後編

 どれくらいそうしているのだろうか。助と華花はオフィスビルに囲まれた新本町駅の改札の前で、駅の正面に建つ建造物を呆然と見上げていた。

 思い出したように助がコンソールを開き、エリからもらった詳細な地図付きのメッセージを開いて、眺めて、閉じて、再び視線を建物に戻す。何度目かになる確認を経ても、二人の目的地が変わる事はなかった。

 その外観は現代風にアレンジを加えた洋城だった。どっしりと構えたガラスの本殿から二本の巨大な尖塔がそそり立った威容は、とても分譲住宅とは思えない出で立ちだ。

 綺麗に整えられた植栽を上手く目隠しとしたロータリーを回り込むと、送迎車を五、六台は停車させられそうな車止めが姿を現した。その先はもう建物のエントランスと外を隔てる正面玄関だ。そこは巧みにカットされたクリスタルガラスの壁と照明の配置で自然な輝きが演出され、その中を歩く洒脱な人々の格を押し上げるのに一役買っている。

 助と華花は完全に雰囲気に呑まれていた。目の前でエントランスに飲み込まれ吐き出される人の姿に、煌びやかな建物の外観に、自分達のありふれた制服姿があまりにも貧相に映って、ここに足を踏み入れることが畏れ多く感じられたのだ。

 本当にこんなところに田中・エリスティーネ・アイヒホルンが住んでいるのか、という疑いはもう念頭から消えていた。あるのは一つ、なんでこんなところに住んでいるんだという泣き言だけだ。

 それはさておき、助と華花は目を眩まされて気付いていなかったが、エントランスホールを出入りする人々の姿は様々だった。

 アフタヌーンドレスの正装に身を包んだ女性の群れがしゃなりと歩いている横を、ビジネススーツを着込んだ壮年の男性が忙しそうに走り抜け、その奥からはスポーツファッションに身を包んだ男女が手に手に好みのドリンクを提げて談笑しながら現れる。そんな一種異様な光景が繰り広げられていた。

 このビルディングは十階以下を複合娯楽施設及びイベントホールにあてている。その為に映画の撮影のような雑多な人間が集まっているのだ。そして十一階以上、つまり尖塔に当たる二棟が分譲住宅の収まる部分となっていた。

 高級ホテルもかくやというエントランスホールの奥に、有人のインフォメーションセンターとは別の無人受付がある。二人の目下の目的地はそこだ。

 恐る恐るホールを横切った助と華花を見咎めるものは誰も居なかった。受付は奥まったところにあり、背後の喧騒もまるで遠くの祭り如く、そこだけ不自然なくらい静まり返っていた。

 受付の目の前に立った二人に立ちはだかるのは重厚な樫材の扉を模した複合セキュリティドアだ。二重の自動扉の内扉と外扉の間にパルスレーザー格子を張り巡らし、不法に侵入しようとする輩に電気ショックを浴びせるという穏やかではない代物だが、コンソールを開いた助が管理コンピュータに予め受け渡されていたパスコードを入力すると、扉はあっさりと二つに割れて二人を受け入れた。もしこの隙を狙って無許可の人間が押し通ろうとすれば、パルスレーザーが再射出される仕組みなのだが、その気配もなく二人は妙に緊張する家庭訪問の第二関門――第一関門は意表を突いた建物そのものだった――を突破した。

 後は一般的な分譲住宅と変わらない。エレベータを使い、エリに指定された二十四階まで登る。一つのフロアには四つの部屋がそれぞれの角を占有する形で収まっている。

 エレベータを降りるとこれまた瀟洒な造りの廊下が広がり、二人は場違いの気まずさから誰かとすれ違うのを警戒しながら南側の部屋まで歩き、玄関扉のインターフォンにアクセスした。

 防音も完璧なのだろう。内部から近づく人間の気配を一切させずに開かれた扉の向こうから出てきた顔は、華花の知らない男性の顔だった。

「やあ、いらっしゃい、待っていたよ」

 人懐っこい笑みを浮かべる推定三十代の男性の顔に華花が疑問符を浮かべる横で、助は思い当たる節があったのか、軽い驚愕を浮かべた口から声を上げていた。

「あの時の……!」

「おや、覚えていてくれたんだ。ささ、とりあえず中に入って。先ぱ――アイヒホルンさんも中で待ってるよ」

 そう告げてさっさと中に引っ込んだ男性の後を追いかけようとした助の袖を、華花が心細さを窺わせる顔付きで引き留めた。

「だれ?」

「ああ、えっと――」

 華花はあの時、呆然自失だったから覚えていなかったのであろう。彼はエリと巽が倒れて身動きも取れず、警官隊も到着間近という危機的状況で助達に喝を入れ、車で皆を病院まで搬送してくれた青年だった。ごたついていたとはいえ名前も告げずにどこかへ消え去ってしまい、謝礼も言えなかったことを気に病んでいたが、エリの知り合いであればあの状況に駆け付けられたのも納得だった。

「そっか、命の恩人なんだね」

 華花もそれで納得してくれたのか、強張っていた顔がいつもの柔らかな表情を取り戻す。

 助と心を通わせられたあの日以来、華花はまるで別人のように物腰が柔和になっていた。きっとこれが彼女本来の姿なのだろうと思うが、たまに柔軟を通り越して間の抜けた言動も目立つようになり、助を苦笑させることも増えた。

 今も、テレビジョンの番組でしか見られないような高級分譲住宅の室内に興味津々といった様子で目を輝かせている。

「どんな部屋なのかな、きっとロマンティックな夜景とか見れる素敵な部屋なんだろうなぁ」

 華花はリビングに繋がる、常夜灯だけが足元を照らす薄暗い廊下を歩きながら、光が漏れる扉の先を想像していた。助は本来の目的であるエリとの作戦会議にばかり意識が向いてやや緊張しており、華花のその長閑な思考が少し羨ましくもあり頼りなくも感じる。この作戦会議はほぼエリと華花が主体となるものに違いないのだから。

 先頭を進む華花が半開きの扉に手をかける。チーク材の緻密な彫刻が施された扉の向こうに広がる光景に、華花は心を躍らせていた。

 そこはかとなく薫る甘い香りのリビングには大きなガラス窓。その向こうにテラスが広がり、その眺望を楽しみながら専用のミディア・ディスプレイとバー・カウンターで愛を語らい、そして十分に雰囲気が高まれば、落ち着いた照明の中でソファーに身を沈めた助と一緒にカクテルグラスを傾ける……そんな妄想を繰り広げていた華花の眼前に広がったのは、無残な現実だった。

「あー、いらっしゃーい、お二人さん」

 コンソールから目も離さないエリのお座成りな声で始まったその光景は、高級感という言葉に対する冒涜だった。

 薄暗い室内はどこもかしこも有名ショッピングサイトのキャリアケースがうずたかく積み上げられ、その下をコンピュータの配線が縦横無尽に這いまわる。

 備え付けのソファや家具の類は別の部屋に全て押しやられ、エリは壁際に設置されたミディア・ディスプレイに向かって幾重にも展開したコンソールと床座のままにらめっこ。

 室内に広がるのは新品の電化が吐き出す独特な排気の香り、昼なお薄暗い室内を無機質にライトアップするのはミディア・ディスプレイの淡白な明かりだけ。大きなガラス戸はカーテンで覆われ、バーカウンターにはインスタント食品の食べ残しが散乱している……。

 何処をどうしたらあの妄想の中のラグジュアリールームの雰囲気をここまで徹底的にぶち壊せるのか。華花は現実を受け止めきれず、隣に立つ助の肩に顔を埋めた。

 華花の様子に大体のその心中を察するも、助は一先ずそれは放っておき、部屋の中にあの男性の顔を探した。

「あ、適当に座ってくださいね。先輩もそろそろ一段落つくと思いますから」

 突然脇の暗がりから声をかけられて、助は肩が飛び跳ねるほど驚いた。その拍子に肩で華花の頭を小突いてしまい、痛がる彼女に謝りながら見遣れば、男は片手に湯気を立てるコーヒーを掲げ、キッチンの方から戻ってくるところだったらしい。タイミングもさることながら、音を立てない男の物腰に尋常ならざるものを感じる。

「あの、先日はありがとうございました」

「いえ、お気になさらず。ああいうバックアップが僕の仕事ですから」

 助に向けて愛想よく笑い、エリにコーヒーを差し出す。エリがそれを確かに受け取ったのを確認してからカップを手放す――念の入りように慣れを感じる。以前、うっかりこぼしたりしたのだろうか――と、男はおもむろに助達の方へ近づいた。

「申し遅れました、僕は情報監察局特務三課の浅茅・創大(あそう・そうた)です、よろしくお願いしますね」

 丁寧に腰を折り、デジタルの名刺をコンソールから助へ送信する。

「あ、えっと、ご丁寧に……」

 助もテレヴィジョンの見よう見まねで挨拶を返し、顔写真入りの名刺を観察した。といっても浅茅の正体を疑ったわけではない。先日、エリのメッセージの中にあった彼女の正体を思い出していたのだ。

 警視庁情報監察局特務第三課課長代理、田中・エリスティーネ・アイヒホルン。それが彼女が本来属している世界での姿だという。しかしどれだけ長ったらしくたいそうな肩書を持っているとしてもやはり助にとってエリはエリであり、いきなり実は平和を守る国家公務員――チャンターでしたと言われてもピンとこない。

 彼女の同僚――肩書通りであれば部下なのであろう彼もまた、恐らくチャンターなのであろうが、どう見ても物腰の低いサラリーマン然とした青年だ。その馴染みやすい印象が、尚更エリの存在を級友のままに置き留めている。

 エンチャンターに脅かされ、止めは本物のチャンターに嵌められた助にとってはチャンターそのものが疑惑と恐怖の代名詞にもなっているが、それも薄皮一枚隔てたチャンターの側面に過ぎないのだろう。平凡な人間に善悪があるように、チャンターにも善悪がある。結局、平凡と非凡を分けるのは詠唱技能という力だけ。

 たかがその一事で、あらかじめ培われていた印象が突然変異することもなく、さりとてその一事で存在する世界に具合の悪い境界が生まれたのもまた事実だった。

 印象は変わらない。しかし、どうやって接すればいいのか戸惑いは隠せない、といった具合だ。

「さて、わざわざ来てもらった訳だけど……」

 エリが一段落したのを見計らって、四人は狭い空きスペースに車座になって顔を突き合わせた。これから訪れるであろう重苦しい大人の会話に助と華花が身構えた途端、エリが跳んだ。

「たすくん会いたかったーっ!」

「ああ、はい、僕もです僕もです、だから抱き付かないでください」

 普段通りのエリであればと予測の範囲内であった抱擁に、助は内心で驚きはすれ外面は一切の感情を表さず機械的に対応することに成功していた。

「エリさん離れて」

「本物のたすくんだぁー」

 下手に感情を表せば隣で眦を吊り上げる華花に後で小言を貰うからであり、助はここ数日でその対処法をいくつか学んでいた。内心の驚きも疚しいことはなく、それよりもエリが変わっていなかった事による安心感が大きい。その感情すらも押し留めなければ、華花の般若面を目覚めさせる恐れには難儀したが。

「はい、さっさと話を進めましょう」

 助からエリを引きはがそうとする華花と意地でもくっついていようとするエリの争いを浅茅が制して手打ちを取る。

「えーと、そうだね、じゃあまずは状況の確認からかな」

 何事もなかったかのように話を再開するエリには余裕が感じられるが、完全にエリの事を警戒する華花はまるで尻尾を立てて威嚇する猫そのものだった。遊ばれていることに気付いていないのは本人のみなのであろう。

「まあ、詳細はこないだ送ったメッセで説明したからいいとして、おさらいね」

 エリの言葉に助はいくつかの単語を思い出す。シンギュラリティ、JACと小六・聖、久早中央中学校、そして方舟。

「まず、たすくん、キミはなんだい?」

 突拍子もない哲学的な質問が飛び出すが、助は迷わず先に挙げた単語の一つを選び出す。

「……シンギュラリティ、です」

 口にするとどうにも違和感が拭えないその言葉を、助は噛み締めた後に吐き出した。

 それは共和議会――つまりこの世界が助個人を差して呼ぶ名前。方舟と接触し、唯一無事に帰還した存在。

 年に一度、方舟から助へ謎のアクセスがある事実も議会の専門家達を唸らせた。単一の奇妙な存在。そしてそれ故に助はこの一連の出来事の中心に、本人の意思とは無関係に存在し続ける。それこそ自覚させられないまま、四年もの長きに亘り。

「キミの存在は間違いなく方舟に何かの変化をもたらす――はっきりした確証はないけど、当局はそう睨んでる。そして、あいつも」

 小六・聖。エリ曰く、ここにきて唐突に顕在化した方舟は彼が裏で糸を引いていた結果らしい。そう、方舟は今、助のかつての母校、久早中央中学校に出現している。今この瞬間も、御陵・睦がクオリアを失ったあの場所に。

 始まりはエリ達監察局も把握しえない水面下で行われていた。監察局とJACは組織の方向性は似通いながら横の連携は一切なかった。そもそも統括するトップが違う上、U2Nに関わる悪事全般に目を光らせる監察局と違い、あるのかないのかはっきりしないその存在定義も不明瞭な方舟などという妄想を追い続けるJACは、二百年という無駄に長い歴史しかない、政府の中でもいわば閑職と呼ぶに相応しい職場だった。

 役には立たないが共和議会で各リージョンにその設置が求められているが故に撤廃することも出来ず、日本リージョンでもその活動は他の官僚が兼任する形で部署を置き、その調査報告書は下請けの民間業者に丸投げして責任者は目も通さず議会に報告書を上げているような有様。それを一変させたのが有限会社アーク調査代行代表取締役、小六・聖という男だった。

「種から明かすと、小六は方舟の出現予測を算出するプログラムを完成させてたんだ……五年前にね」

 それを使い、的確に予測と確認を重ねて実態ある報告を続けた小六は、外部機関でありながら共和議会の信任を得て、JACの中で実質のトップに登りつめた。それどころか共和議会から直接資金提供を受け、独自の研究機関を設けるにまで至る。そこには一部議員の思惑と表沙汰にはできない取引もあった事だろう。

 監察局に渡す情報は最低限に、JACを隠れ蓑にして個人的にその触手を張り巡らせて人知れず状況の基盤から作り変える……そうしてまず、小六の計画の前提が揃った。

「今、中央中学校が政府に封鎖されてるのは知ってるよね?」

 助と華花は重々しく頷く。何度もニュースで取り沙汰されているから、中学校の状況に関しては今更説明を聞く必要もない。

 CUSになんらかの異常が存在するとき、それは人間の精神系そのものに悪影響を及ぼすことがある。そのCUS上の座標と物理座標の重なる場所を汚染区域と呼ぶが、今回政府の独断で中学校が封鎖されたのはその汚染区域が中学校の現れたからだ。滅多に起こる事でもない空間汚染が、寄りにも寄って子供が大勢生活する中学校に現れた。世間が放っておくはずのない大事件だ。

 確かに方舟の顕現座標ともなれば一級の汚染区域指定は確実だった。だが、ここまで大袈裟に状況をひけらかさなくても、政府は今までも公共施設の閉鎖くらい訳なくこなしてきていた。

 ここにきてこれだけ騒ぎを大きくしたのは、小六・聖の一存だと、エリは推測していた。「小六がいよいよボク達の目も気にせず行動に踏み切った理由は一つ……方舟を独占するための準備が整ったんだ」

 小六が細かい根回しはせずとも、学校施設に方舟が出現すれば国が全ての根回しは行ってくれる。その上、空間汚染という一大事に混乱し、浮足立った住民の相手と対策にそれだけのリソースを割かなければいけなくなり、小六・聖の思惑への対策はその分遅くならざるを得ない。

 そうなれば後は時間の問題だ。方舟さえ手中に収めてしまえば小六の身の安全は確保されたも同然なのだ。あれは人間の歴史上で負の遺産とも呼べる核兵器や衛星兵器に匹敵する抑止力を持ち合わせているのだから。

 JACが小六の真意に気付いた時は既に手遅れだった。もはやJACという隠れ蓑すら必要としなくなった小六は、議会からの直接支援を横流しして得た資金を使って、電撃的に行動を開始した。上層部関係者は小六への対処を決議する場で、まずはその責任の所在をはっきりさせようと侃々諤々の議論にこの二週間を費やしてきたという。

「ボク達現場の指揮もなおざりでね……丁度いいからボク達も勝手にやらせてもらうことにしたんだ」

 すなわち、エリの目的は一つ。

「小六の確保、それがボク達の目的だよ」

 ついでに可能であれば方舟の情報も可能な限り収集するというのが、エリ直属の上司の条件だった。その代わり可能な限りの物資の融通はする。しかし、上層部に掛け合うことなしに人員を割くことはできないと言われ、エリは華花を頼ったのだ。むしろそれは好都合だった。どこまで小六の息がかかっているのかわからない状況で、混乱の真っ只中の上層部から派遣された人員など恐ろしくて背中を見せることは出来ない。その点、華花と助は信頼に値する時間の共有がある。

「ホント、物分かりのいい上司で助かるよ」

「あれは脅迫っていうんですよ、先輩」

 穏やかな顔で物騒なことを口走った浅茅の言葉は聞かなかったことにした二人だった。突っ込んで訊くときっとロクでもないことに巻き込まれている虚脱感に苛まれ、士気に関わる気がしたのだ。この戦いは自分達の決意の表れ、ここに居る理由は二人にとってそれだけで十分だった。

「細かい話はさておき、これ、作戦概要を追ったクオリアね」

 エリはコンソールを展開することなく、思考だけでアミュレットを操作して二人にクオリアデータを送付した。それだけでも彼女のチャンターとしての技量の程に驚かされるが、そのクオリアがまた冗談のような代物だった。

 クオリアはアミュレットの方である程度調整してくれるとはいえ、元来は人間の感情の欠片だ。他人が見ても『こんな感じ?』というのがせいぜいだが、それは違った。

 現実の作戦状況そのままを一瞬で脳髄に叩きこまれたような実感が、助と華花の緊張を高め――否、そんな生易しいものではない。その生々しい実戦の空気感に背筋が粟立ち、吐き気を催す程の動悸が全身を駆け巡る。これはきっとこれまでエリが経験してきた戦場に基づくシミュレーション、実際はもっと壮絶な命の奔流が待ち構えているのだろう。

 一介の学生が関わるような世界じゃない。助の覚悟を後悔と恐怖が埋め尽くしていく。心拍数の上昇に伴って浅くなる呼吸が救いを求めて喘ぐ中、握りしめた拳にそっと重ねられた温もりがあった。

