最終話
■■■■■ 最終話 ■■■■■
「今日ですけれど、大丈夫ですか?」
白衣のドクターはこの世界で最初にお世話になった先生だった。僕は大丈夫ですと答えて診察室を出た。
自分の病室に戻る。個室だった。
ヴァーチャルな世界でも入院は必要らしい。体調はすっかり良くなっていたので、ベッドには横にならず、大きな窓際に立った。
丘の上からの風景は格別で、水平線や、きらきらと光る青い海面に盛り上がった入道雲。物理演算の復旧したこの世界は本当に美しかった。
目の前にウィンドウが現れた。
<マスター。管理者より映像通信です>
僕は頷いてから『通話』ボタンをタッチした。
「こんにちは。気分はどうですか?」
「とても良いです。頭痛も治まりました」
「それはよかった」
鼈甲メガネの男性が少し口元を綻ばせる。彼なりの笑顔なのかもしれない。
「それでは説明したとおり、彼女と面会していただきます。よろしいですね」
僕は頷いた。
「では、面会室にシフトします。その部屋から出ないでください」
「わかりました」
ウィンドウがスッと消える。通信が切れたのだ。僕はベッドに腰を掛ける。
「ソウル」
<なんでしょうか? マスター>
僕のサポートAIが答える。
「面会室にいるあいだ、お前の機能を切りたいんだけど」
<……わかりました。今から完全スリープモードに入ります。スリープモード中は記録も一切されません。面会が終わったらアイコンをタッチしてください>
右下に『魂』と漢字一字のアイコンが表示された。ちょっとおかしかった。
「ソウル」
念のため呼んでみたが、返事はない。少なくとも黙ってはいてくれるだろう。
座ったままの状態で数分が過ぎる。
新しいウィンドウが目の前に現れた。
『面会室の用意ができました。面会室へシフトしますか? YES/NO』
僕は立ち上がって深呼吸をした。
YESの文字をタッチする。
ゆっくりと周りの景色が切り替わる。
そんなに広くない部屋に立っていた。四、五畳くらいか。その中央に立派なイスが置いてあった。そこに深く腰掛ける。正面の壁がモニターのようだ。まだなにも映っていない。
なんだか刑務所か拘置所の面会室みたいだなと思った。そしてそれはあながち間違いではないのかもしれない。
モニターが切り替わる。
僕の緊張はピークに達した。
イスに座った婦人。
それ以外の形容詞は思いつかなかった。
ベージュの落ち着いたワンピースにカーディガン、膝の上にハンドバッグを置いている。頭には白い物が混じっていた。
つまり、この目の前の婦人が、僕の妻ということらしい。
深い皺を少し厚めの化粧で覆ったこの年配の女性が僕の嫁なのだ。
「あの……あな……た、なの?」
五十代くらいに見えるその女性がモニターの向こうで、不安そうに、声を掛けてきた。僕は何も言えなかった。
「その……本当に……このコンピューターの中で……生きているの?」
僕の方こそ色々質問したかったが、その機会は永遠に失われた。
「そう、らしい、です」
そう答える他なかった。
「全然別人になってしまって……私……どうしたらよいのか……」
女性が視線をただ無駄に動かす。僕だってどうしていいのかわからない。
「私も娘も、元気ですよ。あなたは……その……とても安定しているそうよ……良かったわね」
まるで他人を気遣う口調だ。でも僕も、目の前のこの人に他人以外の感情は何一つ沸き上がらない。
「その、保険金と、会社からの援助で私たちは心配いらないわ……その……」
言葉に詰まる。
「あなたも社員として協力している形だから、費用も会社持ちなのよ」
彼女は『あなた』と言うとき、必ず目を逸らしていた。それは僕の立場をより認識させる。
「あの……」
僕は口をやっと開く。
「だいたいの事はもう聞きました。貴方のことも、僕の身体の事も」
彼女は下を向いて動かなかった。
「僕の身体は会社の方で面倒を見てくれるそうです。……このシステムを作っている会社の社員だったんですね、僕は」
僕の身体という妙な表現が、少し可笑しかった。
「ですから……お願いがあります」
彼女が年季を感じさせる穏やかな顔を上げた。
「もう……ここには……来ないでください。お願い……します」
彼女は顔中の皺を深くすると、ハンカチを取り出して、低く嗚咽を漏らし始めた。
いつまでも。
いつまでも。
こうして僕は「知らないおばさん」との面会を終えた。
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病室のベッドに腰掛けて、ぼーっとあの日のこと、いや、あの日、僕が気を失った後、どうなったかの話を思い出していた。
麻揶の言葉で僕が倒れると、拘束が弱まった隙を突いて、亞璃栖が麻揶に飛びついたらしい。
同時に雷弩も美樹も佑も飛び出し、取っ組み合いになり、麻揶が気絶していた僕の身体に倒れた。その時にソウルが捕縛ツールを起動させ麻揶を捕らえたらしい。
麻揶は、その日のうちに亡くなっていた。
その数日前から極度に体調が悪化していたそうだ。
彼女と通じていたアジアのグループを警察が捜査している。
麻揶には二十歳になる娘がいた。
麻揶の銀行口座には、アジアのグループからの入金が何度か確認されている。その金は全て娘に送られていた。麻揶は都からの補助金と言っていた。
でもその全てがどうでもよかった。
ただ大切な友だちがいなくなってしまったという事実以外、僕にはもう関係のないことだった。
ベッドに寝っ転がり『魂』のアイコンをタッチした。
<おはようございます。マスター>
「おはよ」
ちょっと笑ってしまった。
<このまま起動されなかったらどうしようと思っていました>
「機能を止めてたのに思ってたの?」
<それはもう、優秀なAIですから>
声を出して笑ってしまった。
「さて……メールチェック」
<メールが一通来ていますね>
「読んで」
<はいマスター。……システムからです。無駄な定型句も読みますか?>
「要点だけでいいよ」
<わかりました。……GMの認定を許可します。三日後に市役所にお越しください……との事です>
「そっか……」
数日前にGMになるための申請しておいたのだ。これで仮想世界でリアルのお金が稼げることになる。
<おめでとうございます。マスター>
僕は返事をせずに立ち上がり、再び窓際に立った。変わらずに夏の海と空が広がっていた。
僕のリアルはここにある。
ゆっくりと流れる雲をのんびりと目で追った。
「零くん、入るよ」
軽いノックで亞璃栖が病室に入ってきた。
「お待たせ」
彼女がにこやかに微笑む。僕も微笑み返した。
「さあ学校に行こうよ。みんな待ってるよ」
差し出された白い手。
僕はその手を握り返して歩き出す。
外は暑かった。
長く伸びる飛行機雲を見て思った。
夏がそろそろ終わる。
……と。
——END——
ロス・オブ・メモリー 佐々木さざめき @sasaki-sazameki
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