星の降る夜に

黒井羊太

その日、星が降るのを見たんだ。

 赤々とした夕日が西の山陰に沈み込もうとしている。

 夕日の色に染め上げられていた世界はやがて色を無くし始め、同時に温度すら失いつつあった。昼間までの暖かさが嘘のように、グンと寒さが増す。

 僕らはその日が沈む様子を、通学路沿いにある小さな公園のブランコに隣同士で座って眺めていた。


 太陽の断末魔のような、山際の最後の残光がたった今消えた。

「日、沈んだね」

 彼女がぽつりと呟く。

「沈んだね。もうすぐ暗くなる」

 僕も呟く。力無く、抜け殻のような僕たち。

「これでもう、お終いなんだね」

「そうだね、もうお終いなんだね」

「実感、湧かないなぁ」

「そりゃまあ、そんな経験もないしね」

 ゆっくりとした言葉のラリー。何百回も交わしてきたからの呼吸。だがそれも、今日までの話。

「まだ信じられないわ。今日で地球は最後だなんて」

 そう、今日は地球最後の日。あの空に浮かぶ巨大な黒き星が地球に衝突して無くなる日だ。


 最初の頃は、全く誰も信じていなかった。曰く、世界中のあらゆる予言書に共通の終わりの日がある。曰く、あらゆる占いが未来を見通せなくなった。

 そんなバカな、と誰も真剣に取り合わなかったが、科学的調査を重ねている内に巨大な星が衝突する事が分かり、その規模は地球が割れて無くなる程だとか。そうなれば人類は誰一人生きて残る事は出来ない事も分かった。

 慌てふためいた人類は出来うる限りの対策を打った。巨大な力をぶつければいいと人類が生み出した最大火力・爆弾皇帝(ツァーリ・ボンバ)を幾つも束ねて打ち込んだ。効果はなかった。科学の粋を集めて地球脱出を目論んだ。とても間に合いそうもなかった。ありとあらゆる神に祈り倒した。意味はなかった。

 観測は無情にも接近し続ける星の存在を知らせ続けた。

 

 どうあがいても地球は消滅し、人類は滅亡する。

 この事がはっきりと分かった途端、人類はパニックを引き起こした。

 略奪、殺人、強姦。あらゆる犯罪が横行し、都心部は無政府状態の暗澹たるものに変化していた。


 僕たちの住む町は超がつく程のド田舎で、幸いにしてそんな状況の中にこんな所に来る人間はいなかったし、殊更大騒ぎをするような人間は誰一人いなかった。

 口を揃えて言うのが、「人間いつかは必ず死ななきゃならんのだ。今大騒ぎしたってどうもんりゃしないだろう?」との事。

 そのお陰もあって、今日も静かに、いつも通りの穏やかな時間が流れている。その事が、僕たちにとって「今日が地球最後の日」なんて感覚を与えなかった何よりの理由だ。


 日も沈み、辺りに夕闇が密かに訪れる。あらゆる物体の表面に薄く黒い膜が張ったように、色を失い音を無くす。恐ろしい程に静かだ。

 パッと、光が差し込む。公園の街灯だ。スポットライトの如く、僅かに公園の何もない地面を照らし出す。先程までの黒い膜はすっかり追いやられるが、隙あらば入り込もうと光の淵で狙っている。

 その攻防から僅かに漏れ出た光が彼女の横顔を照らす。彼女は静かに空を見上げていた。

 遠くから風が吹く。遠くの森の梢を揺らしながら徐々に近づいてくる。最初はごぅ、と微かな音。それがやがて大きな音となり、ごううごううと吹き荒びながら僕らの上空を抜けていった。