 助が涙の滲む瞳をそちらに向けると、そこには華花がいた。彼女は今にも泣き出しそうな表情で、弱々しくもはっきりと助に微笑みかけた。

「大丈夫だよ」

 そんな声まで聞こえてきそうな気丈な笑みに、助は自分がどんな表情で彼女と向き合っているのか、ようやく意識できた。(こんな情けない姿を見せないために、ここに居るんじゃないのか?)そう言い聞かせ、無理矢理表情筋を働かせて微笑み返す。

 助のそれはとても笑んだとはいえない表情だったが、エリは少し複雑な表情を浮かべてすぐにそれを瞑目の中に消し、張りつめた表情を二人に向けた。

「……今のに耐えられるなら十分戦力に数えられるよ」

 二人を認めたエリはすぐさま作戦概要の説明に入った。

 と言っても、作戦そのものは至ってシンプルだ。小六を発見し次第これを無力化し拘束する。ただそれだけだ。手段も被害も問われない簡単なお仕事。それ故に彼我戦力が物を言う。

 小六が彩以外の人間を扱う可能性は低いと、エリは踏んでいた。しかしその彩の存在が最大の問題だ。チャンターにも得意科目がある。まだチャンターとして未熟な華花はその当角も現れていないが、エリであればその質と量においてほかの追随を許さないといった具合だ。

 彼等の得意とする詠唱は『待ち構えての迎撃戦』を最も得意とする操作と攪乱だった。戦力差を誤魔化す手段なら向こうが何枚も上手であることは想像に難くない。崇神会に貸与していた改造端末による攻撃もその一つだ。最後の一斉射、あれは衣子の操作ではなく彩のものだった。彼女はあの斉射を十回はタスクマネージできる能力があるはずだった。それだけでも厄介な上に、同時に小六の攪乱が加わるのだ。

「多分、ボクは彼等の攻撃を防ぐので手一杯になる。だからハナハナ、キミがオフェンスだ」

「……はい」

 華花も小六の詠唱技能の片鱗を見て学んできた身だ、それがどれだけ無謀かは嫌というほど理解していた。それでもやらなければならない。その覚悟が華花をここに居座らせ、エリの言葉に頷かせる。

「じゃあここで戦力評価をしておこう、ハナハナのタスクマネージ限界は?」

「えと、この間試したら八でした」

「うん、それだけあれば十分だね。ボクは三十二だから覚えておいてね」

「さっ⁉」

 華花はほとんど反射的に身を引いていた。その反応でそれがどれだけ尋常でないのか助にも十分伝わった。

 エリと華花のお互いの詠唱技能に関する評価が取り交わされる間、詠唱技能を持たない助は蚊帳の外で所在無げに二人を眺めるしかない。

「田中さんって、何者なんですか……」

 独り言のつもりで呟いたそれを、耳聡く聞きとがめたのは浅茅だ。

「気にしないでください、彼女が異常なだけですから。通常、十も出来れば十分クラスCの実力です」

 頼もしいのやら胡散臭いのやら、エリは助が思う以上に謎の多い人物のようだった。そんな助の葛藤を知ってかしらでか、浅茅は更にエリについての謎を深めていく。

「彼女の実力と名声があれば本来なら共和議会直属の評議会メンバーに居てもおかしくないんです、それを何故か好き好んでこんな現場で燻っているんですよね」

 言葉面は彼女の批判とも取れる内容だが、その声には尊敬の念が込められている。彼が一回りも二回りも年下の彼女に敬意をもって応じるのもその辺りに由縁するのだろうと助は推察する。そんな見透かすような思考が彼にも伝わったのか、浅茅は煙に巻くように話を別の方向に動かした。

「そんな人ですから、結構色々厄介事を抱えてるんですよ、押し付けられてね。やっかみってやつです。だから、そんな圧力の無い高校生活を本当に楽しんでいるみたいでしたよ。と言っても、君達には厄介極まりない日々だったでしょう?」

「いえ、そんなことは……」

 真直ぐに目を見返して言えないのでは説得力もないが、本人のすぐそばでその質問に『はいそうです』とは答え難い。

「隠さなくてもいいんですよ? なんたって、今回の潜入捜査だって本人の悪ふざけに拠るところが大きいですからねぇ……能力も出鱈目なら容姿も行動も出鱈目、少し住民登記を調整したとはいえちゃんと入学試験はパスしたり上層部を脅しつけて目を瞑らせたり……法権力を酷使してかなり遊んでましたからね」

 一国家公務員が観察対象に接近する為とはいえ経歴を詐称して高校に入学するなど悪ふざけの度合いも越している気はするが、浅茅の言葉は間違いなくその悪ふざけの大将の悪影響を感じさせて変な説得力を生み出している。

「あれが本来の彼女なのかもしれませんね」

 そんな出鱈目ばかりの言葉の中に、そんな不意打ちを仕込まれたのではたまったものではない。

 目だけで助に謝意を示し、浅茅は微笑んだ。

「特に君の事を話す時はもう、年甲斐もなく燥いでいましたよ」

 悪戯っぽく笑うその目に、助も否応なく言葉の意味するところを察してしまった。言葉に窮してぎこちなく空笑いを浮かべていると、そこに華花と打ち合わせをしているはずのエリの声が飛び込んできた。

「年甲斐もなくってなにさ! ボクは歴とした美少女だぞ!」

「美は良いとしても、少女って歳ではないでしょう」

「なんだとー⁉」

「はいはい、先輩は蘭堂さんとの打ち合わせ中でしょう」

 目くじらを立てるエリの向こうで仲裁に入るべきか否かを悩む華花が助をみて苦笑した。助も華花の視線に気付いてそちらを見ると、何かを伝えるようにその瞳を注視した。華花はその視線の意図するところを心得て、苦笑を掻き消し頷いた。

「田中さん、僕達から提案があるんです」

「提案?」

 浅茅に上司侮蔑の警告を与えていたエリが助の改まった声に眉根を寄せた。

「はい」

 助と華花の提案とはおおよそこんなものだった。二人にとっての最終目的は方舟の中に今も囚われているであろう睦や華花の兄、他にもまだ肉体が残っている人達のクオリアの解放である。それを為すには方舟の情報を引き出すどころの話ではなく詳細な解析が必須だった。エリの話を訊いて助と華花は自分達が構想する計画の重要性を再認識した。すなわち小六との協力だ。

 エリが言う通りに小六が方舟を手中に収めるべく完全解析せんと企むのであれば、一時的にでも小六に協力しクオリアを解放した上で仕切り直す方が確実性が高いのではないか。

 一歩取り違えば二人が裏切りを示唆しているような話だが、エリはそれを一笑に付した。同時に断言する。

「それは無理だよ」

「……何故ですか」

 思案の必要もないと言外に突き付けられ、助は少し不快気に声を潜めた。その機微を掴みかねるエリではないが、敢えて無視した。そう言った部分は確かに社会人であるエリにとって、助が幼稚に拗ねるのをいちいち取り為す必要が無い事を知っている。たとえどんなに幼稚な人間でも、その時が来れば本質的に必要な行動をとらざるを得ないのが非常事態の常だ。

「話し合いでどうにかなるなら、ボク達の出番なんて来ないんだ……あいつと何かを交渉しようなんて思わない方がいい。あいつの言葉は全て毒だと思って聞き流すんだ」

 押し被せるようにそう言いつけて、その話は終わりだと目で黙らせる。その意志の強さに思わず怯んだ助は、悔し紛れを呟くのが精一杯だった。

「詳しんですね、あいつの事」

「そりゃ、元カレだもん」

「……えぇッ⁉」

 素っ頓狂な声を上げたのは華花だった。意趣返しのつもりだった助は思わぬ反撃に言葉ごと息を喉に詰まらせた格好で目を剥いている。

 エリにとって小六・聖は同じ学部で方舟に関する研究をする先輩だった。その当時、意外にもエリは周囲から浮いており、ひとりぼっちでいることが多かった。百年に一人の天才であり、加えて際立ちすぎた容姿のエリは同年代の学友に敬遠されたのだ。そんな環境も災いして、彼女は今とは真逆に人との接し方を知らない孤高の麒麟児だった。

 その反動もあってか、人当たりもよく自信に満ち溢れた彼の接近に、エリが惹きつけられるのに時間はかからなかった。思えば小六にとって必要だったのは研究を完成させるための能力であって、女性としてのエリには全く興味はなかったのだろう。小六は研究の成果が一通り出揃うと、ある日忽然と姿を消した。友人であった彩も彼の後を追って退学し、エリは大切に思っていた二人に捨て去られた。

 今でこそそれで良かったと思える。一歩間違えば自分も彩のようにこの少女を使い捨てに裏切っていたのかもしれないと考えると、ぞっとしない。

「はい! この話は終わり!」

 ひたすら苦々しいだけの記憶の蓋を再び閉じると、エリは一際声を張って現実に意識を引き戻した。

「でも方舟の解放に挑戦するっていうのは賛成だよ」

 エリの衝撃的な告白ですっかり毒気を抜かれた助だが、その賛同を素直に喜ぶことはできなかった。小六との協調路線をとれないとなると、方舟の解放など覚束なくなるのだ。せめて睦のアミュレットがあれば話は別なのだろうが……助は忘れ難い悔恨を思い出して渋面を俯かせた。そんな助の背中をさすり、華花はエリに縋る目を向ける。安全にアクセスするための正規の鍵、方舟のプロトコルの入手が何よりの問題だった。

「……エリさん、なんとかなりませんか?」

「なると思うよ」

 そのあまりにもあっさりとした返事に華花と助は二の句が継げなかった。それどころか疑うような眼差しすら向ける始末だが、エリはそんな無礼は歯牙にもかけず、コンソールを展開した。

「実はこっちでもプロトコルの解析に成功しててね、アクセスだけならかなりの安全性を確保できてるんだ」

 だからこそ、本部は方舟に関する可能な限りの情報収集を指示したのだ。と言ってもこのプロトコルの確保も一筋縄ではなかった。

 大本のデータは助から預かった文字化けメッセージだった。四年に一度、助に届くメッセージ。そして共和議会が察知していた方舟からの四年に一度の謎のアクセス。エリがその二つを結びつけたのはまさしく文字化けメッセージの存在を知ったあの瞬間だった。

 とは言え、それは助個人に宛てられたプライベートなメッセージの可能性が高かった。その全文を丸々提示するのも気が引けたエリは、まず本文と情報のやり取りを格納する部分を分割し、格納情報だけを解析室に送りつけた。

 だが、その解析が完了する前に小六の独断専行が明らかになり、解析室のリソースは全て小六の過去の行動や通信記録、スケジュールを洗いだす不毛な作業に当てられてしまった。もちろん宙に浮いた解析作業は一向に進まず、結局自分でやるしかないと混乱に紛れて情報を引き出し、この二週間エリが独力で進めてきたというのが学校にも顔を出せなかった実際の理由だった。

「少しスクリプトを直して……ああでも細かいパラメータは実際に見ながら調整しないと……そうなるとやっぱりあいつが邪魔だなぁ……」

 あっという間にプログラムの確認作業に没頭し始めたエリに置いていかれてしまった二人は、互いに苦笑を見合わせた。

「やっぱり、エリさんはすごい人なんだね……」

 一緒に学生生活を送っていた数週間前と、立場が変わってもほとんど変わらない彼女の人間性についつい忘れがちだが、こうやって実績を目の当たりにさせられると、彼女もあの小六に匹敵するチャンターなのだと痛感させられる。そうでなくてはこの作戦も覚束ないのだが、浅茅が何気なく口に出したその言葉はそう思っていても驚かざるを得ないものだった。

「曲がりなりにもウィッチですからね、先輩は」

「曲りなりって何さ」

 消えたコンソールの向こうからエリの引きつった笑顔が現れ、驚愕を張り付けた華花の顔とぶつかった。

「ウィッチ⁉ エリさんが⁉」

「ウィッチって?」

 閉鎖的なチャンター社会の常識故、埒外にいる助にはその価値は全く掴めない。〈魔女〉という比喩の通りであれば、魔法のように詠唱技術を操れるのだろうと推察は出来るが、助から見ればエリも華花も小六も詠唱技能者という点においては具体的にどう違うのか説明できない、同じくらい魔法使い染みていると思うのが正直なところだ。

「いわばチャンターの最高峰ですね」

 そんな助の不足を浅茅が補い、華花がさらにそれを感情的に彩った。

「歴史上まだ十三人しかいないんだよ! 伝説級なんだよ!」

 確かにチャンターの間では英雄のような人間なのだろうと、華花の興奮振りは助にその凄まじさを肌で感じ取らせる。エリはというとなにやらその話題が都合悪いのか、落ち着かない様子で華花の興奮振りを遠巻きにしていた。その理由も、浅茅は包み隠さず教えてくれる。

「実際はウィッチ候補なんですけどね……ほら、ウィッチは本来人間性や人徳に重きが置かれる称号ですから」

「人徳……」

 確かに今のエリからは遠い位置にある言葉だ。

「あにさ、ボクだって好きで呼ばれてるわけじゃないもん! 勝手に周りがそう呼んでるだけだもん!」

 駄々をこねる子供のように口を尖らせて反駁する彼女には確かにそんな威厳など欠片もない。浅茅はさらに追い打ちをかける。

「そんな風にいつまでたっても自覚を持たないから、『プッチ』なんて揶揄されるんですよ」

「プッチっていうなー!」

 決して明るいとは言えない室内でも、目に見えて顔を赤くしたエリが浅茅を黙らせようと身を乗り出すが、その響きに華花が興味を持ったらしい。目の奥に興奮を潜ませながら、浅茅に向き直る。

「プッチ?」

 エリの手を躱しながら、浅茅は努めて澄ました顔を華花に差し向けた。

「プチウィッチ、略してプッチです」

「……かわいい」

 華花にかわいいと言われてしまってはエリも形無しだ。助はそんな馴れ合いを愉快そうに傍観していたが、恥辱に潤んだ瞳に捉えられると、嫌な予感が面持ちを引きつらせる。

「なんかもう疲れたー! たすくん膝枕してー!」

 座った状態のまま飛びつかれ、状態を大きく崩された助がさしたる抵抗も出来ない内に、エリはまんまと助の膝の上に頭を落ち着けてしまう。

「ちょっと、田中さん……」

 銀糸の髪から立ち上る甘い香りに鼻をくすぐられ、猫のように縋りつくエリを持て余す助の背後に殺気が生まれた。

「エリさん、眠るならちゃんと布団に入った方がいいですよ」

 華花の無感情な声がエリではなく助の肝を冷やす。

「たすくんそいねしてー」

 エリの猫撫で声がますます調子を上げて助に迫る。こういうところで仲裁に入ってくれるはずの浅茅の姿もいつの間にかなく、助が狼狽している間にも華花の内圧は順調に高まっていく。

「エリさん!」

 いよいよ色を為して立ち上がった華花が助の正面に回り込んだ時にはすでに、エリは本当に寝息を立てて丸まっていたのだった。すっかり気勢をそがれた華花が不服そうに息を吐くと、示し合わせたように浅茅が寝室の方から戻ってくる。

「仕方ないですね、もう三日も徹夜してますから」

「三日も……」

 それを知って華花もそれ以上は強く出られなくなったのか、矛を収めてエリの静かな寝顔を見下ろした。

「きっと必要になるからと、プロトコルの完成を急いでいたんですよ」

「……わたしたちのためかな」

「さ、丹下くんは先輩を寝室に運んでくれますか? 蘭堂さんは作戦用のアミュレットを調整したいので、こちらに」

 そう言われてしまっては断るわけにもいかず、華花は浅茅の後をついて別の部屋に消えた。

 後に残された助も言われたことを実行するべく二人の背中を追うのをやめて上半身を戻した。腰にしがみつくエリの身体の下に慎重に腕を差し入れ持ち上げる。その存在感からは意外に感じられる軽さに少し戸惑いつつゆっくり立ち上がると、寝室の方へと歩き出す。エリを抱えたまま覗きこんだ寝室は昼間だというのにリビングよりも暗い闇に染め上げられていた。

 頼りになる光源は廊下の明かりだけだが、両手が塞がっているので部屋の明かりをつけることも叶わない。仕方なく開け放たれたままの寝室の戸口をくぐり、ダブルサイズのベッドに彼女を降ろして一息ついた途端、何かが首に巻き付き、引っ張られた。

 面喰らいながらもバランスを取ろうとするが、エリの腕がしっかりと首裏を固定している。大きく仰け反った身体をエリに引き戻された反動にとうとう耐えきれなくなり、助はエリを挟みこむ形でベッドに手をついた。高級そうなスプリングは音も出さずに大きくたわみ、なにかの遊具のように二人を上下に揺さぶった。

 細いエリの膂力とはいえ体重をかけてしっかりと首根っこを固定されれば、物言わぬまま見詰めるミッドナイトブルーの瞳を覗き込むしか、助には選択肢がない。

 表情らしい表情を浮かべない瞳が助の瞳の奥を見定めるように揺らめき、ふっくらとした唇が薄く開いて熱い吐息を助の耳朶に届ける。額にかかる銀糸の髪が一房、煌きながら落ちるのを見て、助は彼女の身動ぎを感じた。

 蠱惑的なエリの香りと瞳の光に魅入られたように、助はひたすら彼女の視線を受け止め続けた。その瞳が、唇が、少しずつ近づいてくる錯覚にいよいよ目蓋を結んだその時、唐突に助の上半身はエリの細い腕から解放された。

 変に強張った身体が矯めた力を腰から膝に伝え、助は投げ出されるように背後にたたらを踏んで、ようやく静止する。いつの間にか息を止めていたのだろう、酸素を求めて蠢動する肺を意識しながら助は、光を散らした銀糸を敷いて仰向けにこちらを見下ろす暗い瞳を凝視した。そこからエリの真意を汲み取ろうと必死に思索を巡らせるが、義理立てと期待と背反する感情がせめぎ合う中では碌な思考は望めなかった。

「……やっぱ、いいや……歯止めが利かなく……なった……ら――」

 囁くような声は全てを告げる前に閉じた声帯に遮られ、そのまま寝息に変じていった。

「助くん、いつまでそこにいるの……?」

 夢の中のような浮ついた脈動に立ち尽くす助は、背後から華花の胡乱気な声に襲われた。棒を突っ込んだように背筋を伸ばしつつも、声に動揺が混じらないよう静かに答えた。

「今丁度戻ろうとしてたところで……」

「……ふぅん」

 助がぎこちない動きで踵を返すと、出会った頃の華花を彷彿とさせる冷ややかな眼差しに貫かれた。

 あの日以来、助は華花のこういった猜疑心に常に見張られていた。心休まる時もない反面、彼女に占有されている実感は少なからず充足ももたらしている。確かにこんな膠着状態もまま訪れるが、今に限っては助け船がすぐにやってきた。

