中編

 屋上に続く階段の踊り場は、久高の特別な場所だ。

 この学校の屋上への扉は施錠されているため、普段の学校生活でここを訪れる理由はほぼない。そんな『誰も来ない』という特殊性が生徒たちに重宝された。

 誰かに見られたくないときはここにきて、先に誰かいたら詮索せずに立ち去る。そこは久高生達の間で連綿と受け継がれてきた、暗黙のルールの上に成り立つ隠れ家なのだ。

 主な利用者はやはり思いを通わせる男女だが、その時その踊り場には田中・エリスティーネ・アイヒホルンが一人で立っていた。普段は常に誰かと一緒にふざけたり燥いだり、止まることを知らないのではないかと思うくらいに溌剌と動き回っている彼女が今は一人、柳眉の間に深刻な皺を寄せて壁に寄り掛かっている。否、一人とはいえない。U2Nを使って誰かと通話しているようだった。

 彼女らしからぬ苛立ち混じりの声が密やかに通話相手を詰る。

「在校中は連絡するなって言っといたでしょ! ……えぇ? ……わかった、でもさ、焦ってるのはわかるけど連絡規定は遵守して。相手の出方がわからない以上、油断ならないんだから…………それはない。間違いなく何かが動いてる。彼女の存在がそれを裏付けてる……ってのは、前言ったよね…………もうっ! それが何かわからないからこうし――切るよ」

 エリは通話相手の意思を確認することもなく一方的に切断すると、階下から近づく足音に身構えた。その足音は間違いなくここを目指している。エリの存在を知らずにここを利用しようと思って近づいてきた生徒の可能性が高いが、つい先程までの会話のせいで少し神経過敏になっていた。火急の事態も想定していくつかの行動を選定し、その選定をすぐに実行できるように精神を研ぎ澄ませる。

 そしてそんなエリに肩透かしを食らわせたのは、階下からのそりと出てきた助の顔だった。彼もこの場所の意味は知っている。出歯亀呼ばわりを恐れているのかどこか遠慮がちな目が、一人きりのエリを見つけて僅かに弛んだ。

「あ、仁の言うとおりだ。田中さん、探し――どうかした?」

 慌てて平生を装おうとはしたものの、助は目聡くエリの切迫した表情を見咎めた。

「ふぇ⁉ なにが?」

 誤魔化しにかかるが、それだけでは助の憂心は納得しない。

「何って、なんだかすごく険しい顔だったけれど……」

「あはは、ちょっと苦手な相手と通話してたからかなぁ?」

「そうなんだ……詳しくは聞かないけど……必要だったら話くらいは聞くよ」

 嘘は言っていないが、こうも優しい声をかけられると隠し事をしているという後ろめたさがどうしても苦味を残す。

「……うん、その時が来たら話すよ」

 ふと、いっそ全てを打ち明けたらどんなことが起こるのかという妄想が鎌首をもたげる。

「ねえ、たすくん?」

「ん?」

 それはとても魅力的で馬鹿げたことだと、使い古された自制心が止めてくれなければ、本当に話してしまっていたかもしれない。

「……ボクのこと、信じてね」

「はぁ……? よくわかんないけどわかったよ」

 ここで詳しい説明を求めないのは彼の優しさか単なる無関心か……いずれにしろ、これで田中・エリスティーネ・アイヒホルンの首は繋がったわけだ。

「それで、ボクを探してたって?」

「うん、そろそろ帰ろうと思って」

「あ、じゃあボクも一緒に帰る!」

「そう言うと思って探しに来たんだよ。じゃあ、教室に仁を拾いに行くよ」

 階段を下りていく助の後を追って、エリがぽんぽんと軽やかに階段を飛ばして降りる。人目がないからと制服のスカートが翻るのもお構いなしだ。

「なんでジンジンは一緒じゃないの?」

「教室でお兄さんと通話してたよ」

「お兄さんって、バンドやってる?」

「うん、なんだかライブの日程変わった事、仁だけ教えてもらってなくて、それでいま大喧嘩してる」

「相変わらず仲いいねー……」

 言葉とは裏腹に、エリの顔は呆れ果てているといった様子だ。おどけた調子はいつものエリのそれに見え、助は先程感じた違和感を気のせいと呑み込んだ。

 エリの呆れ顔も尤もで、あの兄弟は暇さえあればU2N通話で口喧嘩しているような仲良し兄弟だった。既に慣れさせられた助に至っては、呆れを通り越して感心すらしている。

 すると突然、助の隣から風船が空気を噴き出すような音が聞こえ、次いでエリの聞き慣れた馬鹿笑いが廊下に響き渡った。唐突なことに目を剥き立ち止まった助の肩に、お腹を抱えて笑うエリの手が置かれる。笑いすぎて立っていられないといった風情だ。

 エリの爆笑は突拍子もなかったが、その理由は助にも分かる。

「仁の顔?」

 尋ねる助の顔は、どこか寂しそうに困っていた。

「う、うん……ふぅっ!」

 腹に残る笑いを一気に吐き出すように強く息を吹いて落ち着きを取り戻すと、エリは崩壊した相好を整えた。エリが助の表情に気付いた様子はない。

「あー、まだおかしい」

 今朝、学校に登校した仁はまるで別人のように顔を腫らせていた。初めは目も当てられない惨状にエリや助をはじめとするクラス中が心配していたのだが、「バナナの皮を踏んで階段から転げ落ちたと」という今時狙ってもできないような理由が、仏頂面で語る仁を一転して物笑いの種に変えた。今しがたもエリはそれを思い出して堪えきれなくなったようだった

 助もそれが事実であれば呆れ果てて言葉も出なかっただろうが、仁は巽に会いに行ったのだと直感した。それで頭に血が上るような出来事があってあの様なのだろう。

 そこには少なからず自分も関わっているのだろうと思う。もし仁が自分自身の為だけに行動を起こしたのであれば、彼はあれを不良グループに食って掛かった名誉の負傷だと言って自慢していたはずだ。

 あんな見え透いた嘘をつくのは、心配させまいという彼なりの気配りだというのはわかる。その心積もりは嬉しいのだが、ああして怪我までされるとやはり気が引けた。これ以上の無茶はしないで欲しいと言葉にして言うべきかどうか悩みながら、まだまばらに生徒が残る教室で空中にがなり立てる仁を発見した。

 まだ通話中だった仁は助とエリの姿を認めると、捨て台詞を吐いて通話を切断する。そして机の上にあった鞄を乱暴に掴み取ってのしのしと二人の方に歩み寄ってきた。

「ああくそっ、あのバカ兄貴め! あと一週間で完成させろとかバカだろ⁉」

 確かに通常であれば無理難題だが、しかし奇しくも自由時間だけは普段より潤沢に取れるのが、今日から始まる『特別考査期間』、いわゆるテスト期間だった。

 後期中間考査を一週間後に控えると、学校は生徒の自主性の長育を目的にカリキュラムを特別編成し、『特別考査期間』と称して午後の授業を全て自主学習に充てるのがこの学校の慣習だった。自己意識の高い生徒にも放蕩な生徒にも高く評価されるシステムだ。

 今日から休みになる部活動も多く、その後始末に追われていたのか、下校時刻も少し過ぎているにも拘らず、校内に残る生徒の数はまだ多い。そんな彼らの顔はこれからの一週間を考えているのか、不安顔もあれば晴れやかな顔もあり十人十色だ。

