ゲロマズカフェ

谷川人鳥

至高の一杯

 北条ほうじょう沙弥子さやこは梅雨の時期になるといつも鼻炎気味になった。

 窓に打ちつけられる水滴の音が鼓膜を敏感に揺らすが、湿った空気と薄暗がりの混じった独特な匂いは彼女にはほとんど届かない。

 上品な刺繍模様で彩られたティーカップを慣れた手つきで拭きながらも、意識は自然と普段より鈍くなった嗅覚に向かってしまう。


(今日はあまりお客さん来ないといいけれど)


 祖父の代から始まった小さな喫茶店とはいえ、その界隈では有名で、熱心なリピーターも多い。

 そんな店で三代目マスターとなった沙弥子は、硝子を通して灰鼠の空を覗いてみる。彼女の心模様とすっかり同じ色に染まった景色をいくら眺めても、気持ちも天気も一切晴れる気配はしなかった。

 

(鼻がやられちゃうと、味がわからなくなるし、ブレンドもやり難くなるのよね)


 自分の調子を確かめてみようと、沙弥子はコーヒーを一杯淹れてみることにする。

 まだ彼女は二十代と若いが、物心ついた時から先代のマスターである父の背中を見て過ごしてきている。今更工程で迷うことはない。てきぱきと要領良く準備を進めていく。

 まず彼女が手に取ったのは埃を被った瓶だ。やけに黒々しい豆がねっとりと底にこびりついている。

 時折り鼻を啜りながら瓶のフタを開け、細長いスプーンで引き剥がすようにして豆を掬った後、カップに擦りつけた。

 次に祖父の代から受け継がれてきた特製のポットから熱湯をカップに注いでいく。湯気の全くでない中途半端な温度の水に浮かぶのは、なぜかシート状になっている豆だったモノ。それを手早くかき混ぜると、色白の顔を微動だにさせないまま彼女は上から粉チーズを振りかける。その粉チーズの入った缶にはMIRKと手書きで記されている。その事に彼女は何も疑問を感じないようだった。


(さてさて、どんなもんかしら)


 種類のわからない粉チーズが溶け切れず中途半端に漂うコーヒーを、沙弥子は早速といわんばかりに口に含んでみる。

 舌の上でぬるい黒濁色の液体を何度か転がす。

 得体の知れない刺さるような刺激が、明らかに不健康そうな酸味と共に口の中に広がった。

 死んだ細胞を想起させる仄かな香り。炎症反応で通りの悪くなった鼻腔でさえも、その臭気を無視することはできなかった。


「……うん。いつも通り最高にまずいわね。さすが私。目測でもなんとかなるもんだわ」


 そしてコーヒーの残り全てをカップを投げ捨てる勢いで流し台にぶちまけると、沙弥子は満足そうにひとり頷いた。

 彼女はこの方生まれて一度も自分が淹れたコーヒーを一度も美味しいと思ったことはないし、さらに言えば彼女の祖父である初代マスター、二代目マスターの父が淹れた物もドブ以下の存在だと思っていた。


『沙弥子、お前は天才だ。こんなにまずいコーヒーは飲んだことないぞ。俺の父さんのがクソマズだとしたら、お前のはゲロマズって感じだな』


 水道水で何回かうがいをしながら、沙弥子は今は夫婦そろって世界一周の旅に出ている父から昔言われた台詞を思い出す。

 幼い頃から彼女は何をやっても不器用な少女で、いつも父に叱られてばかりだったが、唯一コーヒーを淹れることだけは手放しで褒められた。

 この喫茶店で出しても恥ずかしくない代物を出すのに父は三十半ばを過ぎるまでかかったというが、一方彼女は年齢が二桁に差し掛かるかどうかの時点ですでにその領域には辿り着いていた。

 まさに北条沙弥子は神童だったのだ。


 ――ちりん、ちりん。


 その時、ふいに店の扉から軽やかな鈴の音が聞こえてくる。

 コンクリートを叩く雨音が少し増したかと思えば、次いで玄関口から傘を大袈裟に鳴らす音も届く。

 

