第15話
朝刊を取りに、たつろーが玄関へいったきり、なかなか戻って来ない。
慎吾はまさかと思って、玄関を見にいくと、たつろーのパーカーと靴がなくなっていて、床には新聞がほうり出してあった。
慎吾はヨイショと腰をかがめて、ブ厚い新聞を右手で拾いあげてから、第一面を広げた。
小さな字はメガネをかけてないと、二重にぶれて見えて、慎吾は目をしょぼしょぼとさせる。すぐに二つ折にして、玄関を開けて通路を見た。
はだしのまま外に出て、欄干に身を乗り出して、ずっと遠くを眺めた。
朝日がオーブンみたいに真横から照りつけてくる。
慎吾はくたびれたパジャマの襟元を手で拭う。少し汗ばんでいる。
遠くを自転車が何台も通り過ぎて、音のない住宅街に響く。
からぶくエンジン音。シャッターを上げる音。窓を開ける音。何かを回収する音。何かを転がす音。カラスの鳴く声。空気が熱に暖まる音。
隣の人が玄関から出て来て、慎吾に朝のあいさつをした。慎吾もあいさつする。久しぶりにお隣を見た。慎吾は出掛けることがめったにないので、回覧板を回したりするときしか、両隣の人と話をしたことがない。両方ともサラリーマンで、子どもはいない。
慎吾はぼさぼさの髪をかきむしって、部屋に戻った。
食卓のいすに座ると、早速新聞を広げる。読みたい面を表にしてまた折り畳んで、四つ折りくらいにしてから読み始める。
テーブルの上にはコーヒーが二つあって、たつろーのコーヒーは牛乳の入れ過ぎで白っぽい色をしていた。食パンもかじりかけで、真ん中がほじくられている。
慎吾はコーヒーをすすりながら、横目でそれを見つめる。苦笑って、手を伸ばして食べかけの食パンをつかむと、口にほお張った。
メガネをかけて、紙面を眺めて、右上から順に読み始めた。新聞を読む目が時々止まって、新聞の後ろの字を見るような目付きになる。コーヒーを取る手も止まって、気がついたようにそれをすする。何度も繰り返し、ため息をついて、やっと新聞から目を離した。
「あのバカ……」
低くつぶやいたので、次に出たあくびにかき消されてしまった。
立って、新聞をテーブルの上に置き、洗面所へ顔と口を洗いにいった。さっぱりすると、目が覚めた。
イーッとして、歯を調べて、そのままニイッと笑う。たつろーに気味が悪いといわれても、習憤なので絶対やめない。
服を着て髪を整えると、電話のメモを見て、たつろーのお父さんのくる時間を確かめた。
今日は平日。お父さんはお昼にくる。会社を休んでまで、たつろーを迎えにくるんだな……心配性なのかね……?
お金を渡すといわれたときは参ったなあ……と、ニヤリとする。すごくハキハキとしたいい方の人だった。語尾が強くて、決してあいまいじゃない。普通に話していても、きっと怒っているように聞こえる人。多分優しくしているつもりでも、押し付けているようにしか聞こえない人かな……と、慎吾は想像してみた。
たつろーがおどおどしているのはそのせいなのかな……
まだ、そんなに遠くにはいってないだろうけど……慎吾は靴をひっかけて、たつろーを探しにいった。
腕時計を見ると十時半だった。そろそろ戻らないといけない。慎吾はマンションのほうへ足を向き直した。
たつろーはどこにいったのやら、見つけられなかった。慎吾は腹が立ってきて、足早になる。
あいつは逃げ切れると思ってんのかよ。ずっとずっと逃げてられると思ってんのかよ。アスファルトを踏み付けて、繰り返す。
俺だって、朱鷺子ちゃんみたいになってしまう。あんまりはっきりしないと、最後にはイライラして、突き放したくなるかもしれない。
これは慈善事業なんかじゃない。お慈悲を垂れてるつもりなんかない。「やってあげてる」なんて、あいつに押し付けるつもりは、全然ないつもりだ。価値とか、そういうこと、あいつに押し付けたくないけど、そういうものにはめ込んでしまいたくなる。
わざとじゃないんだろう。あいつにそんな余裕なんかないじゃないか。あいつは出口を見つけようと、迷路の中をグルグル回っているだけで、精一杯じゃないか。
だけど、このままでどうなるっていうんだ。言葉を行動に置き換えても、相手がわかってくれなかったらどうにもならないじゃないか。これじゃ、前と同じじゃないか、たつろー、しゃべってないのと同じじゃないのか?
