ネオン

ソラノリル

ネオン


 細く降りつづいた雨は、日没とともに、ようやく止んだ。潤んだ空気が、夜の冷気に浸されて、しんしんと熱を奪っていく。

 メインストリートに沿って、アーケードが長く伸びている。平日でも、この大通りに喧騒が飽和しない日はない。黒い頭、人の群れがうごめく。空から俯瞰すれば、蟻の行列に見えるのではないか。後にも先にも、砂糖菓子の恩恵なんて置かれてはいないけれど。

 桜の季節は過ぎたものの、夜の冷え込みはまだ厳しい。あちこち擦り切れたぼろぼろのパーカは、足もとから這い上がってくる冷気を充分にしのがせてはくれない。

 寒さに縮めた身を、人の波にゆだねて歩く。俯き伏せた瞳の先には、コンクリートの地面と、前を歩く人間の足が連なるだけ。

 信号で立ち止まったのをきっかけに、なんとなく顔を上げてみた。アーケードのひさしの向こうに、薄雲を被った夜空が、街の明かりに照らされて、ぼうっと仄白く浮かび上がって見えた。星はひとつも望めなかった。雲に隠れているだけだと分かっていても、なんだか全て地上に落ちてなくなってしまったような錯覚をおぼえた。ほんとうにそうだったらいいのにと、心の隅で仄暗く思う。きらきらひかる数多の星が、隕石という弾丸になって一斉に降り注ぐさまを夢想した。星という名前をつけられた宇宙の屑たちが、砕いていくのだ。権力も、傲慢も、なにもかも。

 輝くものの欠片もない空に対して、街はネオンが氾濫していた。人工の星屑。長いアーケードにすきまなく嵌めこまれた店、列をつくるタクシー、光、光、光、そして人。

 歩いていた大通りに、僕は自然と背を向けていた。眩しすぎるアーケードの明るさも、今夜の後には明日の朝があることが当然だという顔を並べた人ごみも、今の僕の目には排他的なものにしか映らなかった。吐き気がする。みんな消えればいいのに。

 気がつけば、いつしか足を止めていた。メインストリートから大きく外れた裏通りの一角だった。人通りはまばらで、閉ざされたまま錆びたシャッタが目立つ。いくらかネオンの光がしたたってはいたけれど、表通りのアーケードのようなきらびやかさはなく、じんわりと夜闇と調和する薄暗さで、排他的な印象を受けることはなかった。大通りからやってきたひとりが、ここで誰かとふたりになって、近くに灯るオレンジ色の明かりの中に消えていく。いくつも、いくつも、そんな光景を見るともなしに眺めながら、そのまま目的もなく、僕はそこに佇みつづけた。

 ポケットの中で、書類をぐしゃりと握り潰す。

 紙切れ一枚で、僕のなけなしの未来の継ぎ目はあっけなく千切られた。ぼんやりとした頭で、これで何度目だっけ、と考えかけて、やめる。悔しさも憤りも、惨めさも虚しさも、もういい。疲れを深くするだけだ。

 帰らないと、と思った。一刻も早くアパートに帰って、新しい履歴書を書かないといけない。でも、足が、動かなかった。周りの一切が淡く見えた。ネオンの降る中、このまま目を閉ざしたら、どこまでも夜の底に落ちていけそうな気がした。

「3万からでどうだ?」

 唐突に、僕の鼓膜を声が打った。気だるさを帯びた、渋みのある声だった。下ろしかけていた重いまぶたを上げる。振り向くと、黒いトレンチコートを着た男の人が、僕の側に立っていた。僕より5つほど年上だろうか。軽い口調とは裏腹に、表情は硬く険しい。眉を寄せたしかめ面で、僕を見ている。眼光が鋭く、まっすぐに射抜くようなひとみをしていた。

