第1話 ドラゴンクエストIV(後篇)

 駄々をこねた宿屋の息子と馬車を貸すの貸さないのとやり取りしているところで、僕の母が家に帰ってきた。ただいま、と言いながらリビングの扉を開けた母は僕の顔を見て、あら、と言った。

 僕は、げっ、と言った。

 声に出すつもりはなかったのだが、ゲームに深く没入して精神が開放されていたために、無意識がダイレクトに声となって顕れてしまったのだった。車のハンドルを握ると人の人格が変わるのと同じ理屈だ。

 僕は、終わった、と思った。実に短い夢だった。この後、母は僕を指差して、このファミコンがいかなる理由で我が家に現れたのかという謎を解き明かし、それが如何にアクシデンタルな間違いであったかを説きながら、僕からこのファミコンをあっさりと取り上げるだろう。

 母はにやにやと笑っていた。

しゅう、ファミコンやってるの?」

 うん、と僕は言った。

「置きっぱなしにしておいたらそりゃそうなるわよねー」

 うん、そりゃそうだ、と僕は言った。

「晩御飯までよ、いいわね?」

 うん、と僕は言い、テレビに向き直った。

 内心、おおお、と叫んだ。意識の内に何とかとどめ、声に出すのをこらえながら。

 それは、全く予想外のお達しだった。我が家の過去の歴史を踏まえれば、東西ドイツがいきなり統一されるほどのあり得ない事態と言っていい。アンチファミコン勢力の急先鋒だった母が、何故突然宗旨替えを起こしたのか? 今、一体我が家に何が起きているのだろうか? いったい誰がどんな魔法を使った結果で、このような奇跡が起きているのだろうか?

 しかしそんなことはどうでも良かった。とにかくゲームをやる許しが出た以上、その通達の履行以外は全てどうでもいい。母が何も言わなかったので、僕の目の前にファミコンが現れた理由もさっぱり分からないままだったわけだが、それもどうでも良かった。理屈を超えてベルリンの壁は崩れ落ちたのだ、たとえ夕飯までの数時間だけだとしても。一分たりとも無駄にはできない。

 僕はレベルを上げ、ドラクエ世界の通貨単位たるゴールドをかき集めて新たな武器を装備し、裏切りが渦巻く洞窟へと進んで行った。

 母と時を同じくして家に帰ってきた、小学校に入りたての妹がいつの間にか僕の隣に座っていて、僕と並んでテレビ画面を見つめていた。

「にいちゃん、ファミコン」と妹は言った。

 ああ、と僕は頷いた。

「おもしろい?」

 ああ、めちゃくちゃおもしろいよ、と僕は言った。

 妹と僕はその後は無言でテレビ画面を睨み続けた。ダンジョンの謎を解き、魔法を唱え、仲間を増やし、レベルを上げ、新たな目標に向かって歩き続けると、次第にリビングに夕食の匂いが漂い始めた。視界の片隅に、キッチンに立って調理を続ける母の姿が見える。

 僕はそれに気がつかない振りをしながら、微かに眉間に皺を寄せ、可能な限り高速で指を動かし、ボタンを連打した。そしてダイニングテーブルに母が最初の一皿を置いた直後に、僕はとしあきに教会で祈りを捧げさせて「ぼうけんのしょ」にそれまでのゲーム進行状況を保存した。

 終わりだ。僕は約束には忠実な少年だった。潔くファミコンの電源を切って立ち上がり、テーブルの自分の席に就いた。そして深く息を吐いた。体中が熱い。特に顔が火照っていて、テーブルの周囲の光景が普段と違って見える。どこがどう違うのか分からないが、とにかく今朝までとは違う。

「あのファミコン、たっちゃんのよ」と母が僕の正面の椅子に座りながら言った。

 たっちゃん? と僕は言った。

 それは従兄のあだ名だった。かつて僕にドラクエ3と偽ってドラクエ1をやらせ、「ナガイさんの歌」を延々と歌わせた、あの極悪非道の従兄だ。

 その従兄が、どうしたって?