眉間が険しくなる。だんだん情けなくなってきて、深いため息をついた。
階段を上って、自分の部屋の階の通路を見ると、人が三人立っていた。
慎吾はあっと思って、駆け寄る。
「すいませんつ、いつ来られたんですか?」
しかつめらしい顔をした中年の男性がぐぐっと前のめりに体を傾けてから、手を差し出して、「どうも、うちの息子がお世話をかけて」
ペコッと頭を下げて、慎吾は彼と握手し、そっとその顔を親察した。日焼けした、年よりも若そうに見える顔。髮は白髮がまばらに混じっている。母親のほうは上品そうな、お嬢さんぽい人だった。案外ふつうのおじさんとおばさんだった。これだったら自分のおやじの方が、オニガワラのような顔をしていると思った。
たつろーより少し背の高い、ひょろっとした眼鏡の少年が、ピョコッと頭を下げた。
母親はジロジ口と慎吾を眺め回している。
ふいに話しかけられて、慎吾は母親を見つめた。
「あ、広告代理の仕事です」
「はあ……どこの会社にお勤め?」
慎吾は少し考えて、
「フリーなんです」
母親は測りかねるような顔をして、慎吾の顔を昆つめている。
「母さん、フリーターじゃないよ。依頼を受けて仕事をするんだよ」
たつろーの兄のカズオが気を利かせて、母親にいった。
「まあ……」彼女はおおげさに驚いて、「そんなんで大丈夫なの?」
カズオはチラリと慎吾を見る。
失礼な母親だ。なにが、大丈夫なの?だ。慎吾は愛想笑いを浮かべて、心の中で舌打ちした。
父親は冷めた目で、そのやり取りを見ていたが、イライラしている様子で、「ところで、たつろーは?」
慎吾はドキッとした。
「いやあ……今お使いにいってまして……」
父親の顔が曇って、「今日、わたしどもが来るとはいいませんでしたか?」
抑圧的ないい方に、反動で慎吾はいい返した。
「知ってましたが、こんなに一時間も早く来られるとは」
「わたしもこいつも昼から予定がつまってるんでね、今日は月曜でしょう、忙しいんですよ。てっきりすぐにたつろーを連れて帰れると思っとったんですがね」
母親のほうは知らん顔ですまして黙っている。フリルのついた襟を指先でもてあそんでいる。
「本当に戻ってくるんでしょうね? アレは大人を小ばかにしたところがあります。ひねくれたところもあるし、今度も判らんですよ」
自分の息子を他人に悪く言いつのる父親の言葉に胸が悪くなる。怒りでにやつく口元がピクピク引きつる。ばれなかったかなと、心配になってと口元に手を当てた。
「ここじゃなんですし、中でコーヒーでもいかがですか?」といって、玄関のかぎを開けようとした。
「アラ」
母親が声を上げた。
「たつろー!」
父親の荒っぽいどなり声が廊下に響く。
「こっちにきなさい!」
ハッとして、慎吾は振り向く。
たつろーがすくみ上がって、通路の端に立っていた。たつろーの顔色を見て、慎吾はすかさず優しく手招きした。
「たつろー、ほら、コーヒー飲むか?」
たつろーはにらみつけるように眉をしかめて、動かない。
「たつろー!!」
父親の怒声がマンション中に響く。慎吾が驚いて父親を見つめたくらい、心臓に悪い声だ。たつろーはビクッとして、体をちぢこませる。
「たつろー! こっちに来い!」
一言一言にアクセントがついている。
「お前はイヌネコみたいになぐらんということをきかんのか!」
父親は、こん棒のように手を振り上げて、猛然とたつろー目がけて寄っていった。、たつろーは両手で頭をかばって、体をかがめた。
母親はハンカチで口元を隠して嫌悪に盾を歪めている。まるで、その目は「すぐに暴力ふるうんだから」といっているようだった。
慎吾は最悪な事態にさせまいとたつろーの方へ駆け寄ったが、すでにすごい音を立てて、たつろーは壁に崩れていた。
