もう夜空でも大丈夫。

奔埜しおり

もう、夜空でも大丈夫。

 客と店員の攻防戦のようなランチを終えて、今は穏やかなアイドルタイム。作業場に入ってくる太陽の光が、温かい。

「ふあ……」

 眠気に逆らえずに大欠伸。注文された抹茶パフェを作っているので、口を隠す、なんてことはできず。

菅原かんばらさん、寝ないでくださいよー?」

 よりにもよってめんどうな奴に見つかる。

「寝てない」

「十番テーブルの生ハムサラダは――」

かおるさんが行った」

「ちょっと!」

 俺が正直に言うと、むうっと頬を膨らませる。その様子が小柄な体系も手伝って小動物じみている。バイト用にまとめているその髪をぐしゃぐしゃになるくらい撫でたくなるが、そんなことはできないので堪える。

「あかりちゃーん? 客席まで声、聞こえてるわよ?」

 やれやれと言った様子で薫さんが客席から戻ってくる。

「あ、薫さん! もう、なんで甘やかしちゃうんで――」

「パフェ作ったから、五番テーブルのお客さん、持ってって」

「むう……わかりました、持っていきます」

 ぶつくさ言いつつも、素直にトレーに載せて持っていくあたり、いい子だ。

「ふふ、頑張るわねえ。あの子にかまってもらえて嬉しくないのかしら?」

 意味深な笑みを無視して、厨房から受け取った焼きたてのパンケーキのデコレーションを始める。

「うるさいだけですよ。しかもあいつ、来週辞めちゃうじゃないですか。大学、県外行くからって」

「あら、寂しいの?」

「せいせいします」

 それは、あまりにも幼稚な照れ隠しで、反射的に出てしまった言葉だった。

「あらまあ、酷いこと言うのね。ね、あかりちゃん」

「え」

 チョコレートクリームを出す手を止めて、ギギギッと音が鳴るくらいぎこちない動きで振り向く。そこには、眉を八の字に寄せた秋元がいた。

「菅原さん、私のこと、めんどくさそうでしたもんね」

「いや確かにすごくめんどい奴だけどそうじゃ――」

「私なんか早くいなくなれ、と」

 秋元が微笑む。なにか言おうと口を開いた途端、タイミング悪く来客を知らせるベルが鳴る。

「いらっしゃいませー」

 秋元はそそくさと出迎えに行ってしまう。しくじった。でも、どうすればいい?

 溶けたチョコレートアイスが一筋の線を描いて、真っ白な皿に流れ落ちた。


 *


 高校一年生の春。初めてのアルバイトで私の教育係になったのが、菅原さんだった。それから今までほぼ毎日のように顔を合わせていて。いつの間にか傍にいるだけで心拍数が上がってしまうような、大好きな人になっていて。

 机の上。広げた問題集を見ながらも、思い出すのは今日の菅原さんの発言と、あの日の出来事。

 今年の新人歓迎会のときだった。いつも通り私は、菅原さんに家の近くまで送ってもらった。

 星が綺麗ですね、なんて会話をしていた記憶がある。隣に大好きな人がいて、他には誰もいない、まるで二人きりの世界。踏む地面が綿になったようなそんな心地の中、聞こえてくる心臓の音だけが私を浮き上がらせないように地面と繋ぎ留めてくれている。菅原さんも酔っているのか頬が赤くて。

