そんなにも素敵な君へ
七野青葉
そんなにも素敵な君へ
「先に言っておくけれど、僕はコウテイペンギンだ。君は今まで僕のことをキングペンギンだと思っていたみたいだけど」
目の前の30センチくらいの小さな雲は、それはそれは重大なことを発表するように、厳かな声で、そう言った。
「どういうこと?」
ユミちゃんは、首を傾げた。わたしのお友達や知り合いに、こんなふわふわした人いたかしら。それに、ペンギンって?
「うーん、だからね、繰り返し申し訳ないのだけれど僕実はコウテ……」
「ちょっと、待って」
ユミちゃんは困ったように彼と言うべきか微妙な物体を見つめる。
「わたし、あなたのこと知らない。会うのは今日が初めてだと思うよ」
ユミちゃんは5人家族の長女。家にペットはいない。いたとしてもコウテイペンギンではないだろう。友達にも先生にも近所のおじさんおばさんにも、コウテイペンギンとして当てはまる人は一人も、もしくは一羽もいない。本当に、心当たりがなかった。
あたりは真っ白だった。ただひたすらに何もない空間が広がっている。なのに、ぴゅううと二人の間を冷たい北風が通った。ユミちゃんの小さなおさげも風に乗る。赤いスカートも、ふわりふわり裾を躍らせる。枯葉と埃がどこかへすうっと無くなった。それと一緒に懐かしい香りがした。お日さまの匂いだ。あれ? わたし、ここに来たこと、あったかな。
小さな雲は怒りなのか寒さなのか、ぶるぶると震えながら口を開く。
「くう、なんて冷たい子だ……僕のことをキングペンギン扱いし、その上その存在すらも忘れるなんて」
小さな丸い雲は少し気を害したようにフシュウと気体を出した。姿自体も気体みたいなものだから、ただ自分の体が縮んだだけだったけど。コウテイかキングかの違いがこの雲に一体何を生み出すというのだろうか。ユミちゃんはそんな風に思ったが、言うのはやめておいた。口に出すと後がかなりめんどくさそうだ。
「ごめんなさい。でも本当にあなたが誰だか分からないの」
ユミちゃんは目の前のチビ雲にちょこんと頭をさげる。小さなおさげがぴょこんと肩ではねた。二人の間にちょっとだけ、沈黙が流れる。
「……とまあ、冗談はこのくらいにしておこう。本当の僕はこんな姿をしていないんだ」
さっきの流れは茶番だったらしい。雲はもう一度フシュウと謎の音を出した。なぜだか得意げだ。ユミちゃんはちょっとむっとした。
「それなら会ったことないって言いきれないじゃない。それを先に言ってよ」
「うーん。それはそうなんだけどね」
「どうかしたの?」
「気づいていると思うけれど、ここにきみを呼んだのはこの僕だ。会いたいと思ったのはこの僕なんだ。だけど、そんなにも素敵なきみの前に僕の本当の姿を見せるのはなんだかはずかしかったんだ」
「へ、へえ。そうなの」
ユミちゃんはもう何が何だか分からなかった。こんな雲のこと知らないし、そもそも何が素敵なのかがまるで理解不能だった。そんなにって、どんなに?