 そこから漏れ出た、まだ生ぬるい風が彼女の髪を少しだけ揺らす。彼女は風で乱れた髪を片手で梳く。

「良くさ」

 ふいに彼女が話し始める。

「ん?」

「良くさ、『今日で死ぬとしたら、あなたは何をしたい?』なんて質問があるけど、いざこうして突きつけられると何をしたらいいか分からないものね」

 突拍子もない事を独り言のように言う。僕は彼女の意志が読みとれず顔を見たが、ぼうっと空を眺めたままの彼女を見て、大した意味はないのだと悟る。

「そうだね。こんなにもはっきりと終わりが突きつけられているのに」

 遙か上空に浮かぶ巨大な星を指さして僕が答える。星の姿は徐々に暗闇に覆われていくが、降り始めた夜の帳よりもずっと暗い星の輪郭は際立っていてとても目立つ。

「その質問に答える時にも、この今の時にも、僕らはきっと自分が死ぬなんて想像だにしていないんだろうね」

「人間必ず死ぬというのにね。いざ目の前にその事実を出されると、そこでようやく慌てふためいて『何かをしなければ!』だなんて。間抜けにも程があるわ」

 彼女の言葉は辛辣だ。だが、テレビやネットから漏れ聞こえてくる都会の様子はそれを肯定して止まない。

「それでも」

 一瞬の躊躇いの後、彼女は言葉を続ける。

「それでも、最後だからこそ、出来る事もあるのかしら」

 彼女の言葉に、僅かに熱が帯びる。長い付き合いだからこそ見逃さない、些細な変化。彼女は真剣だ。

 僕は言葉を選んで、答える。

「人によっては、覚悟を決める理由になるかもね。

 人生の最後の瞬間を、他の誰の為でもない自分の為に使う事。それ自体何か間違いと言う訳じゃないと思う」

 彼女の表情は、ほんの少しだけ嬉しそうだ。

「ねえ」

「ん?」

「君はどうしたい?」

 微かな笑みを浮かべたまま、彼女は僕に問いかける。何年も見てきた彼女の笑顔。それを見るたびに、僕の心の中に何か小さな炎がチロチロと顔を見せる。僕はいつだってそれに気付かない振りをする。

 大袈裟に腕を組み直して、悩む素振りを見せる。

「う~ん、そうだなぁ。僕だったら、『どうもしない』かな。だって終わっていくんだから、何もせず静かに時を過ごしたい」

 僕の答えに、彼女はくすくすと笑う。

「それは随分達観してる“風”よね。『僕は死を受け入れちゃってるんだぜ!』みたいな、気取った感じが鼻につくわ。そのくせきっと、誰よりも生に執着している。もし君が本当にそれを言ったら、きっと私は殴りつけるわよ」

「それは酷いな。じゃあなんて答えれば、僕は君に殴られずに済むのかな?」

 僕の問いに彼女は少し考えて、悪戯っぽく笑いながら答える。

「それを考える、を最後の瞬間までしましょう。今」

 それじゃいつも通りだ。だが、それが一番良い気がした。


 僕らはそのまま、隣同士のブランコに座って侃々諤々、大体いつも通りの会話を始めた。

「多くの人は、人間的でない行為をする、という選択をしたね」

 僕は、都会での様子を思い浮かべながら端緒を発する。

「そうね。それはそれできっと正しい事なのよ。

 明日死ぬなら、世界が消えて無くなるなら、モラルなんて必要ない。人間的な行為を取る必要がない」

「でも僕はあまり感心しないな。やっぱり最後の瞬間まで自制すべきだ。大体本当に終わるかも分からないし」

「あら、私はそうでもないけど。どうせ最後なんだから、思い切って何かをすると言う事自体には賛成よ」

 彼女は僕を見て微笑みながら言った。口の端に妖しさを僅かに含んだ微笑み。何かを企んでいる時、彼女は良くこの笑い方をする。

「最後なんだもの、全てが烏有に帰す。その前に、ちゃんと一区切りつけたい、というのは人間の心情でしょう?」

「それも一つそうなのかも知れない。けど、どうせ最後なんだから何もせずに終わっても同じなんだと思うよ」

 僕は予感していた。これまでの会話、彼女は何かを意図している。このまま彼女の口車に乗ってしまっては、きっとろくな目に遭わない。これまでだってずっとそうだった。だから必死に思考を回して、必死にそれを悟られないように表情を作って、何とか自分に都合の良い言い分に持っていこうと努力した。

 だというのに、心の内の炎はほんの少しずつ大きくなっていく。身の内から焼かれ、心の中は強い衝動に任せてしまいたい、そんな気持ちが支配していくのを感じる。僕は、それを必死に抑えつける。


