僕の風の魔法使い

七野青葉

ぼくの風の魔法使い

 きみは、おとぎ話や昔話をどれくらい知っているだろうか。特にそう、世知辛いやつ。何、どこをもって世知辛いと言うかって? そう、例えば――


「実は私、風の魔法使いなんだあ」

「はあ?」

 葉山祐太は手に持っていた靴下をぽとりと落とした。洗濯物をたたんでいたときだった。「あ、そうだ」なんて言うから何かと思ったら、彼女はそんなことを言い出した。「ふつう」だと思ってた自分の彼女の頭は「ふつう」じゃなかったらしい。平穏が崩れていく音がした。

「今まで隠しててごめんね」

 彼女はいつになくしょんぼりしている。

「ちょっと……意味分かんねーんだけど、どういうこと」

「私、風の魔法使いなの。属性は北。北風の魔法使い」

 ますますわけが分からない。魔法使いは魔法使いなのか。いろいろ突っ込みたいところはあるが、とりあえず、葉山は一番気になったことを言う。

「……それ属性じゃなくて方角だろ」


 彼女は、葉山の人生における四番目の彼女だった。赤いマフラーの似合う「ふつう」の女の子だ。だからこそ、付き合った。なぜ葉山が「ふつう」にこだわるのか。それを説明するためにはまず葉山の恋愛遍歴を語らねばならない。

 まずは――最初に付き合ったの女の子。誰にでも優しくて、愛想のよい子だったが、知らない間に三股していた。もはや葉山が本命だったのかどうかも怪しい。二番目に付き合った女の子。追いかけるのが好きなタイプで、葉山と両想いになってすぐに葉山を振った。そして三番目。いつも葉山を見る目つきが寂しげで、そのくせ甘い隙を見せる女の子だった。これまたすぐに振られた。後から聞く話によると前好きだった人の代わりにされていたらしい。

「ごめんね……。次は私よりいい女の子見つけてね」

「えっと……いいから、泣くなよ」

 どの女の子も、涙を流して出て行った。毎度毎度別れを告げられる、自分のアパートの玄関は、葉山にとって恐怖の対象になった。

 だって、そのドアが開いて、そして閉じた瞬間から葉山と相手の今までが無かったことになる。幸せだったことも、辛かったことも。全部忘れたような顔して、すれ違いざまに目が合ったって、もう、声を交わすことだって無くなる。確かにあったものが、全て拒絶されるのだ。

 何が、「失ってから分かる大切さ」だ。SNSにのっけて酔ってんじゃねー。葉山は目を伏せて、にじむ視界に気づかないふりをする。

「ごめんね」

 死刑宣告のようなその言葉は、ずっと頭の中をぐるぐるしている。人はどうして、自分から人を傷つけることをやっておいて、謝るのだろう。それなら、最初からしなければいいのに。それができないなら、自分のしたことを謝ったりせず――残される側の最後の追撃の隙さえ与えずに逃げるようなことせず――堂々としてくれたほうが、まだ俺だっていくらかつらくないのに。

 

 様々な恋愛を経て、葉山に言えることは一つだけ。もう究極に「ふつう」の人とじゃないと絶対に付き合わない。可愛い子や熱烈に葉山を愛してくれる子、ちょっと影のある子。どれも魅力的だ。だけど、そんな子たちを本気で好きになったせいで葉山はさんざんな目に遭った。別れ際に泣きながら妙に自己防衛する、変な良い子とはもう絶対に付き合ったりしない。

「あんなのは魔性の女もとい、魔女だ!」

 葉山は部屋の中心で悲しみを叫ぶ。断固「ふつう」がいい。葉山自身も、周りの人間に合わせるように「ふつう」になった。茶色く髪の毛を染め、ピアスをしてたまにお酒も飲む。類は友を呼ぶ。「ふつう」になれば、変なやつは金輪際寄ってこないだろう。