「何してるんですか、お二人とも?」

 浅茅・創大だ。寝室の中と外で見つめ合う二人に、不思議そうな声をかけてやってきた男に押し出されるように、華花は玄関の方へと黙ったまま歩いて行ってしまった。後でしっかり機嫌を取ろうと助が決意しながら寝室を出ると、浅茅が華花に気付かれない程度に助に顔を寄せた。

「ありがとうございました」

 小さく耳打ちされたその言葉で、助は全て得心した。この人は確信犯だと。

 帰りは浅茅に送ってもらえることになった。彼の車に乗り込んでも華花は助の機嫌買いに梨の礫だったが、傍から見れば助の腕にしがみついて頬をすり寄せる図は、とても不機嫌な恋人の姿には見えなかった。


  ※  ※  ※


 決行のその日、市立久早中央中学校は普段と変わらぬ静けさに包まれていた。

 市中央に鎮座する御山の東麓と開発地区の西端となる久早本町駅の丁度中間に位置する中学校は、山裾から延びる雑木林に半ば埋まった立地にある。時間は深夜、元々精神汚染区域に指定されて近づく人影もない中学校は、少しくらいの暴動――元々音の出ない詠唱技能による戦闘は静かなものなのだが――であれば周辺住民も気付きにくい、事を構えるには絶好のロケーションだった。

 方舟が存在している――CUS上の座標と物理座標が一致する場所はC棟の屋上と、浅茅がその情報網を駆使して特定している。中学校は三つの棟がコの字型に向かい合って建築されており、校門から入ったロータリー兼駐車場を置いて左にA棟、右にB棟、そしてコの字に囲まれる中庭の奥にC棟が佇み、その更に奥には運動場が広がっている。

 目的はあくまで小六の確保だが、作戦開始時の目的地はC棟屋上の方舟に設定された。その意図は、この学校のどこに潜んでいるかわからない小六を探してあちこち首を突っ込んで不要な危険を被るより、監査局側と小六側お互いの目標である方舟を目指して進めば自然と交戦せざるを得なくなる、その状況を小六側に押し付ける狙いだ。

 三人はエリの詠唱によるCUS情報欺瞞を施した上で夜陰に紛れ、屋上までの最短ルートである中庭に入った。むかうC棟の三階に照明が灯っているのを確認し、助は間違いなく自分が虎穴にいることを実感する。明かりの下の人間の気配までは察知できなかったが、間違いなくそこに誰かがいる。そしてそれは十中八九、小六達なのだ。そこに辿り着くまでに一体どれほどの罠が仕込まれているのか、チャンターならぬ助には想像もできない。

 幸い、まだ助達が潜んでいる中庭には観察池や飼育小屋などの設備があり、植生にも恵まれている。闇夜に紛れて行動すれば室内からではそうそう発見することは出来ないだろう。

 助と華花の意向もあり、気付かれる前に方舟に可能な限り接近したかった三人が最短で尚且つ発見されにくいそのルートを選ぶのは必然であり、自明の理だった。それはつまり相手からすれば読み易いという事でもある。しかしその点に気付かないエリではない。それでもこの道を選んだのは、相手の人数の少なさを逆手にとっての判断だった。相手はその人手の少なさ故、戦力を分けるような戦況には、たとえ目先に餌をつられても打ってこないと踏んだのだ。それがまさか出端から敢え無く破綻するとは、思いも寄らなかった。

「こんな時間から登校? 勉強熱心なのね」

 C棟は建物中央一階部分をくりぬいて通路にしている。建物の内部から内部、中庭から校庭への道が交差する形だ。

 そのB棟側の通用口付近の闇の中から、声に続いて阿須賀・彩の姿が浮かび上がった。

 すかさず身構える三人だったが、周辺に小六の姿は見当たらない。その緊張感を笑うように、彩はゆったりとした足取りで三人に近づく。その接近に押されるような形で後退る三人は、そのまま校舎を背にして止まった。

 物理空間の戦闘であれば袋小路に集団で追い込まれれば後はいたぶられながら始末されるだけだが、チャンターの詠唱勝負は縦横無辺のCUS上で繰り広げられる。相手を捉える視界さえ通っていれば、物理空間の障害物や条件は関係ない。

 むしろ、相手が改造端末を利用してくる可能性を考えれば、広いところに出て四方八方を囲まれることの方が危険だった。壁を背後に置くことで改造端末が設置されている場所を限定し、可能な限り視界内に統合紋の発生を収めれば、逸早く不意打ちに対応できるのだ。

「そんなに警戒しなくていいわよ、ちょっとお話に来ただけだから」

「話?」

 今更そんなものは必要ないとエリの硬い声音がそう伝えるが、彩はそれを意に介さず歩み寄ると植栽を挟んで立ち止まり、暗がりにわだかまる三つの人影の中で一番小さな影に、優しく語りかけた。

「華花、お願い、私達の元に帰ってきてちょうだい」

 闇の中から怒りを噛み砕くような軋み音が響いた。エリが奥歯を噛む音だった。

「この期に及んで……キミは自分のしたことを忘れたのかい?」

 夜の闇が無意識に彼女の声量を抑え込んでいるのであろうが、内にエネルギーを溜め込んだ分その言葉が孕む情感は重い。

「忘れたわけではないわ……でも、私は反対だった! 彼だって好きでやった事ではないはずよ!」

「イヤイヤならいいって問題じゃない! あんなの、下手したら死んでたよ!」

「でも華花は無事だった! あの人はそこまで考えてたのよ!」

「虫唾が走る結果論だね……!」

「あの時は彼も少し気が立っていただけよ! その前に貰ったクオリアを思い出して、あのクオリアを持つ人が本気であんなこと出来るはずないわ!」

 無駄な議論に浪費する時間はない。エリがそれを行動で示すべく、タスクマネージしていた害意詠唱の実行化の為、統合紋を描く。その袖を取って制止を呼びかけたのは、他でもない華花だった。

「たしかにあの時の小六さんのクオリアは、一点の曇りもなくて……純真でした。迷いも弱さも感じられない、強くて純粋な意志の光です……」

 華花の脳裏に焼き付いて離れない、眩いばかりの光のような意志。視る者の目も意思もひさぐそのクオリアはもはや記憶の欠片などではなく、力だった。そんな彼の心の強さに惹かれるのは、弱さを抱く人間であれば当然だ。

 華花もそうだった。自分の無力を嘆き、運命の激動に息つく暇もなく流される中で見つけた光に無我夢中でしがみついた。

 華花はその選択が間違いだったとは、助の隣にいる今だからこそ思わない。全ては丹下・助と出会う為の道程だったのだと思えてならないのだ。

「そうでしょう、だから――」

「でもわたしは!」

 彩の縋るような声を、決意を煮固めた華花の声が押し返す。

「弱くても暗くても、助くんのあったかいクオリアがいい……道標になる光よりも、一緒に迷ってくれる彼のそばにいたいの!」

 小六の眩いクオリアの先に何があるのか、今となってはそれはもう華花にはなんの価値もなかった。その先に何があるのかわからない、足元を確かめなければ進めない程にこれからの道程は暗い、それでも華花は隣にある温もりを求めた。

 それは助も同じだ。

「貴方達が本当に華花を幸せに出来るなら、そう思えるなら僕は喜んで華花を貴方方に預けます」

 いつの間にか握り締めた華花の手の小ささを、温かさを確かめて、助は闇の向こうにある彩の昏い姿を睨み据えた。

「でも、必要であったにせよ彼女を裏切った貴方達に、華花を幸せにできるとは思えない!」

 お互いの弱さを確かめ合った今なら胸を張って言える。

「少なくとも僕の方が華花を大切に出来る! だから華花は渡せません」

 エリは複雑な心境はあれど、胸の内で快哉を上げていた。もう彼等に庇護を与える必要はないのだという実感は寂しくもあったが、これで心置きなくこの作戦に手中できる。これで作戦が成功の内に終われば、清々しい別れを演出できるのだから。

「そう……貴方達の覚悟はわかったわ……でも、私もここまで出てきた以上、何もせずに戻るわけにはいかないの」

 言うが早いか彩の周囲に統合紋が拡がっていく。敵前になんの準備もなく姿を晒すような間抜けであれば、エリ達監察局がここまで後手後手にてこずらされる道理はない。タスクマネージの方も完全と見るべきだった。

 だが、詠唱勝負に於いて寡兵側は攻守を分けることはできない。防戦一方になるのが常だ。

「キミ一人でボクをどうこうしようなんて、見くびられたものだね」

「さて、どうかしら?」

 エリは早かった。助はここで初めて本物のチャンター同士の詠唱合戦を目の当たりにすることになったが、それは呆気ないほど一瞬で片がついてしまった。

 そもそも相手が改造端末を使用してくる可能性があるのであれば、端末に指示を送る前に詠唱を潰してしまえば、あくまで遠隔操作できる砲台でしかない改造端末は無力化できる。改造端末の真価はあくまで初手の不意打ちと数に物を言わせた圧倒力だ。エリ達に手の内が知れている事は彩の方も承知している。その時点で不意打ちの価値はなくなり、残る圧倒力もその前に彩を沈黙せしめれば関係のない話だ。

 エリはそれを実直に実行した。華花に防護を任せると、タスクマネージしていた二十五の害意詠唱を一斉に解き放ったのだ。時間差を置いて雨霰と光の塊が彩に殺到する。

 無論、エリに彩を傷害する意思はないのだが、その十分すぎる威力は仲間であるはずの助と華花にすら畏怖に似た感情を抱かせる程だった。

 アミュレットを通してのみ窺い知れる一方的な数の暴力。それが田中・エリスティーネ・アイヒホルンの真骨頂。圧倒的な暴威に晒された彩は、為す術なくその場に膝をついて沈黙した。

「行くよ」

 助には正確な判断はつかなかったが、アミュレットも破壊され確実なダメージを負った彼女に抗戦の可能性はないのだろう。無視する形で行き過ぎるエリの背中を追って、助と華花もB棟通用口の少し開いた隙間にその身を潜り込ませた。


  ※  ※  ※


 監察局の方でも中央中学校の見取り図は入手していたが、実際に二年前までここに通っていた学生の案内には敵わない。一分一秒が惜しいこの状況で、それを活用しない手はなかった。

「後はこのまま昇るだけです!」

 助を先頭に、三人は一気に校舎を駆け抜けた。道中に小六の罠を警戒していたがその気配もない。それを不気味に感じながら明かりがついていた三階に足を踏み入れた瞬間、エリが動いた。

 タスクマネージから呼び出した動的防護が、飛来した害意詠唱を掻き消す。CUS上に散った情報の粒子が光となって散るその向こうに、小六の姿があった。その隣に彩の至って平然とした姿を見つけては、助も驚きを隠せずに背後を見返してしまった。

 この中学校は後からC棟が増設された故、二階以外は両棟とは切り離された構造になっている。そして三階に通じる階段はB棟側だけという面倒な設計になっていた。たとえ三人がB棟側の扉に消えた直後に走ってA棟側から昇ったとしても必ず二階の廊下か助達がたった今昇ってきた階段で鉢合わせるはずなのだ。

 まるで幽鬼に遭遇したかのような助の当惑に光明を差し入れたのは、エリの不愉快極まりない声だった。

「そもそも階下の彩は幻影みたいなもんだったんだよ」

 元々彩の幻は僅かでも時間を稼ぐのが目的だったのであろう、エリはその事実に会話途中に気が付いた。彩の声と口の動きに妙な違和感があったのがその理由だ。人間の精神系に介入して、脳にあたかもそれが存在しているかのように見せる欺瞞プログラム。それが幻の正体だ。

 彩がこの手の搦め手に長けているというのは学生時代から知っていたはずだった。にもかかわらず、エリは彼女の詠唱に気付けなかった。脳に見せる幻に攻撃能力は全くない。放置して先に進んでも問題ないところを飽和攻撃に晒したのは、エリの八つ当たりだった。

 そもそもが脳を欺瞞するようなプログラムは防ぎ難いというのはある。アミュレット自体が頻繁に脳を欺瞞しているからだ。コンソールが見えているのも『見えている』という欺瞞であって光学情報として視覚器が捉えているわけではない。そんなアミュレットの欺瞞優位性に加えて今回は敵地に乗り込む形だ。万端に張り巡らされた罠に飛び込んだのだからエリが気付けなかったのも仕方がないとは言えた。

 だが結果的に足止めが目的のささやかな欺瞞であったとしても、騙されたのが短い時間であったとしても、敵に思うようにされた事実は消えない。一歩間違えば全滅の危険もあったかと思うと、エリの心中が穏やかであるはずはなかった。

「まんまと出し抜かれたよ!」

「確かに貴方の圧倒的物量といってもいいキャパシティはすごいわ。クラスC三人分はあるのかしらね? でもそれに頼りすぎてる貴方は、昔から騙しやすかったのよ。そこはかわいいと思ってるのよ? プッチちゃん」

「ああもう腹立つ!」

 すっかりやり込められたエリが踏んだ地団太が、静寂の闇を間延びして遠退いていく。

 五人が対峙する廊下は照明がついていなかった。教室の照明が窓や扉から漏れ出る僅かな明るみに照らし出された小六の横顔は、無表情を通り越して無機質だ。小六がここに居るということは、小六側の準備は完了したと思って間違いない。その事実が三人の身体に覚悟と焦りを生み出す。

 エリは目の前の二人を警戒したまま、薄暗い廊下を見渡した。廊下の照明を落としているのは改造端末の数を容易に把握させないためだ。先程の中庭での会敵と違い、狭く直線の廊下は前後左右に加えて天井にも端末を置くことが可能だ。確かに、もし改造端末で戦うのであればこの廊下ほど都合のいい場所はないだろう。

 ざっと自分達の周囲だけでも十個は設置してあるのを確認して、エリは視線を二人に戻す。だがこの状況は作戦の中でも想定済みだ。華花もエリが確認する前から打ち合わせ通り、教室側を向いて小六達に対して半身に構えた。エリは華花に背中を合わせる形で窓側だ。

 これで応戦準備はできた。エリがそう思うより早く、小六の害意詠唱が華花が反射的に実行化した動的防護を揺さぶる。それが合図無き戦闘開始の嚆矢となった。

 それはまるで光のパレードのように、助の目には映った。十重二十重と飛び交う光条が飛び交っては散って、散っては飛び交う。床や壁はおびただしい数の改造端末の統合紋が埋め尽くし、僅かな隙間を赤や緑の光が奔る。助の理解の埒外のその光は、害意詠唱とは性質の違う欺瞞詠唱や攪乱詠唱だ。もし直撃すれば、脳はありえない幻覚を見たり、視覚を邪魔する表示に呑まれたりして僅かな時間だが意識を持っていかれてしまう。それはとりもなおさず詠唱合戦での敗北を意味する。

 既に始まってしまった自分の手の届かない戦闘を前に、助は固い唾を飲み込んで気持ちを落ち着かせた。手は出せなくとも声は出る。助は先程の彩の幻の言葉がすべて嘘でないことを祈りながら、小六に向けて思いの丈を振り絞った。

「待ってくれ、少しでいいから話を聞いてくれ!」

 詠唱は音を為さない。遮る物のない静寂の廊下で、助の声は間違いなく小六に届いているはずだったが、スラックスのポケットに手を突っ込んだままの男は、眼球を動かすことすらしなかった。それでも助は一縷の望みをかけて声を張り上げる。

「僕達は方舟のクオリアを解放したいだけなんだ! 救いたい人がいるんだ、だから、手を貸してくれないか⁉」

 彩が小六を見た。その顔には僅かな逡巡が浮かんで見えたが、小六の彫像のような顔を確認するとそれもすぐに消えてしまった。害意詠唱の光だけでも眩いほどの光塵が舞う中、エリと華花の面持ちは芳しくない。助は諦めなかった。

「方舟の中には喪失者のクオリアがまだたくさん残ってるんだ! 解放だけでいい、僕達はそれ以上望まないから――」

「困るんだよ」

 助の大声を遮ったのは、小六の平板な声だった。さして大きくもない抑揚のない声が、薄闇を染み伝って助の耳に侵入する。

「クオリアだけの存在が時間経過でどう劣化するのか、あれらはその重要なサンプルだ。その価値もわからない塵に方舟を触らせられるわけがないだろう」

「……は?」

 それは吐息だったのか疑問の声だったのか、吐き出した当の助にも判断がつかなかった。小六の言葉を理解することを脳が拒み、一瞬思考が停止したからだ。

「何を……」

「ハナハナ、二六八三九と二二四八九のカバーお願い!」

 助の呻きはエリの悲鳴のような声に掻き消される。それはまるで小六との会話を断ち切ろうとするかのように鋭く、助の前に振り下ろされた。

「わかりました!」

 答えた華花の顔には、助に対する気兼ねがあった。

 助が小六に受けた衝撃から立ち直れずにいる間にも、戦況は刻々と変化する。助の訴求の無残な結果に忸怩たる思いはあれど、二人のどちらかでも気勢を削がれれば戦線が崩壊する。それは絶対に避けなければいけない。華花は助を慰めるどころかその姿を視界に入れることも出来ずに気を揉むが、今は自分の役割に集中しなければとその思考を脇に押しのけた。

 助の事を考える代わりに、華花はエリを意識する。外から見るとエリはコンソールを叩きながら華花に指示を出しているだけのように見えるが、実際は周辺の改造端末のセキュリティ攻略を彩と競い合いながら、同時にタスクマネージと無詠唱を駆使して華花の防御のサポートまで行っていた。それが如何に人間離れした業か……チャンターの世界に片足を付けた華花でさえ、ウィッチの実力は本物の魔法のように感じられる。頼もしくもあるが同時に恐ろしくもある、大きすぎる力だ。

 だがそれでも足りない。改造端末の数が多すぎて、動的防護に持っていかれるリソースが多すぎるのだ。戦闘が長引けば長引くほどに集中力は落ちていき、欺瞞詠唱か攪乱詠唱を見逃す可能性は高くなる。だが改造端末の物量がある限り、エリと華花が攻勢に転じることは出来ない。何か手を打てなければこのまま押し切られるのを待つばかりだ。

