始まりの場所、暁の空。

本栖川かおる

~切れることのない輪の未来~



 私は、海岸通りにあるバス停でひざを抱える。 駅から最終バスに乗るときにはすっかり日も暮れていて、この場所で降りてどこへ行くわけでもなく目の前にあったベンチに座ってずっと夜更けの寒さに耐えていた。

 大丈夫。まだ始発のバスは眠っている。夜が明けるころにどこかへ移動すればいい。今はまだ、この寂しさと寒さに浸っていたい。


 あれからどれほどの時間が経ったのだろう。寒々しい空が暁の温もりを吸い始め、程なくして朝日が顔を出した。


 太陽が昇りきった朝焼けの浜辺を素足で歩く。波が足を撫でながら最後の力を振り絞って浜辺を登る。そして力尽き、また足を撫でて海へと帰って行った。和真かずまと最後にこの場所に来たのはいつだっただろう。そんなことを考えながらゆっくりと潮騒しおさいを歩いた。


***


 和真がイタリア料理の見習いをしているレストランは若手育成にも熱心で、ここを出たシェフは名の通った店で多く活躍している。

 見習いになってから何年経っただろう。ずいぶん前に「少しずつ色々なものを任されるようになってきた」と言っていたけれど、シェフに近づくのと反比例するように、徐々に私たちの距離はひらいていった気がする。夢に一歩ずつ近づいてくれるのは嬉しい、でもかなしいという複雑な心境だった。

 忙しい中でもお互いに時間を合わせて色々なところへ遊びに行った。幸せだった。幸せを独り占めしている気がしていた。古臭い言い回しかもしれないけど、赤い糸でつながっていると思った。この先もずっと一緒に居てくれると信じて疑うことはなかった。でも、違った。赤い糸は存在していなかった。つながっていると思っていたのは私だけで、独りがりだったことを知った。


***


「俺たち、別れよう」


 お互いが休みを合わせてショッピングモールへ洋服を見に行った日に、歩き疲れた私を気遣って喫茶店に入って休もうと言ってくれた。いつも優しくエスコートしてくれる和真が大好きだった。でもその優しさはフェイク……。聞こえてきた言葉に耳を疑った。


「え? なんで? 冗談だよね?」


 和真は冗談が好きだ。いつものように冗談を言っているものだと、追い打ちの言葉を聞くまでは思っていた。


「好きな子が出来た」


 確かにそう言った。聞き間違いではない。「どうして、なんで」と言葉にしようにも出て来ない。良く、「おまえは、泣き虫だな」と言われるのに涙さえも出なかった。別に強い女ではない。予想もしていなかったことが起こったときには、涙なんて出ないことをこのとき学んだ。

 私のちっこい脳が思考を止めて、身体との接続を拒否しているから――心と身体がつながっていないから涙は出てこないんだと。

 和真はテーブルに伏せて置いてある伝票を掴み、静かに席を立って行ってしまった。別れを告げられた私はその場から動く事が出来ずに、ただ一点だけを呆然と見つめ座っていることしか出来なかった。


 翌日になっても心と身体は別々で、相変わらず涙なんて出てこない。心だけが疲弊ひへいしていて、何もする気が起らず時間だけが私の前を過ぎていく。部屋の電気もけずに壁に寄りかかって膝を抱え、未練がましいと思われるけれど和真との思い出に浸って幸せだった日々を繰り返し何度も脳内に映し出していた。


***


 家から電車で二時間、バスに乗り換えて四十分。この海岸は和真と良く来た場所。夕日が綺麗で二人とも好きだった。一番思い出が多い場所と言っても良いと思う。そんな場所で夕日を見たら、止まることを知らない涙が絶対に出てきてくれる。そして一頻ひとしきりり泣いたら、和真との思い出を段ボール箱に詰め込み封をして振り返らずに前に進もう。そう決めていた。


 空や海、砂や岩、浜に忘れられたビーチサンダル。沈みゆく太陽は楽しかった思い出すべてを紅く染めながら、静かに黄昏たそがれをもたらした。そして、残照もなくなった海平線かいへいせんをいつまでも見続けている私の目からは一雫の涙も出なかった。

 ――なぜ、泣けないの?

 ――まだ、寂しさが足りないの?

