第14話

 梅雨が明けて、あんまり雨が降らなくなった。

 サッシを開け放って、雨臭い匂いのしなくなった風を部屋の中に入れる。青いカーテンが、暑苦しく帆を張って、外の光を透かしている。カーテンに映ったサッシの影が、影絵のように見える。

 僕は影絵に意識を集中させる。ユラユラ揺れて、部屋の中が深海になっていく。顔が青みがかっているかもしれない。ほっぺたに手をもっていく。指の腹にニキビが触れて、爪でこそぎとった。血がにじんだ。青い血かな……でも違う。ホントは全部違う。

 爪の中のニキビの芯を服になすりつける。そこだけ黄色っぽく汚れた。

 背中のほうから慎吾の話す声が閭こえる。

 直角に曲がって来る耳に痛い声じゃなくて、ゆっくり沈んでいって、後頭部に染み付いてくるような声。自分の声が、あんなふうに蛇みたいに、ゆっくりと地面を這うみたいなんだったらいいな……

 風はすっかり乾いている。街のドブ臭い湿った匂いが、いくらかマシになった。風が強く吹くたびに、青いカーテンが大声を出してるみたいに大きく広がってふくらみ、すぐにシュンと小さくなった。

 サッシの向こうの景色が、手に届かないくらい遠くに見える。白っぽい青い空が汚れて、油絵の下地の絵の具みたいに見える。

 手で筒を作って、僕は穴を覗く。デコボコの穴の中に、街の屋根ばかり見えた。

「お手紙拝見しました。たつろーくんにも読ませましたけど、今はまだそっとしておいたほうがいいと思うんです」

 あいづちを打つ声がする。

 僕はギュウと目玉に力を込めて、筒の中を見続ける。青い空は青い海かもしれない。

 僕たちは逆さまの空にいるんだ。キレイなのは海で、キタナイのは空。

 いつか天井までガラス張りにした水族館にいったことがある。まるで自分が海底を歩いているような気がした。区切られてなんかなくて、ホン卜に海底だったかもしれない。想像の中の紙切れみたいな魚はいなくて、前からも横からもちやんと厚みのある魚が、ギラギラ輝きながら僕を横目で見つめていた。

 あ、でも、やっぱり区切られてる。僕が区切られている。

 でも違う。やっぱりそれは違うんだ。

 それでも僕は筒の中に魚を捕らえようと、筒を覗きながら空を探った。段々のケーキのように雲が重なっている。固くて大きな雲が、動きもしないで、空をでっぷりと占領している。

「ええ、しかし、医者とも相談したんですが、今はあまり刺激しないほうがいいらしいんです」

 空は空だよ。魚はもうイナイ……

「それはそうなんですが、いや……僕は全く迷惑していませんよ。何といったら……僕とたつろーくんは友達ですから」

 筒から空を見てたら、魚はまたやって来るかもしれない。

「ちょっと……それは……そんなことまでされると……それは関係ないでしよう。確かにそうなるんでしょうけど……」

 伸ばしてた足を折り曲げて、ひざを胸にひっつけた。なんだか、足がムズムズして、足の裏と裏をこすり合わせた。冷たい汗が足の裏の皮膚の細かいひだの一本一本に染み付いて、ギュッギュッとゴムを履いたみたいに感じる。

「いや、あのですね。そんなことないですよ。ちゃんとやってますし、普通ですよ。とんでもない。いや……だから、夏休みが終わるくらいまで、こちらで預かってても僕は迷惑しませんから」

 手もだ。

 薄い膜があって、かゆい。冷たい汗で湿っている。指でこすると、もっとかゆく感じて、爪でカリカリとかいた。赤い斜線が、赤鉛筆の線みたいにジグザグについていく。じっとりと手のひらが冷たい。気持ち悪い。

「だから……さっきからいってますとおり、僕はかまわないんです。そんないい方だと、あの子が何もかも悪いみたいじゃないですか。彼はもう子供じゃないし、彼に聞いた方がいいと思うんですが」

 指のまたの間に何かが挟まってるような気がする。こすって見て、少しそれが取れたみたいなカンジがした。シャツを引き伸ばして、指を丹念にこすっていく。でも汗ばんだ感触は消えない。おなかの裏っかわがイジイジする。尾てい骨がモジモジする。

「待ってください。お気持ちはわかるんですが、これは本人の気持ち次第でしょう? 彼が戻りたいって思わないと、同じことの繰り返しじゃないですか」

 なんだか、どこもかしこも汚れているような気がし始めて、落ち着かない。さっきニキビをつぶしたけど、顔中ニキビだらけかも知れない。汗とかほこりとかが引っ付いて、油っぽくテカテ力してるかもしれない。

 僕はシャツを顔まで引き上げて、肌がひりつくくらいこすりつけた。

「はあ? ちょっと……さっきからいいたかったんですけどね、たつろーくんはそんな我がままじゃないし、わざとやってるわけじゃないし、あの子なりにけっこう苦しんでんですよ? 小田さん、たつろーの父親でしょう? わかんないんですか?」

 立って、洗面所へいって、全部キレイに洗い流してしまいたい。どんなにこすっても、セッケンをつけなかったら、絶対とれないんじゃないのかな。

 僕は鼻をすすりあげる。鼻の奥がツーンとして、変なカンジがする。

「僕は利用されてなんかいませんよ!」

 僕は目をゴシゴシこする。指が濡れて、目の縁がジンジンする。

 いつのまにか、手で作った筒をはずしてしまった。でもいつかはどうせはずしてしまうつもりだった。心の奥で何かがおいてけぼりを食ったようにジリジリするだけで、もう何ともなくなった。薄汚れた空に青いカーテンが広がって、しぼんだ。

「あーあ」

 慎吾が電話を切った後、大きなため息をついた。

「なあ、おまえのお父さん、明日来るってさ」

 サビついた機械人形みたいに首が動かない。

 慎吾の声はすぐ真後ろにあって、ソファにドサッと座った振動が伝わってきた。

「お前、帰りたい?」

 僕は口の中で舌を動かして、前歯の裏をなぞった。

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