終.
ある静かな湖畔に、一軒の別荘が建っていた。
長期療養として今は三人家族がそこで生活している。
そのテラスから延びる桟橋の先で、腰を下ろし釣りに興じる男が一人。帽子を深くかぶり、糸の引きに注意を払いながら、じっと湖面を見つめている。鳥の鳴き声が遠くから響き、魚の跳ねる水音が聞こえる、よく晴れた、肌に心地よい気温の日だった。
「あなた、お客さん」
男は妻より客人を通される。
「岡島か」
「お久しぶりです。長官……いえ」
「なんと呼べばわからんか。好きに呼べばいい」
岡島はちらりと、こちらへ通してくれた邸内へ戻っていく女性を見やる。
「奥さんはあなたの正体をご存じなのですか」
「知っているに決まっている。というより、すでに全国民に知れ渡っているはずだが」
ラガルド・ユーサリアンはあれから約束通りに軍からも〈風の噂〉からも手を引き、今はこうして晴耕雨読の日々を過ごしている。もはや彼には、その命以外に失うものはなにもないように思えた。
だが、岡島にはどうしても解せなかった。彼に聞かなければならないことがあった。
「ぺスタはどこですか」
遺物管理局キース・クレイブスに依頼した、解読不能にまで損傷した日記の復元。そのなかには、こうしてすべてが終わったはずの今でも確認を要する記述が含まれていた。
「ぺスタは任務中に神獣シィルに襲われ、艦は沈んだ。それは創死者の計画にとって、隕鉄事故を除けば唯一といえるほどの誤算だった。だが、彼は死んではいなかった。彼はギリギリで一命を取り留めていた。もはや任務の続行は不可能と判断されるほどの傷を負ってはいたが、生きてはいた。あなたが彼の救出に成功したのだと、復元に成功した日記には書かれていました。そして、彼をあなたに任せたとも。彼は今、どこにいるのですか」
「やはり読みは当たっていたな。最新の日記だけ解読できずにいたわけだ」
岡島は今回レックを連れていない。もう一つ、明らかにおかしいことがあったからだ。
ゲフィオン=ユーサリアンは嘘をついていた。
にもかかわらず、レックによってそれを看破することができなかった。
「あのとき、あなたは嘘をついていた。“まだなにもしていない”そういいながら、あなたはすでに騎士団を動かしていた。これも腑に落ちなかった」
「ん? ちょっとした言葉の綾だろう? まあ、それが気になって仕方ないということは、もう一つの読みも当たっていたか。クク、嬉しいよ。さすがの私もな」
彼は笑った。どうしても抑えられない感情が漏れたかのように、笑った。
「君はあのときリミヤの他に見知らぬ一人の男を連れていた。リミヤと異なり、戦闘技能には乏しそうな男だ。なぜ彼を連れてきたのか。君が私に用件の内容を告げたあとも、これは疑問だった。いくつかの仮説が浮かんだが、おそらくは曠野のような役割――助言役かなにかだろうという仮説に絞ることにした」
岡島は息を呑む。記憶を辿り、あのときの風景を思い浮かべる。
ゲフィオンに対し創死者の死を告げたとき、彼は驚愕し、呆然とし、深く絶望していたように見えた。そこにおそらく嘘はない。いや、間違いなくあれは真実の反応だった。だが、彼は思考を止めてはいなかった。数分にも満たない時間で、反撃の糸口を探していたのだ。
「その検証のために私は嘘をついた。なんだったかな、“殺す”とまではいわなかったか。“殿下がいようが関係ない”だったか? 正確なところは君なら覚えているとは思うがね。ともかく、偽りの殺気でどう反応するか見たかったのだ。君ではなく、後ろのいる男のね。私の読みは的中した。あの男だけが、私の殺気を前に臆することがなかった。それが偽りだと見抜いていたからだろう。あとでその男の経歴は調べさせてもらった。レック・サミュエル、おそらくは嘘を見抜く固有魔術を有している。違うか?」
鮮明に覚えている。レックの霊信が届くまで岡島も本気で殺されると思ったほどだ。
しかし――。
「それでは話が合わない。あなたはその直後に嘘をついている。“近衛隊の警戒度を上げることで気配を殺しているものも含めた正確な数を把握したかっただけだ”、と」
「その嘘をなぜ見抜けなかったのか、か? その点については賭けだった。うまくいってよかったよ。つまりだ、私は嘘をついていない。次の嘘はその固有魔術の限界を見極めるためのものだ」