「たっちゃんがお昼、家に遊びに来てて置いていったのよ。たぶんこれからもちょくちょく遊びに来るから、持って帰らないことにしたみたい。たっちゃん、自分がいない間は周に貸してあげるって。良かったわね」

 僕は母の目を見返した。母の眼は笑っていた。

「でも5時半までよ。毎日、学校から帰って来てから、5時半まで。それと土日は2時間ずつまで。約束しなさい」

 僕は即座に頷いた。

 ほぼ完全に、僕にとってメリットしかない約束だった。何しろ昨日まではその全てがゼロだったのだ。約束をしない理由が無い。母は理解しているのだろうか、それが、昨日までと、僕の世界をまるっきり変えてしまうことを?

 全身に鳥肌が立ち、体の内側から津波のような熱が押し寄せるのを感じた。

 僕はごはんを噛みしめながら、同時に事実を心の内側で噛みしめた。何と言うことだろう。僕はまだ先ほどのドラクエ4の続きをプレイできるのだ。明日も、明後日も、おそらく来週も。それも無理やり押しかけた誰かの家でやる数十分刻みのプレイではない。憧れつづけた、自宅での神聖なゲームプレイだ。まるでサラリーマンが駅前の立ち食い蕎麦屋で急いで昼飯をかっ喰らうような粗雑さでなく、暇を持て余した金持ちの専業主婦が風通しのよいテラス席でお茶を嗜むような優雅さだ。夢はまだ終わっていなかった。それどころか、今始まったのだ。

 従兄は神の使いだ。日本一優しい心を持った、とてつもなく偉大な男だ。このような類まれな偉人が僕の親類にいたとは信じられない。

 僕は食事を終えると、さっさと風呂に入って寝支度に急いだ。何故なら母との約束によれば今日のゲームプレイはすでに終了しており、もう起きている意味が無かったからだ。可能な限り急いで眠って、翌日の放課後のプレイに到着するまでの時間を出来る限り縮める必要があった。

 僕がもし冷静に考える頭を持っていれば、これらの事態に幾つもの不可思議な点があったことに思いを馳せただろう。母の宗旨替えは、生来根本的にはポリシーの無い気ままな女性であったから、来てしまったものを無理に拒まなかった、ということで説明がつくだろうが、一方で従兄についての母の言質は、出来事の表面的な事象しか伝えていなかった。何故今まで正月を除いて一度も我が家に来たことのなかった従兄が突然今日やってきたのか、何故ファミコンを置いていったのか、これからもちょくちょく遊びに来るとはどういうことなのか。

 全てがあまりに僕にとって都合よく回り過ぎていたわけだが、ファミコンを与えられたという圧倒的な現実の前には一切がどうでも良いことだった。キリストの復活を目の当たりにしたキリスト教徒が理屈の整合性など気にするわけがない。唯一、僕がベッドの中でぼんやり考えたのは、従兄が何故主人公を「としあき」と名付けたのかということだった。従兄の名前はたしか「たくや」だ。たぶんそういう名の友人でもいたのだろうが、僕は思い当たる限りの漫画のキャラや芸能人の名前をあれも違うこれも違うと頭の中に思い浮かべながら、正解を見つけることができずに眠りに落ちた。




 僕の冒険の日々は、ごくシンプルで規則正しいスケジュールによって成り立っていた。朝7時前に目覚め、8時には学校に登校して授業が始まるまで友人たちとドッジボールなどの球技に勤しみ、間に休み時間と昼食と掃除を挟みながら授業を5つほどこなし終えた瞬間、全力疾走で家に帰り、直ちにファミコンを起動する。17時半まで全力で冒険すると、19時までに1時間くらい、学校の勉強の予習と復習を行う。19時からは夕食。その後は風呂に入って21時過ぎには就寝する。毎日がその繰り返しだった。

