夢の欠片

星 霄華

 それは、桜の木の朽葉が日に日に散っていくある日のことだった。


『なあ美伽みか、ちょっといいか』


 幼馴染みに深刻そうな顔で呼び止められたことを、私は忘れられない。

 だって、私は間違えたのだから。

 そしてその日、私の“夢”は壊れた。




「やっぱ、今日はこっちも誰もいねえなあ」


 今日に限って誰もいない、下校時刻を過ぎた音楽科専用の棟にて。私の腕を掴む、がっちりした体格の幼馴染み――桃矢とうやは楽しそうにそう言った。


 練習室の大半を占領していたオケ部の皆が上の階へ行っちゃった夕暮れの練習棟はがらんとしている。電灯も点けられてなくて、夕日が差し込むだけの廊下は、壁を叩けばスチール製のロッカーみたいな音がしそう。

 そんな放課後の校舎を、どうして帰りかけの私がまた歩いてるのか。ひとえに、この留学直前の幼馴染みに捕まっちゃったからに尽きる。


 そう、いくつもの国内で有名なコンクールで上位をかっさらった天才であるこの男は明日、終業式を待たずにベルリンの音楽学校へ行く。年単位の武者修行で、帰省はするらしいけど、向こうの学校を卒業するつもりらしい。

 つまり、私は今日で当分、この顔と会うことはなくなる。物心ついた頃から私を振り回し続けたろくでなしに、私はようやく別れを告げることができるというわけだ。


 で、ついさっき一階の階段の踊り場で顔を合わせた桃矢は、思い出作りなんて見え透いた嘘をついて私を連行中ってわけ。思い出作りって何よ。あんたそんなキャラじゃないでしょ。

 でも、私の胸はどきどきしてる。走ってるからだけじゃない。桃矢があとでピアノを弾いてやるって言ってくれたからだけでもない。一番の理由は、桃矢に手を掴まれてるからだ。わかってる。

 ――――桃矢は、私の好きな人なんだから。


 桃矢は私の手を握ったまま、練習棟の奥へと進んでいく。誰も私たちの歩みを止めてくれない。

 私は苛立った。振り返るな、見るな、と強く願った。

 私、なんで桃矢の手を振りほどけないの。桃矢が真彩と付き合ってること、知ってるのに。桃矢も桃矢だ。なんで私の手を握るの。こんな、当たり前みたいに。


 言わなきゃ。もし誰かに見られたらって。上の階でオケ部の声が聞こえたから走ってるんだし。早く、この手を振りほどかなきゃ。


 そう思うのに私の唇も手も役立たずで、動こうとしない。手も足も桃矢に従順だ。そのくせ心臓は高鳴り、全身は熱を持つばかり。ああもう、なんで。泣きたい。


 そうして私は、音楽科専用の実習棟の一番端にある練習室へと強制連行された。小型のグランドピアノとロッカーが置いてある、練習のためだけの部屋。


「美伽、『愛の夢』歌え」

「……はあ?」

 椅子に座ってからの前置きのない命令に、腰に手を当て、私は思いきり胡乱な声を出してやった。


 リストの名曲『愛の夢 三つの夜想曲』はピアノ曲として知られているけど、元々は、ドイツやフランスの詩人の詩にリストが旋律をつけた歌曲だ。名前の通り三曲あって、一番知られているのは第三番。これのピアノ版だけが『愛の夢』と思われているほど、有名になっちゃってる。


 でも私にとっては、原曲の三曲とも耳に馴染んでいる。というか、初めて桃矢の家で聞いて、歌った歌曲がこの三曲だし。特に、メジャーすぎる三番のマイナーな原曲は、桃矢に嫌というほどせがまれたんだよねえ。

 その結果、私はこうして音楽学校の声楽専攻に在籍してる。一応は国内の大きめのコンクールで優勝もしたし。できれば音大に進みたいと思ってる。

 ……本当に、私のあれこれは桃矢に形作られているような気がする。声楽を始めたのもこの高校を選んだのも、桃矢が理由なのだから。自分でもうんざりする。


 私の気持ちなんて知るはずもなく、桃矢はにかっと笑った。


「まあ美伽、歌ってくれよ。これでしばらくの間は会わねえんだし」

「あんたねえ……」


 また調子のいいことを言う。このわがまま男め。

 けれど桃矢は私の呆れなんてまったく気にせず、期待の眼差しで私を見上げるだけだ。ぱたぱた揺れる尻尾の幻覚が見えるのは気のせいだ、絶対。


 昔っからそう。桃矢は私に何かねだるとき、この顔をする。犬みたいな、ちっさい子供みたいな。図体はとっくに私よりでかくなってるくせに、このときばかりは私が見下ろしてる気分になってしまう。

 …………ああもう。

 私は抵抗を諦め、ため息をついた。


「下手くそなんて言わないでよ。最近は歌ってなかったし」

「でも、覚えてるだろ?」


 確信に満ちた、笑みさえ含んだ声と表情で桃矢は言う。何を忘れたとしても、これだけは絶対にほころび一つなくお前は覚えていると言わんばかりに。


 ……だから、どうしてそんなに馬鹿なのよ、あんたは。

 そういうこと、言うのは私にじゃないでしょ。真彩にでしょ。あんたと真彩は付き合ってるんだから。最近何話しても上の空だって真彩が私に相談してくるくらい真彩に構ってなかったんだから、行ってあげないと駄目でしょうが。


 でも、一番馬鹿であさましいのは私だ。桃矢のことを吹っ切るんだって決意したそばから、桃矢に引きずられて二人きりになってるんだから。後ろめたいくせに期待もして、歌う気になってるんだから。何やってんのよ。

 なんだか悔しくて、私は桃矢に背を向けた。


「いつでもどうぞ?」


 余裕ぶった声が、背中から聞こえてくる。余裕かますなっての。腹が立つ。


 肩幅に足を開き、両肩が動かないよう意識する。目線はまっすぐ前に。どこまでも広がり遠ざかる音の軌跡をイメージする。

 苛立ちや悔しさ、後ろめたさが夕暮れの静寂の中に吸われていく。奪われていく自分の感情を捕まえるように、私は大きく息を吸い込んだ。

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