 情けないと笑われようが、最低だって罵られようがかまわない。これが葉山なりの自己防衛だった。葉山の平和は「ふつう」の中にあると信じて疑わない。


「付き合ってください」

 赤いマフラーの彼女。彼女が四番目の彼女になるとき、葉山は慎重に現実を吟味した。

「……天才的にふつうだ」

「えへへ、ありがとう」

 予想外にはにかんだ顔をするので目をそらしてしまった。彼女の耳が少し赤かった。「ふつう」をコンセプトにした葉山と彼女の平凡で素晴らしき生活は、ここから始まった。アパートは「ふつう」を詰め込んだしあわせの国だ。

 冬も近づいたある昼下がりのことだった。

「何読んでるんだ?」

「つるの恩返しだよ。この次は、雪女読む予定」

「……」

 葉山は黙ってマグカップにココアを入れた。

「ありがとー」

 彼女はにこにこ笑って、マグカップに手をあてている。

……つるの恩返しだって? おまけに雪女! 別れ話を切り出してくる女が出て来る物語だ。ああいうのは、だいたい女の正体がばれることによって、お別れシーンに繋がる。相容れない異種だとばれてしまった瞬間に、女は涙を流しながら主人公のもとを去っていくのだ。

 だけど、主人公の気持ちは? 今までの幸せな生活を忘れて生きろ、ということだろうか。さんざん思い出を与えておいて、「ハイさようなら」なんて身勝手な話だと思う。そんな物語はいらない。葉山は心の中で目くじらをたてた。

「……俺は、あんまり好きじゃないな」

「えっとねえ。私も、好きじゃないけど、心が惹き込まれるのさあ」

 珍しく歯切れの悪い口調で、彼女は言った。自分の言葉に合わせているだけではないのか。葉山は思う。コイツも、自分の本心を見せることなく、あの魔女たちと同じようにいつか別れを告げてくるのだろうか……。葉山は、じっとりと彼女を疑いの目で見た。裏切られることを想定して生きていれば、きっとダメージなんて軽減できるのだ。

「……俺は、騙されないぞ」

「ん? 何に?」

 彼女は首をかしげる。葉山がまたも無言になると、彼女の本のページをめくる音だけが部屋に響いた。つるが、つるが悲しみながら別れを告げて去っていく。何してんだよ。葉山は挿絵を恨みがましく見ていた。すると、ふと彼女は愉快そうに笑って、

「さっきの話だけど、実はもうきみは私に騙されているのでした。だからもう、手遅れなのだ」

 と言うのだった。その表情がとても暖かなもので、葉山のふれてほしくない心の奥に届きそうで、ふいと目をそらしてしまった。


「ねえ、きみ、ピアノを弾いてよ」

 彼女はことある毎に言った。葉山の部屋には小さな電子ピアノがある。葉山は中学生まで、ピアノがとても好きだった。中学校では一番に上手いと言われていた。でも、ただ好きで弾いていたつもりが、「目立ちたがり屋」、「出しゃばり」と言われてから、人前で弾くのはやめてしまった。

――人は、思っているよりもはるかに弱い生き物だ。

 いくら好きなものがあったとして、誰かにその気持ちや行動を否定されれば、たったそれだけでその思いを途切れさせることだって、時にはとても簡単なことなのだ。誰だって、それを責めることはできない。というか、責めてほしくないと思う。

「いやだよ、しばらく弾いてないから弾けないよ」

 葉山は、他の誰かとは違う、特別な唯一の人になりたいとは微塵も思わない。自分の心、存在に釘を打たれるくらいなら、目立つことなく「ふつう」を謳歌したい。大多数の中の、取るに足らない一人でいたい。

「ねえ、ねえってば。聴きたいなあ。弾けなくてもいいから、きみの音楽を聴かせてよ」

 葉山は黙ってカバーを開けた。ピアノを聴きなれていない彼女でも聴きやすいような曲は何だろう。少し考えて、葉山はランゲの「花の歌」を弾くことにした。「知らない曲かもしれないけど」

 息を軽く吸い込んで、つめたい鍵盤に指をおとす。グランドピアノに比べたら幾分劣るが、やっぱりピアノの音はどこかつめたくて、透明で、どこまでも心に染みるような、そんな音だと思う。久しぶりに触れるピアノは心を躍らせ、図らずしも夢中になっていたとき、