 勉強の時間を確保したのは、両親に強制されたためではなかった。そもそも最初に僕がやたらと予習復習を繰り返すようになったのも、それが成績向上に効果的だということを誰かに示唆されただけで、押し付けられたものではなかった。ファミコンを買い与えられるために自分で勝手に始めた習慣だったのだから、それを手に入れた今、最早継続する意味はないのではないか、という判断があってもおかしくは無い。しかしそれは思慮の浅い者のすることだった。僕は基本的には生まれながらに慎重な、何事も一手先を読んで動くタイプの男だった。ファミコンに没頭することによって成績を落としたという事実を作ればいつ何時、両親が再びアンチファミコン勢に鞍替えしてしまうか知れたものではない。そう考えた僕は、社会的および家族内地位を守る努力を自らに課し続けることにしたのだった。

 ドラクエ4の冒険は、概ね順調に進んでいた。小学3年生らしい無謀な特攻による手酷い敗退を幾度となく繰り返しながらも、世界の各地に散らばった8人の導かれし者たちは遂に集結し、馬車や船を乗りこなしながら、世界のどこかにあると言われる天空城を目指して冒険の旅を続けていた。

 大体は僕は一人で戦っていた。妹が何の助けにもならない何か良く分からないこと(モンスターが可愛いとか怖いとか、船に乗りたいとか気球に乗りたいとか)を言いながら僕の隣に時々座っているくらいで、誰のアドバイスもなく8bitの世界を探索した。当時インターネットなどこの世に存在しなかったし、攻略本さえ手元には無かった。それは父の影響だった。彼の教育方針によると、僕がゲームをやるのは構わないが、せめて攻略本は読まずに自分の力でプレイしろ、とのことであり、僕はその約束をこの時は忠実に守っていたのだった。遂に学校で友達と共にドラクエ4の話題を繰り広げることができるようにもなっていたわけだが(実に晴れ晴れとした気分だった)、そこで仕入れられる情報も断片的なものに留まった。せいぜい天空の武具がどこにあるか、くらいの情報で、決定的な解法を伝授されるのは意識的に避けた。そして思いがけず、ドラクエ4を持っていてかつクリアに近付いている同級生はあまねくほどではなかったのである。

 その状況で、よくも小学3年生の僕はキングレオやバルザックやエスタークといった幾多の強敵に勝利することができたものだと我ながら感心する。ドラクエ4のゲーム難易度は他シリーズに比べて易し目だったとは言え、僕はついこないだやっと東西南北の概念を理解したくらいの年若き少年であり、一冊の小説を読みとおすほどの知恵も集中力も持っていなかったのだ。それが、ゲーム内世界の各地に散らばった断片的な情報を拾い集めて統合し、攻撃魔法と回復魔法を操って戦局を有利に進め、余剰ゴールドを銀行に預けて全滅時のゴールド半減のリスクに備えるといった、ドラクエ4の基本的ルールを概ね理解し、まっとうな初心者ゲーマーとしてのデビューをどうにか飾っていた。それは無論、僕に限った話ではない。基本的には同級生の誰もがそうだった。どういうわけかゲームには、あまり多くを語らずとも、年端もいかぬ幼子を架空世界で戦士として成長させる機能が備わっているようだった。

 ところで、母が僕にドラクエ4のプレイ許可を与えた際に伝えた「これから従兄のたっちゃんが時々遊びに来る」という予言については、具体化する気配が無かった。彼は一度として姿を見せず、僕は彼にファミコンを貸してくれた礼を言う機会さえ無かった。それはドラクエ4に心底夢中になっていた僕にとってさえ奇妙なことだった。考えるまでも無く、今や全てのゲーム少年が求めるドラクエ4を、プレイ途中のまま放り出して誰かに預けてしまうなど、正気の沙汰とは思えないことだ。こんな状況は永遠に続くとは思えない。訪問に間が空き過ぎていたため、僕は、次に従兄がやって来る時はこのファミコンを取り返しに来る時であろうと思った。まだゲームをクリア出来ていないのだから、いつ従兄がやって来て、このファミコンを返さなくてはならなくなるか、僕は予め把握しておく必要があった。