 星が落ちてくる。いよいよ大気とのせめぎ合いが始まって、少しずつ赤く燃え始めている。大気との摩擦熱で真っ赤に染まった星は、先程までの夕日のように赤く大地を照らす。

徐々に辺りが明るくなってくる。大気が歪む轟音が微かに聞こえる。ばりばりと何かが壊れるような音が、振動が伝わり始める。

 46億年の地球の歴史が今、遂に終わるのだ。僕は彼女とそれを見上げていた。

 ふと、彼女が僕を横目に見ながら問いかける。

「やり残した事、ないの?」

 ギクリとする。実は、ある。

「な、ないよ」

「嘘」

 即座の否定。射抜くような視線。何度も見てきたのに、心の内側まで丸見えになっているような感覚、どうにも慣れないものだ。

「嘘じゃない」

「どれだけ長い付き合いだと思ってるの。嘘ついてるってバレバレ」

 そう、彼女と僕はこの田舎でずっと育ってきた。僕が彼女の事を良く知っているように、彼女は僕の癖などとうに見抜いている。しかし無駄な抵抗と知りつつも、この秘密だけは最後の最後まで言わずにいようと僕は決めている。

「いや、ないよ。やり残した事なんて、何も」

「随分達観した“風”ね。殴りつけてやろうかしら……じゃあ質問を変えるわ。『あたしに何か言い残した事』はない?」

 あぁ、これは完全にばれている。長い付き合いだ、彼女のこう言った事に関する勘の良さ、そしてしつこさはよく知っている。

「もっと言おうかしら? 『あたしに言うべき事』はない?」

「分かった、分かったよ。でもちょっと待って」

「待っても良いけど、時間は余りないわよ」

 彼女は空を指さしながら言う。真夜中だというのに、空は赤々と燃えている。

 僕は溜息を吐いて、必至に言い訳を考える。

「でももうすぐ終わりなんだ。何も言う必要なんて無いじゃないか」

「あら、もうすぐ終わりなのよ。何を言ってももう関係ないじゃない」

 グッと言葉に詰まる。こういう屁理屈を言わせたら彼女にはちょっと勝てない。

「人間、死んだ気になれば何でも出来るものよ。ううん、いつだってそういう物なのに、自分は死なないと思っているから、その後の事があるからと思ってしまうから何も出来ずにいてしまうのよ。

 もう、その後はないんだもの。失う物なんて、ないでしょう?」

 僕は言い返せなかった。いや、言い返す気もなかった。

 僕がこの言葉を言えなかったのは、万が一にも傷つきたくなかったからだ。傷つけたくなかったからだ。

 僕らの関係を、築き上げた世界を壊してしまいかねない言葉。のるかそるか、一か八か。破滅か幸福か。

 僕はとっくの昔に気付いていたんだ。この言葉はきっと幸福しかもたらさない。でも、万が一、万々が一にも破滅が来たら僕は生きていけなかった。

 どっちにしろ生きる事などできないこの状況、もう何も恐れる必要なんて無いじゃないか。彼女の言葉は正しい。

 あの小さかった心の炎はすっかりその勢いを増し、空の星にも負けない程僕の心の中で赤々と燃えている。

 はぁぁぁぁ、と大きく溜息。覚悟を決める為の溜息だ。

 そうだ。彼女の言う通り、今更失うものなんて無い。なら、言うだけだ。結果なんて恐れるな。

 パッと顔を上げて、ブランコから飛び降りる。つかつかと彼女の前に立ち、はっきりと言葉にする。

「好きだ、付き合ってくれ」

 彼女は僕がこの言葉を口にすると知っていた。多分ずっとずっと前から知っていた。だからずっと満面の笑みを浮かべていた。

 そしてその答えも、ずっとずっと言いたかったんだと思う。満を持して、最高の笑顔で彼女は言った。

「はい、喜んで」

 地球最後の日。星が落ちてくる夜。

 僕らの青春はたった今から始まるのだった。

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星の降る夜に 黒井羊太 @kurohitsuji

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