なんだか、わたしのことを知ったように、気持ち悪いなあこの雲。
「きみのひたむきなところとかね、僕は好きだよ」
「ひたむき」
「うん」
ちょっとユミちゃんには、難しい言葉だったかもしれない。それでますます雲が怪しく見える。
「ねえ、結局あなたは私の一体何なの?」
「それは自分で思い出してくれよ」
「そんなこと言ったって、ヒントぐらいくれないと何にも分かんないよ」
「ヒントか、そうだなあ……。ユミちゃんは、男ってこと知ってるくせに、僕に女の子の服を着せたりした」
「なにそれ」
「自分で言っておいてなんだか僕は恥ずかしくなってきたよ。いやあ恥ずかしい恥ずかしい」
チビ雲はそのふわふわとした体を上気させた。恥ずかしいと言うより、喜んでいるように見える。フシュウフシュウ。水蒸気だかなんだか分からないものがユミちゃんの顔に思いっきりかかる。どこから出てきたのか、埃も振りかかる。くしゃみが出そうだ。ユミちゃんは眉をひそめながら、無言で身を引いた。残念ながら、男の子のお着替えを手伝ってうれしがるような女の子じゃない。
「ああ、思い出されたいけど、思い出されたくない。この気持ちのことを人は何て呼ぶんだろうか」
「かっとう、じゃない」
「……分かったぞ、恋だ! あ、いや、愛……かな」
「違うと思うけど……」
「あ。あとヒントと言えば僕、きみと一緒にお風呂やトイレに入ったことだってあるんだ」
ユミちゃんは無言でチビ雲の顔にパンチをお見舞いした。
「うわあっ! やめてくれよう、一体何するんだ」
それはこっちの台詞だ。一体、何を言い出すんだ。ふわふわの雲は四方八方に分散した。だいたい、ユミちゃんはペンギンとお風呂に入ったことも、トイレに行ったこともない。
「あなた、絶対にペンギンじゃないでしょ」
「そうでもあるし、そうでもないとも言う」
チビ雲は、どこか楽しそうだ。頭がおかしいのかもしれない。埒があかないので、ユミちゃんはだんだんいらいらしてきた。
「もう。どうして、本当の姿を見せてくれないの」
「恥ずかしいからさ」
チビ雲はにこりと、多分笑った。
「きみはそんなにも綺麗でかわいくて素敵なのに、本当の姿の僕ときたら正反対だ」
「そんなのずるいよ。自分だけ姿を見せないなんて」
「仕方ないさ」
「……それにわたし、素敵なんかじゃない。人違いじゃないの」
ユミちゃんは、チビ雲を睨んだ。身長だってクラスで一番低い。勉強だって全然できないし、絵が上手なわけでも、運動が得意なわけでもない。可愛くないし、おしゃれじゃない。目立たないし、ぱっとしない。それがユミちゃんの思う、ユミちゃんだった。
「いや、間違いなくきみだよ。ユミちゃんは世界で一番素敵だ」
信じきった声でチビ雲は言う。ばかにされた気分だ。ユミちゃんはため息をついた。誰から見たって平凡でつまらない自分をこれみよがしに褒めるなんて、ただの嫌味だった。ユミちゃんは「もういい」とそっぽを向いた。そのまま、チビ雲に尋ねる。
「もしかして私をそうやってからかうために呼んだの?」
「ええっ違うよ」
「じゃあ、何のために」
チビ雲は慌てだした。怒ってる? そんなつもりじゃなかったんだよう。あたふたとユミちゃんの周りをくるくる回る。
「何よう。誰なのか教えてくれないし。意味、分からないことばっかり言うし」
なんだかいやな気持ちになってきて、なんだか分からないけど、ユミちゃんの目からはぽろりと光る雫が零れ落ちた。
「ああっ!泣いた」
「うるさいなあ」
「泣かせるつもりで呼んだのに! 意図しないところで泣くなんて、計算外だ」
チビ雲はあたふたしはじめた。泣かせるつもりだったのか。なおさらユミちゃんは腹が立って仕方ない。チビ雲をぽかすかなぐった。悔しさもあいまって涙は止まらない。
「あいたたたっ!やめてくれよう」
「そっちこそ、いじわるしないでよ。わたしが泣いてるの見て、何が楽しいの」
女の子の服を着せた、仕返しでもしたかったのだろうか。そんなことをした覚えはないけれど。涙で濡れた顔をチビ雲に向ける。
「そうじゃなくて」
チビ雲は、そのふわふわした体から気体をだすと、にょきっと人間の形の腕をつくった。そうして、その手はためらいがちにユミちゃんの頭に触れる。おさげが少し、揺れる。
ぎこちない、よしよし。
「きみは、つらいとき、いつも発散の仕方がわからない子だっただろう」
チビ雲はため息をつきながら言った。
「誰の前でも泣くことをしなかった。いつも優しい子だっただろう」