 一つの街灯に照らされた公園まで来て、私たちは立ち止まる。角を曲がれば家だ。名残惜しく思いつつも、また明日になれば会えるから、と私は振り向いた。

「――」

 お礼の言葉は唇ごと塞がれて。代わりに柔らかな感触と、アルコールの香り。

「気を付けて」

 それだけ言うと、菅原さんは私に背中を向けて歩いていった。

 いつも眠たそうな細い目で。私がなにか言うたびにめんどくさそうで。なのに、なんで。どうして。

 期待がムクムクと無責任に膨れ上がっていく。でも必死にそれを否定する。だって、そうじゃなきゃ。

「昨日はありがとうございます」

「昨日? 俺なんかしたっけ? 記憶、途中から飛んでるんだよね」

 そうじゃなきゃ、こんな予想通りの展開に、一瞬にして泣きたくなってしまう自分がいるんだから。

「ちょっとー? あんた昨日、あかりちゃん送っていったのよ」

 弱いのにあんなに飲むから、なんて薫さんが豪快に笑いながら言う。あの場でたくさん飲ませていたのは薫さんだったはずだけど。

「そうなの?」

「はい、ありがとうございます」

 精一杯の笑顔で言う。ん、と短く返した菅原さん。

 あなたそのあと、私にキスしたんですよ? もしかして、誰かと間違えました?

 そんな軽口、叩くような度胸はない。七つも離れた男の人の行動なんて、わかるはずない。大学の合格が決まったとき、一緒に喜んでくれた人。ミスしてしょげていたら、不器用に慰めてくれる人。そんな人に、いなくなってせいせいする、なんて言われて。

「……ごめんなさい」

 本当は、最終出勤日に告白したかった。だけどそんな勇気、どこかに行ってしまった。


 *


「あかりちゃん、どんどん食べなさーい!」

「薫さん、そんなに食べれないです!」

 送別会という名の飲み会の最中。

 真っ赤な顔の薫さんが近くにあったから揚げを空になった秋元の皿によそおうとする。二人の攻防を見ながらサラダをつつく。あ、薫さん、秋元の皿にから揚げを山盛り盛りやがった。秋元は困ったように笑いつつも、箸で一つから揚げをとり、少しずつかじっている。その様子を、小リスみたいだな、と眺める。

「お前、言ったの?」

 隣で酎ハイを飲んでいた田中が、小声で俺に問いかけてきた。本日何人目になるかわからない問いかけに、無言でウーロン茶を飲む。

「おい菅原」

「……なにを言えと」

「好きなんだろ?」

 田中に視線を向けると、奴はニヤニヤと笑っている。俺は小さくため息をこぼす。

「そんなんじゃない」

「とか言って、誰よりもあの子のこと見てるじゃん」

「別に。いつも付きまとってくるから」

 そうだ。あんなに付きまとってこなければ、こんなに俺の頭の中を占領されることも、あんな行動に出ることもなかったのに。

 ここを離れて、もしかしたらこの先ずっとそこで暮らして、あいつは誰かと手を繋いで、そこからの人生をそいつと一緒に過ごすのだろう。

 それなら忘れてしまいたかった。

 偶然だったにしろ、あのときあのタイミングで秋元が戻ってきてよかった。あれ以来秋元が、菅原さん、と寄ってくることもなくなったのだから。

「教育係、お前だったから、懐かれてんじゃね?」

 返答に困ってグラスを傾ける。カランと氷が音を立てて、空になる。

 不意に田中はチラリと時計を見る。そして俺の肩を叩くと、秋元を呼んだ。

「あかりちゃん、時間まずいんじゃない?」

「え? ……あ」

 時間は九時を少し超えたくらい。そろそろ帰さないと秋元の親が心配するし、時間的にも色々まずい。一瞬秋元は俺を見てから、隣にいる薫さんの腕を引っ張る。

「あの、もう帰るんですけど、その……」

「なあに、私と一緒がいいの?」

 頷く秋元に、胸が軋んで思わず目をそらす。いつもだったら、菅原さん送ってください、とわざとらしく甘えた声で言ってくるのに。今朝のシフトが、秋元の最終出勤日で。もうこのタイミングを逃せばきっと二度と会うことはない。

 いいじゃないか。これで少しでも早く秋元のことを忘れられるぞ。

 そう心の中で言い聞かせるけれど、胸は相変わらず痛くて。気を紛らわせるために再びサラダをつつき始める。秋元が他のメンバーに挨拶をしていく声が聞こえる。それは近づいてきて、そして。