 その中でも珍しい顔色――憤懣やるかたない様子の仁をなだめすかしながら、助とエリを含めた三人は賑やかな下足場で靴を履き替え、校舎を後にする。

 仁のこれからの一週間は練習三昧だろう。これならしばらくは巽にかまけて無謀を働くこともないなと助は安堵していた。しかし本来は勉学に充てるべき時間をこの調子では全て練習に費やしそうな仁の様子に、助は複雑なものを隠せない。仁の兄もこの期間を見越して無茶を押し付けたのではという考えが過ぎるが、それは邪推だということにしておこう。

 しかし現実的な話、この一週間は蘭堂・華花と勉強会の続きを催す約束がある。それは仁の勉強を見る予定の場でもあったため、彼が来ないとなると助は非常に肩身の狭い思いをしそうだ。エリと華花に挟まれた自分の姿を考えてどうにも落ち着かない気持ちになるのは男子として健全かどうかを考えながら歩いていると、ちょうど校門の所に人集りができているのに気が付いた。

「なんだろうね」

 誰にともなく尋ねながら、なんとなく仁を見た助が眉根を寄せる。仁の顔がいつになく厳しいのだ。

 人一倍視力と勘の良い仁には、その人集りの中心で頭を下げる恰好で固まっている男が誰なのかを見て取っていた。

 他でもない、斉藤・巽その人だった。

「本ッ当に! 済まなかった!」

 ほとんど絶叫のような声で謝罪して、巽は頭が地につくのではないかと思わせる勢いで身体を折った。

 いつも以上に大勢の生徒が通り過ぎる校門の前で、綺麗な逆L字に頭を下げる男がいれば嫌でも目を引く。物見高い暇人の中にはこれから何が始まるのかと興味津々で観覧する構えを取っている者もいる。

「と、とりあえず場所を移そう!」

 ただでさえ最近人目を引く出来事が多い事に辟易していた助は気が気でない。珍しく率先して動き、関係者である仁とおまけのエリを含む四人を促して逃げるように校門を後にした。

「まず、事情を聴いてやる」

 とりあえず近所の公園に避難し、人目を憚って端の方に設置されたベンチで顔を突き合わせる。

 恐らく仏頂面で真先に切り出したのは、当事者の一人である仁だった。『恐らく』というのも、半分をガーゼで覆った顔は表情が読み取りにくいのだ。加えて昨日の今日でまだ痛みも引いていないのか、喋る時に大きく顔を歪めるのも表情がわかりづらい一因だろう。

「すまない、実は――」

 巽の話を要約すると、これはあの皇の思し召しだという。

 ここだけの話と断りが入るが、巽はあの崇神会で皇から詠唱技能を学んでいるという。巽の抱える事情を聴いた皇は二つ返事で巽の指示を許可した。そんな恩ある人物から『あの男の志や天晴、其方もつまらぬ意地を張るでない』と諫言された上、謝りに行けと送り出された日には不承不承でも飲み込むしかない。

「で、おまえ自身はどうなんだよ」

「俺は……」

 巽は決まりが悪い視線を助に送った。どうやら助の予想は的中していたらしい。巽の視線の思うところを察した助は、不器用な二人に苦笑を浮かべた。

 それを見た巽の表情も幾分か柔らかくなったように見えた。

「……俺も出来れば昔みたいにお前達とつるめればと思ってる」

 それが巽の本心なのだとしても、仁は難しい顔を崩さなかった。それを取り為すように陽気な声を挟んだのは、様子を窺うようにベンチの後ろに立つエリだった。

「もういいじゃん、みんな仲良くするーってことでさー」

 彼女からしたら男の意地などその程度の言葉で拭き散らかせるものなのだろう。

「なんならクオリアも見せる!」

 巽が身を乗り出したその機先を、仁の振りかざした掌が遮った。その言葉を待っていたと言わんばかりのタイミングだ。

「それには及ばねえよ」

「じゃあ……」

「ま、えりちんもああ言ってるしな。お互い思うところはあるだろうが、ここはひとつ水に流そうや」

 仁が突き出した手で拳を握る。巽も心得たもので、その拳に自分のそれをぶつけて、それでこの件は不問ということに落ち着いた。

 助としても懸念が一つ収まるところに収まって、胸を撫で下ろす。

「で、たすくんこのイケメン誰よ?」

 話に決着がついたと見るや、エリが早速ちょっかいをかけてきた。

「えっと、小学校からの友達で――って」

 ベンチに座って説明を試みた助の頭を、エリが背後から抱きすくめるように抱え込む。助とて健全な男子として後頭部の沈み込むような感触を無下にするのは忍びないが、喜んでも嫌がってもエリの思う壺なのだと最近ようやく理解してきた。反応しないことが肝要なのだ。少し重いくらい我慢しなければならない。

「なぁ、助、ずっと気になっていたんだがその人――」

「あー、そうだよなぁ、気になるよなぁ」

 エリが銀糸の髪を流して、無邪気な顔で戦慄く男二人を見る。どうということのない仕草一つ取っても、エリスティーネという少女の魅力は際立っている。

 意味深に勿体ぶって巽の首に腕を回した仁は、潜めたところで意味のない距離にも拘らず助とエリを憚るように巽の耳に声を寄せた。

「まぁ、なんだ……彼女はあきらめろ」

「なんてことだ……俺がいない間に助の奴……」

 巽が言葉の端々で歯噛みして助を睨めつける。人間にそんな機能が標準搭載されていれば、血の涙を流しかねない形相だ。

「しかもあいつ、えりちんじゃ飽きたらず、更に小動物系美少女まで囲ってんだぜ……」

「奴は……どこまで俺達の怨嗟を広げるんだ……」

 どうやら今の自分はそういう役処らしい。悟りを開いた助の頭がどこか遠くからそんなことを囁く。もしかしたらエリに頭を揺さぶられ過ぎて変な幻聴が聞こえているだけかもしれないが。

 いよいよ男二人の寸劇が佳境に入る。漢泣きに肩を叩きあって至言を呈する場面だ。

「そうだ、泣け! 泣いた分だけ男はでかくなるんだ!」

「俺、もっとでかい男になるよ! あの胸を借りれるくらい!」

「ああ、頑張ろうな!」

「もう少し健全な努力をしようよ……」

 うっかり突っ込んでしまったがもう遅い。掛かった獲物を取り逃がすほど、二人は間抜けなハンターではなかった。

「その状況で平然としていられるお前がむしろ健全じゃないぞ」

「そうだぞ、タスク、オレと代われ」

 達観して自分の運命を悟っていても結局こうなるのだと気付いた助は、エリの拘束を振り払うように立ち上がった。

「ああもう、馬鹿やってないで帰ろう!」

「えー? おもしろかったのにー」

 歩き始めた助の後に、口を尖らせたエリが続く。

「お、うけたぞ兄弟」

「やったな兄弟」

 巽と仁は拳を突き合わせると、歩きながらじゃれ合う二人の後を追って歩き出す。

 このまま残りの問題も片付いてくれればと、絡みつくエリに足を取られながら助は果てしなく広がる秋の空を見上げずにはいられなかった。


  ※  ※  ※


 特別考査期間を利用して華花が施設を再び訪れた時、前回と同じように睦は庭弄りに精を出しているところだった。前回との違いといえば、着ているものが桃色のジャンパースカートであることと華花の気配にも振り返ることなく熱心に地面をつついていたことぐらいだ。