 そんな苛立ちだけが胸を突く。私は砂浜に膝を折り項垂うなだれた。

 が疲弊しすぎて壊れてしまったのだろうか……と。


 最終バスの時間が過ぎ、今日もあのベンチで夜を明かそうか。座り続けても、また日が昇るまでバスが停車することはないのだから。


 夜との境目がわからなくなった海平線を見ながら、「また明日ね」と心の中で呟くのと同調するようにバッグの中の携帯電話が鳴った。取り出した画面には和真と出ている。

 今更何を話すというのだ。和真を忘れようと頑張っているのに、なぜ電話をしてくるのかと苛立ちを隠せない。だけどそんな苛立ちとは裏腹な身体が、勝手に電話に出ようとする。「絶対イヤ! 声なんて聞きたくない!」と必死で私のちっこい脳が身体を抑えようと命令する。『ちっこい脳』v.s.『つながっていない身体』。どちらも引くことがなくせめぎ合う。通話ボタンの数ミリ上で指が細かく上下する。だが、そんなことはお構いなしというばかりに携帯はその鳴き声を止めた。

 私は、鳴かなくなった携帯をバッグへ入れる。出た方が良かったんじゃないかと少しだけ後悔したけれど、例え電話に出たとしても何も聞きたくないし何も言えなかったと思う。バス停のベンチに向かうため今度はしっかりと踵を返した。


「和真?」


 くるりと反転した私の視界に、和真らしい人影が映る。少し遠いしこの暗さだから確証はないけれど、脳内にこびりついている歩く仕草がそう思わせていた。人影は耳に何かを当てながら私の方へと近づいてくる。それと同時にバッグの中の携帯が鳴り出した。さっきはあんなにも身体と鬩ぎ合っていたちっこい脳は、和真らしい人影に捕らわれて身体を抑えることを忘れているらしく、今度は素直に通話ボタンが押せた。


「……」

「……」


 電話に出たまでは良かったが、私は何も言わずに耳に携帯をあてているだけだし、向こうからの言葉もなかった。それは、近寄って来た人影が目の前で止まるまでつづいた。


 目の前に、月明かりに照らされた和真の顔がある。二人とも携帯を耳に当てたまま一言も発しなかったけれど、私の目からは流したくても流せなかった涙があふれ出す。接続を拒否していた心が、身体とつながった瞬間だった。


「ウソ――。好きな子が出来たなんて嘘。ごめん」


 いったんあふれ出した涙は止まらない。嗚咽を漏らしますますひどくなる一方だ。手の甲で何度も目をこすり涙を拭うが、その傍からあふれ出して際限がない。それでも途切れとぎれに訊く。


「じゃあ……なんで……別れた……の?」


 好きな子が出来たからと言うのが理由だった。その理由がウソならば、私たちが別れた理由ってなに?


 空白の時――和真は少しずつ言葉を紡いだ。


「俺――、イタリアへ行く」


 見習いが終わったらイタリアでちゃんと勉強してみたいと言っていたことを思い出す。でも、それを別れる理由にしたのなら、もう帰ってこないということだろうか。そこまでいかなくてもかなり長く帰らないってことなのだろうか。


「どれ……くらい?」

「最低五年……。もしかしたら八年かかるかもしれないし、実際に行ってみないとわからない」

「別れた理由……って、それ?」

「うん。そう。これからどうなるかわからないのに、五年、いやもっと待っててくれとは言い出せなかったんだ。ごめん」


 私は今年で二十七になる。最低の五年でも三十二、八年だと三十五。確かに待っててと言われると指折りを数えるかもしれない。でも、違う。分かってない。必ず帰ってくるから待っててと言われたらいつまででも待っててあげられるし、一緒にイタリアに行こうと言ってくれれば明日にでも飛び立つ。そんな簡単なことがなぜ分からないのか理解できなかったし、そんな簡単なことで別れを告げられたことに納得はできなかった。


 私は片方ずつ涙を勢いよく拭い去り、和真にその苛立ちをぶつける。


「わかってない……。和真はわかってない! そんなものどうにでもなるじゃん! なんでそんな簡単なことがわからないの!」


 私は手にしたバッグを和真に投げつけ、やりどころのない怒りをぶつける。


「私がどんな思いでこの数日を過ごして、なぜここにいると思ってるのよ! それなのに、それなのに……」


 どうしようもない怒りがこみ上げるのと同時に、どこかの隅っこで安堵みたいな何かがあってこみ上げそうになる涙をこらえた。


「俺も君と別れて数日過ごすうちに、どれだけ自分の支えになっていた存在だったかを気づかされたんだ。別れてから気づいたって遅いんだけど――ごめん」


 和真と付き合い始めて三年。私自身も毎日メールで話をしたり、時には電話をしたり、一緒にいられるときはずっと一緒にいた。離れることなど微塵にも思っていなかったし考えたこともなかった。和真が私の心の支えとなっているのは分かっている。だからと言って、毎日「支えてくれてありがとねー」と祈ったりはしないし口にも出さない。そのことを別れた後に気づくなんて、和真はやっぱり馬鹿だ。