「残五!」

 華花の声がタスクマネージの残数を告げる。常に無詠唱でタスクマネージを増やしてはいるが、それが追いつかない状況になっていた。

「諦めなさい……根本的に数が違いすぎるの。たった二人でどうこうできるほど、私達の用意は甘くないわ」

 冷ややかな彩の勧告にもエリは全く動じない。

「それは御親切にどうも! 足元危ないよ?」

 エリの言葉に彩が弾かれたように足元を見れば、攪乱詠唱が放つ緑の光線が毒蛇のように這いより、散った。小六の防護詠唱に守られた彩は、エリを憎々しげに睨みつけた。

 だがそんなささやかな意趣もそれで最後だった。いよいよ戦況は逼迫し、華花の声にも焦眉の色が混じる。

「一二六三七、八五七九、四三七五……だめ、バイパスします!」

「輻輳制御をROAに! 欺瞞詠唱だけは通さないで!」

「そんなこと言われても……残一!」

 その頃には助もなんとか気を持ち直していたが、自分が立ち直ることに何の意味も無い事を痛感するだけだった。ただ追い込まれていく二人を、大切な人の背中を見ている事しかできない。ただ、方舟の鍵であるだけの自分の無力が恨めしかった。しかし、どんなに悔やんだところで助に出来ることは何一つない。小六に殴り掛かりに行ったところで届く前に害意詠唱の的になるだけだし、よしんば取りついたとしても仁すら手玉に取った技で瞬く間に返り討ちだ。

 火花のように牽制の害意詠唱が弾け、光の帯が踊り狂う。表面上の戦闘は拮抗しているかのように見えたが、水面下は違った。華花の悲鳴がその限界を助にも実感させる。

「エリさん、もうもたない! {"でろ";/*そして*/"まもれ";};!」

 華花が詠唱した。それはもうタスクマネージが残っていないことを意味する。手札がなくなれば詠唱勝負は負けたも同然だ。残るはエリのみだが、二人掛かりで守り切れなかったものを一人で支え切れる道理はない。

 助は無意識に華花のそばに寄りついた。限界まで神経を擦り減らして詠唱していた華花の顔は憔悴していて、その涙を浮かべた不安気な表情に助は唇を噛む。

 音も匂いもなく忍び寄る敗北の陰は、助に選択を迫った。このままエリの背中を眺めつつ小六の害意詠唱に精神系を焼かれるのを待つか、エリが持ちこたえている間に華花を連れて逃げるか……しかし、助の接近にも振り向かない華花の姿は、エリの事を信じる姿勢を崩そうとしない彼女の意志の表れだ。それを無理矢理自分の我儘で引き剥がすことは、助にはできなかった。

 結局、助に出来ることは彼女達の勝利を信じる事だけだ。そもそも戦ってもいない自分が勝手に弱気になるのも矢面に立つ彼女達に対して失礼極まりない話ではないか。そんな臆病から抜け出すためにここに居るのだ。助は小六の破綻した倫理や敗色に怯えている自分を拭い去り、華花とエリの背中に集中する。

「……来た!」

 矢庭、天井から雨垂れのように降り注いでいた害意詠唱が止んだ。

「なに……? なんなの⁉」

 次いで、彩の狼狽も露わな声が状況の変化を刻みつけ、小六の双眸に初めて感情らしい光が滲んだ。当惑の光だ。

「どうした」

「端末のマザーノードが一つ反応しないの!」

 小六の目が、疲労が滲むエリのしたり顔を見た。

「何をした」

 それは問いかけたというよりも自問の声だったが、僅かな脅威と驚きが混じっている。それほど、その状況はチャンターにとって信じ難いものだった。

 小六の構築した端末は、三つのマザーノードからそれぞれ十ずつのノードを経て、そこからさらに十ずつの端末に命令を下している。それは操作の利便性を上げるための構築であると同時に、端末が一つずつ攻略されてモグラ叩き式に奪い合いが生じるのを防ぐ措置でもあった。この構成であれば端末を一つ攻略しても予め浄化プログラムを仕込んだノードが自動的に端末の権限を奪い返す。たとえその上位のノードが奪われても今度はマザーノードが、そしてマザーノード同士は連結しており、お互いがお互いを監督する。

 改造端末を操作するとき、彩はそのマザーノードに攻撃の指示を送るだけでよかった。それでも同時に指示を送れるのは三つが限界なのだが。しかし、三つを同時に攻略でもしない限り改造端末の権限を奪う事は叶わない。小六と彩と改造端末の攻撃に晒されながらそれを実行に移すことは流石の田中・エリスティーネ・アイヒホルンでも不可能なはずだった。華花の戦力は師である小六がよく知っているし、マザーノードが奪われつつある現在、華花は戦線離脱している。となれば必然的にエリが一人で行っていることになるが……。

 小六は詠唱の手を止めると、コンソールを開いて改造端末の状況を確認した。M1ノードは陥落寸前を彩が辛うじて抑え込んでいる状況で、M2ノードとM3ノードがお互いに干渉をカバーしながらも徐々に機能不全に陥りつつあるところだった。

 小六がすぐにマザーノードの奪還に動こうとコンソールに手を伸ばしたその時、エリ達の背後、階段付近に二つの統合紋が顕れた。すぐさま動的防護を展開して飛来した二つの害意詠唱を弾き飛ばす。その見覚えのある詠唱の密度は稚拙だが、チャンター用のアミュレットを用いて補正された分、精度は上がっている。教室から漏れ出る明かりの向こうから現れた姿に、小六は歯を軋ませた。

「屑が」

「なんで……」

 意外な援軍の到来に驚愕と期待を貼り付けた助の目が見ていたのは、薄暗がりの中に立つ崇神・皇、柴田・衣子、武本・堅介の姿だった。

「義によって助太刀いたすぞ、アイヒホルン殿。余が来たからに――」

「お待たせいたしましたお姉さま!」

 彼等が助と華花の脇を通り過ぎ、エリと並ぶ頃には改造端末の攻撃は完全に停止していた。エリが全ノードの掌握を完了したのだ。

 一人で無理なら四人で掛かればいい。それがエリの単純な答えだった。

 とは言え崇神会の三人に彩の妨害を躱しながらマザーノードを攻略するだけの技量はない。そこでエリは彼等の存在そのものをエミュレーターにした。一人一人にエリの侵攻パターンをトレースするプログラムを実行化させ、彩の妨害を攪乱させたのだ。エリはそれを小六と彩が三人を知覚できないように欺瞞しながら行っていた。足元に注意を促したあの瞬間、別のルートでエリはまんまと欺瞞詠唱を二人に流し込み、崇神会が仕事をできる準備を整えたのだ。あの状況下でそれだけの手練手管を張り巡らせられるキャパシティは、いずれにしろ人間業ではない。

「魔女が……」

 小六の苦々しい呟きがエリを称賛する。それは同時に形勢の逆転も意味した。流石にこの短時間で改造端末のコントロールまで奪う事は叶わなかったが、それこそ『物量だけ』ならチャンター三人分に匹敵するエリと素人に毛が生えた程度とはいえエンチャンターが三人もいれば、有利な拮抗状態を展開できる。単純な害意詠唱と防護詠唱、つまり牽制役を崇神会の三人に任せ、少し余裕の出来たエリは後ろの二人を振り返った。

「たすくん、ハナハナ、いける?」

 その言葉は、めまぐるしく変わりゆく状況に浮足立っていた二人の首を据えさせた。惑っている暇はない、そう自分に喝を入れると、助は華花の手を取った。すぐに力強く握り返してくるその手に、同じ意志を感じる。

 助と華花は、その手を離さずに光塵渦巻く戦場と化した廊下へと身を躍らせた。目指すは手前の教室。二人を狙う害意詠唱を華花が防御しつつ、手厚い援護のおかげで危なげなく教室の中へと入り込むことが出来た。作戦は、次の段階に移行する。

「彩、あの餓鬼共を止めろ」

「待って、手が離せないの!」

 打って変わって余裕のなくなった小六達のやり取りを後目に、助と華花はエリの部屋のような変貌を遂げている教室内を見渡した。

 椅子と机が一体になったような学習机が壁際に追いやられ、コンピューターとそれを繋ぐケーブルまみれの広い室内の片隅、物置代わりに物が山積みにされた教卓の上に目的の物を発見する。

 ピンクの兎をモチーフにした、この場の雰囲気にはどうにもそぐわない睦のアミュレットだ。助はそれを大切にポケットにしまい込むと、小六達を警戒して扉を見張っていた華花と合流し、入ってきた扉とは別の扉から飛び出した。

 教室を飛び出した瞬間、助の目の前で光が散った。小六が出し抜けに差し向けた害意詠唱が、華花の防護詠唱に弾かれたのだ。その眩さに一瞬怯むが、援軍や逆転劇を成し遂げた高揚感に背中を押される形で前へと足を投げ出す。

 小六達は次の教室の入り口の先で待ち構えている。二人は小六達との肉弾戦を避ける為、二人の手前の扉から隣の教室に転がり込んだ。廊下と教室を区切る壁は腰高でガラス張りになっている。詠唱は視界さえ通れば相手を指定できる。小六の執拗な攻撃は華花の防護詠唱を少なからず揺るがすが、それは前方に構えたエリ達に対する攻撃が薄くなることを意味する。防御に余裕の出来たエリ達の攻撃は逆に厚くなるのだ。それは助達の援護にも繋がる。数多に平宇する害意詠唱が彩の防護詠唱を脅かすと、小六も助達の追撃どころではなくなった。

 再び教室を通り抜けた助達はまんまと小六達の背後に通り抜けた。エリ達の援護のおかげで小六達からの攻撃もない。目指す屋上への階段は数メートルの距離だ。屋上への鍵も浅茅の手引きで予め入手してある。

 助と華花は一階分の階段を跳ねるように駆けあがり、壁のような鋼鉄製の扉に張り付いた。

 避難灯の微かな光を頼りに鍵穴に持ち込んだ鍵を差し込み、焦る手を横に引き倒す。錠が金属のぶつかる重い音を立てて身を引くと、助は勢い込んで扉を開け放った。

「……え?」

 扉の先はリノリウムの床が敷かれた夜の屋上のはずだった。

 その当然の光景を想像していた助と華花の眼前に広がったのは、霞がかった明るい空の下に目にも鮮やかな緑色の草原がたおやかな丘陵を描いてどこまでも広がる明媚な光景だった。

 振り仰いで背後を見てもそこに自分達がくぐったはずの扉はなく、この事態についていけずにぽかんと口を開けて立ち尽くす華花の姿があるだけだ。まさか小六達の欺瞞詠唱に捕まったのかと眼前に広がる景色の中に違和感を探すが、鼻孔に広がる草いきれも、髪をそよがせる風の温もりも、靴の裏が踏みしめる土の柔らかさも、全てが本物のように感じられた。だがこれが真実であるはずがない。

「助くん、あれ……」

 混乱する思考をどうにか取りまとめようと助が投げ首をしていると、華花の声がその耳朶を叩いた。誘われるようにそちらを見やると、いつの間に近づいてきたのか、頭までをすっぽりと白い布に隠した人間らしきシルエットの何かがそこに立っていた。

「待っていました」

 その何かは聞き覚えのある柔和な声で二人を歓迎し、頭部を覆っていたフードをゆっくりと上げた。爽やかな春の薫りの風が吹いた。


  ※  ※  ※


 御上の協議に結論が出ない限り、状況に進展は求められない。そんな理由で人員の補充を却下されても、エリはこれといった感情は抱かなかった。

 エリからすれば無能な上層部が無駄としか思えない議論に時間を費やすのも、エリの分まで処世を行う苦労性の上司がそれに巻き込まれて身動きが取れなくなるのもいつもの事だ。

 有事に迅速な対応が叶わない組織に何の価値があるのかと憮然としないでもないが、組織でなければ出来ない事が多いのもエリはよく身に染みていた。

 幸いにしてなんとか〈超法規権限〉の発行は許可された。これさえあれば大抵の無茶が公認される。上司の気苦労を更に増すことにはなるが、背に腹は代えられないだろう。代える背は上司のものだが。

 その権限でもって、エリはまず三人の容疑者に司法取引をもちかけた。即ち、佐藤・徹――崇神・皇の本名である――、柴田・衣子、武本・堅介の崇神会コアメンバーだ。内容は至ってシンプルで、協力を条件に執行停止を約束する。それだけだ。それだけだが、それだけの事を造作もなく履行できるのが上級チャンターのみが発行できる超法規権限だった。チャンターが社会的に人格者であるという前提に則っているからこそ揮える剛腕だ。

 きな臭さが染み着いた面会室の明かりの下で見た皇の顔は、少し痩せこけたように見えた。

「余に、人の下につけと?」

「このままここで過ぎた罪に裁かれるのを待つ方がいいなら、無理にとは言わないよ?」

「むぅ……」

 彼等に協力を仰ぐのは、ある意味賭けではあった。可能な限り措置は取るが、まんまと逃亡されないとも限らない。浅茅もそれを懸念していたが、この周辺でエリが思いつく詠唱技能を持つ人間は彼等くらいなのだ。とりあえず詠唱さえ可能であればエミュレーターとしての利用価値は変わらないし、恐らく用意されているであろう改造端末さえ黙らせれば十分勝ち目はある。なんとしても口説き落として戦力に加えなければならなかった。

「一つ条件がある」

 眉間に皺を寄せて黙り込んでいた皇が出し抜けにそう言った。ここでこちらの窮状に感づかれては足元を見られる恐れがある。エリは表情が変わらないように注意しながら、首を傾げて先を促した。

「余だけでなく、会員の酌量も叶わぬか? 彼奴等は余の手足だ、頭だけ許されてその手足が罰せられる道理もなかろうて。そもそも――」

 迸るように皇が語る仲間への想いを横聞きしながら、エリは既に彼との取引を決めていた。

 少なくとも会員の存在がある限り、彼はこちらを裏切れない。本人から口にした条件というのも本人の矜持が高ければ高いほどそれを裏付ける。そして皇は身の丈に合わないほどの矜持を抱えているとエリは見積もっている。打算的ではあるが、打算無くしては取引もへったくれもない。

 皇を最初に口説き落としたのも勘定の内だった。今でもどれくらい彼に人望があるかは賭けだったが、エリはその賭けにも勝った。柴田・衣子と武本・堅介も皇と似たような条件で取引に応じたのだ。エリとしても小六に嵌められて諸悪の権化のように扱われる彼らの現状には見て見ぬ振りが辛い側面もあったし、取引自体は大成功だったと言えるだろう。

 問題は彼等が本当に実戦で役に立つかどうかだった。

 結論から言えば、実際に一緒に戦ってみてエリは彼等の連携には舌を巻いた。自己流とはいえ三人で切磋琢磨した技術はお互いの理解にも一役買ってきたのだろう、それぞれの得手不得手をしっかり把握し、ほとんど感覚的に分担を切り替える素早さは見事の一言だ。中堅チャンターでもここまでの連携は望めないだろう。

 だが、やはり致命的に技術不足だった。エリもこの時の為に彼等に詠唱技術の基礎を整理させたのだが、限られた時間の中では害意詠唱と動的防護、そして欺瞞と改竄の基本的な防ぎ方を叩きこむのが精一杯だった。

 致命的な欺瞞詠唱か改竄詠唱を通すために相手を逼迫する程の手数が必要となった現状を打開するには、やはり改造端末の操作を奪う必要がある。崇神会のエミュレートで指令系統は押さえたものの、操作系統は彩の執念の前に一旦手を引いていたのだ。ひとまずこの害意詠唱さえ止まればとエリは考えていたが、こればかりは己の甘さを受け入れるしかない。

「彩、あの餓鬼共を止めろ」

「待って、手が離せないの!」

 エリは現状、攻撃に六割、防御に三割、妨害に一割の割合で詠唱をストックしている。その内改造端末に向けているのは妨害の一割だが、これを六割まで引き上げれば操作系統まで奪取することは難しくない。

「サトール、いこっち、ケンケンを中心に防護に集中して!」

「その名で呼ぶな!」

「任せてください!」

「ムン!」

 三人の返事も既にエリの意識の外だった。タスクマネージの中の攻撃六割の不要な分、三割を一気に放出してリソースを確保すると、即座に改造端末の完全攻略に乗り出した。すでに侵入路が確保されているセキュリティを突破し、彩の隙をついてM2ノードの操作系を掌握する。パワーソースさえ確保してしまえば、自衛に手一杯の彼女から操作系統を奪うのは、呆気ないほどに簡単だった。

「聖、M2ノードが!」

「使えないな……」

 地の底を舐めるような小六の声に、彩の顔から一気に血の気が引いた。長い付き合いだからこそ、彩はその言葉が自分に向けられているのだとすぐに気付いてしまった。

「ごめんなさい……」

「謝罪はいらない、なんとかしろ」

 小六の容赦のない言葉に、彩はなんとか気力を奮い立たせて対処に当たるが、M2ノードが掌握されたという事はそこに仕込んだ害意詠唱数十発が今度は自分達に襲い掛かるという事だった。ほとんど防御には意識を回していない小六に対して、彩は改造端末の保守と防護詠唱のほとんどを担っている。どう考えても彼女には荷が重かった。だが小六にそれを労わる気配はない。その態度はまるで改造端末を奪われることに危機感を抱いていないようにすら映る。

 ここで小六が保守に回ればまだ挽回の目はあるものの、彩はそれを口にすることはできなかった。彼の期待を裏切るわけにはいかない、その一心で彩は自分の精神系を鼓吹し耐え続けた。

 しかし彩本人が口にした通り、相手は三人分のチャンターの戦力で攻めてくるのだ。彩一人で耐えきれるわけがない。

「……全ノード、持っていかれたわ」

 彩の言葉を待たずして、改造端末も加わって苛烈になった害意詠唱の嵐がそれを物語る。流石の小六も防御に回らざるを得なくなったが、その口元には薄気味の悪い笑みが張り付いていた。

「そうか、これで終わるな」

 戦況はすっかりエリ達に傾いていた。もはや小六達に攻撃をするような余裕はなく、徐々にタスクマネージを削られて、防護がなくなったところに止めの一撃が来るのを待つばかりの状況だった。だが、小六の態度から不敵なものが消えない。

「アイヒホルン、御前は本当に素晴らしい女だよ。まさかこの短時間で全てのノードを攻略するとは思わなかった」

「キミに褒められても全ッ然嬉しくないけどね!」

 小六の饒舌にエリは違和感を覚えていた。彼が口を開くのは決まって何かを為した時だ。二年という短い付き合いの中でも、そう言った癖を知ってしまう程近くにいたエリは、目前の勝利すら疑問視させる得体のしれない悪寒を蔑ろにはできなかった。

「それに引き換えな……」

 刺すような冷たい視線が僅か後ろに控える彩に向けられる。その意図を理解しつつも、彩は勤めて平静に詠唱に専念していた。そんな彩の心中を知ってかしらでか、小六はくつくつと喉の奥で笑っている。

 その嘲笑にも似た含み笑いに気付いた瞬間、エリは思考よりも直感よりも早く、ほとんど無意識の内に防護詠唱を自身のCUSポートの直前に実行化していた。それはつまりアミュレットの放棄を意味する。その直後、エリの精神系を根こそぎ覆すような衝撃が膨れ上がった。

