下
――――愛せる限りに愛せ、望む限りに愛せ。いずれ、墓の前で嘆き悲しむ日が来るのだから
――――心せよ、その心が赤く燃え、愛を育み携えようとしている限り。誰かがお前の心を慕い、愛を注ぐ限り
――――お前に心を開く者がいるなら尽くせ。喜ばせることはあっても、悲しませてはならない
ときに高く、ときに低く。音程を間違えずにドイツ語のどこか教訓めいた歌詞を歌いあげるのは、歌い慣れていてもそう簡単じゃない。ウォームアップもしてないし。なんで慌てて歌いだしちゃったんだろう、私。
後悔しても、もう遅い。ちゃんと声が出るように、遠くへ声が響くように。そして、歌詞に込められた熱情を表現できるよう、力を尽くすしかない。
栄光を掴んだ十本の指が紡ぐ、誰もが知るフレーズを歌うほどに、わがままで自分勝手な幼馴染みと過ごした時間が私の胸によみがえっていく。
春の教室、夏の合宿、秋の街角、冬のコンクール。コンクールの後に助けてもらったとき、心配そうに私に向ける
そう、きっとあの日よりも前から私は桃矢のことが好きだった。意識しだしたのがあの日だっただけで、気づけばもう駄目。日に日に、あの大きな背中と手を追いかけていた。
でも、追いかけておきながら手を伸ばさなかったのは、他の誰でもなく私だ。
『あんたの好きにすれば? 私たち、ただの幼馴染みなんだし。自分のことなんだから、自分で決めなよ。ただし、真彩を泣かせたりしたら許さないから』
『才能も彼女も、大切にしなきゃいけないでしょ。私がどう思うかなんて、どうだっていいじゃない』
そう言って私は桃矢を突き放した。一度だけじゃなく、二度も。桃矢が伸ばしてきた手を払いさえした。
だって、そうしなきゃいけないと思った。桃矢のことは桃矢自身が決めなきゃいけないし、
けど、そういうのは本音の半分もない。本当は、桃矢にふられるのが怖かった。ふられてそれではい終わりってきっぱり終われる想いじゃないのは、誰よりも私が知ってるもの。ふられてみっともなくしがみついて、いつか暴走させてしまいそうなのが怖かった。
私は、どちらのときでも言葉を間違えた。傷つけることもこの居心地のいい関係を失くすことも怖くて、本心を隠した。後悔さえできないほど自分が傷つくと知らず、大好きなこの歌の歌詞のように。
――――言葉には気をつけよ。悪い言葉はすぐ口をついて出るもの
――――神よ誤解だと嘆いても、かの者は悲しみ去っていく
リストはどんな気持ちで、この詩を選んだんだろう。人妻と駆け落ちして十年一緒にいて子供もできて、幸せだった日々を終わらせたのは、二人がどんなやりとりをしたからなんだろう。
――――愛せる限りに愛せよ
何百年も昔の音楽家が五線譜に描いた甘い旋律の夢が、繊細なピアノの音の余韻を残して終わる。音の粒も失せて、私はようやく詰めていた息を吐き出した。
やっぱり桃矢の音はすごい。柔らかな膜に包まれてるみたいに柔らかくて透明で、どこまでも優しい。私には贅沢すぎる伴奏だよ。
留学した後、桃矢はきっと成功するんだろうな。今よりもっと上手くなって、ショパン国際コンクールとかに優勝したりとかしてさ。まあそれなりに顔もいいし、テレビに引っ張りだこになるかも。
そうしてどんどん、桃矢は遠い人になって。……お互い別の人と結婚して。伴奏してもらうことも、これでもうないんだろうな。
そう思うと、最後のわがままも許せてしまいそうになるのだからどうしようもない。寂しくて胸が痛いのに。わめきたいような衝動があるのに。ああもう、なんで私はこんなに馬鹿なの。
もういい、これで終わりにしよう。そうしなきゃ、私はきっとどこへも行けない。
私は前に進むって決めたんだから。
そう私は自分に言い聞かせ、私は桃矢を振り返った。
「……桃矢、これでいい?」
「あ……おー。ありがとな
「どういたしまして。はー、今日であんたのわがままに付き合わなくて済むと思うと、せいせいするよ」
鍵盤から顔を上げてにかっと笑う顔に言ってやると、桃矢はむっと唇を曲げた。
「俺がいつわがまま言ったよ」
「いつもじゃん。何かあると私のとこに来たりしてさ。いい加減――――」
そこまで言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
桃矢が突然、真剣な顔で私を見上げて名前を呼んだから。
「……真彩と別れた」
静かな声は、それでも私の思考を一瞬停止させるのに充分な破壊力があった。楽しそうにしていた、今朝の二人の姿が脳裏をよぎる。
靴を履き替えながら、笑ってた桃矢と真彩。見たくなくて早めに登校するようになったのに、たまに見てしまっていた二人の姿。
「ちょ、待ってよ! なんでこんな直前になって……!」
「やっぱ無理だったんだよ。多分、これからも無理」
「無理って、何が」
先を続けようとして、私はすぐ後悔した。何が無理なのか、そんなのわかりきったことじゃない。
『これから好きになってくれたらいいから。私にチャンスをちょうだい』
そう言われたと、伏し目がちにして桃矢がそう私に告げたことを、私は不意に思い出した。
「……好きに、なれなかった?」
雑誌の読者モデルになったことがあるくらい可愛くて、性格も良い、私の自慢の友達を。自分を本気で好きでいてくれる女の子を。
あんなにも、お似合いの二人に見えたのに。
「…………ああ。…………ほんと、なんでだろうな」
空っぽな声と苦笑で桃矢は言う。そんなの、私のほうこそ知りたいよ。あの子なら仕方ないって、諦められたのに。
そうして、私たちの間に沈黙が落ちた。躊躇いとやるせなさと自己嫌悪が、四ヶ月前と同じように部屋に満ちる。
なんで私、桃矢についてきちゃったんだろう。真彩のこと気にしてたくせに、こうしてのこのこ引きずられて。その真彩は、目の前の男に振られてたっていうのに。
桃矢も桃矢だ。人の友達ふっておきながら、その直後にあんな、ちっさい頃と同じように笑って――――――――
「美伽」
沈黙と胸に沸き上がる感情に耐えられず、私が口を開こうとしたとき。もう一度、桃矢が私の名を呼んだ。何か、得体のしれない力を声に込めて。
その途端、私の耳から部屋の外の音が消えた。湧いた苛立ちや怒りも、他の感情ごと胸の中からすっと溶けてなくなってしまう。
夕暮れに染まった世界は、私と桃矢だけになった。
「お前に、話したいことがあるんだ」
「……うん」
まっすぐに見上げてくる顔から目を逸らせず――――逸らさず、私は頷いた。
あの日、私は好きな男に言うべき言葉を間違えた。
だから今度こそ、間違わない。
“夢”の欠片はまだ残っていたのだから。
夢の欠片 星 霄華 @seisyouka
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