誰も知らない部屋のすみっこ、ベッドの中泣いていただろう。そのことを僕は知っている。
チビ雲は脆く壊れやすいものに触れるように、ユミちゃんの小さな手を包んだ。
「だから、僕は、僕の前できみに泣いてほしかったんだ、ユミちゃん」
人一倍がんばってみても、一つも報われなくて、周りからバカにされることだってあって。涙を見せまいと難しい顔をして、パンプスで歩いていたらこれでもかというほどすっころんでしまって。人はついていないという言葉や空回りという言葉でユミちゃんのがんばりを片付けてしまうけれど。
「ちょっと待って。いつ、わたしが転んだの? わたし、パンプスなんて持ってないよ。言っていることが分からないよ。」
「本当に?」
「……分かんないよ。分かんない」
「多分、本当は気づいているはずだよ」
チビ雲は、うつむいて膝をかかえこむユミちゃんの目線まで高度を下げる。その頭ごしに、白い世界がきらりと光った。空間の割れ目とでも言おうか。そこから、うっすらと蜜柑みたいな色の光が差し込んでいた。チビ雲がちらりと見上げたので、つられてユミちゃんもそちらに顔を向ける。おや。いつの間にか、こんな時間だ。気づかないうちに随分話してしまったみたいだ。チビ雲は独り言みたいに呟いてから、もう一度口を開く。
「僕はきみが、うれしいときはもちろん、つらいときだって怒ってるときだって知っている。どんなユミちゃんだって輝いていて、それを隠そうとしなくたっていいんだよ。それを全部伝えたくて、呼んだんだよ」
本当は、もっと感動とかで涙を流させてあげるつもりだったんだけど。チビ雲は、多分照れ笑いをした。
「わたし、輝いてなんかないんだ」
ユミちゃんは顔を上げ、吐き捨てるようにそう言った。瞳はどこか荒んでいた。
「課せられたことを疑いもせず無感情でがんばることは、誰でもできる。それは、キラキラとは言わないの」
「随分、大人びた表現だね」
チビ雲は穏やかに続ける。おさげが光に照らされて、きらめいた。
「きみは、誰かにそう言われたんだね」
「その人の言うことは、あってる。わたしは、気が利かなくて、一つのことしかがんばれないんだ」
「随分、大人びた考え方だね」
「わたしは、とても子どもっぽいよ。いつもそう言われてる」
ユミちゃんは力なく首を振った。チビ雲は穏やかに、多分微笑んだ。
「きみのその無感情のがんばりは短所でもあり、同時に長所でもある。僕は、きみのひたむきさが好きだよ」
「考えなしの、無鉄砲が? わたしは」
「嫌いなら嫌いでいい。だけど、自分一人でがんばろうとしなくてもいい。自分の欠点が分かっているなら、それをカバーしてくれる人、無鉄砲を止めてくれる人を探してごらん」
「そんな人、わたしの周りにいないよ」
「きみの欠点はね、無鉄砲なんかじゃないと思うな。ひたむきで頑張り屋でそのくせ失敗するのに、誰にも頼りきれないその心の優しさのほうが、よっぽど欠点だ」
チビ雲は、ユミちゃんの頭をもう一度優しくなでた。
「そりゃ僕が言うほど世界は優しくないかもしれないけど、きみが思うよりかはずっと世界は優しいよ。よく見てごらん、大丈夫、そんなにも素敵なきみの周りだ、きっと支えてくれる人がいるはずだよ」
「そんなこと」
「僕は、きみが大好きだ。たとえ何にもできなくたって、きみが大好きだ」
「そんなこと」
ない、のだろうか。もしかしたら、もっと自分が見渡せば、こんな風に言ってくれる人も、いるのだろうか。
ユミちゃんの目から、また一つ、また一つ涙がこぼれる。雫は、世界から漏れる輝きに照らされ、飴色に光ってぽたりぽたりと落ちていく。
「たとえば今日のこのことがあったからって、明日からきみが前を向いて歩けるかはわからない。だけど、きみの気持ちを知っているやつはいつでもここにいるんだよ」
「……ねえ、あなた、誰なの?」
「ただのしがないコウテイペンギンさ」
「そうじゃなくて。どうしてそんなことが言えるの? どうしてわたしのことを知っているの?」
さあね。チビ雲はくすくすと笑った。そして、促すように、にょっきり生えた不格好な手をユミちゃんの肩に置く。ふわり。鼻をかすめるのは、よく知った匂い。よく晴れた冬の日のお日さまと埃の匂い。
「さあ、そろそろお行き」
見渡すと、周りの真っ白な風景がいつの間にか崩れ始めている。赤、オレンジ、黄色。光が溢れ出して、世界を染めあげていく。それはまるで、朝焼けのような。お別れが近づいてきたのだと、ユミちゃんには分かった。