「お花?」

 不躾だとわかりつつも、華花は悪戯心に逆らえず、睦の背後から突然声をかけた。ところが華花の期待とは裏腹に、睦に驚いた様子はない。

「ヒヤシンス。秋植えで冬を越すの」

「へぇ……」

 その落ち着いた声音に、肩すかしを喰らった華花が気の抜けた返事をする。驚かすつもりが逆に驚かされた気分だ。だがそこに嫌な感触はない。

 まるで客の到来をあらかじめ知っていたかのような落ち着き振りに感心してると、睦は手元から視線を外さずに続ける。

「私の一番好きな花なの。お花もいろんな色があってとても綺麗なんだけど、なにより好きなのは春を代表するような爽やかな香りね。それに花言葉が――」

 そこまで興奮気味に言い募った睦が、急に口を噤む。

「――忘れちゃった」

 打って変わって冷え込んだ睦の声には躊躇いが感じ取れた。しかし、振り返った顔には声にあったような翳りはどこにも見当たらない。華花は勘違いだったと思い込み、軽く頭を下げて会釈を見せた。

「いらっしゃい、来てくれてうれしいわ」

 ふわりと嫣然たる面持ちを浮かべた睦は、とても十七歳の少女とは思えない洒脱な佇まいを纏った。

 初めて会った時から華花は睦にどこか超然的なものを感じていた。まるでこちらの気持ちを見透かすような、包み込むような、そんな温かな安心感が彼女にはあった。昔読んだ童話の魔女が、確かこんなふうに誰の悩みでも解決してしまう母親のような存在だったと思い出す。その秘密めいた不思議を一端でもいいから紐解きたくて、華花は興味本位で訊ねていた。

「いきなりなのに驚かないんだね」

「うん、誰か来たら知らされるから」

 考えてもみればそうだろう。ここに来るときに個別に割り振られた許可証を使うのだから、ここまで誰が訪れてきたのか知らされていても不思議はない。蓋を開けてみればなんてことはない真実に、無性におかしくなった。

 ころころと密やかに笑う華花に、睦も今度は年相応の笑みを浮かべた。

「やっぱり、華花ちゃんは笑ってる時が一番かわいいね」

「え……わたし、笑ってた……?」

「うん、お花みたいに笑ってた」

 指摘されるまで本当に自分が笑っていたことに気付いていなかったようで、華花は褒められたにも関わらず何故か悄然と肩を落とす。

「中、入ろっか」

「うん」

 睦に促されるまま、コテージの玄関をくぐる。前回来た時は緊張していたせいもあって気付かなかったが、コテージの中は独特の香りで満ちていた。乾いた香草の香りなのだろうと、部屋に吊るされたポプリを眺めるともなしに眺めながら思う。

 その香りは睦が淹れてくれたお茶の香気も邪魔せず、それでいて飽きがこない心地良さをもたらしてくれた。

「それで、今日はどんな用事?」

 前回と同じソファーに対面で身を沈めて、睦は華花を窺った。

「気になることがあって、確かめに来た」

「気になること?」

 お茶を啜っていた睦が小首を傾げる。しかし華花はそこまで言って何を躊躇うものか、手にしたティカップに視線を落としたまま黙して語らない。

「どんなこと?」

 どうしても言い辛いのか、もう一押し訊ねてくれるのを待っているのか……睦は後者だと判断して更に踏み込んだ。

「笑わない……?」

 どうやら正解だったみたいだと、睦は覚えずにほころぶ。

「笑わないよ」

 静かに、だが重すぎず軽すぎない声に十分な信用を感じて、華花は戸惑いながらも口を開く。

「夢を見るの」

「うん」

 どんな夢? とは聞かない。睦は華花が語るに任せてゆったりと構えた。再び短くない沈黙が訪れ、睦のお茶を啜る音だけがゆったりとした時間の中に流れていく。

 やがて、その静けさに飽いたかのように、華花の口が自然と開く。

「その……睦さんの夢」

「私の? それは光栄ね」

 莞爾と喜ぶ睦に、華花は慌てて首を振る。

「違うの、えっと……違わないんだけど」

「そうなの?」

「うん、その……睦さんと丹下くんの、多分、思い出を夢に見るの」

 華花も変なことを言っている自覚は十分にある。睦には笑わないと約束してもらったが、変な顔をされたり困った顔をされるくらいは覚悟の上だった。しかし、睦の柔らかい面差しにそういったものがかかることはなかった。

「助の……ねえ、どんな思い出だった?」

 子供に今日の出来事を尋ねるような優しい声音に、華花は抱えていた不安も最後の一欠けらまで溶かしつくされた。誰かに話したいのを我慢していたのか、華花の小さな口からすらすらと溢れるように言葉が出てくる。

「この間見たのは、子供の頃の夢。まだ、ちっちゃい……小学校の一年生くらいだったかな……それで、二人で睦さんが欲しがったぬいぐるみを買いに行くの。近くのおもちゃ屋さんにはなくて、隣町のおもちゃ屋さんまで歩くんだけど、途中でわたし――じゃなくて、睦さんがこわがって帰りたがるのね、それで――」

 夢だったというのに助の温もりが生々しく思い起こされて、華花は顔が上気するのを感じた。

「それで、助が私をなだめておもちゃ屋さんまで負ぶってくれて、でしょ?」

 恥ずかしさで言葉に詰まった華花の後を、睦が継ぐ。それはつまり、華花の予測が当たっていた証左でもあった。丹下・助にも確認を取ったは取ったが、あれだけではどうにも信じ難かったのだ。

「やっぱり、本当にあった事なんだ」

「うん、本当にあった事」

 その時の事を彼女自身も思い出しているのだろう。ほっこりと柔らかな笑みを口元に浮かべていた。そうしてお茶の水面に記憶の世界を見ているのか、こげ茶の瞳が映す世界は遠い。

 大事な思い出を慈しむようにティカップを揺らす彼女の姿に、そんな大切なものを勝手に盗み見てしまったのだという罪悪感が湧き起り、華花は胸を締め付けられるような息苦しさを覚える。

「ごめんなさい」

「え? えぇ?」

 思わず吐き出してしまった謝罪に、睦は面白いくらいしどろもどろに華花を見た。

「どうして謝るの?」

「……勝手に思い出を見ちゃって」

 本当に申し訳なさそうに項垂れる華花の横に、おもむろに立ち上がった睦がするりと腰掛ける。二人分の体重を受けて、ソファが深く沈みこんだ。

「見たかったの?」

 首を振る。華花だってわかっている、原因がなんなのかさっぱりわからないことを。だからこそここにいるのだ。

「じゃあ、見たくなかった?」

 これも首を振る。首を振って、華花ははっと顔を上げた。それではまるで自分があの思い出を見て喜んでいるようではないか。弁明の言葉を頭の中で並び立てていると、頭の上にそっと押しあてられるものがあった。睦の手の平だ。

「私も、久しぶりにそのことを思い出せて嬉しかったよ」

 それならいいかと、華花は睦の微笑みで心のどこかが勝手に納得するのを感じた。なんだかやり込められた感じもするが、当事者が喜んでくれているのであれば自分一人が思い悩んでいるのも確かに馬鹿馬鹿しい。

 それにしても、と思う。

「睦さんはなんでもわかっちゃうんだね」

「喪失者だから、空っぽな分いろいろ見えるものがあるのかもね」

 内容に比して朗らかな睦の口調が、華花の口を弛めた。

「驚かないのも、喪失者だから?」

「……そうね……そうかも!」

 気丈だがどこか寂しそうな睦の声が、華花の記憶の中の兄と重なった。まだ喪失者になったばかりで希望を持っていた頃の兄の姿が、華花の中でくしゃくしゃと歪んで消える。

 何気なく口にした言葉がお互いの心に重く圧し掛かり、華花にほろ苦い後悔を味わわせる結果を招いた。いつもそうだ。少し考えればわかりそうなものを、迂闊に口にして相手も自分も不愉快にする。

