みに、その遺児である春王丸、安王丸がまた翌年になって担ぎ出されたのが、かの曲亭馬琴による奇書『南総里見八犬伝』の発端となる結城合戦である。この戦に敗れて落ちのびた里見義実に娘があり、後に八犬士に仁義忠孝礼智悌信の8つの珠をもたらすのであるが……。

 それはそれとして、その遺児2人は京都への護送中、美濃国の中山道沿いにある垂井宿の金蓮寺で殺害された。元号が変わって嘉吉元年(1441年)、将軍足利義教が暗殺された年のことである。斎藤妙椿は30歳になっていた。

 中山道が通る加納宿で、妙椿はこの哀れな兄弟を見ている。兄の春王丸は12歳、弟の安王丸は11歳であった。互いに引き離され、後ろ手に縛られて馬上に晒された少年たちを道端で見物する庶民に紛れて仰ぎ見た彼は、僧として手を合わせたものである。

 ところで、このときに伴っていたのもやはり、津和野三蔵であった。当時はまだ元服したばかりであったが、剣や槍の腕は既に、兄である斎藤利永の家臣の中で一目置かれていた。

 今年で28になる勘定だが、兄がいらぬお節介で護衛に付けた、10年は若く見えるこの男は冗談めかして言う。

「これで郡上はほとんど空でございますが……獲られましょうや?」 

 妙椿は露骨に顔をしかめてみせる。

「バカを申すな」

 僧としてのそんな気は毛頭ない。百々ヶ峰の上に立つ妙椿は、歌道の先達である常縁を出迎えに来たようなものである。

 永享の乱に敗れた足利持氏の遺児には京都にもう1人、永寿王がいた。これが宝徳元年(1449年)、15歳にして京都から鎌倉に迎えられ、足利成氏と称する。これが後に、いわゆる古河公方となって例の『南総里見八犬伝』にも登場するのだが……それはこの際どうでもいい。

 関東で動乱の種がまかれる一方で、東常縁と斎藤妙椿にも人生の一大転機があったのだった。

 明けて宝徳2年(1450年)に東常縁は、正式に二条派の尭孝の門弟となっている。後に郡上を訪れた飯尾宗祇に対して授けた古今伝授は、この二条派が伝える「古今和歌集」解釈の秘儀である。

 一方で、斎藤妙椿は、妙覚寺から世尊院日範を招いて常在寺を建立している。後に斎藤道三が美濃を支配するのに拠点とする寺であるが、妙椿にそこまでの展望があったわけでもないだろう。ただ、彼は寺の一画を占める持是院でひっそりと時を過ごしていたばかりである。だが、この持是院こそが後の彼を国盗りへと向かわせるきっかけとなったのだった。

 もっとも、今の妙椿にそんな様子は微塵もない。歌道の権威を背負う一門に連なることを許された稀有な武将としての常縁を、同じ道を志す身として遠く崇めるために、井ノ口で最も高い山にわざわざ僧侶の身で登ってきたのである。

 その背中から、斎藤利永の放った三蔵は、政治向きの話を持ち出す。

「殿はこの戦、関東だけでは収まらぬと見ておられます」

「そうであろう」

 関わりたくないはずの話に事も無げに答えられるのは、それなりに修行を積んでいるからであろう。妙椿は日本のあちこちに広がるであろうと読んだ戦について、まず、その来し方を淡々と語り始める。

「もともと関東管領は鎌倉公方と仲が悪い。先の永享の戦で持氏殿が京の上様に逆ろうた時に仲を取り持とうとしたのが裏目に出た。持氏殿は二心ふたごころありと思いなさったのだろう。持氏殿は亡くなって成氏殿の代となったが、憲実殿の跡を継がれた憲忠殿と睨み合いを持ち越してしまった」

 百々ヶ峰の山頂は、風が強くなった。風は曇り空から、重さを孕んで吹き付けてくる。津和野は妙椿の話を遮った。

「雨になりましょう」

「いま少し」

 妙椿はのろのろと近づいてくる東氏の軍勢を見つめながら、戦の現在を語った。

「持氏殿は鎌倉公方として、常縁殿が加勢に向かう千葉殿だけではなく、もともと相争うておった小山殿と宇都宮殿もまとめられた。関東管領たる憲忠殿は面白うなかろう」

 妙椿は不意に、長良川の向こうにある金華山に目を遣った。その先には、稲葉山城がある。廃墟と化していたのを、兄の斎藤利永が居城として立て直したものだ。無論、100年の後に井ノ口を岐阜と改めた織田信長がそこから天下を睥睨することになるのだが……。

