春が宿る
美木間
春が宿る
おばあちゃん子だったフユキは、山菜が好きだった。
好きどころか、大好きだった。
子どもの舌は苦味を美味しく感じるのはむずかしく、山菜どころか、年に一度の地元食材を使った給食に出る菜の花のおひたしすら、クラスメイトはいやがっていた。
山菜は、多くの人にとっては、無理してまで手に入れて食べるものではないのかもしれない。
山里では日常のお
小四の時、クラスのリーダー格に、草食い鬼とうとまれて、それがきっかけではずされたこともあった。
その頃から、山菜自体がうとましくなって、フユキは食べなくなっていった。
舌の記憶は、どんどん上書きされていった。
中学に入ってからは、部活に勉強に友人とのつきあいにと、その年代なりの忙しさで、祖母のところからも次第に足が遠のいていった。
心のすみでは祖母のことを気にはしていたが、子どもの頃のように素直に訪れることはできなかった。
そうして年月はするすると過ぎていった。
「おばあちゃんが倒れたの。入院したんですって。お願い、フユキ、すぐに行けるのあなたしかいないのよ」
面やつれした母にそう懇願されて、フユキは一も二もなく祖母に会いに行くことを決めた。
四つ違いの姉は社会人で多忙を極め、父方の身内の介護に追われている母もすぐには駆けつけられない。
家族ですぐに動けるのは大学が始まるまでフリーのフユキだけだった。
母の故郷までは、東京から電車で乗り継ぎがうまくいっても5時間ほどかかる。
それでも、電車の旅はきらいではないので、道中苦にはならなかった。
北陸新幹線で金沢、金沢からサンダーバードに乗り継いで福井へ。
そこから、越美北線で行くか、えちぜん鉄道えち鉄カフェ経由京福バスで乗り込もうかと考えるのも楽しかった。
昼間は極端に本数の少なくなる越美北線の時間にどうにか間に合いそうだったので、姉のおすすめのえちてつカフェのサイフォンコーヒーとパンケーキは、次の楽しみにとっておくことにして、福井駅から一両編成の九頭竜湖行きにフユキは乗り込んだ。
昼下がりの車内はガランとしていた。
真新しい制服の男子高校生が一人、ロングシートの端に腰掛けて、つまらなそうにスマホをいじっている。
いくつかあるボックス席には、買い物帰りらしいおばあさんが一人、お弁当を広げてお茶をすすりながら出発を待っている。
お弁当の焼魚の香ばしいにおいに腹がなる。
着いたら、まず何か食べよう、とフユキは思う。
四月の初めだと山菜にはまだ少し早いかもしれないけれど、出始めのものを天ぷらでもおひたしでも。
祖母が倒れたときいてから、無性に祖母の味が恋しくなっていた。
フユキは事前に調べて知った、線路沿いの史跡を眺められる進行方向右側のボックスシートに腰掛けた。
電車は、のんびりと田園風景を進んでいく。
田んぼだけでなく、畑も多い。
風薫る頃には、風になびく大麦の緑が清々しく広がる。
蛇行する川を何度も渡り、電車は目的地に近づいていく。
あと、もう二駅か三駅かというところで停車した駅周りの景色が、フユキの目を惹いた。
田植えの準備に目いっぱい水を張った田んぼが、いくつも駅のすぐ近くまで迫ってきていたのだ。
都心では見ることのない風景だ。
水面に桜の木が映り、白鷺がえさを求めて舞い降りてきた。
思わずデジカメのシャッターを切ると、フレームに、あぜ道を走って来る人が写り込んでしまった。
消去しようと確認画面にすると、そこには、午後の陽射しに淡く縁どられた、すらりとした女の人の輪郭が浮かび上がっていた。
「待って。待ってください」
やわらかなアルトの声が、窓の外から聞こえた。
姉と同年代らしき女の人が、息をきらしてホームをかけてきた。
どうやら、写り込んでしまった本人だ。
ゆるく束ねた髪を若草色のスカーフで結んでいる。
春の風の色だ。
蔓で編んだ手提げかごに、和紙でくるんだ山菜がのぞいている。
素足にスニーカー、細い足首の見える丈の生成りのワンピースに、スモッグエプロン風のワンピースを重ね着している。
スモッグワンピースの左胸には、淡いパープルピンクの花が刺繍されていた。
その人は僕の前にすとん、と座ると、手提げかごを隣りに置いて、ふうっと息をついた。
走ってきたからか、息がまだ落ち着かないらしくて、上下する胸元で刺繍の花がゆれている。
――え、と、何の花だっけ。ばあちゃんに教えてもらったんだけどな――
記憶にはあるけれど、思い出せない。
子どもの頃の春休みに祖母のところを訪れた時、祖母に連れられてふきのとうをとりに行った山の斜面。
ふきのとうが盛りを過ぎようかという頃、いっせいに斜面をパープルピンクに染めた可憐な花は、山からの春の挨拶なのだと祖母は言っていた。
と、フユキの視界が、突然さえぎられた。
「おい、何見てんだよ」
乱暴な声とともに、フユキは腕をつかまれ立たされた。
見るからに凶暴そうな不良ではなく、ひょろっとした長身の例のスマホの男子高生だった。
フユキは自分の方が多少年上だということだけを拠り所に、腕をはらった。
「何を見てようと、関係ないだろう」
「関係ないとかそういう問題じゃねーんだよ、おまえ、先生の、む、む、」
急にしどろもどろになった男子高生の言葉をさえぎって、その人が声を発した。