 治らない悪癖に、慣れ親しんだ自己嫌悪が滲み出すが、今はそれが背中を押してくれている気がした。同じ境遇である睦には聞いて知っておいて欲しかった。この感情は今、兄の事を告解するために必要なスイッチのようなものだ。

「睦さんはすごいよ、そういうことを自分で口に出来るんだもん」

「そうね、クオリア喪失症の人は自閉症になるか自殺するものだって、職員の人にも言われたわ」

 それを知ってなお気丈でいられる彼女を、華花は心の底から尊敬する。

「わたしのお兄ちゃんは、自分の殻に閉じこもっちゃった」

 ある日、兄はベッドの上から動かなくなった。華花がいた地域の施設はどちらかというと病室といった風情で、殺風景なのが悪かったのではないかと、このコテージを見ていると考えてしまう。その考えは、続く睦の言葉で更に加速する。

「そうなんだ……でも、そういう心の病になるってことは、私達には間違いなく心があるってことだと思うの。助が、そう気付かせてくれた」

「たす――丹下くん?」

 思わず名前で呼びそうになる。まだ、あの夢に引っ張られているのだろうか。

「うん、助がね、いっぱいいっぱい励ましてくれた。大丈夫、きっといつかここから出れるよって。助に励まされると、私頑張る気力が湧いてきたの。だから、元気になるのも落ち込むのも心があるからなんだって、気付けた」

 あの時自分は何をしていただろう? 兄を取り戻すと心に決めて、詠唱技能の技術をあちこちから盗み見て、がむしゃらにそれらを吸収して……兄の病室にも足繁く通っていたが、今思い返せばそれは義務的に参列する行事だったのではないか。そこに、自分の気持ちはあったのかと自問する。

「でもね」

 やけにはっきりと耳に届いたその言葉が、思考に埋没しかけていた華花の意識を浮上させた。聞き返す。

「でも……?」

「……助、クオリアが戻るとは言ってくれないんだよね」

 華花は言葉に詰まった。元々抱いていた助への怒りに、新しい導火線が追加されたようだった。どこまでもあの男は不甲斐ないと、苛立ちばかり募る。

「助は責任感が強いから……無責任なことが言えないだけなんだと思うけど……そのせいできっと、私の事が重荷になってる。私がここにいるのは自分のせいだって思って、ずっとずっと背負ってくつもりなんだと思う」

 それは想像したこともない助の心中だった。彼の考え方をわかっているつもりではあったが、華花は初めて睦も、そして助も被害者である事実が腑に落ちた気がした。

「……悲しいね」

 どうにか捻りだした言葉はありきたりだったが、睦はそれでも少しは気休めに感じたのか僅かに微笑んだ。

「うん、悲しい。助のことを思うと私だって消えてなくなりたくなる時があるよ……でもね、私が勝手に諦めたら助はきっともう元の助に戻れなくなると思う……それは、もっといや」

 悲壮ともいえる決意を込めた瞳が、華花を真直ぐに射抜いた。まるで華花の中に渦巻くものを見透かすように。

「だから、私はここでこうして生き続けるの。助だって助なりに頑張っているんだもの、私は、クオリアなんかなくったって生きていけるんだってここで証明してやるの」

 睦の声に捨て鉢な響きはない。辛いことも嬉しいことも糧にして、自分の意思でここにいることを決めた者の言葉に、華花は自分が上滑りでちっぽけな存在のような気がして、我知らずその視線を避けていた。

「すごいな……睦さんは……」

「すごくなんかないよ、他にどうしようもないだけだもの」

 だから、すごいのだ。屈託なく直向きに生きるということがどれだけ難しいか。

「こんなの、恨んでるわたしの方が悪者みたい」

「恨んでる?」

「なんでもないよ。わたし、いくね」

 華花は言うが早いか立ち上がると、逃げるようにコテージの玄関に向かう。

「また来てね」

 睦はソファから立ち上がりはしたものの、その場で小さく手を振るだけで見送ろうとはしなかった。

「うん、また来る」

「もしまた夢を見たら、その時教えてね」

「うん、約束」

 あのままついてこられていたら、自分はきっと一目散に彼女から逃げ出していただろう。そうしたら、こんな風に次の約束はできなかった。

 本当にすごい人だと、華花は心の中で睦に頭を下げた。


  ※  ※  ※


 そしてその晩、また夢を見た。

 今日も自分は泣いていた。今回は路上ではなく見覚えのない教室の中だ。

 いや、よくよく思い出せばわかっている。どうして泣いているのか、足元に散った石屑がなんなのか……。

「謝れよ」

 しんと静まった教室の中で、助の声が重く響く。

「なんで」

「どう見てもさっきのはお前達が悪い」

 頭の上を通り過ぎるやり取りはとても友好的とはいえない。その険が自分の心をより一層の哀しみで彩る。

 図工の時間に『親の顔』という題材で作った彫像は、彼等が投げたボールが当たって机から転げ落ち、見る影もなく砕け散ってしまった。お母さんにこれを見せて褒めてもらうことがもうできないとわかった途端、立っていることも出来ない悲しみに襲われた。事故だということはわかっている。それでも涙は止めどなく溢れて止まない。

 教室で悪ふざけをしていた男子達は泣き崩れたわたしを見るや、逃げ出そうとした。そこに立ちはだかって引き留めたのが助だった。

「知らねえよ、そんなとこにおいといたのが悪いし」

「謝れ」

「おまえカッコ良すぎね? 女の子守ってモテモテですかー?」

「好きに言えよ。ムツに謝れ」

「はいはいはいごめんなさいー」

 男子達の声にはあからさまな嘲りと苛立ちが混じっている。このままでは彼等のやっかみが助の身に振りかかるかもしれない。

 もういい、大丈夫だから。そう言うべきなのに、嗚咽が邪魔をして口を利くことも出来ない。

「クオリアもみせろ」

 その一言が決定的に男子達の癇に障った。

「……キモ……謝れ謝れってそこまでさせるかふつー……行こうぜ」

「謝ってから行け」

 学習机の足が蹴とばされる音で反射的に顔を上げれば、助が男子達のリーダー格の腕を取って引き留めているところだった。

「触んなよ!」

 腕を掴まれた男子が、半狂乱で腕を振り回したその時、偶然にもその腕が助の横顔を強かに打ち付けた。

 教室の端の方から悲鳴が上がる。自分も何か声を上げた気がしたが、正面に戻した助の顔に全ての言葉を失った。

 打ち据えられた顔半分がリンゴのように赤く腫れあがり、特に腫れの中心部は腕に着けていたアミュレットが当たったのであろう、ぱっくりと裂けて塗りつけたように血が流れていた。

 それでも助の眼光はきっぱりとした意思を失わず、弛まず、自分を殴りつけた男子を見据える。

「睦に謝れ」

 子供心にもその鬼気は尋常ならざるものだと察したのだろう、もう助の事をどうこう言う男子は一人もいなかった。皆、一様に息を飲んで俯いている。誰かが呼び出してくれたのであろう担任が、血相を変えて教室に飛び込んで来たのはその時だった。

 目が覚めて、華花はまず呆気に取られてしまった。

「……なにこれ」

 そんな言葉が口を衝く。とんでもない小学生がいたものだ。あまりにも常識はずれで、これが本当に睦の思い出なのかただの自分の夢なのか判然としなくなる。しかし、本当にあった事なのだとしたら……。