やはり話が合わない。彼の言葉は舌の乾かぬうちに矛盾しているように思えた。
「わからないか? これは憶測だが、レックくんの固有魔術には限界があるはずだ。おそらく、“嘘をついているかどうか”、それしかわからない。“本当のことをいっているかどうか”がわかる能力ではない。違うか?」
「それは……」
岡島は口ごもる。
「私にだけ質問に答えさせるつもりか? 君と私の対話はもはや互いの好奇心を満たすための答え合わせでしかない。勝敗はすでに決したのだからな」
「あなたは、勝ったつもりでいるのですか」
「違うのか?」
「あなたはすべてを失った。父を失い、仲間を失い、地位を失い、存在意義を失った。我々はあなたを逮捕することはできなかったが、この状態でもまだ勝ちだと?」
「だが命は残った。あのまま司法の手に委ねられたのなら極刑は免れなかった。その窮地から生還したのだ。これが勝利でなくてなんだ?」
「わかりません」
「私の勝ちか、といえばたしかにな。父が300年以上かけて準備した計画は失われてしまった。確かに勝ちとはいいがたい。だが、君の負けだ。これはたしかだろうな」
「……恥を忍んでお聞きします。それはいったい、どういう意味ですか」
「先の質問と併せて答えておこう。こういうことだ」
ゲフィオンは口中に手を突っ込み、なにかを吐き出した。丸い、指でつまめるほどの小さな肉の塊のようだった。それは彼の手の上で、ぴくぴくと脈打つように、そして次第に形を変えていった。風船のように膨らみ、少しずつディティールが鮮明になっていく。最終的に姿を現したのは、人の生首だった。
「紹介しよう。いや、君が挨拶するといい」
生首は目を開き、口を開いた。
「はじめまして。というべきなのか微妙なところですが、ぺスタです」
岡島は目を丸くする。理解が追いつくにはかなり時間がかかった。
「変容魔術……!」
「はい。ゲフィオンと同じく、質量も体積もかなり幅のある感じで変容できます。僕はこう、見ての通りあの事故でこんなことになってしまって。神獣によって傷つけられると治らないんですよ、これが。首から下は損傷が激しすぎて放棄せざるを得なかったんです」
「ぺスタ。彼が聞きたいのはそんなことではないと思うがね」
「そうでした。こうして首だけになってしまっては、生きていてもなんのお役にも立てません。ですが、私には変容魔術があった。そういうわけで、ゲフィオンのサポートに回ることにしたんです。いざというときに備えて私はずっと彼の体内に隠れていました。あのときは彼の思いつきで、彼の喉に化けていたんです。つまりこういうことができるんですよ。“だが、君の負けだ。これはたしかだろうな”」
ゲフィオンの声だ。変容魔術に優れたものならこのくらいはできる。
「文字通り一心同体ってやつです。霊信でかなり澱みない会話もできますからね」
「理解したか? 私は嘘をついていない。嘘をついていたのは彼だ」
「……馬鹿な」
岡島は開いた口が塞がらない。
「そういえばまだ答えを聞いてなかったな。レックくんの固有魔術には限界があるはずだ。彼は私が“嘘をついているかどうか”を見抜くことはできた。私は一言も口にしていないのだから、当然嘘はついていない。だが、姿の見えないぺスタが嘘をついているかどうかを見抜くことはできなかった。もし単に声だけで判断されるというのならお手上げだったがね」
岡島はしばらく黙りこくり、負けを認めたように「その通りです」とだけ答えた。
「このからくりで君を騙せることに気づき、私はこれを切り札として使うことに決めた。記憶を辿ってみたまえ。君がレックくんの能力で“嘘ではない”と判断した言葉は、もはや虚実入り混じったものとなった」
「――“これからなにかするということもない”、“あとは残された余生をせめて穏やかに過ごしたい”」
「そう。もちろんそれは嘘だ」
空気がざわつく。なにかを感じた小鳥が一斉に飛び去って行った。
「私はなに一つ諦めてなどいない。父は300年以上かけて計画を進行させた。ならば私も同じように、たとえそれ以上の年月がかかったとしても成功させる。父の遺志は、私が引き継ぐのだ」
「そんなことを許すと思いますか」