 そんな時間の彼方を妙椿は想像する由もない。彼が眺めているのは、同じ時代のもっと遠くの方だ。

「関東管領は憲忠殿の上杉…つまり山内家が代々継いでおるが、そこを仕切る長尾景仲殿は、永享の戦で持氏殿が自ら降った相手だ。長尾殿も鎌倉公方に刃を向けたくはなかったろうが、知らんぷりをされては仕方があるまい」

 妙椿は深い溜息をついた。持氏が重んじたのは結城氏、里見氏、小田氏といった関東八屋形の名家である。三蔵は皮肉っぽくつぶやいた。

「子供のケンカですな」

「男というのは幾つになっても」

 ちらと振り向いた妙椿に、三蔵は顔を伏せて言った。

「では妙椿様も」

 長く仕えて、主君の弟にこのくらいの冗談を言える関係にはなっている。妙椿も子供のように、にかっと笑った」

「坊主はもはや男ではない」

「失礼いたしました」

 頭を下げる三蔵に、妙椿は何やら考えるように背を向けた。

「上杉家にはもうひとつ、相模守護の扇谷おうぎがやつ上杉家があるが、こちらを仕切る太田道真殿も、関東管領につかねばなるまい」

 妙椿は曇り空を仰いだ。彼が口にした太田道真の子が、江戸城を築いた太田道灌である。100年後、その江戸城に入った徳川家康は265年も続いた幕府を開くことになるのだが……今はまだ、室町幕府の時代である。

 三蔵はその背中を見つめて問いかける。

「この度の戦は、鎌倉公方が憲忠殿を騙し討ちにしたことが元で起こったと聞き及んでおりますが」

「去年のことだな」

 妙椿はいささか呆れ気味に言った。

「元はといえば、長尾殿と太田殿の我慢が足りんのだ。5年前、江ノ島の戦で成氏殿を攻めたが、勝ち目はなかった。引き分けがいいところで和議は成ったが……。勝てねば鎌倉公方たる足利成氏にいいようにされることは分かっておったろうに」

「その長尾殿の留守中に」

 三蔵が口にした関東管領の不幸な運命を遮るように、妙椿が言葉を引き継いだ。

「鎌倉の御所に憲忠殿を招いてな」

 それが暗殺の場所だった。殺したの殺さないのという言葉は、口にするのも口に刺せるのも避けたかったらしい。

 三蔵は三蔵で、別に成氏を悪者扱いする気はなかったようである。

「幕府に告げたのは良い知恵だったかと」

 成氏は何度となく、幕府に憲忠暗殺について弁明する書状を書き送っている。シラを切るよりはまだマシだったろうが、そもそも憲忠にも上杉家にも非はない。いかにその家臣が暴発したからと言って、とても正当化できるようなことではなかった。当然のことながら幕府には無視されたが、妙椿にしてみれば別段、成氏の行動に不思議はなかったようである。

「大義名分というヤツだ」

 早い話が、鎌倉公方として維持を張ったわけである。言い換えれば、幕府に対してのあてつけだった。

 とはいえ、実はこの頃、転戦の留守を幕府方に突かれて鎌倉に戻れなくなった足利成氏は、古河に逃れている。古河公方と呼ぶべきなのだが、2人ともまだ、それを知らない。

 下総から伝わってきたのは、古河公方の足利成氏に付いた千葉氏分家の馬加康胤と重臣の原胤房が、本家の胤直と胤宣の父子を倒して家督を奪ったこと……つまり、東常縁出陣の原因だけであった。

 それを思い出したのか、三蔵は更に問うた。

「もちろん、将軍様は放って置いたりなさらないのでは?」

 まるで他人の指す碁や将棋の局面を読んでみせるかのような、もっともらしい物言いが返ってきた。

「だからこそ、常縁殿を差し向けられたのよ、千葉本家を守れと」

 そう答えた妙椿は目を細める。その先では、東常縁の軍勢長良川沿いを日野の辺りまでやってきている。

「同行なさるのは酒井定隆殿とか」

 三蔵が誇らしげに言うのは、妙椿がどう応じるか予想がついていたからだろう。美濃守護代・斎藤利永の弟は、ゆっくりと頷いた。

「浜春利はるとし殿のお子だ」

 浜春利は美濃を守護する土岐氏に連なり、その守護代である斎藤家とは縁がある。その名を口にした妙椿には見えない背中から、三蔵はにやりと笑いかける。

「今夜の宴にはいらっしゃいますか?」

 将軍の命を受けて、名門土岐氏の縁者を副将に下総まではるばる赴く常縁をねぎらう宴が、利永の屋敷で開かれることになっていた。弟であれば、招きのひとつもかかる。

 妙椿は、常縁の軍勢を眺めるのをやめてさっさと山を下り始めた。

「坊主の行くところではない」

 そう言い捨てたものの、足は速かった。遥かに若い三蔵でも、なかなか追いつけはしない。

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武将歌仙伝 兵藤晴佳 @hyoudo

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