「ああ、好きだなあ」

 唐突に、カーペットでごろごろしている彼女が言った。彼女は猫のしっぽみたいに、足をぱたんぱたんと時々動かしながら、聴いていた。

「お、そう? 俺も好きなんだよな、これ。どこらへんが好き?」

 陽気になって葉山がそう聞くと、彼女は目を丸くして彼を見つめた。そして、ふいに意味深な顔で「ふふ」とゆっくり笑ったきり、答えなかった。意味が分からない。葉山は首を傾げて、それから電子ピアノの向こう、ベランダからさす柔らかな太陽の光に目を向けた。何ということはない、ただの日常。葉山は感嘆の声を洩らす。これぞ、求めていた世界。

「なんというふつうだ」

「だねえ」

「ふつうすぎる」

 一緒にいるとき、葉山は事あるごとに「ふつうだなあ」と言った。彼女がこたつにはいってアイスを食べているとき、一緒に手をつないで歩いているとき、朝に彼女が味噌汁を作る背中を見るとき。湯気の立ちのぼる熱いお茶を一緒に飲むとき。お日さまの香りがする布団の上で一緒に昼寝するとき。ため息をついて、感嘆するように言った。

「ふつうだ」

 毎日毎日、「ふつう」が葉山と彼女の日常を埋めていく。

 そしたら自分で言っておきながらだんだん心配になってきた。

「なあ、俺お前にふつうって言ってばっかだけど、それって悪口だと思わんの?」

「思わんなあ」

 彼女はふわーんと笑った。

「だってきみは悪口だと思って言ってないもの」

「……へえ。お前は、そう思ってたんだな。ふつうだったら誰でもいいのとか、思わんわけな」

「一緒にいられて幸せだったら、それでいいのさあ。ふつうが一番なのさあ」

 彼女は陽だまりみたいな笑顔を見せる。葉山が意地の悪い返しをしてみたって、彼女には効かない。かなわない。

 葉山は耳のピアスを右手でいじって、また目をそらしてしまった。多分、彼女には全部お見通しなのだ。


 そしたら、そんな「ふつう」の彼女が、今更「ふつう」じゃなくなってしまったのだ。

「私、北風の魔法使いなんだよ」

 彼女は長い杖も黒いローブも持っていない。魔法を使いそうな、妖艶さもない。白いニットのセーターを着て折り紙を折っているだけだ。そして、なぜか葉山も折り鶴を作らされている。

「これ何に使うつもりなんだ」

「へへ。魔法の証明だよ」

「俺を絶望の淵へ叩き落とすのはいつも、ふつうじゃないことだ……」

 言葉を聞いているのか聞いていないのか、彼女は葉山の作ったちぐはぐな折り鶴を二羽両手に乗せると、ふわーと息を吹きかけた。折り鶴たちは勢いよく部屋を飛び回り、葉山の頭にさくっと刺さったところで動きを止めた。

「……あ、失敗した。ごめん」

 葉山は頭に鶴が刺さったまま、憮然とした顔つきで言う。

「……俺がふつうがいいの知ってて、こんなふざけたマネするなんてほんといい度胸だよな」

「それでも、きみは一緒にいてくれるもんねえ」

「……俺はそんなこと言った覚えないけどな」

「かわいいやつだなあ」

 彼女はワックスをもみ込んだ葉山の髪の毛から、折り鶴を引き離す。笑う姿は春のお日さまみたいだ。本当に北風の魔法使いなのだろうか。寒い冬の風の魔法使いなのだろうか。ふわふわっとどこかへ飛んで行ってしまいそうなところだけはいかにも風らしいけど。

「もうすぐ春だねえ」

 そう言って彼女はくしゃみを一つ。

「お前なあ。仮にも北風の魔法使いが風邪ひくなよ」

「だじゃれだー」

 彼女はまたふわーんと笑った。葉山は無視して彼女の膝の横にひざかけをぽいと置いた。

「ありがとー」

「ふつう」じゃなくなった彼女は、だけどやっぱり「ふつう」だった。みんな案外そんなものなのかもしれない。春になったら、彼女と野原にピクニックに行ってもいい。シロツメ草とたんぽぽで花冠を作ってもいい。だけど。

