第2話 響《とよ》み鳴る山脈《やまなみ》の間を

 薄曇りの空に、暗い緑の稜線がくっきりと浮かんでいた。

 その山肌をさやさやと吹き下りてくる風は、さざなみの立つ長良川のおもてを撫でて、馬上でゆったりと手綱を取る烏帽子姿の男の長い髭を揺らした。

「よい香りだ」

 誰にということもないつぶやきに、連銭葦毛の馬はぶるると唸って応えた。

 だが、その轡を取る男は目深にかぶった笠の下でうつむく。

「私めには分かりかねます」

「されどもおぬしらあってのことよ、これは」

 男は自らが治めるこの地の、山と川と空とをぐるりと見渡した。

 長良川を挟んだ、山間の地である。

 その山裾の土地はそれほど広くない。山の斜面に向かって、田畑が襞状に深く抉り込まれているが、この地形は「ほら」と呼ばれていた。

「大して開けた土地ではありませぬ」

 轡を取る男は、やはり顔を上げない。

 だが、馬上の領主は満足気に言った。

「それでも人が住まねばひらくこともできまい」

 街道沿いの山肌が風にざあっと鳴る音に、領主はうっとりと目を細めた。 

 皐月の爽やかに晴れ渡った空の下なら、鮮やかな緑の上を渡る薫風も感じられよう。だが、そろそろ水無月に近づこうとする頃である。男が笑顔で眺めているのは、どちらかといえば人の気分を重くする風景であった。

 郡上と呼ばれる奥美濃の地は、降るのか照るのかはっきりしない天気の下で、風に木々の葉を揺らす山々は不安げな呻き声を立てている。

「殿が御自ら御出馬とは」

 轡を取る手が強張った。それでも、力の加減は弁えているのか、馬を怯えさせるようなことはない。

「上様のお下知とあれば是非もない」

 郡上の領主は、事もなげに答えた。

 東常縁とうのつねより

 美濃篠脇城の主である。

 遡れば、後鳥羽院が起こした承久の戦で先祖が功を上げたのが城の始まりである。東氏は下総で名を知られた千葉一族の出で、この戦で鎌倉幕府から下された郡上の地に移り住んだのだった。

 初代が築き始めた城は、常縁の代になると攻めにくい土地を悠然と見下ろすようになっていた。城の西には長良川が控え、北から東にかけては人里が険しい山々の間に細々とある程度で、軍勢を引き連れてきてもこの地にはなかなか入り込めはしない。

 さて、現代ではその人里がどうなっているか。

 北から時計回りに見ていこう。

 まず牛道うしみちは今で言う郡上白鳥にある。現代ではスキー場があって結構、開けているが、冬場にぐるりと辺りを見渡せば、いったん雪が降ると相当の量に悩まされるだろうということは容易に想像がつく。

 ぐるっと北東に回ると、寒水かんすいである。ここは、現在の明宝めいほう明方みょうがた)辺りだ。この辺りも相当に山深い。

 城から山を一つ二つ隔てた東に位置する小駄良こだらなどは郡上八幡の山奥で、今でも街道を走って行くと山の中で道がなくなる。

 現代でさえこれなのだから、600年前の郡上がどれほどの秘境であったかは想像を絶するものがある。

 その美濃の国の辺境から、東常縁は自らのルーツともいうべき下総へと軍勢を進めていた。

 その数、騎馬と徒歩かちを合わせて150人ばかり。これでも当時の戦闘としては多い方である。言い換えれば、篠脇城はほとんど空っぽと言ってもいい。だが、そんな無茶をしなくてはならない理由が常縁にはあった。

 轡取りが声を潜めて尋ねる。

「下総ではそれほどに?」

 そこには後に続く配下に聞かれてはならないという配慮が見て取れるが、常縁は密談が漏れるのを大して気にしている様子ではなかった。

 むしろ、はっきりと言い切る。 

「下総の千葉本家だけではない。関東そのものがもう、戦でどうにもならんのだ」

 轡取りは恐れ入ったように言い訳した。

「去年で収まるとも聞いておりましたが」

 常縁は老いた顔を皮肉っぽく歪めて、呆れたように言った。

「そんなわけがあるまい、鎌倉公方と関東管領の戦だ」

 ますます恐縮した声が、笠の下から返ってくる。

「鎌倉公方は亡くなったと聞いておりましたので」

 もうとっくに還暦を過ぎた老将が、若者のように楽し気な声で、高らかに笑った。

「忍びは耳が早いな」

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