「いらっしゃいませ」


 沙弥子は姿勢良く頭を下げる。

 店内にやってきたのは初老すら越してしまったような老婆で、腰を低く降りながら狐のような目つきで沙弥子を睨みつけている。

 初めて見る客だった。


「……アンタは誰だい? 弥次郎やじろうはどうしたのさ」

「あぁ、祖父の知り合いの方ですか? 祖父はすでに引退して、今は私が。私は孫の沙弥子と言います」

「孫? ふーん、そうかい」


 老婆は少しばかり残念そうな顔をしながらもカウンター席に座る。

 弥次郎というのは沙弥子の祖父、つまりはこの喫茶店の初代マスターのことだ。

 どうやら老婆は先代を超えて、彼女の祖父が店を営んでいた頃の客らしい。


「もうあの偏屈ジジイはいないんだねぇ。アタシも歳を取ったってわけだ」

「すいません。もう少し早くに起こし頂ければ、祖父にも……」

「いや、いいのさ。べつにアイツの顔が見たかったわけじゃないんだから」


 老婆はどこか遠い目をしながら、何かを回顧するような表情をみせる。

 そんな老婆の様子を見ながら、沙弥子は申し訳なく思った。

 彼女の祖父は今でも朝から半裸で踊り狂うほどに健在だが、昼前には無意味に散歩に出ていってしまう習慣があったのだ。それも天候を全く気にせず。

 朝方であれば老婆も積もる話を祖父と交わすことが可能だったのにと、沙弥子は祖父の悪癖を恨んだ。


「それじゃあ、コーヒーを一杯頂こうかしらね。アイツの孫がアタシを満足させられる一杯を出せるかどうか、お手並み拝見といこうじゃない」

「……わかりました。コーヒーを一杯ですね」


 そして追憶の瞳を閉じた老婆は、おもむろにコーヒーを一杯を頼む。

 老婆がやけに挑戦的な声色だった事もあり、沙弥子は大人気なくも棘のある口調で注文を承った。


「弥次郎がまだここで働いていた頃にね、アイツのせがれが出すコーヒーを何度か飲んだことがあるけど、あれは酷いもんだったわ。弥次郎の足下にも及ばない。婿入り息子だって聞いたけど、ありゃ才能がなかった。アイツは嫁選びも下手糞だったけど、一人娘の夫選びも大概だったんだわね」