 崇神会の三人は元より、彩ですらエリの身に何が起こったのか把握しきれなかった。ただ一人、小六だけが歓喜の破裂したような表情を浮かべた。

 情報の質は害意詠唱と大差ない。対象の精神系を傷付ける目的のプログラムだ。しかしその量と密度が異常だった。

 憎しみを抱えた大量の人間を狭い箱の中に押し込め、殺し合わせて生み出された怨嗟と憎悪を圧搾して叩きつけたような暴威。人の精神を百遍殺しても有り余る代物の余波は、CUSを通して周りにいる人間にまで伝わった。

 恐らく小六の仕掛けなのだろう、彼だけが思惑通りの結果に目を爛々と輝かせ、大きく三日月形に口を開いた涎を垂らさん顔付きで、両膝をついて動かなくなったエリを眺めている。

 他の四人はその余波に感じた怖気で凍り付いたように固まっていた。余波で人間を慄かせる害意が直撃したのだ、さしものエリも無事では済まなかった。

「俺の唯一の失敗は、御前をモノにできなかったことだろうなぁ、エリスティーネ」

 まるで抜け殻のように沈黙したエリに独りごち、小六は動かないエリに向けていた人とは思えない笑みを残った三人に見せつけた。その狂喜はさながら蛇のように崇神会の足元から這い上り、反抗の意図すら抱かせぬ恐怖に塗り込める。

 その陰で、彩は小六の言葉に小さく身を震わせた。彼の言い様はまるで自分のことを念頭に置いていない。人ではなく道具を扱うような物言いが、彩の中に無視できない――無視しきれないズレを生じさせていた。

「おにょ……おにょれ……二人共、まだ終わったわけではない、気をしっかり持て!」

 檄を発せこそすれ、震えた声では衣子も堅介も鼓舞されたとは言い難かった。それに確かにまだ終わってはいないが、この直後に終わる以外の未来が見えない。

 それは皇も同じことで、檄を飛ばしたのも虚勢以外の何物でもない。せめて自分達にもっと力があれば、と思う。恩人を為す術なく蹂躙されるような無様を演じないような力が、と。だがないものをねだったところで事態は何も変わらない。

「アイヒホルン殿を守るのじゃ、せめてかの者が息を吹き返してくれれば……」

 その言葉に二人も僅かな光明を見出した。小六の僅かな予兆も見逃すまいと恐怖で引きつる目蓋を必死にこじ開けるが、小六はそれを一笑に付した。

「エリスティーネの精神系はもう跡形もないぞ? 俺がこいつの魂を破壊する為だけに作り上げたセグメント・トラップだ、恋人ごっこは伊達じゃない」

 あの暴威は改造端末の中に仕組まれた毒だった。セキュリティのみならず華花に仕掛けていたようなトラップまでご丁寧に組み込まれていた改造端末だが、小六は更にその陰に分割し暗号化したプログラムを潜ませていた。三つのマザーノードで分割された改造端末を全て接続したときに初めて出現する悪意の塊。優秀すぎるエリだからこそ、最も重責ある役割は自分一人でこなそうとする彼女の性向を知っている小六故に仕組めた罠だった。

 だが、その条件は彼女も同じだ。

「――ボクの最大の汚点はキミと付き合ってた事だけどね……今、ほんの少しだけその事に感謝してたんだ」

 エリはその小六の読みすら逆手に取った。それまで崇神会にも広げていた防護を、小六であれば自分一人を狙ってくると踏んで一点に集中していた。

 それが功を奏し、間一髪のところで彼女は耐えきった。アミュレットに仕組んでいた防護も使い捨てにして形振り構う余裕もなかったが、小六が起死回生と仕組んだ一手を凌ぎ切った。更には彼が悠長に喋っている間に予備に持ってきたアミュレットとのリンクも完了している。

「……本当に、俺の隣にいるのが御前だったらな……」

 小六の口から湿った言葉が零れるが、それも束の間に鋭い一瞥を彩へ送る。

「彩、俺を守れ。俺が端末を取り返す」

「……お願い聖、私に挽回のチャンスを――」

「黙って従え」

「聖っ!」

 叩きつけるような彩の叫びに、小六が振り返った。その双眸に滾る怒りにも似た苛立ちを見せつけられ、彩は声を失い身を凍らせた。

「御前の意思は関係ないんだよ」

 言葉が染み込むよりも早く、彩のアミュレットの中で何かが固定される感触があった。勿論それは錯覚に過ぎない小さな感覚ではあったが、それは先程のセグメント・トラップと同じく彩も知らされていない小六の仕掛けが動き出した確かな感触だった。

「元々お前はそう言うモノだ」

 もう一度似たようなプログラムの走る感覚が内から響き、彩にそれが最後の希望も砕け散った事を知らせた。

 彩のアミュレットは強制的に小六のアミュレットにバイパスで繋げられ、小六に向かう筈だった詠唱も何もかもを無理矢理に彩に押し付けられる状態になっていた。それはつまり、彩にはもう拒否権も逃げることも叶わない、ただの小六の盾――道具と成り下がったことを意味する。小六は、最初から彩をも使い捨ての道具にしか見ていなかった。それに薄々感づいていた彩が、必死に縋っていたもしかしたらという希望すら、彼がその手で打ち捨てた瞬間だった。

「さて、仕切り直しだ」

「キミは本当に……気持ちいいくらい下衆だね!」

 噛み千切るような雄叫びと共に、エリの手加減の無い害意詠唱が飛んだ。

 その苛烈な害意詠唱を崇神会の三人は呆然と眺めていた。彩は小六の扱いに打ちひしがれ、既に戦意を喪失している。彼女にとって守る価値もない男を必死の思いで守らねばならない心中を慮ると、とてもではないが攻撃を加えることができなかったのだ。

「いこっち、さとーるも手を止めないで!」

 そんな二人にエリは攻撃をしろと命じる。

「しかし、アイヒホルン殿……!」

「大丈夫だから!」

「……皇様、ここはお姉さまを信じましょう」

 衣子の意見に皇は一瞬言葉を失った。その間にも衣子はエリから託された改造端末のM1ノードを操作して攻撃を再開している。

 皇とエリの付き合いは浅い。というか敵として相対したことしかない。しかし、その中で彼女が皇達に示してきたのはほぼ小六と正反対の、人情ともいうべき義理だったと思う。衣子のように依存気味に飲み込むことは出来ずとも、信じるに値する想いがエリの声にはあった気がした。

 皇は眦を決すると、この争いに早い決着をつけることがなによりと自分に言い聞かせ、エリが奪取した改造端末の操作に意識を注いだ。

 衣子と皇に改造端末のマザーノードをそれぞれ一つずつ預け、エリもマザーノードの一つに指示を出そうとして、こめかみがズクリと疼くのを感じた。それは間違いなく先程の小六の罠のダメージだ。

 影響はそれだけではない。あの怨念の塊はエリの中に払拭しきれない恐怖を残していた。詠唱技能は精神系を扱うだけあって、詠唱者の心様を反映しやすい。熟練者であればあるほどその傾向は強く、自信があれば能力以上の力を発揮することもあるし、その逆もまた然りなのだ。

 エリは少なくとも健常時の七割程度に自分の能力が落ち込んでいるのを感じた。それは彩曰くチャンター三人分の内の一人が脱落したようなものだ。少ない影響と侮るわけにはいかなかった。

 そんな状況で彩を慮って短期決戦など、出来るはずもない。だからエリは、まず彩をどうにかすることを考えた。

 大学時代、阿須賀・彩とは同じサークル内で妙な競争意識を一方的にぶつけられていたせいもあって仲良くした記憶はないが、それでもなんだかんだで一緒に過ごした時間は多かった。三つ子の魂百までと言うが、その時に知り得た彩の癖をつけば、彼女のセキュリティを破壊することなくスルーすることは今のエリには造作も無い。

 だがそれは強引に押し通るのではなく、自分のプログラムを受け入れられるものとして誤認させて正規のルートで通すような手段だった。通常であれば間違いなく本人に気付かれる。しかし今はそれこそが狙いだった。彩には容易に気付かれるであろうが、外部から強制的に接続している小六にはむしろ気付かれにくいのだ。ましてや、彩がエリの侵入を庇うように細工してくれたのであれば、小六にそれを感知することは不可能だった。

 小六は独りであるが故に強く、一人であるが故にその展望に限界があった。自分が利用している物が人間であるという事を失念している点もその展望の限界の一つだった。

 エリの思惑にすぐに気付いた彩が、エリを受け入れた。それは即ち、彩の裏切りだ。

「……なんだと?」

 小六が気付いた時にはもう全てが完了していた。エリの手によって強制接続を解除され、呪縛から解放された彩は手向けの害意詠唱を小六に叩きつけ、素早い身のこなしでエリの隣に並んで彼女と同じく小六に対峙した。

「礼は言わないわよ」

「それは期待してないよ」

 その光景を見た皇と衣子が面持ちを新たにして詠唱に集中する。 エリの狙いは最初から彩の解放にあった。その一事が、崇神会の三人のエリに対する信頼を深める。心が強くあることは、詠唱技能にそのまま表れる。目に見えて三人の詠唱は強化されていた。

 エリからすればそれは狙っていない幸運だった。そもそもが彩に手を差し伸べたのは単純に戦力を引き抜けるという狙い以上に、やはりあの男に利用された女性という点で共感するものが大きかったからだ。見殺しになど出来るはずもない。

「貴様ら……本当に目障りだな……」

 小六の呻吟に、もはや余裕は感じられなかった。

「聖……貴方は……私達はこれ以上罪を重ねるべきじゃない」

 彩は躊躇いなく言い切って、涙を拭った。


  ※  ※  ※


「きっかけは十年前の暴走でした」

 パッチマンと名乗った睦にそっくりの少女は、挨拶もそこそこに方舟の過去を語り始めた。まるで助と華花が知りたがっていることを知っているかのように、淀みなく迷いなく言葉は物語のように紡がれていくのを、二人は冗談のような大草原の真ん中で聞いていた。向かい合って佇む三人を、湿った緑の風が撫でて行く。それら全てが間違いなく現実でありながら幻影なのだろう。パッチマンの声がその風に阻まれることはなかった。

「私達が生まれる以前から、イワフネ――貴方方が方舟と呼ぶアメノイワフネ計画の欠片は、静かに意識の原野を放浪していました。百年前に私達がその存在を定義出来た時、私達はこの方舟の管理に乗り出します。私達の中には偶発的に方舟に取り込まれたクオリアが多かった。今でいうCUSに関わる人間も少なくなかった事もその総意を後押しする要因になったと考えます。それ故に目論見は想定通りの成果を上げ、同時に私達に驕りを生んだのです。イワフネを管理している、と言う驕りを」

 彼女は自分自身を方舟が集めたクオリアの凝集した容だと言った。故にパッチマンなのだとも。つまり沢山の人間のクオリアが寄り集まって、一個の人格のようなものを形成したのだろうと、助と華花は同じ結論を既に確認している。

 そんなことが現実に起こりうるのかと問われれば、二人共その明確な答えを持ち合わせていない。恐らく世界中の誰もその問いに的確な答えは出せないだろう。まだ人間の精神系とクオリアは謎だらけなのだ。そもそもここが方舟の中であるという事実すら、助と華花には信じ難い状況だった。

「しかしその百年すらイワフネには気まぐれでしかなかった。十年前の事件でイワフネが一時に取り込んだクオリアは五人……過去最悪の数字でした」

 その出来事の存在すら、二人は知らなかった。恐らく共和議会が世間の知らなくてもいい真実として隠蔽したのだろう。

「イワフネには私達のように取り込まれて百年以上経つ者もいる。無論、人間の肉体の限界を越えた時間が経過したものに帰る場所はない。よって、イワフネに危険がないのであれば私達はここを守り続けようと考えていた……しかし、その考えそのものが甘かったと思い知らされた私達は、イワフネの破棄を決定しました」

 睦の顔に得も言われぬ影が差し、その口が言葉を紡ぐのをやめた。風が吹き抜けるのを待つように少しの間を開けて、パッチマンの語り口が再開される。言葉を吟味するようにも、悔恨に耐えているようにもとれる微妙な間だった。

「イワフネを自壊させるプログラムそのものは問題なく組めました、後はそれを外部の人間に託す必要があった。クオリアの凝結体である私達と違い、あくまでプログラムであるイワフネは、内部から自己存在を脅かす指令には従いません。そしてその託す方法が問題だった。イワフネが人間に接触すれば、その精神系を吸い上げてしまう恐れがある……精神系の全てでなくてもクオリアを引き抜いてしまう恐れがあります。ですが、私達にその方法を模索する時間は無かった」

 五年前、一人の秀才が一人の天才を利用して組み上げた方舟追跡プログラム。それが獲物を狙う猛禽の如く、彼等を執拗かつ着実に追いつめていた。折しも技術の進歩が重なり、方舟が潜めるプリミティヴ・スペースも徐々にCUSに開拓され、完全に捉えられるのも時間の問題だった。

「私達はこのイワフネという負の遺産を完全に消滅させる義務があったのです……よって、止むを得ずに強硬手段に出ました」

 それが四年前の接触だった。不特定多数の人類に向けて、方舟の自壊プログラムとその接触によって取り込んでしまうであろう新たな人間のクオリアを解放するプログラムを託したのだ。

 そしてその時、睦と華花の兄のクオリアは戻ることが出来なくなった。

「……あなたたちのせいで、おにいちゃんはっ……!」

 憤る華花を制して、助は首を振った。華花とてわかっているのだ、彼らを責めるのは筋違いだと。

 だが彼等が手を下したせいで兄が、そして自分が不幸に見舞われたのかと思うと、声を出さずにはいられなかった。その心境は助もよくわかっている。しかし今聞かなければいけないのはそんなことではない。

 悔しさに涙を滲ませる華花を抱き寄せ、助は睦によく似た顔に静かな瞳を据えた。

「どうして僕だけが戻ってこれたんですか?」

「あの時――四年前に私達が接触できた人間は八億七千九百四十三人、そのうちクオリアを取り込んでしまったのは四人です」

「な……それじゃあ……」

「可能な限り制御した上でこの数字でした……私達は大変申し訳なく思っています。ですが、重ねて伝えますが、必要な措置でした。私達には時間がなかったのです」

 パッチマンの言葉が真実であれば、助が助かった理由には何も特別なものはなかったということになる。助は助かるべくして助かった。ただ、一方が取り込まれて一方が助かった例が他になかったというだけの話だった。

 助が意識を内側に向けた僅かな間隙に、パッチマンが目の前に迫っていた。蝋燭の灯火のような仄かな笑みを浮かべた口元が浮かび上がり、顔を上げた瞳が助を覗きこむ。微かに甘い、花の香りがした。

「加えて四年前の解放プログラムに不具合が見つかり、私達はこうして再び姿を表す必要に迫られた……既にプロトコルまで解析された今、恐らくこれが最後の機会となるでしょう。ここで消滅できなければ、イワフネは間違いなく人類の掌中に落ちてしまう。それはあってはならないことだと、私達は考えています」

 助のすぐ目の前で、パッチマンの顔に苦悶にも似た焦慮が浮かんだ。

「そうならない為にも、あなた方に協力をお願いしたくてお呼び立てしました」

「僕達に方舟を解放し、破壊しろってことですか」

「その通りです」

「でもどうやって?」

 また、僅かに視線を逸らした隙間で、パッチマンは助の背後に移動していた。背中合わせにくぐもった声が広がる。存在が安定していない、そんな風に感じられる突拍子の無さだった。

「プログラム本体はイワフネの中にあります。あなた方には外側からイワフネにアクセスして頂き、起動用の詞を唱えて欲しいのです。その為の詞もすでにあなた方の肉体に記憶させてあります」

 人間の肉体に直接記憶を植えつける技術など、今の世界には存在していないはずの技術だ。それが方舟の一端であるとしたら、確かに技術革新どころの話ではない。一夜にして世界の在り方が変わるだろう。U2N誕生の時と同等かそれ以上の混乱が如何ほどのものか、想像するだけで嫌な汗が背筋を伝う。

 助はそれを噛み締めるようにゆっくりと、横に抱き据えた華花に気を使いながら振り返る。

 方舟の捕獲を防ぐ手立てが二人の手中に収められつつあるというが、助には不安の色が濃かった。既に泣き止んではいるが、同じように心細そうな目をパッチマンに向ける華花の髪に指を絡め、濡れたようにひんやりとした感触に身を震わせる。荷が勝ちすぎる、と心のどこかが竦みあがっていた。

「……今、華花さんのアミュレットの最適化が終わりました……ですが……」

「どうかしたんですか?」

 歯切れの悪い言葉に助が疑問を投げかけるが、それに答える者はもういなかった。目の前にあったはずの睦の姿は風に溶けたかのように搔き消え、静かな草原の風景がそこにあるだけだ。

 唐突な消失に助と華花が狼狽していると、色とりどりの花弁を巻き上げる一陣の風が吹いた。それはここに迷い込んで初めて感じたものと同じ、春を強く印象付ける爽やかな薫りの風。その風に紛れて、声だけが二人のそばで渦を巻いた。

「貴方方のお迎えが来たようです……これを逃せば帰れなくなってしまう」

 その声も徐々に遠退き、その後を追うように草原までもがまるで布に描かれた絵のようにめまぐるしい速さで二人の周囲を駆け抜けていく。それまで現実か幻覚かと戸惑っていた風景が呆気なく消え去ると、二人は漆黒の空間に放り出された。


  ※  ※  ※


「たすくん!」

 最初に頭に飛び込んできたのは、もう聞き慣れてしまった、彼女しか使わない渾名を叫ぶ声だった。

「目を開けてってばぁっ!」

 次にその声が涙に濡れているということに気付き、身体の感覚が戻るにつれて自分がいつの間にか横になって誰かに抱き起されているのを知った。

「田中さん……?」

「よかったぁっ!」

 名前を呼んだ途端に抱き付かれて、助は開けたばかりの目を白黒させて困惑した。見れば、隣では華花が同じようにあの彩に介抱されている。

「僕は……」

 まだ少し霞がかった意識を奮い起こすように頭を振ると、抱き付いていたエリが身を起こして助の顔の中に無事を確認するよう覗き込む。

「キミ達が心配で駆けつけてきたんだよ、そしたら二人ともここに倒れていて……」

 その時の事を再び思い出してしまったのか、エリの青い瞳に大粒の涙が浮かび上がる。

 まともに声も出せない様子のエリに代わり、落ち着いた様子の彩が状況を説明した。彩が小六に見切りをつけたこと、状況が安定したところで崇神会に小六の足止めを任せて助と華花の様子を確認しに来たことを大雑把に説明する頃には、華花の方も目を覚まして彩の顔を食い入るように見詰めていた。