 僕はそれを母に尋ねた。次にたっちゃんがやって来るのはいつであろうか、と。

 うーん、と母は首を傾げた。「今たっちゃんと、たっちゃんのおじさんとおばさんは忙しいから分からないけど、もうすぐかもね」

 僕は頷いた。あまり猶予は無いと考えた方がよさそうだった。

 僕はそれから、可能な限り戦闘を避け、効率よくダンジョンを進んでいくことにした。とにかくクリアさえしてしまえばいいのだから、最終ボスまで辿りついてしまうことが先決だ。としあきは全ての天空の武具を集めて天空城に到達し、竜の神マスタードラゴンに謁見した。マスタードラゴンは「世界の全てを知ることができる」そうで、天空の剣をパワーアップしてとしあきに最終ボスであるデスピサロを殺せと命じた。そんなことより世界の全てを知っているなら勇者としあきを地上に放っておかないで保護したり、デスピサロから進化の秘法に必要な黄金の腕輪を予め取り上げたりするなど、他にやることがあるのではないかと僕は思った。

 いずれにしてもゲームはクリアしなくてはならないので、止むを得ずとしあきはデスピサロの居城たる闇の世界に赴いた。デスピサロの城に張り巡らされた結界を解くためには4体のボスを倒す必要があったが、この時点でとしあき一行の行軍コンディションは既にぼろぼろで、崩壊の一歩手前となっていた。ボス戦のたびにパーティの多くが殺され、下手をすればあっさり全滅するか、そうでなくとも大体一人か二人がぎりぎり生き残った状態で勝利する、という凄惨な状況が常態となっていたのである。僕は眉間に皺を寄せた険しい顔でコントローラーを握り続けていた。

 とにかく、レベルが足りていなかった。ドラゴンクエストの世界ではレベルこそが絶対的な基準である。通常、レベル35で挑むことが推奨されている敵に、レベル30で勝つことはほぼできない。その適性値に到達するためには敵と戦って経験値を稼ぐしかないわけだが、それがとしあき達には致命的に欠けていた。その原因ははっきりしている。僕はクリアを焦るあまり、途中からほぼ一切の戦闘を避け、逃げの一手でここまでの冒険を進めてきたからだ。手近な雑魚敵と戦って経験値を稼ごうにも、敵がやたら強くなっていて一戦一戦苦労する。まるで伸びきった補給線を断たれたモスクワのナポレオン軍のように、としあきは進退窮まっていた。糧食の不足と厳寒に痛めつけられながらナポレオンは結局退却したが、としあきには退却は許されない。デスピサロを倒すしかこのゲームを終わらせる方法は無いのだ。

 あるいはレベルが低くとも、熟達したゲーマーであれば、知恵や技術を動員して障害を突破することができるかもしれない。しかし僕はあまりに幼かった。ロールプレイングゲームにおける戦闘の根幹を支えるシステム、補助魔法という概念を身につけることができていなかったのである。ドラゴンクエスト4はAI戦闘というシステムを採用しており、としあきが指示する作戦に応じて仲間が自動的に行動を起こす。適切な作戦を選択すれば、防御力や攻撃力を上げる魔法、あるいは敵モンスターが吐く炎や氷の息を和らげる魔法で仲間たちが補助に回り、実はそれこそが勝敗を大きく左右するのだが、僕にそのようなまどろっこしい仕組みを理解する余裕などあるわけがなかった。僕には基本的に防御という思考が無く、「ガンガンいこうぜ」以外の作戦を選択したことが無かった。いかにして連続で殴り続けるかということだけを極端に優先した、「殺られる前に殺る」というプレースタイルが徹底されていたのである。それに伴い、としあきたちの戦いは暴走族のチキンレースのように勝敗の境が常にぎりぎりで、生きたり死んだりが純粋な運の天秤に委ねられることになっていた。

 幾度となく全滅を繰り返しながら4体のボスを全て倒し、複雑なラストダンジョンを(敵から逃げ惑いながら)くぐりぬけてデスピサロの前に辿り着いた時、としあき達に残された力はごくわずかだった。回復アイテムは使い切ってしまっているし、魔法詠唱の源たるMPも心もとない。この状況で果たして最終ボスに勝てるのだろうかと僕は逡巡し、デスピサロの2歩手前でしばらく静止していた。とは言えここまできたら戦いはもはや避けられない。男には引くに引けない時がある。としあきはデスピサロに話しかけた。


  ぐはあああ……!