「え……?」

 言葉の意味を理解するのに時間がかかった。3万……? ひたすら瞬きを繰り返す僕を、彼は表情を崩さないまま見据えつづけた。ひんやりとした夜の空気が僕の肌を撫でる。背中がざわめく。喉がはりつく。

 けれど、数秒後、

「なんてな」

 ふっと表情を和らげて、彼は僕から視線を外した。彼のまとう空気が緩む。

「……僕をからかったの?」

「いや、補導だ。かまをかけたってやつだな」

 半歩下がって横を向き、彼はコートのポケットから煙草を取り出すと、おもむろに咥えた。橙色の炎が一瞬、闇を裂いて、白い煙が一筋、青灰色の夜空に糸を引く。ライタの炎は、ネオンの光とは違い、とてもやわらかい表情をしている。

「補導?」

 僕は思わず鸚鵡おうむ返しをした。煙草を吹かしながら、彼は片方の眉を上げる。

「未成年だろ」

「……十八はとうに越えてますよ、これでも」

「そうか。じゃあ、補導未遂だな」

 軽く横目で睨みつけた僕に、彼は悪びれもせずに、さらりと言った。肩をすくめることさえしなかった。

「未遂って……まあいいですけど」

 かまをかけるというにはストレートすぎると思います、という科白は、喉の奥に留めておいた。そもそも補導する気があったのかもあやしいところだ。口調にやる気がなさすぎる。

 夜空を眺めているのか、それとも雑居ビルのネオンを睨んでいるのか、どちらかは分からないけれど、彼は斜め上に視線を遣ったまま、静かに煙草を吹かしつづけた。頬骨の少し目立つ横顔。すっととおった鼻筋。やや隈の目立つ切れ長の目。場末の薄闇によく馴染む気だるさをまとったひとだった。

「警察の人ですか?」

「まあな」

「捜査中なの?」

「いや、非番だ」

「プライベートで、こんなところにいたら、まずいんじゃないですか?」

「法律的には何の問題もない」

「……じゃあ、僕なんかに構ってないで、さっさと遊びに行ったらどうです?」

 横目で睨みつけた僕に、彼はちらりと視線を寄こした。煙草を咥えた口の端が、微かに笑みのかたちに持ち上がる。

「逃げて来たんだよ。面倒な上司と飲む酒ほど不味いものはないからな」

「なにそれ」

 僕は吹き出した。なんだか無性におかしかった。夜の底で触れたささやかな非日常に、僕は自分でも不思議なくらい興奮していた。夜明け前に起きて、日付が変わる頃まで働いて、つかのまの睡眠をとる。その繰り返しだけ、何年も続けていた。だからかな、と思った。ちょっとした刺激が、とてつもなく新鮮に感じるのかもしれない。

「さっき、ほんとうに僕を未成年だと思ったんですか?」

「さあな」

 彼はしれっとはぐらかした。ふっ、と白い煙をひといき、星のない夜空に向かって吐き出す。煙草の香りに混じって、ほんのりと甘いアルコールの匂いがした。少し酔っているのかもしれない。

「ただ、お前みたいな目をした奴が未成年なら、ほんとうに救いようがないな」

「救いようがないって、僕が?」

「この国がだよ」

 彼は少し笑った。どこか僕と似た色をした笑い方だった。ゆらめく紫煙の向こうに、ネオンの光が滲んで見えた。

「……ひとつ、お願いをしてもいいですか?」

「なんだ?」

「煙草を1本、僕に」

 僕の声が、夜の底に落ちて散る。彼は初めて、僅かに驚いたように、瞳を見ひらいて僕のほうを向いた。薄い笑みを浮かべた僕の顔が、彼の眸に映りこむ。鋭かった彼の眼光は、今は刃をおさめていた。

「吸えるのか?」

 僕を見つめ、彼が問いかけた。僕はゆっくりと答える。表情を崩さないまま、彼の目から視線を外さずに。

「未成年じゃ、ありませんから」

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