亀のように丸まって、床にうずくまっている。
「何かいうことはないんか! お前は! 少しは反省の態度を見せんか!」
たつろーはうつむいたまま、うずくまっている。
「もう一度なぐらんと、口をきかんつもりか!」
「ちょっと……!」
慎吾は父親のわきに回り、彼を押さえた。
「まあまあ、ちゃんと反省してますよ」
邪魔するなと父親が噛みつくような目つきで慎吾を睨みつける。
「一応、ここ、マンションですし、人目に付きますから……さあさあ、コーヒーでも」
チラッと振り返って母親の様子を見る。母親はどうしようかとおろおろとしている。
「あんたに何が判るというんです? ええ? 今ここでこいつに判らせてやらんと、こいつは社会の堕落者になるんだ。ダメな人間になってしまうんですよ! わたしはこいつの父親なんだ! 昨日は失礼だと思っとりましたから黙っとったが、あんたはわたしの家族のことに口を出さんでください」
慎吾はあごを殴られたようなカンジがして、ジッと父親を見つめた。やっとのことで喉まででかかった言菜を飲み込んで、「失礼しました」と頭を下げた。
しかし、父親は引き下がらず食い下がるように、「たった一カ月そこらで、こいつの性格を知ったふうな口をきくのはやめてほしいですな。それにね、あんたは結婚もしとらんし、子どももおらんでしょう! 子どもを責任持って育てにゃならん親の気持ちもわからんのと違うかね!?」
このクソオヤジ……慎吾は口の中でモゴモゴつぶやいて、「そのとおりです。気をつけます」
父親はまだ未棟があるらしく、ジロリと慎吾をにらみつけると、たつろーの腕をつかみ、ムリヤリ引き上げようとした。たつろーは声も出さず抵抗した。分銅のような形になってを姿勢を崩そうとしない。
「お前はァ!!」
歯の間からうなり声を上げて、父親が怒鳴りつけた。
「まだ、いうことをきかんつもりか!」
今度は両手をうでに引っかけて、吊り上げようとした。母親が近くによって来て、「お父さん……あんまり大きな声、出さない方が……」
「わかっとる!」
うるさげに父親がどなった。
わかってないじゃないの、と母親はイヤらしげに顔をしかめる。
「ほら、たつろーくん、あなたのために、みんな、ご用があってもわざわざ無理を押して迎えに来てあげたのよ? 強情張らないでいうことききなさいね。すねてないで。あなたのこと心配してるんだし、あなたが素直にならないから、お父さん大声出して暴力ふるったりするのよ? それにこんなところで、ねえ……お母さん、恥ずかしくって顔から火を吹きそう。早く「うん」っていってね、じゃないと来てあげた甲斐がないじゃないの、ね?」
おっとりと優しげに母親が話しかける。
慎吾は閉口して、たつろーを見つめる。いっていいものか少し迷ったが、「立つぐらいなら、立ってやれよ。たつろー」
意外なことに母親がキッと慎吾をにらみつける。
「なんでこうなのかしら……」
ボソッと投げやりっぽくつぶやいた言葉が、たつろーの顔を上げさせた。殴られた顔が青くに腫れ上がって、涙でグチャグチャになっていた。たつろーは順々にみんなの顔を見ていった。慎吾のうえをふらふらして、いろんな表情がたつろーの顔をすべっていく。
口をパクパク開いて、魚が呼吸困難を起こしているようだった。たつろーは泣き出しそうに顔をクシャと歪ませて、ようやく言った。
「オレ、帰らない……あんたたちにいる家には……絶対、帰りたくない……」
BLUE in BLUE 藍上央理 @aiueourioxo
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