  なにものだ おまえたちは?

  わたしは デスピサロ。

  まぞくの おうとして めざめたばかりだ。

  うぐおおお……!

  わたしには なにも おもいだせぬ……

  しかし なにを やるべきかは

  わかっている。

  があああ……!

  おまえたち にんげんどもを

  ねだやしにしてくれるわっ!


 どうやらデスピサロは目覚めたばかりらしい。これはひょっとしたら本来の力を取り戻しきっていないというシチュエーションで、不意を突いてぼこぼこに殴れば倒しきれるかもしれない、僕はそう考えた。いつも通り、勇者としあきとパーティ随一の素早さと怪力を誇るアリーナ姫と髭の戦士ライアンはひたすらデスピサロを殴り、神官クリフトは一撃で敵を葬り去る即死呪文ザラキを唱えて一瞬で戦闘を終わらせるべく画策した。恐ろしくも迫力に満ちた荘厳な戦闘BGMに身を委ねながら、僕はひたすら「たたかう」を選んでボタンを連打し続けた。としあき達の攻撃が積み重なると、デスピサロの手足が吹き飛び、体がどんどん小さくなっていく。これは行けるのではないだろうか。

 しかしいつの間にか、じりじりと戦局は厳しいものとなって行った。殴っても殴っても戦闘が終わらない。小さくなっていったはずのデスピサロの体から巨大な手足が再生し、3本角を生やした巨大な頭部が現れ、緑色に染まったデスピサロの威容が画面全体を圧するほどの巨大さで立ちはだかると、BGMが完全に別の楽曲に切り替わった。これが進化の秘法の最終形態であり、デスピサロの本来の姿なのだと僕は理解した。

 そしてあえなく全滅した。「つめたくかがやくいき」と「はげしいほのお」、そして強烈な打撃の連続攻撃により、必死にザラキを唱え続けていた神官クリフトが最初に殺された。もう僕には回復手段が残っておらず、そして一人、また一人とデスピサロの前に膝を折り、なすすべも無く死んでいった。

 最後のセーブ地点に強制的に戻されると、棺桶を三つ引きずったとしあきを見て、僕はため息をついた。

 これは厳しい、流石に最終ボスである、と僕は思った。実は、流石も何も、僕はデスピサロ戦に必須の、決戦前に仲間全員を呼びよせる「バロンのつのぶえ」、無料で仲間全員の体力を一定量回復する「けんじゃのいし」、そして勇者だけが使える全回復魔法の「ベホマズン」をいずれも備えていなかったのだから、敗北は必然と言わざるを得なかった。このような状況で僕はこのゲームをクリアできるのだろうか。

 悶々と悩んでいると、母が夕食の時に言った。

「たっちゃん、明日遊びに来るって。ドラクエの事、教えてもらったら」

 えっ、と僕は言った。

 それに続く、なんで、とか、来なくていい、といったセリフを口にすることを、僕は必死でこらえた。よりによってこの状況でか、と僕は思った。とうとう来るべき時が来てしまった。しかし、今まさに最終局面を迎えたこの状況でドラクエ4を取り上げられるなど、耐えられないことだ。従兄はもう中学生になっているのだから、ドラクエ4など放っておいて勉強とか部活とか他にやることが幾らでもあるだろうに、何故ここに来て僕の邪魔をするのだろうか。

 何としても、明日、従兄がやって来る前にデスピサロを倒さなくてはならなくなった。

 僕は生来、楽天的な性格だった。また明日挑戦すれば、きっと勝てる。おそらくいいところまでは行ったのであり、怪力のアリーナ姫がたまに繰り出す、相手の防御力を無視した必殺奥義「かいしんのいちげき」をもう少し高確率で連発すれば勝てる可能性はあるはずだ、たぶん。僕はそう考えた。

 そして翌日、僕は学校の授業を終えると全力疾走で家に帰り、再び敵から逃げ回りながら長いダンジョンをくぐりぬけ、デスピサロに挑んだ。こんどこそこの怪物を打倒して世界に平和を取り戻す。そう誓ってデスピサロに向かって明日を顧みない特攻を掛けた。

 そして再び皆殺しにされた。

 どうしても勝てない。デスピサロが最終形態に進化したところでどう足掻いてもMPが尽きていて、回復が間に合わないのだ。どうすれば勝てる?

