第五話 巣立ち
それから四日が経過した。雛達は産毛が完全に無くなり、親と同じ藍色の羽を生やしている。時々、巣の中で羽ばたいているのを玄関の扉を開けた正親は見た。
巣立ちする時が訪れるのもそう遠くはない。そう思いながら正親はバス停に走って行った。
アルバイトを終えて家に帰って来ると玄関ポーチに菜々花の姿があった。玄関の扉は開けっ放しになっている。彼女の瞳は燕を観察している時は輝いている筈だ。しかし、今は輝いていない。
「どうした?」
正親は玄関ポーチの前で立ち止まる。
菜々花は涙で潤んだ両目を正親の方へ向けた。彼女は今にも泣き出しそうだ。
「燕居なくなっちゃった……」
正親は目を大きく見開いた。言葉を発する事が出来ず、時間が止まってしまったようだ。
暫くして時が動き出すと正親は玄関の前に立ち、巣を見上げる。雛が隙間無く並んでいた巣には誰も居ない。その瞬間、正親の心を虚無感が支配した。あんなに賑やかだった巣は静寂に包まれている。
――もう少し居てくれると思ってたのに。
正親は胸が締め付けられ少し痛む。もっと燕の事を気に掛けておけば良かった。そんな思いが渦巻く。
「今は空を飛ぶ訓練をしてるから夕方には巣に戻って来ると思うよ」
家の中から凛の声が聞こえてきた。
「そうなの? 良かった!」
菜々花は振り返ると涙を腕で拭う。彼女は笑顔を取り戻した。
正親も安堵感で胸の締め付けから解放された。
――良かった。
心の中でそう呟いた。
夕食後に玄関の扉を開けると凛の言う通り、雛達は全員帰って来ていた。正親は胸を撫で下ろしながら扉をゆっくり閉める。
「お兄ちゃんも燕を見に来たの?」
廊下に立っている菜々花に声を掛けられ彼の肩が上下に揺れた。
「ちょっと気になってね」
正親は笑顔を作りながら振り返る。
「燕居た?」
「居たよ」
そんなやり取りをしながら二人で燕の巣を見守る。
菜々花と同じ物に夢中になる事など久し振りだ。二人は暫く巣を眺めていた。
あれから一週間後。夕方になっても燕は巣に帰って来なくなった。
正親は廊下を歩いていると玄関ポーチに立ち尽くしている菜々花の後ろ姿を見付ける。沈みかけた太陽の光を浴びて彼女の影が黒く浮かび上がっている。顔を見なくても彼女の表情は分かってしまう。
「居なくなっちゃった……」
正親が運動靴を履いて彼女の隣に立つと小さく哀しげな声を彼女は漏らす。
「何だか寂しいな」
役目を終えた巣を見上げていると胸の奥底に哀しみが込み上げる。それは家で一緒に遊んでいた友達が帰ってしまった後の時の気持ちに似ている。
「家に戻ろうか」
正親は菜々花の背に腕を回す。菜々花は無言で頷く。
家の中に入って行く二人の背中を殆ど山に隠れてしまった夕日がただ照らしていた。
「行ってきます」
「行ってきまーす!」
翌日の朝になると正親と菜々花は一緒に玄関を出て行く。もう戻って来ないと分かっているのに二人は巣を見てしまう。昨夜と巣の様子は全く変わらない。
それでも朝日を浴びると昨日の哀しみは少しだけ和らいだ気がした。
「行ってきまーす」
すると後ろから間延びした低い声が聞こえてくる。声の主は凛だ。
「今日休みじゃないのか?」
凛は月曜日に講義を入れていない筈だ。
「今日は友達と映画を見に行くから」
彼女は扉を閉めるとそう答えた。
三人は水田に囲まれたアスファルトを歩いて行く。三人揃って歩くなんて珍しい。
澄み渡った空には真っ白な雲が浮かんでいる。一陣の風が吹き、雲を押し流す。三人の服をはためかせ、菜々花の長い髪が靡く。
「あ、燕だ!」
菜々花は空を見上げ、指を差す。正親と凛は足を止めるとその方向へ顔を動かす。五羽の燕が青い空を切り裂くように横切って行く。やがて広い空に消えていった。
――また来年戻って来いよ。
正親は燕に向かって微笑むと前へと足を踏み出した。
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藍色の家族 万里 @Still_in_Love
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