「電車の中で、大きな声は、だめですよ」
いかにも正しいことを言ったのだと、小学生を諭すような口ぶりに、フユキも男子高生も拍子抜けしてしまった。
その人は、自分がことの原因だとわかっているのかいないのか、唇の端に人差し指を当ててこちらを見ている。
「あの、学校の先生ですか?」
この生意気な生徒の、と言いかけて、フユキは言葉を飲み込んだ。
その人はくすくす笑いながら
「私、奥越郷土資料館のミュージアムライブラリーの司書なんです。司書教諭の資格もあるので、地元の小中学校に出張授業もするんです。なので、子どもたちからは先生って呼ばれているんです」
そう答えると、男子高校生の方へ視線を投げかけた。
「彼も、私の教え子です。つい先月まで、ね」
――ああ、だから、先生か――
決まり悪そうに男子高校生は、窓の外に視線をそらせて立っている。
「司書の方の中には、先生と呼ばれるのをいやがる方もいらっしゃいますが、私は、子どもたちが本に親しんでもらえれば、先生でも、さんでも、どちらでもいいと思ってるんです」
その人は、おだやかな口調で、誰にともなくつぶやいた。
フユキは、はっとして彼女を見つめた。
彼女のその自分自身に言い聞かせるような様子は、いいと思ってると口にしていても、実は迷っているのではないかと感じたのだ。
本命ではないけれどあまりがんばらずに行ける進学先を選んでしまった時、楽なままでつきあっていたかった女友だちとの関係を問い直された時、自分を完全に肯定できずにいた時のもやもやしたものを、その人に感じてしまったのだ。
大人の女の人へのシンパシー。
それは、初めてのとまどいだった。
フユキは、にわかに緊張してきたのを悟られまいとして、できるだけさりげなく、気にかかっていたことを口にした。
「その、花の刺繍、それ、なんという花ですか」
「え、花?」
フユキは、自分の左胸を指さして見せた。
「あ、これは、カタクリです」
その人は、手提げカゴから、手漉き紙に包んで麻ひもで結わえた小さな花束を取り出した。
パープルピンクの花がのぞている。
祖母が教えてくれた春の山で出会えるあの花だ。
「刺繍、ご自分でされたんですか」
会話を続けたくて、フユキは質問を続けた。
「いえ、私は縫い物は苦手で、おふみさん、職場の知り合いの方がしてくださったんです」
フユキは、思わず身を乗り出した。
思わぬところで祖母の名を耳にして、薄化粧の彼女の顔が間近すぎるのを気にもとめずに、フユキはたずね返さずにはいられなかった。
「ぼくの祖母、
その人は、黒目がちな瞳を驚いたようにフユキの顔に向けた。
それから、フユキ顔の近さに気がついて、かっと頬を染めて、これ以上ないくらい椅子の背にぴったりとからだをつけてうつむいた。
「もしかして、フユキさん、ですか?」
消え入りそうな、口ごもるような声だった。
フユキは聞き取ろうとして、微妙に間を詰めた。
「冬に黄色の黄、と書いてフユキさん、ですよね」
彼女は一瞬顔をあげてそれだけ言うと、また下を向いてしまった。
「はい。三月生まれなのに冬なんだね、とよく言われてました。僕も不思議でした。祖母のこと好きだから、名前をつけてもらったのはうれしかったんですけど」
「おふみさんらしいですね」
「え、そうですか」
「そうですよ。ふきのとうは、春の声をきいても雪が残っているところに顔を出すんです。春を呼ぶんです。あなたが生まれたこと、心待ちにされてたんでしょうね」
そういえば、祖母が言っていたのをフユキは思い出した。
ふきのとうは、冬に黄色く咲いて春を思わせる色を見せるから、冬黄と言うのだと。
ふきのとうが見えだすと雪解けで、寒さで縮屈んだ心も解けていくんだよ、と。
その時につながれていた祖母の手の温もりがよみがえってきた。
「祖母が倒れて入院したときいて、見舞いに来たんです。祖母がお世話になってます」
フユキは居住まいを正してお礼を述べた。
「いえ、こちらこそ、おふみさんにはお世話になりっぱなしなんです。ミュージアムカフェまでは、私も手がまわらなくて」
「資料館にカフェもあるんですか」
「はい。地元の方の憩いの場としてにぎわってます。なので、おふみさんには、本当にお世話になってるんです」
彼女はそう静かに答えると、ひと息おいてから、
「そうでしたか。お孫さんがみえたら、おふみさん、喜ばれますよ」
と、今度は顔をしっかりあげて、明るい声で言った。
それから、彼女は、籠から魔法瓶とふきんで包んだ木のお椀を取り出した。
「驚かせてしまった、おわびです」
彼女は、魔法瓶をあけると、中身をお椀に注いだ。
「おわびなんて、こっちの方こそ、ぶしつけで、なんか、すみません」
慌てるフユキを気にとめもせず、彼女は何かの花芽をお椀に散らした。
目をこらすと、湯がいたふきのとうの頭花だとわかった。
さっと塩ゆですると、くっきりと黄緑になるのだ。
「どうぞ」
手渡されたお椀からたちのぼる湯気は、早春の山の香りだ。
湯気越しの彼女のほころんだくちびるが、淡く艶を増した。
春が、宿った。
春が宿る 美木間 @mikoma
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