(丹下くんって……)

 どんな事にもどこか距離を置く消極的な今の彼からは想像もつかない、自ら不正に体当たりを仕掛けるような正義漢。あれが睦の言った、元の丹下・助なのだとしたら……。

 夢の中の丹下・助を思い出す。どんなに怒りが溢れても自制し、相手には手を出さない。殴られても退かない。とてもじゃないが小学生のものとは思えない胆力が逆に滑稽に思えて、寝起きの華花の顔が独りでに笑みを形作る。

「……かっこよすぎだよ」


  ※  ※  ※


 無論、華花は特別考査期間の間、遊んでばかりいたわけではない。今回の考査如何では留年も視野に入れなければいけなくなるのだから、当然ながらその貴重な時間を無駄にするつもりはなかった。

 自ら助とエリに働きかけて、時間が合えば勉強を手伝って貰った。この頃になると華花の学力はどうして今まであんなに不振だったのか不思議なくらい向上し、助とエリとしても考査勉強を兼ねることが出来たので喜んで華花に付き合った。

 華花の赤点という心配はなくなったわけだが、助にはまだ仁という気掛かりがあった。せめてこの勉強会に参加してくれていればまだ安心できるのだが、やはり彼は今回の考査を捨てる気でいるらしい。仁はよりにもよって考査初日前夜に行われる、彼の兄が主催するバンドのライブに向けて、ベース練習に明け暮れていた。

 学校が終わるや否や教室を飛び出し、バンドの名義で借りたスタジオに篭って夜遅くまで弦を搔き鳴らす。その傍らにはいつも巽の姿があった。

 巽は今まで開けていた溝を埋めるかのように、仁と時間を共有していた。たまに助とエリが出張勉強会に出向くと、必ず巽もそこにいて仁の情けない頭をからかった。

 そんな練習の甲斐あってか、助とエリも招待されたライブは、ささやかな仁のミスによるアクシデントや、バンド仲間の心憎い演出で巽が飛び入り参加させられるなどのイベントもアクセントにしつつ大成功を収めた。意外にもあまりこういった音楽の楽しみ方に馴染みがないというエリも、その熱狂に大喜びだった。

 そもそも仁がこんな要らぬ苦労を強いられたのは、仁の兄がエリの話を聞きつけて彼女を一目見たいと騒ぎ始めたのが切っ掛けだった。学生でも出入りできるライブハウスの空きがたまたまこのタイミングしかなく、仁になんの相談もなく変更の運びとなったのだ。

そんな理由があるからか、エリは仁のバンド仲間に好奇の目で温かく迎え入れられ、そこからエリの持ち味が発揮されて意気投合するのに時間はかからなかった。何故か助まで巻き込まれて打ち上げに参加し、場に酔ったエリの悪乗りで助が槍玉に挙げられた事以外は、助の中でも概ね良い思い出になった。エリ、仁、巽に関しては言わずもがなだ。

 しかしそんな夢見心地の時間も、助が帰宅するまでの儚いものだった。

「アミュを盗まれた⁉」

 次の日、仁とエリの二人は助の顔を見るなり、その様子の変化をすぐに読み取った。なかなか口を割らない助を搔き口説き、ようやく事情を聴きだしたのは考査初日の全日程を終えた放課後だった。

「アミュって、たすくんの?」

「ううん、睦の……」

「そっか……」

 あれがどんなものか知っている仁とエリは、助の心中を察して言葉を失った。

 あのアミュレットは睦がクオリアを失う以前に使っていたアミュレットだ。兎のキャラクターを模した低年齢層向けの幼稚なデザインのアミュレットを、助は形見よろしくほぼ肌身離さず持ち歩いていた。

「そんな大事なもの、いつ盗まれたんだよ? ってか、なんで盗まれたってわかったんだ?」

 いち早くその衝撃から立ち直った仁が説明を求めると、助は少しの逡巡を挟んでからアウディスを起動すると、そこに一通のメッセージを表示した。

 そこには睦のアミュレットを預かったという旨の文章と助の『出頭』が命じられており、最後にはご丁寧に『崇神会 斉藤・巽』の名前が記入されていた。送信元も間違いなく巽のアドレスだ。

「多分、昨日のライブの時だと思う……僕も場に呑まれて大分興奮してたから、その隙に……」

「……あんの野郎」

 仁の顔から表情が消え、その大柄な身体が一回り膨らんだように見えた。仁の溢れんばかりの怒りに、助は最悪の事態を連想する。こうなることが嫌で黙っていたのだ。

「もしかしたら、脅されてやっただけかもしれない」

 少しでも冷静になってほしいと発した擁護は、しかし仁の怒りを消すには焼け石に水だった。

「どっちにしろあいつらだろ……崇神会」

 仁の今にも噛みつきかねない口調とその名で、嫌な緊張が助の内側に漲る。

「ねー、これ警察に届けた方がよくない?」

 仁を思い留めさせなければいけないと言葉を探す助の背後から肩越しに、エリはそのメッセージを指さした。

「ダメだ」

 相手がエリだからか、仁は幾分か声の力を落として却下する。

「なんでよ?」

「警察がしゃしゃり出たら巽のやつまで捕まっちまう。それじゃダメなんだよ。それで目が覚めるようなら……あいつがあんなバカなことするわけねぇんだ」

 助もそれが気になって警察には相談できなかった。

 崇神会は自分達がエンチャンターである確かな証拠は漏らさず、大きな傷害などは起こさずに警察の目こぼしをもらって跋扈していた。

 だが警察とて無能ではない。彼等にエンチャンターの仲間がいる事実はとうの昔に掴んでいるであろうし、機会があれば彼らを一気に検挙する準備くらい整えているだろう。ただ、今は大きな害はないからと後回しにされているだけなのだ。そこに実害を訴えれば、どう転ぶかわかったものではない。下手を打てば崇神会検挙を口実に近隣のエンチャンター容疑者を一斉にあぶりだすかもしれない。そこに蘭堂・華花の名前が加わる可能性は極めて高い。

「裏切られたのに、どうしてそこまでして庇うん?」

 遠慮のないエリの言葉を、仁は真正面から受け止める。

「裏切られてでもだ」

 まったく揺るがない仁の決意に、エリは大きく嘆息した。

「男ってめんどくさいねー」

 呆れた様子でエリが言えば、仁もそれを肯定する。

「まったくだ」

 このままでは、仁は間違いなく再び崇神会の根城に赴くだろう。巽に会いに行くだけであの怪我だ。今回はどうなるものかわかったものではない。そもそもがこれは自分の問題なのだ、彼が首を突っ込む必要はない。

「うし、助、今晩にでも行くぞ!」

「……行かないよ」

「は?」

 既に教室を出ようとしていた仁が、理解できないものを見る目で助を振り返った。

「おばさんだってちゃんと話せばわかってくれるだろうし……仕方ないよ、盗まれちゃったものは……巽が警察に捕まるのも嫌だし……僕が諦めれば……崇神会だって放っておけば僕の事なんか忘れるだろうし……」

 仁が机を蹴散らしながら助に詰め寄り、その胸倉を掴み上げた。

「あぁ? なんだって?」

 本当に物分かりの悪い友人だ、と助の中に微かな怒りが湧き起る。

 たとえそれが仁からなのか崇神会からなのかわからない恐怖の裏返しで生まれた怒りだとしても、その衝動に縋らなければ、このままずるずると最悪の状況の中に飛び込んでいく親友を止める意地を保てない。