 そんなことのために、泣きたくても泣けない忘れたくても忘れられないと悩んでいた自分が馬鹿にみえてきた。


「で? 何しに来たの? 好きな子が出来たのが嘘といいにきたの? それより、なんで私がここにいること知ってたの?」


 私のことが嫌いになっていたら追いかけてきたりはしない。その安堵した気持ちが簡単にはゆるしてあげるものかと語尾を強くさせる。 


「自分でも分からない。でも、ここに君がいるような気がした。電話で言うことでもないし、家の前で帰ってくるのをしばらく待ったんだけど帰って来なくて……、そうしたら一緒によく来ていたここが頭に浮かんできたんだ。君はここの夕日が好きだったから。だからこの場所へ来た」


 少し早口で言葉を紡ぐ和真。私から訊かれたことを一生懸命説明しようとする姿が、取り返しのつかないことをしてしまったと焦っているのが伝わってくる。


「ごめん。本当にごめん。今さら遅いかもしれないけど――」


 和真が私の前に封筒を突き出して頭を下げる。


「俺ともう一度付き合ってほしい。一緒にイタリアへ行ってください!」


 私は、突き出された封筒を受け取り封をひらく。封は糊付けされてはいなかったけれども、ずっと手に握ってここまできたのか少しくクシャクシャになっていた。中には航空チケットが入っていた。

 封筒が私の手に渡ったにも関わらず、手を突き出したまま頭を下げている。チケットを取り出した紙の筒にはまだ重みが残っている。私はひっくり返して中身を出すと、手のひらにころりと指輪が転がった。


「結婚してください!」


 下げていた頭を持ち上げ、和真が叫ぶ。私は喉をキッと締めて、こみ上げてくる涙を阻止する。和真は微動だにせず見ている。指輪をギュッと握り締め、手に持ったチケットに目をやると、行先には確かにITALYと書いてある。ギュッと握りしめている指輪が痛い。


「……」

「……」


 私は手に持ったチケットを勢いよく破いた。何度も、何度も、粉々になるまで。そして、いいかげん破り疲れた無残な航空チケットを月明かりが差す空へと放り投げる。空から落ちてくるチケットは、風の抵抗を受けて綺麗に広がった。


「和真。私ね、イタリアには行かない。そして、和真のことも待たない。だって、私たち別れたんだもの」


 和真は何も言わない。別れてしまったことを後悔しているのだろうか。今にも泣き出してしまいそうな悲しい顔。和真のこんな悲しい顔を初めて見た気がする。


「でもね、この指輪は預かっておく。和真と私がつながってる証。だから必ず戻ってきて。そして、この指輪を私の指にはめて」


 でも――。あふれくるものをグッと我慢した。


「もし、私に新しい恋人が出来たら指輪はイタリアに送る。もし、和真に新しい恋人が出来たら……」


 私は言葉に詰まった。堪えきれなかった涙があふれて最後まで言葉に出来なかった。


「お願い……絶対帰って来て……」


***


 快晴と言って良いと思う。私は成田空港の金網に手をかけ飛行機の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。高く、高く、そして小さくなっていく機体。名残を惜しむように見えなくなっても空をみていた。

「私が待っていることなど考えずに、納得するまで頑張ってきて」そんな思いが私を空港の出口へとやっと向かわせた。


***


 私たちは、海岸沿いのベンチに座り話をした。あふれ出て止まらなかった涙はもうなく、和真の肩に頭を乗せて目を閉じている。


「ねえ、もし私がこの場所にいなかったらどうしたの?」

「んーー、いなかった時のことなんて考えてなかった。絶対いると思ってたし、それに、つながってるでしょ。俺たち」

「なにが?」

「赤い糸が」


 まさか和真の口から「赤い糸」と言う古臭い単語が出てくるとは思わなかった。それが少しだけ可笑しく感じる。


「ねぇ。それって、信じてるの?」

「んー、どうだろう。ただ、なんとなくね……つながってる気がしてる」


 優しい笑みを浮かべながら彼は空を見上げそう言った。


「そっか……」


 私は両口端を少し上にあげて、和真の胸に顔をうずめた。

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