「じゃあね」
「ちょっと、待ってよ」
わたし、まだあなたのこと知ってない。だけど背を向けたチビ雲は、もうこちらを見なかった。ユミちゃんが手を伸ばしても、もう届かない。
「ああ、それと最後に」
チビ雲は背を向けたまま、言った。
「失恋なんて気にすることないよ」
ユミちゃんは目を見開いた。スカートの裾が、崩れゆく白い世界の振動とともにふわりと揺れる。
「坂元さんだっけ? 実は奥さんがいただなんてびっくりだね。知ったとき僕はもう、カンカンだったよ。悪いのは、きみじゃない、彼のほうだよ」
ユミちゃんは、信じられなかった。
「だけど、大丈夫。そんなにも素敵なきみだ。きっとすぐにいい人が見つかるよ」
「どうしてそのことを知ってるの?」
まだ誰にも言ってないのに。言えるはずがなかったのに。朝焼けの中に、彼は溶け込んで消えていく。
「さあ、どうしてかな」
「ねえ、あなたは、誰なの?」
なに、すぐに思い出すさ。チビ雲がそう言ったのを最後に、二人の白い世界は終わりを告げた。
*
目覚ましが鳴っている。頭が痛い。頬には涙のあと。
変な夢、見たなあ。
しかし、それはどうあれ、笑えない。昨日まで彼氏だった上司にもらった高いワイングラス片手に、一人で思い出の映画鑑賞なんて。仕事仲間に愚痴さへ言えず独り言をブツブツこぼすしかないなんて。それでさびしい夜を過ごすなんて。笑えないよ。
ほんと、笑えない。意味も、分かんない。
「なんだよう、実は結婚してるって」
だったら、なんで高いネックレスくれたの。なんで仕事うまくいかないわたしにだけあんなに優しくしたの。なんでずっと一緒にいたいなんて言ったの。期待させるようなことするな。言うな。できもしない約束して、わたしを傷つけんな。
全部、言えなかった。泣くことも、できなかった。わたし、あんなことされても邪魔だって思われたくなかった。困らせたくなかった。なんで、最後まで、相手のことばっかり考えちゃうかなあ、わたし。
今日、どんな顔して会社に行けばいいのだろう。
「行きたくないよ」
なんて。そんなことばっかり言ってはいられないのは自分でも分かっている。大人には楽しい時だってつらい時だって勤労の義務を課せられているのだ。わたしはため息をついた。
気だるい体を起こし、ふと枕元に目をやる。
そうしたら、わたしは目を見開いた。わたしは、白い世界の小さな雲のことを想い出した。
「なあんだ」
そういうことか。彼は、ちゃんと、そこにいた。そうでもあるし、そうでもないとも言う、なんて夢の中でくすくす笑った彼。ペンギンでもあるし、そうでもない。
「あなただったの」
氷海の中を自由に飛ぶそのぬいぐるみは、まんまるい親しげな瞳をわたしに向けていた。確かに、トイレだってお風呂だって親に止められたっていつでもわたしたちは一緒だった。小学生の頃から、ずっと。年季の入った動かないその彼は、白い世界を泳いで来てくれたのだ。いじけたわたしを励ますために。ずっとずっと、これからもずっと、わたしの味方だということを伝えに。
ごめんね、あなたがコウテイペンギンだったなんて、わたし知らなかったよ。
「ちょっと、元気でたよ」
ありがとう。そう言って、ベッドの片隅、ペンギンのぬいぐるみにキスをした。少しくたびれたやわらかいその生地は、微かにのこるワインの香りを優しく、そっと、かき消した。ふわり。鼻をかすめるのは、よく晴れた冬の日のお日さまと埃の匂い。
「……さて、準備するかあ」
もう一回。もう一回がんばろう。顔を洗って、いつもより丁寧にメイクして。ちゃんと朝ご飯だって食べよう。アイロンをかけたシャツに着替え、ジャケットをはおる。パンツスーツは持っていなかったから、昨日階段で一人すっころんだ膝小僧の痣は丸見えになってしまうけど。そんなのは、友達に笑い飛ばしてもらえばいいのだ。そうしたら、私も笑い飛ばせばいい。なんだかきっと、それができるような気がした。
「行ってきます」
眩しい朝日が、わたしを包む。大丈夫。きっとたいていのことは、どうにかなるさ。パンプスが、カツンカツンと軽快なリズムを刻んでいく。
そんなにも素敵な君だから。そんな、誰かの声が聞こえた気がする。
そんなにも素敵な君へ 七野青葉 @nananoaoba
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