 老婆がぽつりぽつりと話すのを聞きながら、沙弥子は黙々と準備を進めていた。

 話の内容から薄らと、父が馬鹿にされているのだと理解していた彼女は、内心をフツフツと沸き立つものを感じている。

 たしかに父には沙弥子や祖父の弥次郎に匹敵するような天賦の才はなかったが、それでも彼女は自らの父を誰よりも尊敬していた。

 仕事熱心で、向上心が強く、そして心優しい父。

 もはや鼻炎など気にしている場合ではない。彼女は自分と、自分の最も尊敬する人物のプライドにかけてコーヒーを淹れている。


「……お待たせいたしました。コーヒーになります」

「へぇ?」


 コト、と小さな音を立ててカップが一つ老婆の目の前に置かれる。

 その瞬間、店内の空気が変わった気がした。

 現実か、幻視か、禍々しい紫紺の湯気が立ち昇り、辺りに充満していく。


「なら、さっそく、頂かせてもらうよ」


 沙弥子は何も言わず、無言でただ老婆を見つめるのみ。

 自信と余裕に満ち溢れた堂々たる泰然とした態度。

 気圧されるのは老婆の方で、カップを取る手が自然と震える。

 宵のように暗い水面には、己の顔だけが映っていて、他には何も見えない。

 そしてついに、恒久の時を感じさせるほど皺の刻まれた唇が未知の宇宙に触れる。


「――っ!」


 舌先が沙弥子の淹れたコーヒーに触れるやいなや、老婆は脳天をこん棒で叩き割られるような衝撃を受ける。

 全身の五感が麻痺し、疲れ果てて蹲っていた細胞が絶叫しながら飛び上がるのが分かった。


「……信じられない。これは完全に、弥次郎を超えてるじゃないのさ……」


 軽く過呼吸になりながらも、老婆は絞り出すように呟く。

 たった一口で理解できてしまった。

 確かにカウンターの向こう側に立つ若い女マスターが、老婆の最も敬愛する人物の血をひいているのだと。


「まずい、まず過ぎる。ゲロマズじゃないの。どうやったらこんなもの創り出せるってんだい。人間業じゃないよ」


 馬糞の掃き溜めでもこうはならないと言い切れるほどの異臭。

 砂糖や乳製品が入っている様子は全くしないのに、舌に絡みつく不愉快な甘さ。

 化学薬品を彷彿とさせる刺激がしたかと思えば、生魚をミキサーにかけたかと疑ってしまうほど生臭い芳香が口一杯に広がる。

 老体となり弛緩しきっていた肉体が、本能的に危険を感じているのか、これ以上ないくらいに脈動していた。

 それでも老婆は、不思議な力に導かれ、再びコーヒーを口元に運んでしまう。


「ぼおぇ、やっぱりまずい。何度飲んでもまずい。ゲロマズじゃ」


 ラードでも溶かしているような執拗に胃腸を殴りつけてくる不健康極まりない油っぽさ。

 神経回路を飛び越えて、涙腺すら反応させてしまう得体の知れない強烈な酸味。

 苦味は堪能できる許容範囲をいとも簡単にオーバーし、ただただ具合を悪くさせる。

 老婆は驚嘆していた。

 想像を遥かに上回る沙弥子の一杯に、空いた口がふさがらない。


「……私にコーヒーの淹れ方を教えてくれたのは父です。祖父ではありません」


 沙弥子は静かに語りかける。

 雨の日の鼻炎というハンデをものともせず、祖父の時代からの上客を唸らせる一杯を見事に出すことに成功したが、その事は気にもしていないようだ。


「それにお客様は知らないかもしれませんが、先代のマスターは私の父です。たしかに父は祖父に比べれば才覚に乏しかったかもしれませんが、最後はこの店を任せられるところまで辿り着いたんです」

「……なるほどね、そうだったのかい。すまなかったね。もし気分を悪くしたのなら謝るよ。べつにアタシはアンタのお父さんのことを悪く言うつもりはなかったんだ」


 苦悶の表情を浮かべながらもコーヒーを飲み続ける老婆は沙弥子に謝る。

 心のどこかで気づいていたのだ。僅かな嫉妬を胸に抱き、そのせいでしばらくの間自分は店に来ることができなくなっていたのだと。


「なおさら、アタシはもっと早くにまたここに来るべきだったみたいだね」


 老婆はゆっくりと目瞑ると、何かを懐かしむような顔を見せる。

 きっと彼女だけが知っている郷愁の日々を追っているのだと沙弥子は思った。


「……邪魔したね。それじゃあ、アタシはもう行くよ」

「ありがとうございました。では例の物を今、用意しますね」

「ああ、頼むよ。正直もう限界でね」


 やがて老婆は重い腰を持ち上げると、代金をテーブルの上に過不足なく置く。

 昔から全く変わっていないコーヒーの値段は、今更誰に訊かなくとも分かっていた。

 そんな大切な客人へ、沙弥子はこの喫茶店で恒例となっているサービスを渡す。

 このサービスを選ぶセンスだけは、二代目マスターである父に誰も敵わなかったことを思い出し、沙弥子は小さく笑う。


「はい、どうぞ。近くの自販機で買った缶コーヒーです」


 沙弥子は冷蔵庫にしまってあった市販の缶コーヒーを老婆に手渡す。

 それをひったくるように受け取った老婆は、年齢にそぐわない常軌を逸した速度で一気に飲み干す。


「……ぷはぁ。生き返る。至高の一杯だ。こんな美味いコーヒーは飲んだことがないよ。これから一ヵ月は下水道ですら美味しく飲めそうだね」


 また来るよ、そして老婆は最後に満面の笑みでそう言い残し玄関口の傘を取る。

 沙弥子の鼻にツンとした、コーヒーのような全く別の何かのようなよくわからない香りが通る。

 窓の外を覗いてみれば知らない間に雨は止んでいて、重苦しかった灰色の空には蒼い切れ目が入っていた。

 


「またのお越しをお待ちしております」

 


 ちりん、ちりんと鈴の音が鳴る。


 気分を害する悪臭に、不愉快な舌触り。

 絶妙に苛立ちを感じさせる温度と、旨味という旨味を除外させた味。

 そんな最悪の一杯を求めて変わり者が集い、なぜか最後はこれ以上ないほど幸せそうな表情をして客が去って行く沙弥子の喫茶店は、人知れずこう呼ばれている。



 ――ゲロマズカフェ、と。



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