「心配しなくていい。少なくともこのまま100年は動かない。ラガルド・ユーサリアンとしての人生はこのまま穏やかなまま全うするよ。身分の確立のために結婚し、養子までとったが、なんだかんだ愛着は沸くものでね。いずれ必ず死別することを思うと涙を流しそうだ」
今日はレックを連れていない。嘘とも本当ともつかない微妙な言葉だった。岡島にはとても判断がつかない。
「と、いっても信じられないか。こうまで綺麗に騙された直後だからな。レックくんを連れてくればよかったろうに」そこまで言って、彼はなにか気づいたように。「……ああ、なるほど。そういうことか。今日レックくんを連れていないのはそういうことか。なるほど、彼を疑ったわけだな。彼が嘘を見抜けなかったのではなく、彼が嘘をついていたのだと。君の視点ではそう見えたのか」
岡島には確かにその想定があった。レックを連れていないのもそのためだ。ただ、そう仮定しても辻褄が合わないことも多い。ひとまず疑念は晴れたと考えてよいだろう。
「エオスも、アリンダも、ニサも、処刑が決定したようだな」
「あなたは自分一人が生き残るために仲間を見捨てた」
「私一人ではない。ぺスタもいる」
「仲間を見捨てた」
「ああ。全滅だけは避けなければならなかったからな。彼らを売ることで我々は生き残る決断をした。あのときのぺスタとの霊信は今思い出しても笑えるくらいの激論だった。だが、それしか道はなかった。なぜニサが死を甘んじて受けたかわかるか? 彼女は我々に託したのだ。我々を信じたのだよ。私とぺスタをな。だからこそ我々はまだこうして生きている。つまり、我々の勝ちだ」
「それはこれから300年後、計画の再現に成功すれば、の話でしょう」
「成功するさ。次こそは成功させる」
「あなたは勝ち誇り得意げに話してしまっているが、300年後にも今回の会話記録は残しますよ。そしてあなたがラガルド・ユーサリアンをやめたとき、ゲフィオンは皇国の敵として討伐対象になる」
「心配してくれるのか? 君はとうに寿命で死んでいるであろう未来の話だ」
300年後にもう一度犯罪に手を染めるという予告。どう手を打てばいいのか、岡島にはわからなかった。彼はラガルド・ユーサリアンとして多くの功績を残し、かつての仲間の逮捕にも協力し、皇王によって許しを得ている。彼を捕らえることはできない。今は、まだ。
「もう一つ、聞きたいことがあります」
「なんだ、まだあったのか」
「なぜ、内部犯罪調査室の存在を許したのですか。その設立理念からも、いずれ敵になることは確実だったはずです。それとも、気に掛けるほどの存在でもないと思ったのですか」
「許してなどいない。君らは私にとって目の上のたんこぶだった。かといって、正面から潰すには例の事件――第三皇子による獅士魔術師暗殺未遂事件の経緯からも道理が足りない。皇王陛下直々の命令でもあったからな。ゆえに、設立だけ認めさせて力を削いだ。予算と人員を絞ってね。それでいて表向きは君らに協力を惜しまない態度をとって恩を売った。名目上は独立していることにはなっていたが、実態はほとんど〈風の噂〉の一部に過ぎない。そんなふうにね。そのなかで君は犯罪者までも勧誘し人員を補強したり、独自の人脈でなんとか組織の体裁を保った。大した手腕だよ」
ラガルド・ユーサリアンは長らく岡島にとっても憧れの恩師であった。その彼に認められ、岡島は胸の奥底から湧き上がる感情を否定できずにいた。
「君は皇王陛下に助けを求めなかった。皇王陛下は私のことを厚く信頼しておられる。そのことを知っていたからだ。それで第三皇子とはな。こればかりは恐れ入ったよ」
彼の免罪を求めて102名の署名が集まったという。岡島もまたそのうちに名を連ねていてもおかしくなかった。ただ、彼は敵だった。敵だったのだ。
「ところでゲフィオン。君の奥さんに僕のことは話すのかい?」
「お前がそうしたいなら構わんが。友人として紹介する」
「うーん、彼女、生首には理解ある?」
岡島が長らく言葉を失っていたため、そんな世間話が聞こえてきた。もはや岡島に彼と話すことはなかった。
「失礼します」
岡島はラガルド・ユーサリアンのもとを去った。
創死者の潰えた夢 饗庭淵 @aebafuti
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