「だって、仕方ないだろう! 相手は大人だし、エンチャンターなんだよ? 崇神会だよ? 仁こそどうしていつもそうやって無茶ばかりするんだよ!」

 それがいつ身を破滅させるかもしれないと、どうして想像できないのだろうか。睦という最悪の手本を知っていて、どうしてそんなことを繰り返せるのだろうか。正面から見据えた仁の瞳にその答えは存在しない。ただ、助を見下し軽蔑するような光だけが静かに灯っていた。

「わかった」

 仁が踵を返す。

「俺も熱くなりすぎた。少し頭冷やすわ」

 それがしばらくの決別だと、解らない助ではない。

 燃え盛る炎から命からがら脱したように、助は呆然とその場に立ち尽くした。仁はそんな助を一顧だにせず、教室を立ち去った。

「あー……ほら、ジンジンもショックだったんだよ、その……」

 エリが取り繕うように明るい声を掛けるが、それも助に身動ぎ一つすら与えない。

「どうしたの?」

 そこに華花が現れた。考査の問題用紙を片手にしているところを見ると、自己採点の相談だろう。だが、どう見ても今の助はそんな雰囲気ではない。華花が怪訝そうに二人の様子を窺う。

「えっと、ちょい待って、詳しい話は後でするから」

 エリにそう言われたのでは、華花も傍観せざるを得ない。

「えーと……ほら、たすくん、泣いてもいいんだよ! なんだったらボクの胸を貸すよ! ボクの胸はたすくん専用だ!」

 助が気の抜けた瞳をエリに向けた。いつもそうだ……田中・エリスティーネ・アイヒホルンはまるで悩みなんかないように全てを上手く受け流して自分の追い風にする。そんな器用なエリが、助は正直苦手だった。

 そもそも彼女がなんでここにいるのかわからない。転校してきた初日からやたら馴れ馴れしく接してきて、気が付いたら自分のそばにしっかり居場所を作って居座っている。はっきりと拒絶する理由もなく、彼女の容姿と人当たりの良さが心地良くて深く考えなかったが、彼女が本当は何を考えているのか、助にはさっぱり理解できていない。

「……じゃあ、クオリア見せてよ」

「……へ?」

 気が付けば、助の口を衝いてそんな言葉が出てきた。

「本当に僕の事を想っているなら、クオリアを見せて」

「えっと……」

 エリは助の要求に当惑した様子で視線を彷徨わせた。虚空に逃げ場を探すようなその姿が全てを物語っているような気がして、助はいよいよ嫌気がさして歩き出していた。

「あ、たすくん……!」

「ついてこないで」

 エリが伸ばした手は、はっきりとした拒絶の言葉に弾かれた。実際の痛みがあるわけでもないその手をさするエリに、華花がそっと近づく。助の姿は、廊下の向こうに消えていた。

「……嫌われちゃったかな」

 華花はこんなに重苦しく、弱々しいエリの声を初めて耳にした。そして、俯くエリの面持ちを見て驚いた。

「たすくんに……嫌われちゃった……」

 いつも青く輝いている瞳は涙曇りで淀み、震える唇の隙間からは嗚咽を食いしばる白い歯が覗いている。白い頬は押し寄せる感情で嬰児のように赤く染まっていた。

 華花は丹下・助に怒りを覚えた。それは今まで積み重ねてきた恨み辛みとは違う、ただ単純に友達を辛い目に遭わせた相手に対する怒りだ。

 今にも泣きだしそうなエリの背中をそっと撫でると、華花は後ろ髪を引かれつつその場を後にした。どんな手段を講じてでも、丹下・助を見つけ出すと誓って。


  ※  ※  ※


 以前、助に教えてもらった登山道から車道に出て、更に山を登った先に広い展望デッキが現れた。市内の東側を見下ろす眺望は、再開発で東西の人口分布が大きく分けられた現実に片目を瞑っているようだった。目の前に広がる賑やかで華々しくて壮大な街並みは、背後の山を挟んだ灰色の住宅街の表でしかない。デッキの手摺りに凭れ掛かる助の姿は、そんな虚飾の街の眺めに埋没していた。

 風景の一部のように固まっていた彼だが、背後から近づく華花の存在に気付くと首だけ回して自嘲気味に笑って見せた。

「よくここがわかったね」

「防犯カメラを盗み見たりして」

 助を追い込むように新市街の眺望に正面から近づき、止まる。手を伸ばしても届かない、そんな距離。

「そんなことも出来るんだ」

 助も自分から華花に近づこうとはしなかった。

「エリさん、泣きそうだった」

「そっか、後で謝らなきゃな」

 悲しそうに俯いた助の横顔に後悔の念を感じ、華花はそれ以上の詰責は飲み込んだ。代わりに、エリにはとても聞けなかった事の顛末を尋ねる。

「なにがあったの?」

「……アミュを盗まれたんだ」

 それから仁と口論になり、気が立っていたせいでエリに八つ当たりしたというのが、助の説明から華花の理解した範囲だった。

「丹下くんが悪いよ」

「うん、わかってるよ」

 仁の事は別として少なくともエリの事はもう心配する必要はなさそうだった。言いたいことは山程あるが、それは助とエリの問題だ。そこまで首を突っ込むのは気が引けた。それより気に掛かるのは今回の発端になった事件の方だ。

「アミュ、取り返さないの?」

 華花の質問に、助はずっと浮かべている自嘲の笑みを深くした。

「怖いんだ」

「怖い?」

「うん……メッセには僕に来いって書いてあったけど、仁は間違いなく僕についてくる。そんな危険、冒したくないし冒してほしくもないんだ……確かに一番怖いのは崇神会に立ち向かうことだけど……目の前で誰かを失う恐怖をまた味わうのも、怖いんだよ」

 その感情は華花にも解る。華花自身も兄がクオリアを失った時は大きな恐怖と激しい喪失感に見舞われた。だが同時にそうやって怯えて逃げ回っていては何も変わらない事も華花は知っている。助は未だにその闇の中から抜け出せずにいるのか。

「丹下くんは弱虫だよ」

「……うん、そうだね」

 その全て呑み込んで悟ったような訳知り顔が鼻について、華花は自分の中で何かが上昇するのを感じた。

「睦さんだってまだ取り返せる、どうして立ち向かおうとしないの?」

「取り返せる?」

「方舟は超常現象でも都市伝説でもない、ただのプログラムだよ」

 それは五百年前に人類が組み上げた不老長寿のプロジェクトの根幹をなすプログラム。プロジェクトそのものは技術的な壁から頓挫したが、そのプログラムだけがU2N上を漂流する残滓となって今も人のクオリアを吸い上げているのだという。それが華花の知る方舟の真実だ。

「なんで君はそんなこと――」

「そんなことはどうでもいいの。それを知ってもあなたは動かないの?」

 それが人の手で作られたものであれば、どうにかする手段などいくらでもある。少なくとも華花はそう信じている。そしてその為にこの四年間を生きてきた。

「……蘭堂さんはすごいね」

 その単純な理屈が、どうしてこの少年は理解できないのだろうか。

「でもそれは、君みたいに力がある人の言い分だよ」

 確かに華花はエンチャンターとして詠唱技能を持っている。

「違う。詠唱技能はわたしの覚悟の表れだよ。丹下くんだってきっとなにかできるはずだよ」

「無理だよ」

 言下に否定された。

「僕には無理だよ……怖いんだよ……いつまたあの方舟が僕の目の前に現れて、今度は僕のクオリアが無くなったらと考えると……怖くて怖くて、いっそいなくなってしまいたくなる……」