 もう一度だ、と僕は自分に言い聞かせた。もう一度挑む。諦めるわけにはいかない。この世界の神であるマスタードラゴンが無為無力である以上、世界の平和はとしあきの双肩に掛かっているのだ。

 玄関でインターホンが鳴った。

 周、開けてあげて、と台所に立つ母が言った。

 僕の眉間に深い皺が寄った。

 今おれは世界の命運を左右する最も重要な局面に立ち向かっているのに、そう思いながら玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは果たして従兄と伯母さんだった。

 久しぶりに会う従兄はやたら背が高くなっていて、頭一つ分以上高い場所から僕を見下ろしていた。

 久しぶり、と言う彼に、僕は暗い顔で頷いた。

 ダイニングテーブルで母と伯母は、近所のスーパーで繰り広げられる特売についてや、新しいファンデーションの調子がいいとかいった、生きるための攻略情報を交換し始めた。僕は従兄と並んでファミコンの前に座り、コントローラーを再び握った。まだ時間はある、そう自分に言い聞かせた。この従兄がファミコンを持ち帰るまで、それまでにクリアすればいいのだ。

 ドラクエ4やってるな、と従兄は僕に声を掛けた。

 僕は頷いた。そして再び敵から逃げ惑いながら長いダンジョンを突き進んだ。

 もうすぐ終わりそうだな、と従兄は言った。

 僕は頷いた、「今デスピサロと戦ってる」

「勝てそうか?」

 僕は素直に首を横に振った。正直に言って、全く勝てる気はしなかった。次やれば、クリフトの即死魔法ザラキが万に一つの可能性で成功するかもしれない、それくらいしか、僕の勝機はあり得ない気がした。デスピサロは途轍もなく強大であり、としあき達はあまりにも非力だった。

「8回逃げろ」と従兄は言った。

「え?」

「ラスボスとの戦闘が始まったら8回逃げろ。そうすれば勝てる」

 従兄の言葉の意味が、僕には分からなかった。確かに僕は今、あらゆる敵から逃げ回りながらダンジョンを進んでいる。しかし大魔王からは逃げられない。それがロールプレイングゲームという世界における絶対的なルールである。大体、逃げてどうなるのだろう。戦って倒すしか、このゲームを終わらせる術は無いはずであった。僕はデスピサロに向かって行きながら、眉を潜めた。どうせまた従兄の下らないジョークではあるまいか。「ナガイさんの歌」と同様、従兄の狭隘な世界における、自分だけが楽しむ謎かけではないのか。

 だが同時に従兄の言葉は、いかがわしい響きを帯びていた。8回、というのが引っ掛かる。6回でも7回でも9回でもなく、8回。その数字に何らかの決定的な意味があるような雰囲気があった。

 考えていても意味など分からない。そして、どうせ手をこまねいていても勝てない。

 デスピサロとの戦闘に入ると、僕は従兄に言われたとおり、にげる、を選択した。どたどたどた、というサウンドエフェクトと共に、「しかし まわりこまれてしまった!」のメッセージが現れ、としあきとクリフトはデスピサロに一回ずつ殴られた。

 その後も僕は逃げ続けた。もちろんやはり、デスピサロから逃げ切ることなどできはしない。その度にまわりこまれ、デスピサロに殴られ続け、少しずつ体力が減っていく。都度体力の回復作業を挟みながら僕は、5、6、7、と逃げた回数を数えた。そして瀕死になりかけながら、遂に8回逃げ切った。

