うすべに、くれない、きみの歌

二条空也

うすべに、くれない、きみの歌



 薄紅の花弁が散っていた。篝火に照らし出された藍色の闇。花は、うつくしく乱反射しながら地に降り注ぐ。硝子が微かに擦れあう音。それによく似たささやきを響かせながら、藍の合間に薄紅の花がきしきしと降り注いでいる。地を染めていく。花染めの地。桜の世界。境界。異界。踏み越えなければ届かない。

 瞬きをしても、目を閉じても『見えて』しまうそれに、少女は歯を食いしばり、藍色の闇へ後ずさった。そこは遠くに灯る家のあかりのように、懐かしくて穏やかで、優しい。それが分かっているからこそ、なお近寄りたくなかった。呼ばれているのが分かる。かわいそうに、と声がする。かわいそうに、つらかったでしょう。こちらへおいでなさい。

 それは好意だ。哀れみという行為。慈悲でもあるのかも知れない。悪意ではない、と分かる。それは少女をやさしく哀れんでいる。もうそんな想いはしなくていいのだと。つらいことは、ここにはないのだと。おいで、おいでと囁きかける。少女は目を閉じて息を止めた。耳を両手で塞いだ。それでも。桜散る光景からも、言葉からも、逃れられない。

 薄紅の花が散る。歌声のようにそれが囁く。それは少女を呼んでいる。いつまでも、いつまでも。飽きることも、諦めることも、してはくれないのだろう。それは、少女を呼び寄せてしまうのが最良だと思っている。この世の悪意から、善意からも、もうなにものにも少女が蝕まれて泣いたりしないように。永遠に守ることが良いのだと、思って、決めてしまっている。

 花の香りに浸された思考が、それが一番良いのだと話しかけてくる。冷静な心が、それでも、本当に、そうしてもらうのが一番なのだと理解してしまっているからこそ、否定と反発は苛立ちにしか頼れない。それは余計なお世話で、まったく少女の意思を無視した行いで、穏やかでやさしくて、きっと、幸せなのだろう。だからこそ、受け入れられない。

 息を吸って、少女は浮かび上がってくる涙を肯定した。かわいそうだと思われることを、肯定する。つらかったことを、肯定する。否定しないで受け入れる。それは哀れみ、慈しまれることだろう。それでも。それを抱えて生きていくと、もう、決めた。だから、そんなものはいらない。癒しも、肯定も。人でない者からの愛も、許しも。

 無残な痛みそのものが。失われ、成就しない、少女の恋。




 煉瓦造りの学び舎に、三時間ごとに打ち鳴らされる時計塔。御伽話めいた学園を通り過ぎていく夏の風に、セーラー服が鮮やかにひるがえる。今日も暑くなるのだろう。睡眠不足から来る眩暈に息を吐きながら、少女は昇降口を前にして足を止めた。少女ばかりがするすると吸い込まれていく昇降口。その右端でもなく左端でもない真ん中に、桜の古木が揺れていた。

 あたかも桜の木が最初にそこにあり、校舎をつけたかのような佇まいである。しかし古木が移設されたのは、今年の春の盛りのこと。日常を異変に浸食されることに慣れきった生徒たちは、今度はなんだろうね、と首を傾げるだけでその移設を受け入れたが、少女だけが今も、その変化に忌々しい気持ちを捨てきれない。

 なるべく視線を逸らして置きたいのに、昇降口というどうしても通過する場所の、しかも真ん中にあるせいで、毎日強制的に目の前に差し出されているような、そんな気持ちになる。朝に、夕に。絶え間なく。黒い革鞄を持つ指先に力を込めて、苛立ちのあまり込みあげてきた頭痛を、なんとかやり過ごそうとする。この古木は、あの夢の花ではない。分かっている。分かっているのだが。

 別人だと分かっていても、嫌いな双子の片割れが目の前にいたら、あなたに罪はないの分かっているのごめんなさい、と断ってからひっぱたく。そういう性格をしているもので、中々に耐えがたいものがあった。

 登校していく生徒たちの中で、ひとり。立ったまま強張って動けないでいる少女の肩を、ぽん、と叩く者があった。

「さくらさん」

 おはよう、と声をかけられて。さくらは深く息を吐きだし、クラスメイトの少女におはよう、と声をかけた。うん、と笑って、少女はさくらの手を自然に取って歩き出した。また眠れなかったんでしょう、今日テストだよ大丈夫なの。とりとめもない言葉で、青々と茂る古木の葉の、風が通り抜ける、その衣擦れに似た音を遮るように話しかけてくる。

 同じではなくとも。その音を嫌いぬいていると、知っているからだ。ありがとう。囁く声を、境界を吹き抜ける風の音が消した。振り返れば、古木から青い葉が一枚、階段の上に落ちて行く。夏の日差しを弾くその緑が。やけに目の奥へ、あざやかな色を残した。




