第3話 忍びがその名を名乗るとき

 馬の轡を取る男は、低い声ではあるがムキになって、あるじに食ってかかった。

「声が大きゅうございます」

「なに、おぬしの名はシノビだと誰もが思うておる」

 日ごろから屋敷の庭を掃いたり、風呂を炊いたり、こうして馬の轡を取ったりする男の本当の名を知る者はない。この常縁でさえ知らないのである。

 知る必要がない。この男だけが知っていれば済むことだ。常縁は滅多にこの男に呼びかけることがないし、他の従僕と共に使うことがない。そもそも、名前を呼ぶ必要などないのだ。

 この男がなぜ常縁のもとにいるかというと、代々そうなっていたからに過ぎない。

「先代もそうでいらっしゃいましたか」

 男が尋ねると、常縁は曇った空を白々しく仰いだ。

「知らんなあ」

 おそらく、人前で声をかけることもなかったであろう。男たちはそんな身分でもない。

 承久の戦の後に東氏が郡上へと移り住んだ頃、この地をそれなりに仕切っている「悪党」と呼ばれる者たちがいた。普段は農耕や森林伐採などで生計を立てているが、侵入する外敵は武装して排除するのである。

 彼らから見れば、東氏はいきなりやってきた支配者となるわけだが、特に抵抗することはなかった。 

 背後には鎌倉幕府が控えている。その上、内乱の鎮圧に功を上げた自前の兵力もある。つまらない喧嘩して命を落とすよりも、自分たちを高く売り込んだ方が得だと判断したのである。

 そんなわけで、彼らは易々と初代の東胤行の軍門に下ったが、それまでこの地で築いてきた彼らの信用と面目が潰れることはなかった。2代目の行氏ゆきうじから代々、東氏は鎌倉幕府によって六波羅探題の下で用いられ、主に京で暮らすこととなったからである。結果として、郡上の治安は彼ら「悪党」に預けられたのだった。

 東氏とのつながりも増える。ただし、それは屋敷の回りでの下働き程度に限られた。

「確かに、なかなかお帰りにもなれますまいから」

「上様に仕えるのも楽ではない。領国を思うとな」

 南北朝の争乱のさなかに台頭した足利氏が室町幕府を開くと、東氏は奉公衆と呼ばれる将軍直属の武官となった。千葉氏の内紛に介入するのも、東氏がそこから出たということだけが理由ではない。

「お帰りはいつになりましょうか」

「東国だからな」

 千葉氏は桓武平氏から出た平良文たいらのよしふみを祖とする名門、坂東八平氏ばんどうはちへいしのひとつである。南北朝の争乱を経て足利氏による室町幕府が開かれると、関東八屋形かんとうはちやかたと呼ばれる大名に数えられるようになった。これほどの家でいったん始まった内紛が、1年や2年で収まるわけがない。

「10年にはなりましょうか」

「おぬしは幾つになっておろうか」

「お答えはできませぬ」

 男は、名前も年も知られてはならなかった。そうした者であるが故にできること、せねばならないことがある。

 突然、低い声で囁いた。

「しばし、この場を離れまする」

 馬の轡を取る者の姿が消えても、咎める者はない。何事もなかったかのように、東氏の軍勢は長良川筋の街道を行く。

 道を外れた男はというと、未だ拓かれない地面を覆いつくしてどこまでも広がる草むらの中を駆ける。高々と跳躍すると、笠を取った手を横に振った。

 まだ、若い男である。現代の感覚をモノサシとするなら、少年と言ってもいい。その目は、凄まじい勢いで回りながら飛んでいく笠を見つめている。

 その斜め下から放たれた矢は、常縁を狙ったものだ。それが笠を貫いたとき、童顔の男は叫んだ。

「そこか!」

 再び降った手から放たれたのは、クルミの実である。小腹が空いたときのために携行するのは珍しくないが、投げればつぶてとなるくらいの固さはある。

 だが、それらは草むらから発した石礫によってことごとく砕かれた。

「よくも俺の昼飯を!」

 それほど大事なら投げなければよいのであるが、無論、本気で言っているのではない。年の割にはこの男、命のやり取りに軽口を叩くだけの余裕があるようだった。

 腰の短刀を逆手に抜いて潜った草の中に、弓を持った賊がまだいるはずもない。鎌を手にあさっての方向から飛び出した小男が、後を追うようにして草むらの中に沈む。

 だが同じ理屈で、若い方の男もまた、その場にいるはずがなかった。鎌が狙ったのとは見当外れの辺りから跳躍した影が、短刀の切っ先をまっすぐ下に向けて降ってくる。

 それも空振りに終わった。草むらの中に沈んだ背中めがけて跳びかかってくるのは、やはり別の方向から現れた小男である。

 その真下から、一条の光が走った。鎌が弾き飛ばされて草むらに落ちる。

 若い男の持っていた短刀が投げつけられたのだ。だが、小男はもう一丁の鎌を手にして草むらに沈む。

 それっきりだった。ただ、曇った空の下で長良川の向こうから山肌を吹き抜けてきた風が、草むらの面を撫でてゆくばかりである。

 やがて、男がひとり、血に濡れた鎌を手にして立ち上がった。

 だが、その背は決して低くはない。むしろ、すらりとして若々しい。髷も結っていない髪を吹き乱す山風に揺れる草むらを見下ろすと、その下に横たわっているらしい命のやり取りの相手に語りかけた。

「お前にだけ教えてやるよ。俺が母からもらった名は……ハダレ斑雪

 その言葉は、突然どうっと吹き付けてきた風にかき消される。その勢いに逆らうかのように、ハダレは草むらの中を駆け抜けた。

 短刀が、穴の開いた笠が、その手に戻る。

「……昼飯どうしよう」

 こればかりは、戻ってこない。

 美濃の国主である土岐氏の領国に入るまでは彼が馬の轡を取ることになっている。それから先は、「悪党」のもっと年かさの者が護衛することになっていた。その頃には日が暮れていることだろう。

「まあ、いいか」

 遠出をするから持ってきただけのことで、普段は昼飯など食うことはない。再び常縁の馬首に付いたハダレに、頭の上から声がかかる。

「何があった」

「いえ、何も」

 ハダレたちは何があっても、こう答えることになっている。常縁が京にいる時は、もっと経験を積んだ者が近くに仕えているが、忍びに襲われるようなことは、そうそうないらしい。

 それというのも、常縁が武将というよりは、歌人として知られているからである。

 現代でも続いている和歌の家系には、例えば冷泉家や三条西家がある。常縁は、この三条西家が伝える二条派歌道の歌人で、後には御水尾天皇の勅撰とされる「集外三十六歌仙」のひとりにも数えられている。

 だが、この時代、京ではどうであろうとも、将軍の命を受けて下総に軍勢を向ければ、その手の者が向こうから放たれても不思議はない。

 若いハダレにしても、そのくらいは察しがつくだろう。下総がどれほど遠いかは知らないだろうが、ハダレの仲間が京へ使いに走っても、往復で5日ほどだ。人間の足で、やってできないことはない。

「留守を頼むぞ」

 何があったかは見当がついていたのだろう、常縁は遠くを眺めながら声をかけた。その眼差しの先では、長良川を挟んだ山脈がぴたりと重なっている。

「お任せください」

 再び笠を目深にかぶったハダレは、低い声で囁いた。

 彼はまだ知らないが、東常縁の留守はこの先16年にわたることになる。

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