 これでいいのか、と僕は従兄に訊いた。

 ああ、と従兄は答えた。「後は体力回復しながら普通に戦え。もうお前の勝ちだ」

 僕はたたかう、を選択した。アリーナ姫の2回攻撃が2度ともかいしんのいちげきとなり、一気に400以上のダメージを与えた。続くとしあきの攻撃もかいしんのいちげき。髭の戦士ライアンの攻撃もかいしんのいちげきとなった。あっという間にデスピサロの右腕が弾け飛んだ。

 あれ、と僕は言った。

 1ターンが経過して次の攻撃ターン、僕は確認するように、再びたたかうのコマンドを選択した。

 再びアリーナの攻撃は2度ともかいしんのいちげき。クリフトは相変わらずザラキしか唱えないが、としあきの攻撃もライアンの攻撃も全部かいしんのいちげきだ。デスピサロの左腕が吹き飛んだ。

 なにこれ、と僕は呟いた。

 かいしんのいちげきしか出ない。

 僕は従兄に振り向いた。

「裏技だ」と従兄は言った。

 ウラワザ、と僕は繰り返した。

 何と甘美な響きだろう。「裏技」、それはスーパーマリオブラザーズの無限残機アップに始まり、ファミコン世界において、全てのゲームにほぼあまねく禁断の奥義であった。ドラクエ4にもやはりそれがあったのだ。この時の僕が知る由もないが、これはドラクエ4の、逃げた回数を4回までカウントしているという中途半端な管理システムのバグを突いた技だった。5回目以上はオーバーフローが起こり、8回逃げることによって全員の攻撃が必ずかいしんのいちげきになるデータにアクセスしてしまうのだった。

 とにかく、この技さえあれば、いかに究極生物に進化したデスピサロと言えど、最早としあき達の敵ではない。形勢は完全に逆転した。瞬間的に僕のアドレナリンは沸騰し、脳内では暴れん坊将軍の殺陣のテーマ、もしくは北斗の拳の戦闘BGMが流れていた。お前はもう死んでいる、僕はデスピサロに向かってそう囁いた。

 最終形態に変身したデスピサロをもタコ殴りにしながら、僕は笑っていた。容赦呵責のないとしあきたちの狂気じみた怒涛の攻撃の前に、デスピサロは遂に真っ白い灰になって消えて行った。

 奇跡だ、と僕は思った。この時の僕にはそうとしか思えなかった。天空城に帰還し、あらゆる人々からやんややんやの大喝采を浴び、死んでしまったとしあきの幼なじみもどういう訳か復活して、何もかもが幸福な結末を迎えたのを見届けながら、僕は、奇跡は諦めかけた時に起こる、と思った。




 夕食を食べ終えてしばらくの歓談の後、従兄親子は我が家を後にした。

 周、と従兄は最後に僕に声を掛けた、「あのファミコン、お前にやるよ。次の家だと、たぶんやる余裕が無いから」

 僕は、ありがとう、と言った。心の底からそう言った。

 僕と従兄は手を振って別れ、それ以来25年以上が経った今も、彼とは一度も会っていない。連絡を取り合ったことも無い。僕たちはお互いにどこに住んでいるのかも知らないし、どんな仕事をしているのかも知らない。知っているのは、まだ生きているということだけだ。

 それでも僕は「ドラゴンクエスト4 導かれし者たち」というタイトルを見るたびに、従兄の事を思い出す。あの時8回逃げたことと、勇者としあきの事を思い出す。何故従兄が勇者をとしあきと名付けたのか、僕は結局訊きそびれてしまった。「ナガイさんの歌」の事はもう忘れたいが、どうにもインパクトが強くて忘れられない。

 ドラゴンクエスト4、これが僕が人生で初めてクリアしたゲームだった。僕はこの後25年以上の間、コントローラーを握り続けることになる。そして数え切れないほど数多くのゲームをクリアすることになる。そこには喜びがあり、多くのいら立ちがあり、そして多くの感動があった。これはまだ始まりに過ぎない。9歳の僕はまだ、それを知らない。

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平成ゲーム小説集 松本周 @chumatsu11

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