 さくらの恋が死んだのは、冬の終わりのことだった。殺された、と思うくらいでもいいのかも知れない。それは全く不本意な終焉だった。恋そのものは平凡であったのだと思う。隣の家に住んでいた幼馴染。ひとつ年上の青年が、さくらの想い人だった。恐らくは両想いで、それを薄々互いに分かっていながら、決定的に口に出すことも態度にすることもなかった。

 ただ、手を繋いで時々歩いた。ふたりで、色々な場所へ出かけた。笑い合った。そういう相手だった。きっと、大切すぎて、大事にしすぎていて、変化を恐れすぎていた。互いに、きっと、そうだった。だからこそ恋は殺されたのだ。深く結ばれてしまう前に。引きちぎられて、消えてしまった。その時のことを忘れられない。

 青年は、人ならぬ者にたいそう好かれる性質だった。そういう血筋であるのだという。だから一緒にいるさくらも、時々、そういう目にあった。例えば、放課後。夕日一色に染まった校舎で、歩けども歩けども、どこへ行くことも帰ることもできずに迷わされた。例えば、ふと目を覚ました深夜。部屋に満ちるひそひそとした声と、なにかの形をした影。例えば、鳴り響いた電話の先の無垢な笑い声。

 そのたびに、青年はさくらを助けてくれた。迎えに来た、と言って現れて手を引いて歩いてくれた。惑わすそれが青年の姿を取ったこともあったが、さくらが見間違えることはなく。青年の気を引こうとするそれらが、諦めたのか、さくらの存在を受け入れたのか。じわじわと、そうした目にあうことが減り始めていた。そんな矢先のことだった。

 それは、さくらに目をつけたのだという。青年ではなく、さくらに惹かれたのだという。青年はそれらに好まれる血筋であるが故に、ある一定の期間を除いて直の手出しを禁じられていた。だからこそさくらがあれこれ怪異に巻き込まれたのだが、つまり青年は、その約束事により守られてもいたのだ。いつも無防備なのはさくらだった。その時も。守る術を、なにも持っていなかった。

 気がついた時には。気がついてもらった時には、手遅れだった。神か、あやかしか、表す名を持たぬ他のなにものにか。さくらは縁を結ばれていた。知らぬ間に。時が満ちれば迎えられるのだと、いった。花嫁として迎えられるのだと。それは人としての死だ。さくらの拒絶は聞き入れられなかった。結ばれた糸は、さくらの目には赤く見えた。それが幾重にも絡みついていた。

 足にも腕にもぐるぐると、首にもそれは巻き付いていた。日に日にそれは増えて行った。時がじわじわと満ちて行った。行きたくない、と泣くさくらを、青年は抱きしめて告げた。この糸を全て切ってしまえば、連れて行かれないでも済むかも知れない。そうすることはできる。希望に頬を緩ませたさくらに、青年は告げた。けれどもこれは運命の縁。それを全て断ち切ることになる。

 選んで切ることはできない。切ればもう二度と結ばれることはない。誰からも、なにからも。どんなに望んでも。互いに望んでも。結ばれることはない。切ってしまえば。告げる青年の指先から、一本だけ。赤い糸が伸びていた。それはさくらへと繋がっていた。目元にもぐるぐると結ばれた、途切れた視界でも、その糸だけは鮮やかに見えた。運命の赤い糸。望んで切ればもう二度と、結ばれることのない。

 好き、と言った。恐らくは、はじめて、その想いをのせて告げた。好き。あなたが好き。あなたと一緒にいたかった。ずっとずっと。いつか結ばれるなら。あなただと思っていた。青年は、頷いてさくらに口づけた。たった一度。それが、触れあえる最後だった。糸が切られていく音を、さくらはじっと聞いていた。あっけなく切れては、はらりと解けて消えていく糸を。その赤さを。じっと、ずっと、見ていた。

 最後のひとつが切れるまで。瞬きと呼吸だけをしていた。青年は己の指先に絡んでいた糸に触れて、今にも解けて消えてしまいそうなそれを、さくらの指に結んでくれた。左手の小指に。ちいさな蝶に結ばれたのを、確かに見て。それきり、それは、見えなくなった。元から、さくらはそういうものを見る目を持つ訳ではない。だから、それが今でも結ばれたままそこにあるのかは分からなかった。

 青年とは、手を繋ぐことならできた。それ以上はとうとう叶わなかった。触れ合おうとするたびに火事や、地震や、事件が起きた。さくらが怪我をすることも、青年が怪我をすることもあった。周囲が傷つくこともあった。切れた縁が、繋がることを許さないようだった。青年の家から、さくらがこの学び舎を示されたのは、そんな折のことだった。