「もうすぐ、お別れだなあ」

 ひざかけにくるまりながら、彼女はぽつりと言った。葉山は傷んだ髪の毛を掻き回した。右手でピアスを触ってみても、「ふつう」を願っても、突然のカミングアウトはやっぱりそういうことだった。つるの恩返しのつるみたいな、雪女みたいな、異種の女の子は、自ら別れの条件を差し出してしまった。これもまた、世知辛い物語の一つだった、というわけだ。葉山は、ただ、うつむくしかなった。

「次の日曜日に、行くね」

 もう、どうしようもなかった。相手の気持ちが自分から離れてしまった時に何をわめいたって何したって、何も変わらないことを、葉山はもうとっくの昔に知っている。


「きみの、抱き枕をちょうだい」

 彼女はそう言った。ベッドの上で既に約一メートル五十センチのそれに乗っている。大きめの犬の抱き枕。葉山の母が勝手に置いていった代物だ。

「お前まさかこれに乗っていくの」

「そうだよー」

 別れの準備は着々と進んでいた。着替えもコップも炊飯器ももうバッグの中だ。どうやら、彼女はベランダから去っていく気らしい。

「炊飯器は新しい場所で買えばいいんじゃないの」

「せっかくだから一緒にいた思い出を持っていきたいんだあ」

 おかげで俺は新しい炊飯器を買わないといけないんだけどな、そう葉山はぼやいて、彼女と一緒にベランダに出た。まだまだ肌寒い。

「どこ行くのか知らねーけど、ちゃんと北風の役割果たせよ」

「うん。がんばるね」

 彼女はベランダの柵によじ登った。葉山はかじかんだ手で抱き枕と荷物を渡してやる。

「じゃあね」

 彼女は笑ってそう言った。どうして、こんな時まで笑っていられるんだよ。そう言おうとして、彼女を見つめなおした。彼女はふにゃふにゃと笑っていた。お日さまみたいな笑顔じゃなくて、もっと頼りない。それを見てしまったから、つらくないはずの葉山がいなくなってしまった。無駄だと知っているのに。

「い」

 葉山の声は震えていた。

 俺は、みんながうらやましがるような大きな夢やものすごい幸せがほしいわけじゃない。特別なんていらない。みんなが思う「ふつう」で当たり前なことだけでいい。

 一緒にいられたらそれだけでいい。それだけがいい。それが俺の幸せなんだ。だから、

「行くなって」

 葉山は、彼女の手をつかんだ。行くな、行くな。行かないで。

 彼女は初めて葉山に泣きそうな顔を見せた。ぽろりとしずくが零れていった。それは、彼女ではない、葉山の頬から、流れ落ちた。

「行くなよ、ばか、行くなよ。なんで行くんだよ」

 葉山は置いてけぼりにされた子どもみたいに泣き出した。彼女は口をきゅっと引き結んで、泣きそうな顔で彼を見つめていた。

「何がいけなかったんだよ。小さなことを願ってみても、それすらうまくいかないのかよ。俺はふつうでも、駄目なのかよ」

「駄目じゃない!」

 突如、彼女はぎゅうっと葉山を抱きしめた。抱き枕がベランダにぼてんと落ちた。さらにその上に炊飯器もぼふんと落ちた。

「駄目なわけないじゃない……」

 もう一度抱きしめられた。葉山は目を見開いて突っ立っていた。今まで一度も触れなかった、暖かな温度が、彼に伝わってくる。また、涙があふれだした。

「きみはきみなんだよ」

 彼女はそう言った。ふつうでいようが、いまいが、それは変わらないんだよ。

 どうして、こんなに心が熱いのだろう。どうして、こんなにもすべてが許されたような、救われたような気持ちになるのだろう。

「きみの中にあるふつうにのっとってきみが大多数に紛れたって、私はきみを見つけ出してしまったんだから。ありのままでいたいっていうきみの言葉がずっと私を救ってたんだよ。特別でもふつうでもなくて、ただひたすらに私にとって唯一の言葉をきみがくれたの。

