明治2年5月10日 酒宴

 幹部は一体何を考えているんだと金太郎は訝しく思った。

 情報収集に当たらせていた斥候が帰還し、敵は武器弾薬を十分補充したため総攻撃を仕掛けてくる、その期日が五月十一日だと報告すると、榎本総裁はこんなことを言ったのだ。

「それなら盛大に盃を交わすことにしようじゃないか」

 副総裁の松平が遠慮がちに異議を唱えたが、陸軍奉行の大鳥も海軍奉行の荒井もこの際士気を上げるのも必要だと提案に賛成し、最年長の永井箱館奉行が「いいんじゃねぇのかい」と微笑むと、酒宴を開くことが決まった。

 場所は景が芸妓として勤めている武蔵野楼だ。ここは箱館随一の妓楼で屋上に日本庭園が作られているのが特徴だった。

(最後の宴になっちまうんだろうな……)

 士官として出席することを許された金太郎は溜息をついた。士気を上げると言っても、一のような平隊士は参加できず、日本酒やオランダビールを階級に応じて振る舞われるだけらしい。

 気掛かりなのは椿の身の安全のことだった。新政府軍が上陸した日から今まで五稜郭や持ち場に張り付いていて、一切、椿との連絡が途絶えている。

 新政府軍は各国領事館に戦闘開始の事前通告をし、船を用意しているから自国民を退避させるようにという勧告を行ったという。それに従ったとすればファーブル家は逃げているはずだ。居候状態だった椿がどこに行ったのか、金太郎には把握する術がなかった。

 総攻撃の前日の昼間から、幹部たちは武蔵野楼に集まり、酒を飲みながら長い長い道のりを振り返っていた。

「総裁、どんなに不利な状況でも絶対に降伏なんかするなよ」

 乾杯を終えた直後、土方が榎本に真っ直ぐに対峙して言った。榎本は「わかってます」と頷き、そして歓談を始めた仲間たちをぐるりと見渡した。

「私は皆さんに心から感謝しています。忠義の心を持った日本人がこれほどいるのだと、世界中に知らしめることができたんですよ。私は蝦夷地開拓の夢を諦めません」

 もしかしたら、榎本総裁は皆にこのことを伝えたくて宴を開こうと言い出したのかもしれないと金太郎は思った。

「そういえば、田島くん。マドモワゼル・椿は元気にしてるのかな?」

 酌の相手の大鳥が尋ねてきた。大鳥はワインボトルを持って立っている芸妓を愛想よく下がらせると、部下の金太郎にグラスを差し出してくれたのだった。

金太郎は自分にもわからないと答えると、大鳥も心配そうに目を伏せた。なんと言っても、大鳥は椿の知人という意味では金太郎よりも長い付き合いなのだ。

「あのお嬢さんは裁縫の腕前は上等だしフランス語も話せるし、とても可愛らしいし、良い妻、良い母になれるだろうね」

「……からかわないでください。俺たち何もそういう話はしてませんから」

 大鳥の意味ありげな笑顔に言い返すと、横から呆れたような声が聞こえた。

「女の子を待たせるなんて、君もほとほと馬鹿だよね。フランス語はできるくせに、フランス式の口説き方は学ばなかったのか」

 出たな、紳士然とした女たらし!

 東三郎が軽く大鳥に一礼して、歩み寄ってきた。密かに蟠竜に乗り込んだ度胸は男として認めてやるが、やっぱりいけ好かない野郎であることには変わりない。

「で、椿姫はどこにいるんだい?」

「……しばらくはフランス商人の夫婦に預かってもらってた。でも、今はわからない」

「じゃあ、そのまま一緒にフランス本国に行ってしまうかもしれないなぁ。将来を誓ってくれない男を待つより、憧れのパリで養生した方が彼女のためにもいいだろうね。あ、僕が世話するという方法もあるけど」