「華花……今更だけど、ごめんなさい……私の方こそ間違ってたみたい」

「ううん……彩さんだけでも本当で、わたしは嬉しいよ」

 お互いに和解を確かめるように軽く抱擁すると、華花はすぐさま助に心を決めた眼差しを向ける。助も心得た様子でそれに頷いて見せた。もうやるしかないのだという自棄にも似た覚悟を携えて、助は立ち上がると〈それ〉を睨むように力強く見据えた。

 中学校のそれほど広くない屋上の真ん中、エリ達が昇ってきた階段室があるペントハウスから五メートルも離れたところに、角棒状の照明灯を十二本、四畳間程度の大きさの立方体に組み合わせた様な物体が存在する。人の頭ほどの高さに浮き、常にそれぞれの辺を伸縮させ、落ち着きなく変形を繰り返す〈それ〉が、人間の意識で捉えた方舟の姿だった。

 四角や台形、時には複雑な幾何学模様を描く方舟自身の輝きを受けて、闇の中にその姿を浮かび上がらせた華花と助がその前に並んだ。二人の様子に何が始まろうとしているのか悟ったのだろう、鼻を啜ったエリがその二つの背中に真剣な顔を向けた。

「出来るの?」

「出来るだけの用意はして貰えましたけど……」

「きっと大丈夫!」

 まだ不安の残る助の言葉を継ぎつつ、励ますように華花は断言した。

 華花が自分のアミュレットに意識を集中すると、そこに脈動する異質な何かが収まっているのを感じた。エリに渡された方舟のプロトコルとも違う、もっと根源的な心の形をそこに感じる。これがイワフネのプロトコルなのだろう。

 そのプログラムに意識を集中すると、知覚しきれない時間と空間の繋がりが絡み合って捩じれる光景に呑まれる。複雑怪奇なイメージに耐えたその先に、先程の草原の風が吹いている気がした。それが方舟だと直感した華花は託された詞を、静かに、厳かに奏じ始めた。

「{"所聞食せ";(きこしめせ)」

 それは最も初期の、まだ方舟が天磐船(アメノイワフネ)と呼ばれていた時期の音声コマンドの形。

「"十種瑞津が四津種";(とくさみつがよつくさ)」

 始まりは今の日本リージョン――かつて日本国と呼ばれていた小国のたった一人の研究者だったという。彼はどこからともなく方舟の核となるブラックボックスを手に入れ、その魔力に魅入られた。天磐船の魔力は日に日に信徒を増やしていき、それはいつしか国家も絡む巨大なうねりと化した。その計画の中枢を担っていた日本人、始まりの人が天磐船のデバッグの為だけに作り上げた、方舟だけに響く詠唱言語。そして、詠唱技能の嚆矢ともなった言語。

「"生玉死返玉足玉道反玉";"布瑠部由良由";"如此祈所為ば";……(いくたままかるがえしのたまたるたまちがえしのたま、ふるべゆらゆら、かくいのりせば)」

 一つ一つの韻が不可欠に方舟の多重論理幾何防護を紐解いていく。神道の祝詞にも似た文言に乗せられた詠唱が、華花の細く嫋やかな声に運ばれて方舟を震わせるその様は、実に神々しく晴れ晴れしい光景だった。

「"天磐船";"舳解き放ち";"艫解き放ち";"玉解き放ち";……(あめのいわふね、へときはなち、ともときはなち、たまときはなち)」

 方舟の振動が徐々に悶えるような激しさを伴ってきたその時だった。

「"穿て";};」

 吸い寄せられるように飛び込んできた害意詠唱が、見入っていた三人の脇をすり抜け、華花の無防備な背中に突き立った。奏上の声が止まる。

 胸の前で組んでいた手が、四肢が、急に力を失い重力に従って落ちる。その勢いのまま、華花の小柄な身体は後ろに引き寄せられるように揺らめき傾ぎ、抵抗を知らない物体が床に叩きつけられるような重い音が、澄んだ空気に鈍くこだました。

 すぐ隣に並び立っていた助がそんな華花の変化に気付いたのは、エリと彩が背後からの奇襲に臨戦態勢を整えた後だった。

「貴様等……俺の方舟に何している?」

 血走った眼が曖昧に虚空を薙いで方舟の上で止まるや否や、小六の顔に狂喜の笑みを燃やした。

「{"キコシメセ";ェっ!」

 哄笑のような小六の詠唱が、凍える夜空に甲走る。

「華花……?」

 ついさっきまで精彩に溢れていた少女が、何故自分の足元に倒れ伏しているのか、助には理解が出来なかった。

「小六、キミってヤツはぁっ! {"デュナミッシュ";"アングリフ";};!」

 エリの害意詠唱が統合紋の出現と重なるように飛び出した。その異常な実行化速度にも拘らず、小六はタスクマネージで実行化した動的防護で防ぎきる。彩が僅かにタイミングをずらして放った詠唱も同じ結果に終わった。

 先程まで華花が奏じていたものと似た詠唱を、獰猛な声が紡ぐ。尚且つエリと彩の攻撃を防ぎつつ、散漫とはいえ反撃まで小六はこなしている。どう考えても通常の人間に扱える以上の情報を何かしらの手段で引き出していた。

 しかも華花を失う不意打ちですっかり出端を挫かれたエリと彩は、あろうことかストックしていたタスクマネージを手放してしまっていた。それに引き換え多少疲労の色は見えても、目的の為に手段を見失った男は余裕をもってタスクマネージから詠唱を引き出してくる。奇襲、切り札の喪失、そして目前に迫った敗北という最悪の状況が、中学校の屋上の四人を包み込んでいた。

「華花、華花っ!」

 助は細い肩を抱き起し、転倒時の外傷がないかをざっと調べる。大きな怪我はなさそうだった。

「華花!」

 もう一度、一際大きな声で腕の中の少女の名を呼ぶ。

「……ん……」

 すると、華花は小さな呻き声を上げて目を開けた。

「助くん……?」

 すぐ目の前にある助の顔を見て安心したのか、華花はじんわりと笑みを広げて助の頬に手を当てた。助の頬を撫でるその手は、思いの外に温かい。

「大丈夫なの、華花?」

「うん……チャンター用の物理防護だったから、ほとんど減衰されてて……」

 それはあの作戦会議の日、浅茅が華花に渡していたアミュレットだ。一般のものとそれほど大きな処理能力の差はないが、余計な機能を省いた分、物理防護の容量は十倍にもなる代物だ。

「大丈夫そう……かも」

 その言葉通り、華花は助の介添えに助けられつつも自分の足で立ち上がり、少しぼんやりとした目で状況を見渡した。

「"オホワダツミニオシハナツコトノゴトク";"ネノクニソコノクニ";!」

 エリと彩の詠唱を凌ぎつつ、小六の〈奏上〉は続いている。だがその〈奏上〉の文言を耳にした華花の表情が一変した。

「それは……だめ……だめだよ、それは違うの!」


  ※  ※  ※


 少しずつタスクマネージのストックは溜まりつつあるにも関わらず、エリと彩は二人がかりでも小六の防護を突破出来ないでいた。

 理由は単純で、一枚の防護の厚さが尋常ではないのだ。そしてその原因は推知できていた。

「キミ、あの子達のアミュレット……」

「これはあんな塵の持つ物じゃないからなぁ」

 小六は崇神会の三人を行動不能に陥れ、チャンター専用のアミュレットを奪った。そして四つのアミュレットの能力を直結して増幅器として使っているからこそのこの詠唱密度なのだ。「聖、あなたは死ぬ気なの⁉」

 彩の悲痛な叫びに、小六は口の端を吊り上げるだけだった。その拍子に口角を血の筋が伝い、後を追うように鼻孔からも赤い汁が流れ始めた。

 チャンターがそれを常から取り扱わない理由は一つ。負荷が大きすぎるのだ。四倍のアミュレットがもたらす情報は神経回路を焼き尽くし、脳神経を圧死させる。どれだけ能力がある人間でも二個に数分耐えるのが限界だと言われるアミュレットの連結の、さらに倍の負荷に小六の脳は晒されている。自殺行為にも等しいが、今の小六にはそれを判断する冷静さすら、もうなかった。

「方舟は俺の物だ……俺が持つべきモノなんだよ……」

 夢幻に話しかけるようなうわ言を吐き、双眸からも血の涙を溢す。それはもはや人の姿をした妄執と化していた。

 その姿を睨みつけながら、この状況は全て自分の浅慮だと、エリはきつく奥歯を噛み締める。チャンターの詠唱勝負が決着した時、敗者のアミュレットが破壊されていない可能性は低い。恐らく崇神会の三人は欺瞞詠唱かなにかで無力化されたところを物理的手段で制圧されたのだろう。詠唱による精神系のダメージであればアミュレットの能力から命に関わるような事態は避けられるが、物理的な手段では彼等がどうなったか、最悪のケースすら考慮に入れなければならなくなる。

 「だからあれほど……」と口の中で呪詛を呟いても、それは責任転嫁にしかならないことをエリとて理解している。焦りすぎたのだ。それもこれも……そう思いかけて意識を正面に戻した。迂闊に助を見れば、この責任の重さに最後の砦が決壊しかねない。

 そんな葛藤を抱きながら、効果の上がらない抵抗に焦りの色を濃くしていたその時だった。

「エリさん、小六さんの詠唱を止めて!」

 まず、小六の害意詠唱に倒れたはずの華花の声を聴いて驚いた。次いでその張りのある声に安堵し、言葉の内容に軽い苛立ちを覚える。もしかしたらやっかみもあったのかもしれないが、今のエリにそこまで深慮する暇はない。返す声は覚えずに刺々しくなっていた。

「そんなの、できるならやってるよ!」

 しかしエリは華花の言葉の意味を正しく受け取ってはいなかった。それは小六を止めろという意味ではなく、止めなくてはならないのは詠唱そのものだ。

「違うの! あれは方舟を崩壊させてしまう! みんなのクオリアが消滅しちゃうの!」

 実際を理解したエリの動きは素早かった。

「彩、防御に専念して!」

「あなたに言われなくてもやるわよ!」

 彩に全ての防御を任せると、エリは蓄えていた全てのタスクマネージを破棄した。コンソールを開き、自分で作成したプロトコルで方舟への経路をこじ開ける。幸い、ぶっつけ本番のプロトコルは正しく機能し、方舟の情報を膨大な文字でエリのコンソールに垂れ流し始める。正直、リスクが高すぎて本当に最後の手段と決めていたが、どうやら切り札を切る時のようだと、エリは覚悟を決めていた。

 エリが対応を始めてすぐに、小六の表情が険しくなった。

「エリスティーネ……まだ俺の邪魔をするのか」

「キミの邪魔ならいくらでも喜んでするよ」

 減らず口を叩きながらも、コンソール上を忙しく往き来する手の速度は弛めない。構築されるプログラムの進行に直接介入して阻害するプログラミングなど、類を見ない事例ではあったが、エリは自分の持てる技能全てを出し惜しまずにぶつけることでその出鱈目を現実の中に露わにしていく。

「聞いてくれ!」

 叫んだのは助だった。華花を支えて立ち会がり、小六に向けて声を張り上げた。

 エリとしてはこの期に及んでと思わないこともなかったが、少しでも小六の気が散るに越したことはない。何より助の行動を非難する余裕すら、今のエリにはなかった。

「今あなたが唱えているのは方舟を操作する詠唱なんかじゃない、方舟を破壊するものだ!」

「それをどうして信じられる!」

 赤い泡を吹き散らして、小六が叫び返す。

「クオリアを見てくれればわかる!」

「わからんな! そんな薄汚れた感情の欠片で何がわかる!」

 小六の憎々しげな声は、クオリアを送信しようとしていた助の手を止めた。

「クオリアが真実だと誰が決めた! クオリアも所詮嘘をつける代物なんだよ! 人間という生物は真実なんてものをこれっぽっちも持ち合わせていない、不完全で醜い塵芥だ! そんな存在の感情に何の価値がある!」

 それが小六という男の等身大だった。救いようのない懊悩に歪み切った男は、懊悩そのものになることで自分を存在させている。彼にとって、世界は嘘にしか存在しない。

「言ったでしょ……コレはそういうモノ……」

 抑え込んだ感情が、エリの言葉に嫌な迫力を与えていた。己の信じるところすら信じられない男の頑迷が、どうしようもなく方舟を破壊しようと牙を研いでいる。

「人は誰だって心に少しの嘘をつく……でも小六は意図的にそれができる、クオリアに嘘をつける生き物なんだよ」

 人間ではない。エリはそれを言葉にすることを躊躇った。口にしてしまえば、本当に小六が人外の化け物になりそうで恐ろしかった。

 だが助はその意図を悪い意味で理解してしまったようだった。言葉を失い、その現実を受け止めきれずに立ち竦む彼の気配に、エリは自分の愚かさを呪った。


※  ※  ※


 この世界はクオリアが支えている。助には、いや、この世界の人間であればそれは誰もが持ち合わせる信奉だ。

 実際に世界はそうやって周っていて、無条件に信じられる基準は人々に満足も与えていただろう。睦が施設に収容された時も助はただその不幸を呪うだけで、世界と関わるために必要なものを失ったのだから仕方のない事だと納得していた。

 だが目の前にいるあれは何だ。異形の化け物であればまだしも、人の形をしたあれは自分の意思で自分の心に嘘を吐くと言う。

 その小六という存在に世界の心理が――少なくとも助がこれまでそう信じてきたものが真っ向から否定され、踏みにじられ、取り付く島もない……小六の言う通り心には、クオリアには真実がないとすれば、これまで感じてきた自身の感覚も、睦が収容された時の納得も、華花が隣にいる心強さも、全て嘘だというのだろうか。

 そうであれば、その信奉のなんと脆く儚い事か。助は自分の世界が足元から音もなく崩れ去る浮遊感に不安を覚える。

 ――だが、胸の奥には何かが渦巻いている。もっと根源的で、原始的で、衝動的な何かが助を揺さぶり、その何かが不格好なまま口を衝く。

「僕は……僕は嘘なんかついてない」

「御前も同じだよ、丹下・助! 自分に嘘を吐き続けて、今そこに立っている御前は、俺と同じ生き物なんだよ」

 渦巻く何かが、小六の言葉で蓋をされる。助は、つい先程まで感じていた憤りに似た熱さが引いていくのを感じた。

「たすくん、耳を貸さないで!」

「華花も、エリスティーネも、始めは嘘だったろう? 今だって華花は御前を愛する嘘をつき続けている、エリスティーネだって御前に全てを語って聞かせたわけではない」

「黙れって……!」

 エリから三条の害意詠唱が飛び出すが、小六は意にも介さず防御して、助の耳に毒を流し続ける。

「所詮人間はどこまでも分かり合えない個を抱えて、一人で生きていくしかない生き物なんだよ……人類なんてものはまやかしだ。俺も御前も、人間という名の全く別の生き物だ。そんなまったく別の生き物が、同位種知的生命体? 何が同じなんだ? 知とはなんだ? それは嘘だ。嘘で身を固めていることが俺達唯一の共通点なんだよ!」

「ああもうっ! いい加減黙りなよ!」

 更にエリの攻勢は苛烈になり、流石の小六も口での詠唱を余儀なくされた。

 毒がじんわりと頭の芯に届こうとしている。全身が震えている。それに気付いたのは華花を支える、支えていると思っていた自分の手に添えられた、小さな温もりの存在によってだった。

「助くん」

 続いて、耳朶を撫でるような優しい声に名を呼ばれ、助はゆっくりと胸のあたりにある華花の顔に目を移した。

「手伝って欲しいの」

「手伝う?」

「うん、わたしのアミュ、壊れちゃったから……」

 小六の詠唱で物理防護が決壊した華花のアミュレットは、もうまともに機能していなかった。

「みんなを助け出さないと」

 その言葉に、忘我の際にあった助の心が僅かに生気を取り戻した。

 たとえ真実がどうあれ、この状況を覆さなければ、華花は己の半生を無駄にすることになる。華花だけではない、睦のこれからもあの中に取り残されているのだ。そしてそれらは助自身の未来に直結していると言っても過言ではない。

 信じるべき現実は、未来の岐路は今まさに目の前に敷かれている。その一事に気持ちを向けて、助は残った気力を振り絞った。

「どうすればいい?」

 力強さが戻った助の瞳を嬉しそうに見つめて、華花は助のアミュレットがある彼の手首に触れた。その拍子にアミュレットが仄かな光の中に怜悧な輝きを返す。

「アミュを貸してほしいの、エリさんが押し留めてくれている間に詠唱を完成させる」

 そう言われて断る理由はない。覚束ない手元で手首の腕輪型アミュレットを取り外すと、華花に託す。それを受け取った華花だったが、すぐにその面持ちは愁色に塗りつぶされた。

「やっぱり……」

 そんな言葉が華花から漏れる。半ば予期していた事態だけに落胆は小さいようだが、その分焦りが膨らんだように見えた。事態が把握できない助は、恐ろしさを隠しながら訊いた。

「どうしたの?」

「助くんのアミュは、方舟用に最適化されてないの……これだと方舟に詞を届けられない」

 それは手詰まりを意味する最後通告のようなものだ。

「そんな……他に何か手段は⁉」

「……エリさんが自由に動ければ、そのプロトコルでなんとかできるかもしれないけど……」

 今のエリは小六の詠唱阻害で自由が利かない身の上である。更に、続く華花の言葉はとても承服できるものではなかった。

「けど、エリさんのプロトコルで方舟内部のプログラムに直接アクセスしたら、切断にてまどるかもしれない……〈奏上〉の後、切断が間に合わなかったら、クオリアが方舟に取り残されちゃう」

 流石、方舟自身が作り上げたプロトコルは完璧だった。切断手順にまであんな細かいガイドラインと手続きがあるなど、今の規格が統一化されたネットワークしか知らない人間には予測の限界があるのは仕方がない。エリの急場凌ぎぶっつけ本番のプロトコルには、その切断シークェンスがほとんど搭載されておらず、人間が直接操作する必要があった。それは方舟の中枢に近づけば近づく程、手間の増える難物だ。

 エリのプロトコルでもアクセスはできる。そこから託された解放プログラムを実行化することも一度触れた華花であれば可能だ。だがそうすれば続く自壊プログラムで詠唱者は方舟と運命を共にすることになる。そして今、その役目は華花以外の誰にも出来ない。