 華花は悟った。丹下・助は四年という歳月の中で骨の髄まで方舟の恐怖に浸ってしまった。

 だがそれでも、だからこそ睦や仁の思いは、なにより華花自身の覚悟が納得できない。まるで自分のこれまでを否定されているような気がして、納得したくなかった。

「意気地なし」

「うん、そうだよ……僕はこのまま一生方舟から、睦から逃げて生きるんだ」

 アミュレットを失くしたとあっては、合わせる顔がないという意味だろうが――その一言は華花の中で辛うじて喉の奥にとどめていた何かを頭の天辺まで昇りつめさせた。

「あなたがそんなだから……みんな苦しんでる!」

 それは兄が喪失者となった時からずっと、ずっと華花が溜め込んでいた怨讐そのものだった。

「……僕だって十分苦しんでるよ」

 パチンと、冬空の下に乾いた音が響いた。この寒空の下でも展望デッキから望遠を楽しむ人影はちらほらある。その視線が一斉に二人に集中するが、華花は一切意に介さない。

 助の頬を思い切り叩いた手が、寒風に晒されてゆっくりと痛みに似た熱を帯びる。それを抱えるように抱き寄せて、華花は助を睨めつけた。

「そうやって逃げてばかりだから苦しいんでしょ……」

 助の面差しに、夢の中で見たあの精悍な少年の面影は確かにある。だがあの少年は決して怯まなかった。今の助のように少女に叩かれてどうしようもなく立ち尽くすような無様は見せないはずだった。

「あなたは、本当にあの助くんなの……?」

 華花の言葉の真意を、助は理解できなかった。徐々に熱を持ち始めた頬の痛みが、助の瞳に華花の去りゆく背中を刻みつけるように疼いた。


  ※  ※  ※


 あれだけ賑やかだった助の周辺は、あれからすっかり様変わりした。

 仁もエリも呆れ果ててか気を遣ってか助に近寄らなくなり、華花も遠巻きに助の覇気のない横顔を眺めるに留めていた。事情を知らない他のクラスメイトも、三人の緊張を敏感に感じ取って、いらぬ藪をつつかぬよう助達に過度の接触をしなくなった。

 エリの話では崇神会の決めた期日は考査の終了直後の夜だった。あれから二日が経ち、行動を起こすのであればもう猶予はない。

 華花は悩んでいた。あの時に助が言った通り、華花の力――詠唱技能があれば間違いなく崇神会を相手に真っ向から立ち向かえる。

 だが、と華花はここで反問する。華花は助を助けたくない。正しくは助けてはいけなかった。それは義務や責任などではなく、単純な感情の問題だ。だからこそ自分の中で適当な理由をつけてやり込めることもできないし、乱暴に飲み下すこともできない。

(わたしは丹下くんを嫌いでなければならない……)

 そんな決意とは裏腹に、華花の迷う瞳は気が付くと助の憐れな横顔を追っていた。

 一体自分は何がしたいのか悶々と三日目を過ごし、いよいよ考査最終日が終わりを告げると同時に、華花は自分ではどうしようもない気持ちに思い余ってあの場所に向かった。

「悩み多き年頃ね」

 自分もさほど変わらない年齢であるはずなのに、睦が言うと妙にしっくりと嵌るものがあって、華花は妙な安心感に少し気が楽になるのを感じた。

 睦は華花をデッキテラスのテーブルに案内すると、自分はその対面に腰掛けた。もうすぐ冬が到来するとは思えないこの陽気を楽しまないのは損だという睦の気遣いだった。

 睦は何も訊かない。華花が自ら口を開くのを待って、ゆったりと日光浴を楽しむ心積もりのようだ。その鷹揚さが華花の気持ちを落ち着ける。この陽だまりの温もりと相まって、絡まり捩れた思考の糸もゆるゆると解けていく。

「……丹下くんがね、大切なものを盗られちゃって困ってる」

 睦のアミュレットの事を出すわけにはいかず、華花は言葉選びに苦心しながらゆっくりと説明を組み上げていく。

「うん、それで?」

「……わたしなら、丹下くんの力になれる……んだけど……」

 その先を言うべきか、華花はここまでの道中ずっと迷っていた。だがここまで来ながら「やっぱりいい」と帰るのはあまりにも間の抜けた話だ。だからこそ、覚悟を決めるためにここまでしているという打算も、往生際悪く開かない口を開けるのに味方した。

「わたし、丹下くんを助けちゃいけないの」

 恐る恐る睦の顔を窺うが、睦はいつもの雲を掴むような笑みを浮かべたままでゆっくりと口を開いた。

「どうして?」

 声には責める響きも詰る意図も感じられない。本当に不思議だから訊いているといった声だ。

「わたしは丹下くんを恨んでる……彼だけじゃない、睦さんの事も……恨んでなきゃいけないの」

 華花の告白を訊いて、睦は口元に笑みを残したまま瞑目した。もしかしたらこれで睦に嫌われるかもしれないと思うと、華花の心臓は緊張と恐怖を全身に行き渡らせるように激しく打ち続ける。どれだけの時間が経ったのかわからなくなる位――実際はものの数秒だったのであろうが、身を固くして待つ華花に、睦は悪戯っぽく小首を傾げた。

「そうなんじゃないかなって、思ってたよ」

 冗談にも聞こえるその言葉が、睦の口から飛び出すとどうしてこうも真実味を帯びるのか。

「華花ちゃんのお兄さんは、私のせいなんでしょ?」

「そんなことまで……睦さんは魔法使いみたい……」

 そう、それが全ての元凶だった。華花の中にしこりのように残る助への反感も拒絶も、全てその出来事が原点だ。睦はそこまで見通しつつ、今まで華花にあっけらかんと笑いかけていたというのか。驚きも尊敬も通り越して呆れ返る度量の広さだ。

「魔法じゃないよ、種も仕掛けもあるもの」

 それから睦の口から語られた顛末は、まるで示し合わせたように華花が助と睦の存在を知った時と同じ状況だった。

 即ち、どれだけ機密の隠蔽を徹底した施設でも、人間の口には戸が立てられない。関係者同士のお喋りであれば尚更だ。

「施設の人から四年前にもう一人喪失者が出たことを聞いてて……ああ、きっと私がきっかけなんだろうなって、いつかその人のことを大切に思ってる人が……『華花ちゃん』が来るのかなって、そんな気がしてた。こんなこと考えてるなんて普通じゃないとは思うけど……でも考える時間はたくさんあるから、そういうことばっかり考えちゃう」

 悲しそうに微笑む睦の顔を直視できなくて、華花は板張りの床に視線を落とす。

「それでも睦さんはすごい人だよ」

「うふふ、実は私もちょっとすごいなって思ってた」

 そうやってすぐに屈託なく笑えるのも華花には想像もできない境地で、乾いた笑いを浮かべるくらいしか返せない。

 この四年間、華花は兄を救うため、詠唱技能に全ての時間を割いてきた。二年前にあの人に拾われて本格的にエンチャンターとして能力を付けてきてからは尚更、喪失者を救う事は自分にしかできないことだと思い込んでその責任の大きさと戦ってきたつもりだった。

 その時、蘭堂・華花を構成していたのは怨恨と義憤の似て非なる感情だ。その中でも丹下・助を恨むことは一番の原動力だった。喪失者の存在を知りながらのうのうと一般人の中に埋没している彼に対する怒りはそのまま華花の力に変わった。

 だがそれは華花の独り善がりな使命感なのだと、睦の笑顔に気付かされる。彼女のような喪失者は少数派だが、世界がきちんと喪失者と向き合えば彼女のように異端視に潰されることなく生きていくことだって出来るのではないか? ならば、自分はどうするべきなのだろうか?