 最後の言葉は本気なのか冗談なのか、東三郎は涼しい顔で言ってのけると、金太郎を一瞥して去っていった。

「椿のこと、どうしたらいいんでしょうか」

 大事な戦の前だというのに、金太郎は思わず大鳥にこぼしていた。大鳥はそうだなと少し考えると、庭園に出ている土方に視線を向けた。

「そういうことは、土方くんに聞くのがいいかもしれないよ。京都にいた頃は色んな芸妓から慕われてたそうじゃないか」

「はぁ……」

 それとこれとはちょっと趣旨が違うような気がするが、まぁ、一度くらいは陸軍奉行並の昔の話も聞いてみたいとは思う。

 気が付くと大鳥のワインボトルが空になっていた。見かけによらず大鳥は酒豪だった。金太郎は「新しいの持ってきます」と言い残し、手の空いている芸妓がいないか探しにいった。

 こんな時にも市中の巡察を行っている一には申し訳ないなと思いつつ歩いていると、階下から血相を変えた景が駆け込んできて、金太郎の腕をぐいと引っ張った。

「早く来て! 大変なのよ!」

「何がだよ」

「椿が……ここに……!」

 金太郎は景の腕を振り払って駆け出した。

「どこにいるんだ、椿は?」

「裏手の階段の途中よ。廊下を突っ切って、そう、右に曲がって」

 いくつかの広い客間が両側に並ぶ廊下を進み、奥まで行くと右手に階段があった。ここは店の者が使用する通路になっていて、やや薄暗い。椿は階段の踊り場の壁にもたれ掛かって苦しそうに座っていた。その隣には、なんと任務中のはずの一が立っている。

「椿っ……」

 金太郎はぐったりしている椿を抱き上げ、寝かせられる場所を景に尋ねた。

「客間でいいわ。今日は貸し切りで、この部屋は使ってないから」

 階段に一番近い小さめの客間に椿を運び、畳の上に椿を横たわらせると、一が椿の簪を金太郎に手渡した。髪が解けた拍子にすり落ちてしまったものだ。

「巡察中に椿ちゃんの姿を見かけたんだ。ふらついてて、まるで亡霊のようだった。おまえに会いたいって言うもんだから、ここまで連れてきちまった」

 横になり、しばらくして落ち着いたのか、椿は目を開いて金太郎に微笑んだ。

「金太郎くん」

「いいから、寝てろ」

「私、ここにいていい? 金太郎くんの傍にいていい?」

 椿はゆっくり上半身を起こして、金太郎をぎゅっと抱き締めた。

「うん、ずっと一緒にいよう。いつまでもだぞ」

 言ってほしかった言葉を聞いて満足した椿は、金太郎から体を離し、景と一の顔を交互に見た。

「四人揃うの、久しぶりね。戦が始まる前に戻ったみたい。ありがとう二人とも。元気が出てきたわ」

「わかったから、ちゃんと休んでちょうだい。何か飲む?」

 椿は頭を横に振った。何もほしいものはない。ただ、金太郎がいてくれさえすれば、椿の心は満たされる。

「私、一人で死ぬのは嫌だったの。ファーブルさんのおうちはとても素敵だった。でも、だんだん具合が悪くなって、奥様が凌雲先生の病院に連れて行ってくださったの。しばらく入院してたんだけど、戦がここでも始まるから船に避難することになって……」

 そこで椿は言葉を切って、苦々しい表情をした。

「その船は長州藩の人が用意したって聞いて、私、一度乗った船から逃げ出してきたわ。死んでも新政府軍の世話になりたくないもの。それで、ここに……」

 椿は船上で明日、新政府軍が箱館に総攻撃を仕掛けることをファーブル氏から聞いたのだ。

 ぼろぼろの体になっても長州藩に反抗しようとしてここまでやってきた椿が、金太郎には愛おしくてならなかった。それでこそ、俺の妻だ。

「ねぇ、一くん」

 椿は軽い咳が収まると、一に微笑んだ。

「お景ちゃんはとっても優しくていい子よ」

「……わかってる。わかってるさ」

 涙声になりながら一が答えると、椿はもう目を閉じている。

 景は自分の白い胸元を豪華に飾っている首飾りを急いで外し、一を椿の傍から引き離すと一にそれを握らせた。

「これを売って、薬を買うのよ。あたしは暖かい布団を持ってくる。一緒に来て。二人きりにさせてあげなきゃ」

 一は景の腰に腕を回した。

「俺のお景ちゃんは、本当にいい子だな」

 一と景が廊下に出ると、東三郎に出くわした。外套を手にしているところからすると、もう宴を退出するようだった。

「任務をサボって芸妓と密会なんて、君もやるね」

「違うわ! 椿が……死にそうなの。薬を買いにいくところよ」

 その緊迫感は嘘をついているように思われず、東三郎は表情を引き締めた。そして、景が凝視する部屋をゆっくりと振り返ると、引き戸の隙間からは確かに横たわる少女の姿が見えた。