 花の歌、とっても素敵だった。きみみたいに、あたたかい曲だったよ。ありがとう……ばいばい」

 あっと言う間もなく、彼女はベランダを飛び降りた。正義のヒーローみたいにあざやかに、くるりと一回転して、空を飛んで行った。

 そして葉山は急速に、初めて彼女が家に来た日のことを思い出し始めていた。


「嫌なんだよ」

 確かに、葉山は彼女にそう言った。付き合いたてのひと悶着だ。葉山が勝手に一人で悶着しただけの。

「玄関で別れを告げられるのも。泣かれるのも。俺はどうしようもないじゃないか」

 吐き捨てるような汚い感情を眼前に、彼女はただ静かに耳を傾けていた。これまでのこと。憧れてやまない穏やかな生活のこと。

「だから、悪いけど、俺達の当分の方針は、ふつうをコンセプトにしてくれ」

 あ、なんで俺泣きそうになってるんだ。葉山はすばやくうつむいた。少なくとも付き合いたての彼女に言う話じゃない。そう分かっているのに、勝手に口が弱音を吐いた。

「俺はさ、特別な何かになんてなりたくないんだ。俺は、ふつうがいいんだ。ありのままでいさせてほしいんだよ。人から、天才の葉山って期待されるのも、弱虫の葉山って諦められているのも嫌なんだ」

 ――そんな、ただの泥にまみれただけの感情を、彼女は救われたと言って、ずっと覚えていたんだ。

 そして俺は思い出した。

 彼女は泣かなかった。玄関で、別れを告げて出て行かなかった。ごめんと、謝らなかった。

 彼女は、自分のあまりにも勝手な願い事を、最後まで律儀に守って去って行った。部屋を見廻すと、あまりにも多くの彼女の優しさが、今更心に染みた。

「ああ、ごめんよ」

 葉山は呟いていた。

 自分の放つ言葉を、大切に、とても大切にしてくれていた彼女のことを、思った。これまでの全てを思った。

 例えば、俺が騙されないぞと言った時、彼女がやわらかい笑みの向こうで何を感じていたのか。例えば、お別れのある物語に惹き込まれる、という彼女はあの頃から何か葉山に言おうと、真剣に考えてくれていたのだとしたら。

「ごめん」

 もう一度、葉山はごめんと呟いた。

 なあ。自分のことに必死で、彼女の気持ちなんて考える余裕もなかった、俺を許してくれよ。俺は、自分に自信がないからって、人に心を許そうとしなかった。過去付き合った女の子の行動と重ね合わせては、いつか裏切られるなんて考えて、彼女が本当に何を考えてくれているのかを見ようとしなかった。ああ、俺は。

「なんて身勝手で、理不尽な」

 俺は、彼女に何をしてあげられただろうか。「ふつう」を装って何もしてこなかった――俺が俺であることをちゃんと証明してこなかった俺には、自分に何があるかも分からない。それでも、分かることが一つだけある。

 彼女は魔法使いである前に、一人の女の子なんだ。ありのままに愛されることに憧れ、俺の願望に救われたという、一人の女の子なんだ。

 人は弱いと思う。みんな、自分のことを好きでいてほしいし、嫌われたくないんだ。彼女は、きっと、「風の魔法使い」だからと俺に諦められるのを、怖がっていたんだ。だから、こんな最後になるまで、自分の正体をずっと言えなかったんだ。そんな、単純なことに、今更気づいた俺を、許してくれよ。

 彼女は北風の魔法使いかもしれない。それでも、彼女は俺にとって、ただ一人の春風の魔法使いだ。何もできないままで、弱虫で、泣いてばかりなのに、そのままの俺に存在理由を示してくれた、春の魔法使いだ。

 間に合うかも、会えるかも分からない。もしかしたら、無視されるかもしれない。でも、言いたい気持ちがたくさんあるから行かなきゃいけない。

 だって、この温かな気持ちを、魔法をかけた張本人にぶつけなくて、一体どうしろというんだ。

「俺は、きみが好きなんだ」

 だからそれを、はやく言わないと。

 はやく会わないと。

 はやく、はやく――。

 葉山は、コートも羽織らずに、春色のバスに飛び乗った。

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