 人里離れた場所にあるこの学園は、その為に作られ、そういう少女たちが集められるのだという。その為、が、具体的になにを示しているのか。そういう少女たち、とはなんなのかを、さくらは詳しく聞くことがなかった。ただ、そこへ行けば、もうすこし楽に生きていけるかも知れないと。その言葉に、さくらは頷いた。疲れていた。叶わなかった恋と、その結末に。

 思えば、逃がしてくれたのだろう。青年から。そして、青年を今も恋しがる、人ならぬ者たちから。距離を置く、というのは有効な手段だ。近くに居なければ目を向けないでいい。たったそれだけのこと。それなのに。逃れきれなかったことを知るのは、学び舎の、慣れぬ寮の部屋で眠り始めて数日も経たない頃だった。

 呼ばれた。ふと意識がそう感じて、気が付けば目の前には藍色の闇が広がっていた。すこし距離のある所に、うつくしい桜が咲いて、散っていた。ああ、とさくらは笑った気がする。逃れられなかったのだ。人ならぬものの意識、興味、好意を向けられるその場所から。一度捕らえられたさくらは、遠ざけられて、なお、逃れることができなかったのだ。

 久しぶりに声を聴いた気がする、電話口で。青年は苛立ちのある、それでいて優しい声でさくらに言った。あれとは違って、強引ではなく、拒絶を聞かぬ訳ではなく、近づいてくるというものでもない。ただ、それは憐れんでいる。哀れんでいる。全ての縁を切られたさくらのことを。人ならぬものに欲せられ、拒絶を聞き入れられず、怒りと嫌悪だけでいっぱいになったさくらのことを。

 青年を、恋しがっても結ばれず。悲しむことを、かわいそうに、と思っている。だからこそ慈悲で、やさしさで、愛情で。さくらのことを呼んでいる。もうなにも悲しまなくていいと。痛い思いをしなくていいと。守ってあげるから、こちらへおいで、と。同じ名を持っているからこその、仲間意識で。その桜は、あるいは桜のかたちを得たなにかは、さくらのことを呼んでいる。

 死んだ恋を道連れに。その痛みを共に歩んでいくと決めた、さくらのことを。身勝手に憐れんで悲しがって、やさしくやさしく癒そうとしている。守ろうとしている。青年でなければいやだ、と拒絶したことを聞き入れなかったものと。なにが違うの、とさくらは泣いた。気持ちをなにもかも無視して、私のことで身勝手になにかをしようとして。そんなことは許せない。それがもし幸せなのだとしても。

 そんな幸せなど、いらない。告げたさくらに、うん、と言って青年は笑った。すこし安心したように聞こえた。時間をかけよう。それしかできない。それが、強引にさくらを引っ張っていくことはない。ただ腕を広げて、さくらが来るのを待っているだけ。やさしい言葉で、引き寄せようとするだけ。嫌なら行かなければいい。もしも無理にさくらを引いていくことがあるなら。

 その時にはまた切るよ。嫌なら。さくらが嫌なら、何度でも。その約束から一月もしないうちに、昇降口に桜の古木が来たのだった。本体が来たのかと気がおかしくなりかけたが、青年の家の者が言うには真逆のものであるらしい。それは鎮守の森の古木であり、花嫁となったものであり、御神木であり、神の番であり、守護者であるのだと。さくらの窮状に、青年が口利きをした結果なのだそうだ。

 つまりはその古木があるかぎり、さくらは強引に連れて行かれるようなことにならず。例えそうなったとしても、青年が来るまでの時間稼ぎになるのだという。知ってなお、さくらがその古木に好意的になれないのは、姿形が同じであるせいだ。うつくしく柔らかな悪夢の先。さくらを呼び惑わすそのものは、古く立派な、桜の木のかたちをしている。




 薄紅の花弁が散っている。きしきしと、硝子が擦れあう音を奏でながら。藍色の闇の中に、うつくしく花は降っている。さくらは一度も、声をあげたことはない。夢の中で。いつも息を止めて、瞬きをしても消えないで『見えて』しまうそれを、目覚めるまでずっと眺めている。やさしい好意を、一方的なそれを、拒絶し続けている。やがて、息が苦しくて目が覚める。胸の痛みで目が覚める。

 無残な痛みがじわじわと消えていく。そのことに震えながら、かきむしるように、目を覚ます。




 夏がゆるく終わっていく。日差しの強さに目を細めながら、クラスメイトに手を引かれて、さくらは昇降口へと辿りつく。頬を撫でる風は秋のにおいがした。靴箱から上履きを取り出して、さくらは古木を見る。瞬きをすれば見えなくなる桜の木。枯れた色を混じらせ、葉が、音もなく階段へ落ちていくのを見た。

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