「……菅原さん」

 クイッと裾を引っ張られる。聞き慣れた声に、顔を上げる。

「……なに?」

「薫さんに振られちゃったんで、よかったら送ってくれませんか?」

「……急に丁寧になるなよ、違和感しかない」

「だ、だって……!」

 むうっと頬を膨らませる秋元。だけど俺の服の裾を握る手は震えていて。

「行ってこいよ」

 任せとけ、と親指を立てる田中に、俺はため息を吐いて形だけ、仕方ないという風を装う。

「じゃあ、送ってくる」


 *


 外は店内よりも涼しくて、少しだけ私は震えてしまう。

「上着は?」

「お昼暖かかったんで、いいかなって……」

 呆れられるかな、なんて思っていたら、少し乱暴に肩になにかをかけられる。見たら菅原さんの上着で。突然包まれた香りに私の心臓が騒ぎ出す。

「これから引越しとか新生活とかでクッタクタになるんだから、しっかりしろよ」

 思いがけず優しい言葉に、胸がチクリと痛む。泣きそうになったのを誤魔化すために、私は小さく笑う。

「なんで笑うんだよ」

「なんでもないですー」

「あ、そう」

 少し歩けば周りに人はいなくなる。二人だけの世界。ずっとずっとそうだったらいいのに。大学は県外だから、離れてしまう。そんなの、第一志望に決めたときからわかってる。

 前のように空を見上げても、星が綺麗だなんて言葉は出てこない。それどころか、憎らしささえ感じてしまう。月も星も、無くなってしまえばいいのに、なんて自分勝手なことを思っていたら、星たちがぼやけ始める。このままぼやけて消えてしまえば、太陽は戻ってきてくれるのかな。

「……なに泣いてんの」

「泣いてないです」

「あー、そう」

 言いながらも菅原さんは前に回ってきて、拭ってくれる。足は止まっていた。

 困らせている。めんどくさがられている。早く泣き止まなきゃいけない。そう思うのに、涙は止まってくれない。どうしたらいいんだろう。

「止まらない?」

 頷くと、ため息。ああ、呆れられた。

「もう、置いてってくれて大丈夫です」

 これ以上、迷惑かけられないから。上着を菅原さんに返す。

「置いてけって……」

「菅原さん」

 菅原さんは私の涙を拭うために少しだけ屈んでくれていたので、顔を上げてほんのちょっとかかとを浮かせるだけで私の唇はそこに到達する。触れるのは一瞬で。でも、その一瞬だけで充分だ。精一杯の笑みを浮かべる。いつかのあの日のように。

「ありがとうございました」

 即座に駆け出す。

 嫌われてしまったかも、なんて思いは一瞬で。よく考えたら嫌われる心配なんてしなくていいんだ。だってもう既に嫌われているのだから。なんて気楽なんだろう。

「秋元!」

 腕を掴まれた。驚いてそのまま転びそうになるが、支えてくれたおかげで免れる。

「お前、泣いたまま走るとか危ないし、なんのために俺が送ってると思ってるの」

 荒い呼吸。熱い掌と、それに捕まれて熱を持つ腕。耳の近くにまで心臓がせりあがってきたみたいに、うるさい。

「私のことめんどくさいなら、放っておいてくれればいいのに」

「あのさ。確かに秋元はすごくめんどくさいし、いなくなるなら、静かになるな、とは思ってる」

「なら――」

「だけど、それをすごく寂しく感じてる。……もっと、傍にいたかった」

「……なんで今頃、そんなこと言うんですかぁ」

 さっきまでよりも大粒の涙が零れ落ちていく。不意に抱きしめられる。温もりが苦しい。

「……今年の新人歓迎会、記憶は飛んでないから」

「え」

「あのとき、離れたくないなと思って、気付けばキスしてて……」

「なんですか、それ」

「ごめん」

 この人最低だ。最低だけど、でも確かにその言葉は私の心を温めてくれて。

「菅原さん」

 そっと見上げると、菅原さんと目が合う。視界の端では星が瞬いていて、綺麗だな、なんて心の中で呟く。

「四年後戻ってきたら、彼女にしてください」

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もう夜空でも大丈夫。 奔埜しおり @bookmarkhonno

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