 東三郎は腕に抱えた英国製の高価な外套をじっと見つめると、意を決して一と景の後を追った。

 二人が出て行ってしまうと、椿はゆっくりと瞳を開けた。その瞳には少しいたずらな光が宿っている。

「作戦成功……。寝たふりをして二人きりになりたかったの。たくさん話したいことがあるけど、でも言いたいことはたぶん一つだけかも。ジュ・テーム。一番最初にも言ったけど」

 金太郎は長屋で初めて椿と言葉を交わした時の痺れるような感覚を思い出した。何もかもが懐かしかった。アンリとフェリックスがいて、一と景は仲良くいちゃついていた。大勝利とまでは行かなくても、幕府軍には上陸した新政府軍を押し返せるくらいの勢力はあると思っていた。

「あの時、灯が消えちゃってどうしようかと思ったわ」

「権現様の御守を落として、手探りで探したっけ……」

 すると椿は金太郎の手に自分の手を絡めて言った。

「今だから言うけどね、私、あなたが御守を隠しちゃったってこと知ってたの」

 得意満面の椿に、金太郎は言ってやった。

「それじゃ、共犯だな。運命に対しての」

 椿の長い髪を撫でていると、椿は息苦しそうに喘いだ。慌てて金太郎が背中に手を差し入れ体を起こしてやると、不規則な呼吸が徐々に収まった。少し静かにしていようと、金太郎は黙って椿を抱えていた。

 しばらくして、客間の引き戸の擦れる音がした。

「ただいま。寝てるの?」

「うん。少し落ち着いたみたいだよ」

 景は新しい掛け布団をそっと椿の体に被せてやった。椿は身じろぎをして、視線を彷徨わせている。

「誰?」

「あたし。景よ。わかる?」

「お景ちゃん。ありがとう。暖かいわ。ねぇ、金太郎くん……私、幸せよ」

 気分が良くなった椿は蚊が鳴くような小さな小さな鼻歌を歌い始めた。景と一には何の曲なのか検討がつかなかったが、金太郎にははっきりとわかった。ラ・マルセイエーズ。フランスの国歌だ。

「なぁ、椿」

 金太郎は思わず声を掛けた。

「パリに……、パリに一緒に行こう」

「アヴェック・プレジール。約束よ。……ああ、なんだか眠くなっちゃったわ」

 椿が再び瞼を閉じると、一は金太郎を窓際に連れて行って薬を手渡した。

「医者も呼びにやった。すぐ来ると思う」

「ありがとう」

 客間の沈黙の間に、時々、酒宴の喧騒が割って入る。金太郎は気を落ち着けようと窓際に佇んだ。

 そこへ足音を忍ばせながら、東三郎が戻ってきた。

「使ってくれ。僕にはこれくらいしかできないから」

 廊下側にいた景は東三郎から突き付けられた封筒を受け取り、はっと驚いた。相当な額の金だ。

「それで、具合の方は?」

「今、眠ってるわ。もうすぐお医者様も来るし――」

 景は突然、腕を掴まれた。一が青ざめた顔で静かに横たわる椿を見ている。

「……息を、してない」

「嘘、だって、さっきまで……」

 外の往来をぼんやりと眺めていた金太郎は、景と一のざわついた会話を耳にして振り向いた。

「どうしたんだよ? そんなに俺を見て」

 金太郎が仲間たちの悲痛な視線の意味を理解した瞬間、大広間から盛大な拍手が沸き起こる。

「椿! 椿っ」


 そして、妓楼を包むように鬨の声が上った。


<完>

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蝦夷のトリコロール 木葉 @konoha716

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