「そんなの……絶対にダメだ」

 感情を押し殺した助の声に、華花も押し黙る。その様は新たな手段を模索するようにも、叱られて悄気ているようにも見えた。

 もう、小六をなんとかしても犠牲を払う方法しか残っていない絶望が、ただでさえ浮足立っている足の裏から少しずつ助を蝕む。

 選べる答えはそれほど多くない。要は何もせずに小六の〈奏上〉の完成を待って睦や華花の兄を見殺しにするか、死に物狂いで小六を止めて華花を犠牲にするか。単純な二択だ。

 その選択を託すように、華花の静かな瞳が助を見上げている。その意思に従う、と沈黙の裏に告げられている気がして、助はいじらしい少女の身体を縋るように抱きしめた。

 優に頭一つ分の身長差は、助が華花を抱きすくめると少女の頭をしっかりと胸に抱え込める位置にもってくる。華花は特に抵抗せず、助のしたいように身を委ねていた。華花の存在を確かめるように、濡れ羽色の髪に顔を埋めて鼻孔一杯に少女の香りを吸い込み、ふとその中に異質な匂いを見つけて顔を上げた。

「……花?」

 洗髪料と華花自身のふくよかな香りとは別に、弾むような力強い爽涼な香りが頭の片隅の忘れかけた片鱗に触れた。その香りが妙に気に掛かり、助はもう一度華花の柔らかな黒髪に鼻を潜らせる。

「助くん、くすぐったい」

 くすくすと忍び笑いを漏らす少女を余所に、助はほとんど無意識にズボンのポケットに手を入れていた。そこから現れた古ぼけた兎型のアミュレットを見た華花も目を瞠る。

「それ、睦さんの……」

「……四年前に方舟がプログラムを託したって、言ってたよね……」

 それを告げた幻影の姿と同時に、助は花の香りの正体も思い出していた。それはあの方舟の幻想の中で嗅いだ匂いだった。そこに睦がいるような気がして助は背後の方舟を振り返るが、助が目にしたのは相変わらず振動を続ける方舟だけだ。

 華花は助から奪い取るようにアミュレットを受け取ると、すぐにその中を探り、見つけた。

「あった……あったよ!」

「じゃあ、これで!」

「うん!」

「"シズメユラユラトシズメトマヲスコトノヨシヲ";"ォォッ!」

 喜び合うのも束の間、再開された小六の〈奏上〉が耳を打ち、二人の視線をエリに向けさせた。

 既に周りを気にする余裕すらなさそうなエリが必死にコンソールを操作してその〈奏上〉を再び阻害するが、それも限界に近いようだった。先程のがむしゃらな攻撃のつけが回ってきた格好だ。

「華花、すぐに始めて」

「うん……ッつ……」

 異変はすぐさま現れた。

 ピンク色の兎を包み込んだ手が頭を支えるように動き、華花が激痛に悶えて膝を折る。

「どうしたの⁉」

「……精神痛みたい」

「さっきの害意詠唱で……⁉」

 助の心配を消そうとしてか、苦悶を笑顔で上塗りしようとして華花は複雑に顔を歪めている。

 方舟に意識を向け続ける集中力が要の〈奏上〉を、精神痛を抱えた華花がこなせるはずはない。せっかく芽生えた希望が、早くも摘み取られようとしている。

「"ヨモツニカムヅマリマス";"スメラカムロミノミコトモチテ";ェェッ!」

 また一句、小六の調子外れの声がプログラムの起動を進めた。その声に気を取られて顔を上げた助の腕の中から、小鳥のさえずりのような〈奏上〉が小六の後を追う。

「科戸の風の天の……八重……雲を……(しなどのかぜのあめの……やえ……ぐもを……)」

 呻吟するような〈奏上〉に、助は弾かれたようにその小さな身体から引きはがし、精神痛に身を震わせる華花を見た。

 助には精神痛の痛みは分からない。罹患したことがない。だがその症状は程度にもよるが、心と身体が引裂かれるような拷問のような痛みがあるという。

「八重雲を……吹放つ事の如く……(やえぐもを……ふきはなつことのごとく……)」

「もういい、もういいからっ!」

 痛みの質がどうであれ、強く喰いしばりすぎた口元から血が溢れる程の痛みに華花が堪えているというのは、外から見ていても理解できた。それでもなお、彼女は己が身を呈して託された希望を実行化しようとしている。

 それは助の本意ではない。

 華花に取り縋り、その手から睦のアミュレットを奪い取ろうと揉み合うが、華花は胸に抱くように手に包み込み、背中を丸めてそれを守る。

「だめだよ! わたしがここでやらなきゃ、なにも進まなくなっちゃう! わたしは助くんと一緒に前に進みたいのっ!」

「君はっ! 僕はただ君がっ……!」 

 一体、この嘘だらけの世界のどこへ進もうと言うのだろうか。ゆっくりと染み込んでいた小六の言葉が、今、頭の芯に到達した気がした。エリの言う通りだった。確かにその言葉は心を冒す毒だ。

 思えば、華花との出会いも嘘だった。喪失症の睦に優しくする自分も嘘だったろう。エリにも嘘をつかれた。巽にも嘘で裏切られた。自分の周りに溢れる嘘に翻弄されて、小六という嘘の源泉に辿りついて、進めば進むほど嘘に塗れたこの世界でこれ以上何を信じて先に進むと言うのか。

「僕は……何を信じればいい……」

「たすくん……っ!」

「そっか、この世界に信じるに足るものなんか一つもないのか……」

 世界が裏返った気がした。今まで見たくないと目を背けていた事実がこちらを見ていた。

 この世界には嘘しかない、当たり前の真実などどこにも存在しないのだと、今まで生きてきた十七年と今ここに立つ覚悟、後悔……助の全てが納得する。

 このまま何もしないでいれば、自ずとすべてが終わる。方舟が消滅すれば、少なくとも今までと変わらない、これ以下ではない日常が再開するだろう。一つ違う点は、助がこの世には嘘しかないという事実を受け入れた点だ。その目で見る世界がそれまでと同じに見える保証はないが――。

「わたしを信じてっ!」

 華花の絶叫が響き渡り、助の意識を引き戻す。

「わたしは大丈夫だから、あなたがいる限り絶対に絶対に、諦めたりしないから!」

「華花を……信じる……?」

 何を信じる? 彼女の何を信じられる?

 華花を信じて方舟を思い出し、華花を信じて崇神会と戦い傷つき、華花を信じて心を通わせた。その帰結が今この瞬間だというのか。

 そんなものは認められない。

 認めたくない。

 ――自分が華花に見た想いはそんなものじゃない。

 そこには複雑な関係も、勘定高い思惑もない。もっと単純で、もっと純粋で、もっと簡単なものだった。そう、それこそが、さっきからずっと胸の奥に渦巻く何かだ。

 信じたいから信じた。裏切られても想いに正直になれるならそれでもいいとすら思ったからこそ、ここに立つ権利を得た。今ここに居るのは自分の意思、自分が信じ通した結果。それだけは間違いなく自分が生み出した真実だと信じられる。

 この嘘だらけの世界に嘘など一つもない。嘘であることすら嘘だ。あるのはただ純然たる事実だけだ。後はそれをどう見極めるか。

 そう、嘘も真実も変わりなく一体であるならば、自分が信じたいものを信じればいい。必要なのは見て、聞いて、考える事だ。そうすればすべて真実にすることだって、不可能ではない。

「僕は……信じるよ」

「まだわからないのか」

 はっきりと告げた助の声に、小六の苛立たしげな声が重なる。

「この世界は御前を裏切り続ける、華花だって例外じゃ――」

「それもこれも、全部ひっくるめて信じるって言ってるんだ!」

 今度は助の絶叫が小六の声を押し返した。

「わかる必要なんてない! 僕は信じる! 生きるだけに必要な真実があればそれでいい!」

 世界は嘘だと声高に告げる、小六の言葉を信じて嘘だらけの世界が真実になったように、助は真実を求める事をやめた。世界には嘘も真実もないのだと、気付いた。

 あるのは信じるか、信じないか、ただそれだけだ。

「華花、何か方法はないの?」

 痛みに散らされる意識を一点に集中させようとしていた華花の瞳が助を見た。

「僕に出来ることなら何でもする」

 きっと、僕が信じた華花ならなんとかできる。そう信じた言葉の重みに、華花は少し躊躇いがちに応えた。

「方法なら、あるよ……でも、失敗したら二人とも無事じゃすまないかも」

「聞かせて」

「二人の精神系を直接繋ぐの。チャンターとしてアクセスする能力を持ったわたしのポートと無事な助くんのポートを繋いで、傷ついたわたしの精神系をバイパスして助くんの精神系で〈奏上〉する。あれも基本は詠唱と同じだから、きっとこの方法が使えるはず」

 でも、と華花の説明は続いた。

「精神系を直接繋ぐっていうことは、相手の心に土足で踏み込むようなものだから……きっと見たくないところもたくさん見ちゃうし……最悪、心が混じりあって人格が破綻するかもしれない」

 それ故に法律で禁止された行為なのだと付け加えて、華花は口を噤んだ。助は少し考える素振りを見せてその実、考えるまでもなく心を決めていた。

「華花は、やりたくない?」

 華花は小さく首を横に振る。

「助くんは、いいの?」

 助は決然と首を縦に振る。

「きっと今の僕なら大丈夫……決まりだね」

 華花の手を取り、指を絡めて握りあう。その手に包まれているのが睦のアミュレットだというのも、感慨深いものがあった。

「……いくよ」

 華花の合図と同時に、世界と自分が乖離していくような違和感に襲われた。これがチャンターの見る世界なのだとしたら、自分も華花と同じ場所に立てたことは純粋に嬉しかった。

 目では現実の空間を認識しているのに、助の心はそこに重ねて数多の星を見ている。その粒子の一粒一粒が、華花の心の欠片だ。雪のようにどこからともなく闇を漂う粒子が触れると、華花の心が直接染み込んでくる。恐れ、敬い、怒り、喜び、悲しみ。色も音もない純粋な感情の雪が、静かに助の心を埋めてゆく。

「"科戸の風の天の八重雲を吹放つ事の如く";(しなどのかぜのあめのやえぐもをふきはなつことのごとく)」

 感情に埋もれた助の心にどこからともなく華花の声が聞こえてくる。心地良い、子守歌のような声だった。

「"種種の罪事";"八種の天津罪";"十種の国津罪";"蒼生の罪穢れ包み";(くさぐさのつみごと、やくさのあまつつみ、とくさのくにつつみ、あおひとぐさのつみけがれつつみ)」

 続く言葉が理解できる。意識が重なるように、二人の声が重なっていく。

『"所聞食せ";"解き放けく詩";(きこしめせ、ときさけくうた)』

 華花の記憶から流れ出した感情が、助の心に満ちる。今まで意識したことのない内側の深奥に華花を感じた。それは己の一部のようでありながら好き勝手に遊びまわる。

 幾重にも折り重なった記憶の襞にその華花が触れる度に、華花がかつて経験した色彩もそこから伝わる。それだけではなく、掴み所のない華花の存在が振る舞えば、それは未来を思い描く煌びやかな鱗粉となって堆積していく。

 助は自分がそうであるように華花もこんな心地を味わっているのかと思うと、面映ゆさにむず痒くなった。そしてそれすらも愛おしく、心強い。

『"天の斑駒の耳振立てて所聞食せと――畏み畏みも白す";};(あめのふちこまのみみふりたててきこしめせと――かしこみかしこみもまをす)』

 〈奏上〉が終わった。

 助の意識は乱暴に引き剥がされる感覚に襲われ、気が付けば方舟を中心に据えた自分の視界を取り戻していた。


  ※  ※  ※


 それまで微かに振動していた方舟が、俄かに大きく身震いした。それはまるで己を打ち崩すかのような激しい揺れに変わっていき、光の角材のように見えていた骨格の、輝く表皮が鱗のように破片となって剥離していく。

「何だ……これは……」

 愕然と呟いたのは小六だった。過負荷が身体機能すら浸食し始めたのだろう、その場に膝をつき、崩壊する方舟を限界まで見開いた眼で見詰めている。

 その前方でへたり込んでいたエリが、小六の戦意喪失を悟って立ち上がる。こちらは終わったという確信が、どこからともなく訪れていた。

 そうなれば気になるのは方舟に相対していた二人だ。間違いなく何かのトラブルに見舞われていた二人の安否が気遣われる。

「ふた――」

「華花、大丈夫なの⁉」

 エリを制して、軽く息を乱しながら駆け寄ってきたのは彩だった。疲労で重そうな身体を引きずってようやく二人の元に辿りついたエリは、少し恨みがましい目を彩にぶつけてむくれている。

「うん……大丈夫、だよね?」

 華花が助に訊く。

「うん、大丈夫、かな」

 助が華花に答える。繋いだ手の平から伝わる温もりは、心を繋げていた時間を生々しく反芻させる。それが妙に気恥しくて、二人はまともに視線を合わせることができなかった。そんな初々しい姿に彩は肩を竦めて苦笑を浮かべ、エリはぶすくれた頬を更に膨らませるのだった。

「何だ、これは何だ、何故こうなった、ナゼ……なぜ……」

 既に方舟は半分以上が光の破片に変じて夜風に溶けている。小六の悲痛な呻きも冷えた夜気に呑まれて散っていく。その姿に憐憫の一瞥をくれながら、華花は気掛かりを質す為に小六を意識の外に追いやった。

「あの、エリさん、よく状況がわからないんですけど――」

「そんなことよりキミ達!」

 まだ何かを言う前から『そんなこと』で一蹴され、華花はきょとんとエリの剣幕を見上げる羽目になった。

「まさかとは思うけど……精神系統合した?」

 助にはそれがなんのことなのかとんとわかりかねたが、じっとりと絡みつくエリの半眼から逃げるように視線を逸らした華花の反応を見るに、先程の二人の状態がそれに当たるのだろうと推知できた。しかし理解できたことと白状することは別問題であり、エリの穏やかならぬ気配に助も素知らぬ風に口を噤む。

「……まあ、本当に無事だったみたいだし、いいけどさ……あんまり大人を心配させないでよ」

 本当に心の底から心配してくれていたことが伝わる口調に、助も華花も少し申し訳なく首を竦める。

「大人の自覚、あったの」

 その横から彩の茶々が入れば、元々反目する二人である。呆気にとられる二人を余所に、すぐさま子供じみた罵り合いが繰り広げられた。

「ふたりともやめてください! わたしたちにもわかるように説明して欲しいです!」

 そこにこの場で最も子供っぽいと言える華花が一喝するのであれば、大人の面目もあったものではない。唸りながら離れて、お互いにそっぽを向いた。

「あー、で、状況だっけ」

 方舟が崩壊し、小六が放心しているこの状況は、解放詞を奏じたはずの二人からすれば不安すら感じる状況だった。

「ボクもカンペキに把握してるわけじゃないんだけどね、この方舟の崩壊は間違いなく小六の詠唱だよ」

 ギリギリまでは方舟にアクセスして小六の奏上を妨害していたエリだったが、その甲斐もなく完成目前まで追い込まれていた。そして悪い事は重なるものなのかとその時は思った。それまで問題なく干渉できていたアクセスが、そこにきて突然弾き飛ばされたのだ。

 方舟へのアクセスを失ったエリに出来ることはほとんど何もなかった。指を咥えて見ている間に小六の奏上は完成し、方舟の崩壊が始まった。エリの把握していた状況はそれが全てで、彩の口からも似たような証言が出るに至って、華花の懸念ははっきりと自覚できるものになっていた。

「……どうしよう、わたし、本当にちゃんと奏上できたのかな……」

 二人ともしっかりと助と華花を見ていたわけではなく、気が付いたら二人の奏上は終わり、方舟の崩壊が始まっていたという。誰もどちらが先だったのか確認できていなかった。

「だ、大丈夫だよ……きっと」

 すっかり不安に呑み込まれ、涙目で狼狽する華花を励ます助の声も、どこか上の空で心許ない。

「でも、わたしが失敗してたらお兄ちゃんも睦さんも帰ってこれなかったってことに……」

「僕も一緒に奏上したんだ、華花のせいだけじゃないよ」

「でもでも、奏上してたのはわたしだし……」

「だからこそきっと大丈夫だって、僕は信じてる」

「でもでもでも、成功した気はするけどもし失敗してたら――」

 不毛かつ支離滅裂な馴れ合いに終止符を打ったのは、華花の頭を乱暴に撫でくり回す彩の細い指だった。

「華花も丹下くんも落ち着きなさいな、論点がずれてるわよ」

『はい……』

 まるで馴染みの教師に注意を受けた気がして二人が落ち着きを取り戻したのを見計らい、彩はエリを振り仰いだ。

「で、どうなの?」

「んー……状況記録だけじゃ、やっぱよくわかんないよ」

 あと数本の骨格を残すだけになった方舟の残骸の前から、エリが振り返る。

「やっぱりわたし失敗したんじゃ――うぎゅぎゅ」

 再発しそうな華花の不安症が、彩に頭から押さえつけられたのとほぼ同時に、エリのアミュレットに着信が入った。他の誰にも聞こえない着信音が頭の中でけたたましく鳴り響く。こんな時間、こんなタイミングでかかってくる着信に仄かな不安を感じて、エリは送信者の名前を見た。

 相手は浅茅・創大。手頃な実験材料として、小六の手が御陵・睦に伸びた時の警護の目的で、彼は施設に配備していた。その彼からのこのタイミングでの連絡が尋常であるはずもない。エリは会話を個人ではなく周囲にも聞こえるように設定すると、着信を受け付けた。

『先輩、無事ですか?』

 浅茅のどこか投げ遣りなテノールが、耳の鼓膜を振動させることなく頭に響く。

「無事だよ、なにかあったの?」

 驚いたのは他の三人だ。エリが勝手に接続したせいで突然頭の中に響いた声は、三人の肩を跳ねさせた。しかしその事に文句を並べ立てるよりも早く、通話相手が矢継ぎ早に用件を伝えてくる。

『それが僕にもよくわからないんですが、御陵さんがすごい剣幕で丹下君と蘭堂さんの無事を確認したいと――ああ、今連絡してますから、ちょっと待ってください』

 言葉後は睦に向けた言葉だろう、どうやら睦の方も無事は無事らしい。だがあの睦が取り乱すほどの用件とは如何ほどのものなのか。相当に錯乱しているらしく、しばらく浅茅が睦をなだめる声が続いたかと思うと、突然通話が切れた。

「……なんだってんだろ」

 エリの口調は決して軽くはない。驚きと不安がないまぜになった面持ちで通話をかけなおそうとした矢先、再び浅茅のアミュレットからの着信が鳴った。三人が息を飲んで見守る中、エリは着信を受ける。

『助、華花ちゃん無事っ⁉』

 そこに聞こえてきたのは浅茅の声ではなかった。狼狽に少し甲高くなっているが、それは間違いなく睦の声だ。

「うん、無事だよ」

「僕も問題ないよ」

 既にエリは音声だけでなく通信も共有状態にしている。本来であればお互いの意思確認がなければ利用できない機能も、エリの手に掛かれば片手間で割り込める。プライバシーもなにもあったものではない所業に彩は顔を手で覆っているが、彩自身も自分が半分犯罪者である自覚があるのか、難しい顔で黙りこくっている。

