私が残念なことに桃矢のことを好きになっちゃったのは、中三のときだ。


「あの……」


 秋らしくなってきたと言っても夏の名残がまだ少しは残る十月末の、とある公共のホール。レンタルの灰がかった青のドレスを着替え終え、控室から廊下へ出たところで、私は多分同年代だろう参加者の女の子二人に呼び止められた。

 華やかな顔立ちを薄化粧で飾った片方は、他のコンクールでも何度か見たことのある人だ。さっき終わったばかりのコンクールでも、三位入賞だったはず。


「貴女の伴奏してたのって、斎内桃矢君ですよね? 昨日ピアノ部門で出てた」

「……はい」

「やっぱり……! じゃあ、私を彼に紹介してくれませんか? 私、ピアノもやってるんですけど、彼にちょっと聞きたいことがあって……でもいきなり話しかけるのも気が引けて……」


 だからお願い、と話しかけてきたほうは両手を合わせる。


 ……あのー、私も貴女たちと初めて話したんですけどね? というか、目がぎらぎらしてますよ。下心ありなの、ばればれですから。


 私の幼馴染みの桃矢は、図体がでかいだけのワンコ系のくせに、小学校の頃からやたらと女子にもてる。まあ、無駄に顔も運動神経もいいし、ついでにピアノも滅茶苦茶上手いからね。おかげで何度、女子に絡まれ嫌がらせをされたことか。励ましてくれた何人かの友達がいなきゃ私、女子嫌いになってたと思う。


 そんな桃矢が、一体どういう気まぐれなのか、このコンクールに限って私の伴奏をやると言いだしたのが私の運の尽き。自分も出場するっていうのに、何考えてんのか。嫌味だのなんだのと文句言ってる伴奏者がさっきいたけど、当然だよね。

 ともかく、そういう事情でこの馬鹿馬鹿しい場面になっちゃったわけだ。


 私は小さく息をついて、二人に向き直った。


「……だったら私にじゃなく、桃矢に直接言ったほうがいいですよ。あいつは廊下で私を待ってるでしょうし、自分が気に食わないなら私が何言っても断るでしょうから」

「そこを何とか!」

「いやホントに、桃矢は私の言うことなんて聞きませんって。むしろ、ピアノやってて聞きたいことがあるのに直接聞きに来ないのはなんでだって不審がると思いますよ」


 どう考えても下心よね? って嫌味が伝わるよう、私は感情を隠さず声にした。だってこういう人、今までもいくらでもいたもの。いい加減にしてとしか思えない。

 私が本音を言い当てたからか、二人は眉を吊り上げた。でもこれ以上この人たちに構ってあげる義理はない。私は二人を無視して背を向けた。

 ――――のに。


「放してください」


 しつこいな、もう! 背を向けて歩きだそうとしたところで手首を掴まれ、私は振り返って女の子を睨みつけた。


「何よ! こっちが頼んでるのに、優勝したからって偉そうに!」

「別に、偉そうになんてしてません」


 ああもう、こんな人たちに敬語使ってるの面倒だ。大体、何その言いがかり。優勝は私が決めたことじゃないのに、八つ当たりしないでよ。

 しかも、腕を引っ張っても放してくれないし。隣にいる人も同調して敵意を見せてくるから、助けてくれるわけもない。優勝してせっかくいい気分だったというのに、台無しだよ。

 この人たち、どうすれば――――――――


 そう、私の苛々が最高潮になったそのとき。廊下の角に立つ私を包むように影が落ちた。

 桃矢……!


 私が遅いから迎えに来たのか、廊下の向こうからやって来た桃矢が私たちを見下ろした。――――つまり、私の手首を掴む手も丸見えなわけだ。

 ……やばい。桃矢の機嫌が急降下しだした……!


「俺の幼馴染みに何か用?」

「……っ!」


 大柄で不機嫌なワンコに睨まれて、そんじょそこらの女子が太刀打ちできるわけがない。二人は顔を引きつらせて首を振った。私の手首はやっと解放される。

「美伽、帰るぞ」

「って桃矢っ?」


 ちょっ引っ張んないでよ! 私は抗議したけど、桃矢はまるで無視。がたいのいい桃矢から逃げられるはずもなく、私は引きずられるみたいに歩くしかない。飼い主を引っ張ってく犬かあんたは! しかも手首痛いんだけど!

 でも二人はもう私を追いかけてこない。どういうわけか桃矢、早足だしね。待ってよもう。私の心拍数が上がるってば。


 私のそんな抗議第二弾はどうにか通じて、桃矢はやっと歩みを緩めてくれる。掴んだままだった私の手首を放して、私を見下ろして息をつく。

 当然、私はいらっとした。


「……桃矢。そこでため息とか、むかつくんだけど。しかもあんたのせいで手首痛いんだけどね。助けてくれたのはありがたいけど、力の加減くらいしてよ」

「……わりぃ」


 睨みつけてやると、たちまち桃矢はしゅんとなった。…………ワンコの垂れた耳と尻尾の幻覚が見えた私の目は、きっと正常だ。うん、そうに決まってる。


 ――――――――は?

 私が幻覚に一瞬うろたえた隙を突くみたいに、足を止めてた桃矢は私の手を掴んだ。そしてまるで壊れやすいものを扱うみたいに、そっと私の手を包む。……桃矢の大きな手のひらの感触と体温が、私の手に広がる。


「大丈夫か」

「――――っ」


 優しい声と目が私に注がれた。

 ――――――――胸の奥で、何かが大きく動く音がした。


「……ちょっと痛いけど平気。それより早く帰ろ。またああいう人に絡まれたくないし」

「絡まねえだろ。もし来ても、俺が追っ払うし」

「っ」


 私は桃矢から顔を背けざまに前を向いて、玄関に向かって歩きだした。

 だってこんなの――――耳も顔も赤くなってるなんて、知られちゃたまらない。


 どうしてよ。こうして桃矢に助けてもらうのは、今までもあったことでしょ。心配そうに見つめられるのも、手を触られるのも。

 でも今のは、今までと全然違うみたいだった。まるで知らない男の人にそうされたみたいな感じ。


 どうして今、こんなに――――――――


 ……ああもう、最悪だ。

 なんで私、桃矢なんかにさっきから心臓がどきどきしてるのよ。

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