 それにしても、遠く離れた場所でしかも今晩の事は一切連絡していない睦が、どうやって助と華花の窮状を、それ以前に壁の外で待機していたはずの浅茅の存在を知り得たのか。エリがそのことについて尋ねると、睦は急に弱腰になって唸りはじめた。

『えーっと……うんとね、なんて言えばいいかな……』

 しばらくそうして通話口に益体無い言葉を投げかけていた睦だが、やがて意を決したようにはっきりと告げた。

『見たの、私。夢の中で、助と華花ちゃんを』

 それは関係者にとっては衝撃的は告白だった。

『そこはすごくきれいな草原で、私は管理人の一部で、それで二人に大切なものを託したの。その後急に草原がひび割れて崩れ始めて、不安に思ってるところに天使様がやってきたの……華花ちゃんみたいに可愛らしい天使様だった。それで天使様に手を引かれて、気が付いたら自分のベッドで起きて……あれ、私どうしてこんなところに……ううん、違う、わかってるんだけど――』

 再び記憶の混乱に見舞われた睦の声はそこで一旦途切れた。通話自体は残っているので、恐らく浅茅が詠唱技能でアミュレットのリンクに割り込んだのだろう。

『こんな状況なんですが……そっちは何か変わったことは?』

 浅茅の憂いが滲む声を耳に、エリは大きく息を吐いた。それは落胆でも心労でもない、安堵の息だった。

「なにもないよ……いまちょうど、全部、成功したとこ」

 そう答えるエリの後ろには、溢れ出す笑みと涙に困惑しそれを隠すように助の胸に飛び込む華花と、その頭を愛おしそうに撫でる助の姿があった。彩も彼らの成功には素直に祝う気持ちがあるようだが、呪いのような得体のしれない言葉を吐き続ける小六の姿を見て、複雑そうに顔を歪めた。

 睦からのU2Nを使った通話。それは全ての終結を告げる祝言だった。

「わたし達、できたんだ……やったよ、お兄ちゃん……」

「これで、先に進めるんだ……」

 思い思いの感慨に耽る華花と助を向こうに置いて、エリは少し離れたところで浅茅と事後処理の相談を進めていた。その話に一段落ついたところを見計らって、阿須賀・彩は固い面持ちをエリに突き付けた。

「……なに」

 言葉のない呼びかけに、通話を一旦保留にしたエリが彩に向き合った。

「お願いがあるの」

「キミが? ボクに? 明日は雪かな」

「ふざけないで聞いて頂戴」

 からかい甲斐のない級友に肩を竦めさせると、エリは話の先を目配せだけで促した。

「華花の事。あの子の親権は今聖が持っている。でも遠からずその親権も剥奪されるでしょうね」

「そりゃ、そうだね……」

「そうなるとあの子は――あの子だけじゃない。あの子のお兄さんも、またあの親族に引き取られることになるかもしれないし――」

「別々の施設に入れられるかもしれない?」

 彩は深刻そうな顔色を変えることなく、エリの理解に頷いた。

「今更私が何を言うのかって思うかもしれないけど……もうこれ以上、あの子の人生が弄ばれるようなことにはなって欲しくないの……だけど私はもうあの子の傍にはいられないし……」

「そうだね……ボクならなんとかできるかもね」

 曲がりなりにも〈ウィッチ〉であるエリの影響力は世界に対して決して小さくない。それこそ、一般市民の運命程度なら易々と変えられるだけの権力も財力も持っている。

「話してみるよ。ハナハナと、そのお兄さんと」

「……ありがとう、頼んだわよ」

「キミに礼を言われたとあっちゃ、蔑ろにはできないね」

 どこまでも不敵なエリの顔に向けて満足そうに一息吐くと、彩は屋上の暗闇の中に溶けるように消えていった。

「ごめんごめん、ちょっと野暮用で……うん……うん……そうだね、キミの方で一括して進めてくれた方が手違いがないだろうね。あとは――」

 既に輝きの残滓すら残らない、方舟があった空間を見守る二人の背中を見ながら、エリは自分の胸の内にわだかまるひんやりとした感情に足首まで浸した錯覚の中で、寂しげな微笑みを浮かべていた。 


  ※  ※  ※


 街を吹き渡る風も薫風に変わり、巷間も日常の延長にある新生活に馴染んできた季節。

 方舟は消滅した。あれから追跡プログラムも沈黙し、影も形も消え失せた。そして同時にほぼすべての喪失者も正常に復帰した。突然の正常化に世界中の関係者が胡乱な顔をして彼らを徹底的に調査したが、それもクラスAチャンターである田中・エリスティーネ・アイヒホルンの鶴の一声――方舟はある人物の謀略により崩壊したという事実を裏付けるだけでしかなかった。

 CUSのブラックボックスと謂われた方舟の崩壊。その事実は方舟の利権を水面下で争っていた関係各所に少しの混乱をもたらした。それも今となっては責任の所在も落ち着く所に落ち着き、世間が何かに感づく前に収束していた。

 煽りを受けたのは喪失者である。健常にもかかわらず数多の調査や診断に強制的に協力させられ、それだけで施設から解放されるのに二か月もかかってしまった。

 執拗な精密検査でも何もわからない事がわかると、政府はようやく睦を解放した。それでもまだ後ろ髪を引かれるように特別保護観察対象などと絶滅危惧種のような状況を押し付けてくるのだから、流石の睦も閉口しているようだった。華花の兄――蘭堂・咲(らんどう・しょう)も状況はほとんど変わらなかった。

 そんな珍獣のような扱いの中でも、彼等は社会復帰に向けての努力を怠りはしなかった。施設に入っていた時からこの日を夢見て地道に勉学に励んでいた睦は、この春に晴れて助や華花と同じ高校に入学した。とはいえ、年齢は助と同じだが片や最高学年として片や新入生という立場の違いは、奇妙な機微を生んでいる。

 彼女を迎えいれるのに諸手を挙げて歓迎した華花とは打って変わって、助は少し複雑な顔をしていた。助の懸念は人間関係にあった。

 自分も含めて、睦の事をまだ覚えている人間がこの高校には多くいる。それなりの水準を誇り、中学校から近いという理由でここを受けたかつての級友は多いのだ。事情を知らない彼等からすれば、突然いなくなった御陵・睦が後輩として突然戻ってくれば好奇心から話題に上げないはずもない。それが悪い方向に走った時、要らぬ軋轢を生むのではないかと心配したのだ。

 せめて別の高校を、或いは一年入学を待ってはどうかと事前に助は相談したが、睦は笑ってこう言うのだった。

「みんなと同じ高校に通えなかったら、意味がないのよ?」

 流石にその理由には反論できず、助はあっさり折れることになった。

 そんな問題の最中、助は蘭堂・咲と顔を合わせる事になった。初対面であるはずの咲は助の顔を見るなり「会いたかったよ、助君」と喜色満面に出会いを喜んだ。

 華花より三歳年上である咲は、華花とは違い世間擦れした雰囲気の掴み所のない少年で、華花によく似た黒目がちな双眸が印象的だった。歳は助や睦と同い年だが、施設を出た彼は睦と違い高校には通わずに進学塾で大学を目指すという。

 折しも睦の選択に不安を抱えていた助は、同じような境遇の咲にそのことを打ち明けた。思い余ったのもあるが、同い年であるはずの彼に頼り甲斐を感じてしまったというのが大きい。いずれは義兄になるのかもしれないと余計なことを考えていると、咲はそれを見透かすようにころころと笑った。

「僕達はさ、可能性のない世界に囚われていたんだ。そこから見れば、この可能性に満ちた当たり前の世界に、過不足なんて感じないんだよ」

 その言葉に助がわかるようなわからないような曖昧な表情を浮かべていると、咲は破顔一笑して付け加えた。

「今は、悪い事より良い事の方にばかり目が行くって事」

 それは無策というのかもしれない。しかし可能性とは得てして未知だ。下手な策を弄せず、輝く可能性に飛び込んでみたいと心から願う彼等の気持ちは、なにより大事にしなければいけないのかもしれないと、助はその笑みに痛感させられた。

 咲の将来を聞いた助は、最後に何より気にかけていた華花の処遇を持ち出した。

 論点としては、華花は今も丹下家で世話になっているが、咲としては如何に考えているかだ。咲は少し考える素振りは見せたものの、答えをあらかじめ用意していたようなしっかりとした口調で告げた。

「今の僕はこの四年間を取り戻すってだけで精一杯だ。正直、華花がそばにいると気にしてしまうだろうね。その点、君が一緒に居てくれるならそれ以上の安心はないと思ってる。これからも華花を支えてあげてくれないかな」

 助に否やもあるはずがない。こうして華花は正式に丹下家で生活することが決まった。

 その頃には崇神会の一斉検挙や中学校の閉鎖で浮足立っていた街も落ち着きを取り戻し、助の周囲も寂しいくらいに静かになっていた。恐らくそれはエリが学校を退学した事も多分に関わっているのだろうが、彼女は彼女の本来の世界に戻っただけでなにももう会えなくなったわけではない。

 そもそも蘭堂兄妹がこんなにも早く落ち着きを取り戻せたのは、エリの働きに拠るところが大きい。

 本来であれば親権を持つ華花の親族――華花の親権は既に小六が確保していたのだが――にも話を通すべきところを、エリが華花と咲の後見人として二人の親権を有耶無耶にしてしまったのだ。

 目的としては二人の将来を考えた時にあの親族の元では社会的にも財政的にも自由が利かないであろうという理由からだったが、エリは友達を助ける為に自分が出来ることをしただけだと嘯いている。

 実際、その言葉に忌憚はない。クラスAチャンターが持つ社会的な後ろ盾と有り余る財力は助と華花の想像を遥かに凌ぐ厖大なものだ。エリ曰く「時間はない癖にお金だけはあるんだもん。ボク、あと三百年くらい遊んで暮らせる貯蓄があるんだよ」と自慢なのか悲嘆なのかわからない愚痴をこぼしていた。

 そうして世界に隠されていた喪失者は、その秘密のほとんどが隠蔽されたまま世間に解放された。だが、喪失者が完全にいなくなったわけではない。

 小六・聖はあの事件で最後の喪失者となった。正式ではない自作のプロトコルを使用していたことが仇になり、方舟に直接アクセスして操作していた彼の精神系は方舟の崩壊に巻き込まれて霧散した。恐らくもう彼が自分を取り戻すことはないであろう。その彼に方舟崩壊の全責任を押し付ける形になった事はエリも苦々しく思っている節はあったが、多少でも丸く収めるために仕方ないとやるせなさを呑み込んでいた。

 彩も最後はエリ達に少なくない貢献をしたが、その責任の一端を受けて今は刑務所に収監されている。エリお得意の超法規措置を駆使することも出来たが、彼女自身がその申し出を突っぱねて贖罪を望んだのだ。それが彼女なりのけじめなのだろうと、エリもそれ以上彼女に構うことはなかった。

 彩と同じような境遇の崇神会の三人は、小六との戦闘地点であったC棟三階で気絶しているところを保護された。小六も無駄にかかずらう余裕はなかったのだろう、幸いにも軽い打撲傷だけで済んだ彼等だが、エリとの取引をもってしても無罪放免とはいかなかった。それも結局、あれだけ騒ぎ立てた当局の体面を保つ為の圧力が働いた結果であり、三人にとってはとばっちり以外の何物でもない。なんとか自由刑は回避したものの罰金刑を課せられ、今はそれぞれ工面に勤しんでいた。巽も奇跡的に後遺症を抱えることなく回復し、皇・衣子・堅介に協力している。そんな話を仁経由で、助と華花は小耳に挟んだ。

 様々なことが一通りの落着を見せた晩春のある休日、助と華花は連れ立って遊び慣れた市立公園に来ていた。お散歩デートである。

 あの頃は冬木立だった遊歩道の並木が、今は緑に着飾った葉桜の展覧会場に変じている。園内のあちらこちらに丹精された花壇に目を落とせば、愛らしいチューリップ、清楚なマーガレット、豪奢なマリーゴールドなどなどの春の花々が妍を競いあっている。なだらかな丘陵には野草の類も多く見られ、整地を外れた天然の樹叢の影に可憐なサクラソウ、楚々としたスミレの仲間、控えめなカタクリなどがひっそりとかくれんぼに興じていた。

 華やかな休日の園内は相応に人気も溢れていて随分と賑やかだった。その騒がしさから逃れるように、二人は山の中腹に設えられた展望デッキに登っていった。

 デッキから一望する発電建材の銀色に覆われた建物群は、季節の移り変わりを忘れたように無機質に佇むが、少し潤んだ大気を通せば少しばかりか春に浮かれて揺らめいているようにも見える。

 助がそれを話すと、華花はくすくすと笑って「ビルが踊りだしたら中の人たちが大変だね」とおどけて返した。

 そんなやり取りの中に不意に無言の時間が訪れた。それはいつでも訪れる、交わした言葉を吟味する為の、次の言葉を用意するための大切なひとときだ。デッキの手摺りに二人で並び立ち、多くの薫りを孕んだ風に吹かれるなんてことのない時間が、今日に限っては何かの下準備をしているように感じられて、助を落ち着かなくさせた。

 そう感じる原因は分かっていた。助と華花は今年でもう高校三年、その春ともなればとっくに将来進むべき道を決めていなければいけない時期だ。助は漠然と大学進学をイメージしているが、出会ってからの半年、華花とそう言った話をする機会は全くと言っていいほどなかった。

 それもそうだろう、華花は半年前まで自分が高校を卒業する日が来るとは欠片も想像していなかったという。彼女もエリのように役目が終われば卒業を待たずに退学するはずだったのだ。

 なにせ彼女の本来の年齢は十四歳、まだ中学に通っていなければいけない年齢だった。小六の策謀の為に年齢を偽って入学していたらしいが、驚くと共に助は得心もした。少しコツを教えればあれだけ勉強のできる彼女がそれまで成績不振だったのも、碌に下積みをせずにいきなり高校の授業に、それも途中から放り込まれたからだ。

 今の華花は既に助に教えることも出来るほどに成績を伸ばしている。元々吸収の良い彼女だが、事件後は特に勉強に力を入れているのは助も知っていた。そして、それが不安の種だった。

「ねえ、華花」

「なぁに?」

 一呼吸挟み、気持ちを決める。このままずるずると不安と期待を引きずっていれば、助はこのまま将来に覚悟を持てないまま進路を決めることになる。もし華花が覚悟を決めているのであれば、そんな自分が彼女の隣にいるのは恥ずかしい事この上ない。

「華花は何を見ているの?」

「なにって、助くんとおんなじ景色だよ?」

 それが本気か誤魔化しか、わからない助ではない。

「そうじゃなくてね、ほら、僕達ももう三年生なわけだし」

「あ、進路?」

 華花はその言葉を待っていたようにも恐れていたようにもとれる曖昧な笑みを浮かべた。単に勘違いに恥じ入っただけかもしれないが。

「わたしは、チャンターの学校に進もうと思ってる」

 助の不安が、華花の口から飛び出してきた。しかしその言葉は助の中で意外なほどすんなりと腑に落ちる。

 これといった反応のない助の神妙な横顔に何を見たのか、言った本人の方が狼狽える始末だ。

「一緒に居るのが嫌になったとかじゃないよ!」

 慌てて付け加えた言葉が、上擦った声に乗って助を振り返らせる。真剣そのものの面持ちだが、眉のあたりに密かな不安を滲ませた華花を安心させるべく、助は身体ごと動いて彼女を正面に見据える。

「わかってるよ、大丈夫。そんな気がしてたから、納得しただけだよ」

 柔らかい口調に華花もそれで安堵したのか、はにかみを浮かべて眺望に向き直った。

「ちゃんと勉強して、ちゃんとチャンターになって、わたしもエリさんみたいに人の為になるお仕事がしたいの。せっかく手に入れた技術だもの、生かしてみたいんだ」

 それから華花はゆっくりと窺うように首だけ巡らせて、助を見た。

「だめかな?」

 だめかと聞かれたらだめに決まっている。一時も離れたくないというのが今の助の本音だ。

 チャンターの学校となればそこは厳格な管理社会だ。学生といえども詠唱技能を学ぶ以上は国にその籍が移動する。そうなれば二人の時間を設けることはおろか、顔を合わせることすら難しくなるだろう。

 そもそも詠唱技能を学べる学校はこのリージョンには都心にしかない。時間的には片道三十分といえども、物理的な距離は今の時代でも恋人達の難敵だ。どんなに心の距離が近づこうとも、重なることがない以上仕方がない。

 ふと、あの事件の事を思い出す。本当に物理的に心を重ねた自分達ならどうなのだろうか、と。確かにあの瞬間、助と華花は一つの心を共有していた。だが、だからこそはっきりと理解したことがある。心の形は日に日に変わる。それを人は成長と呼ぶし、心変わりともいう。確かにあの瞬間は華花の事でわからないことのなかった助が、ついさっきまでその決意の形も知り得なかったのがなによりの証左だ。もう、助と華花の心は別々だ。

 そんな曖昧模糊とした心だ、離れている間に何があるとも限らない。新しい生活と新しい出会いがどんな心変わりを二人にもたらすか、そんなときにそばにいられないのは不安でならない。

 だが助の口はそんな心中とは真逆の事を口にした。

「いいと思うよ、僕も賛成だ」

「ありがと」

 春咲きのどんな花よりも愛らしい笑みを見せつけてから、華花は飛び込むように助の胸にしがみついた。

「ほんとはやだよ……ずっと一緒にいたい」

「わかってるよ、僕も同じ気持ちだ」

 華花の手を握り、想いを告げる。

 変わりやすい心だからこそ、こうしてきちんと確認していかなければならないのだ。

 だがそこにクオリアの交換なんて必要ない。この言葉を信じると決めた。大事なのは交わした言葉を信じる覚悟であり、真実なんてものはその後に自然とついて回るのだから。

 手の平から伝わる温もりがその想いを染み渡らせるまで、二人は影を重ねたままじっと佇んでいた。

 やがてどちらからともなく身体を離し、微笑みあう。

「あと一年、いっぱいお話ししようね」

「そうだね、僕ももっと華花の事を知りたいよ」

 まだ二人の旅路は始まったばかりなのだ。時には別々の道を進むだろう、嵐にも出会うだろう、つまずいて立ち上がれないこともあるかもしれない。そんな時、こんな時間を思い出せるようにもっともっと思い出を作ろう。

 そして再び出会ったときに、違う時間をたくさん話すのだ。常に同じ時間を生きるよりも、きっとその方が楽しいと、今の助はそう信じられた。

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解キ放ケク詞(ときさけくうた) 立津テト @TATITUTETO

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