 それを考えたところで丹下・助という存在に貼り付けたレッテルがすぐに消えるわけではない。もう、感情が独りでに彼を否定するように出来上がってしまっているのだ。

「大切なものを失くすって辛いよね……」

 施設の壁を見ながら、睦がそう呟いた。華花の思考は吸い寄せられるように睦の声に注がれる。

「失くしても、いつまでもいつまでも想いは残るから、本当に辛い……でもね、お兄ちゃんを大切に思うのは良い事だと思うけど、今ここにいないお兄ちゃんの事より、今ここにいる華花ちゃんがどうしたいかっていうのが一番大事だと思うよ」

「今の……わたし……」

 物の見え方は人それぞれ違う。それはクオリアがその〈モノ〉に与える印象が違うからだ。兄とは違う喪失者である睦と出会い、新しいクオリアを手に入れた華花の心は今や睦と助を恨む事ができなくなっていた。だが恨む理由もないのに感情だけが丹下・助を否定する。もう、華花自身ではどうしようもない論理がその心に刻みつけられている。

 それを見透かしたように、御陵・睦が華花の心に言葉を注ぎ込む。

「華花ちゃんのクオリアは助を助けたいと感じてるからほっとけないんでしょ?」

「わたしの、クオリア……」

 そっと自分の胸に手を当てて、華花はその言葉を反芻する。

「あなたのお兄さんを奪った私が言うのもなんだけど、大切な思いを恨みに変えないで? 許すことで、その恨みは元の大切な想いに戻るから。恨み続けるのは、辛いもの」

「許す……」

「助を、助けてあげて」

 強い感情の篭った言葉に引き寄せられるように睦を見た華花の目が、言葉以上の意志を秘めた睦の瞳とぶつかった。本当に他人を想うということはこういうことなのだと、華花は痛感させられた。今まで自分が唱えていた兄の為という言葉は、助や睦を恨んで悲しみを誤魔化すための託言に過ぎなかったのか。

 矛盾だらけでもいい、苦しみながらでも行動しなければ、きっと後で悲しむことになる。

「ありがとう、睦さん」

 自然と感謝の言葉が出た。冬の空をこんなに広く高いと感じたのはいつぶりだろうか。解き放たれた思いに、華花は晴れやかな笑みを浮かべた。

「こちらこそ、ありがとう」

「いってくるね」

「うん、がんばってね」

 小さく手を振る睦に見送られて、華花は早足に芝生の上を歩き出した。

 もう時間はない。華花はすぐにコンソールを開いて助達に短いメッセージを送信した。


  ※  ※  ※


「むー……」

 エリは秀麗な顔にあからさまな不快を浮かべて、図書館のブースを見渡した。

 そこには既に助と仁と、そして呼び出した張本人である華花の姿があった。エリほど顕著ではないが、男子二人が仏頂面を浮かべて押し黙るブースはお世辞にも愉快な雰囲気ではない。そこにこれから居座らなければならないエリの心境もその場の空気に染まったようだった。

 中間考査の採点を口実にして、華花は三人を一人ずつ別々に呼び出した。皆で集まろうと提案したところで態よく断られるのは火を見るよりも明らかだった。助とエリはともかく、この手段で学業の疎かな仁が来てくれるかという不安はあったが、それは杞憂だった。なにせ、やけに嬉しそうに一番乗りでブースに入ってきたのが彼だったのだから。

 続いてやってきた助は何かを察したのか、華花に詳細を尋ねるようなことはせずに仁と顔を合わさず席に着いた。仁も一気に渋面に様変わりしたが、席を立とうとはしなかった。

「ハナハナ、なんの用なん?」

 そうして最後にエリがやってきて、二人の顔を見るなりあからさまに不機嫌な声を上げたのだ。これで役者は揃ったと言わんばかりに三人の顔を見渡して、華花は重々しく口を開いた。

「睦さんのアミュを取り戻そう」

 この面子が揃ったところで大方の予想はついていたのであろう、助が大きく息を吐き出して立ち上がった。

「やめようよ、もうあれは諦めるって方向で話が決まったじゃないか」

 それに同調して仁も乱暴に立ち上がる。

「当事者がああ言ってんだ、オレ達がどうこう言う筋合いじゃねぇだろ」

 ブースから出て行こうとする二人の背中に、華花は意識を集中した。それだけで、対象は指定される。

「{"でろ";/*そして*/"すこしうがて";};」

 実のところ詠唱そのものはインテグレイターを介さずとも頭の中だけで可能だ。むしろそれが本来のCUSプログラムなのだ。しかし、実態のない思考を完璧に操る意志力を安定して維持するには限度がある。その為に開発されたのがインテグレーターに代表される『関連化(アソシエイト)機能』だ。

 今、華花が詠唱したのは普段使っている害意詠唱と違い、その記述から害意を取り去ったいわば〈小衝詠唱〉と言ったところか。彼等のCUSポートに意味のないデータを送り付け、違和感を引き起こす効果があるはずだ。

 実際、助と仁の背中にアミュレットを介して表示された小さな光球が吸い込まれていくと、二人の驚愕に彩られた顔が華花の方を振り返った。

「な、なんだよ今の……」

「蘭堂さん……」

 二人の瞠目を見返して、華花は声高になりすぎないように気を付けながら、胸を反らして宣言する。少しでも頼り甲斐を醸し出すためだ。

「忘れたの? わたしはエンチャンターだよ」

 その言葉に二人が息を飲む音が聞こえてきそうだった。それが外連でも自慢でもないことは、張りつめて揺れる華花の眼差しを見ればわかることだ。彼女は本気で崇神会に立ち向かうつもりで、助達に声をかけた。禁忌ともいえる秘密を明かしてまで。

 その一事が助の心を打ったことは言うまでもない。赤の他人、それもあまり好意的ではないはずの人間の為にそこまでできるのかと、助は感じ入った。それは同時に感謝と罪悪感を喚起する。喜色と愁色が悪びれる面持ちを複雑に踊り狂う。

 助の複雑な心境はさておき、詠唱技術の露呈は華花にとって重要な導入だった。チャンターにとっては常識だが、詠唱による攻防は単純な手数がものをいう。一騎当千の強者が一人いるよりも、雑兵が十人いる方が戦力としては圧倒的に有利なのだ。

 勿論、華花は詠唱技術の練度で崇神会の誰よりも優れている自負がある。だからこそ、それだけではどうしようもない現実が目の前に横たわっていることを素直に受け入れられた。

 つまり、助達の協力なくして崇神会と事を構えることは無謀なのだ。だから、彼等に詠唱技能を見せることは華花の作戦に織り込み済みだった。

 そこまでして助を助ける価値はあるのか、と言う疑問にはこの際目を瞑る。これは贖罪なのだ。睦や助に不要な悪意をぶつけてきたことへのお詫びであり、それ以上でもそれ以下でもない。誰が何と言おうとそれは絶対にそうなのだ。

 結局、助は百面相の中から泣き笑いのような表情を選び出すと、折り目正しく腰を追って華花に頭を下げた。

「ごめん、蘭堂さん……僕なんかの為に……」

「いいの。誰かを助けるためなら、きっとわかってくれるから……それに、わたしはみんなを信じてるから」

 それが華花の秘密を知らなかった仁とエリに向けられていることは明白だ。

 そして女の子にそこまで言わせておいて裏切ることなど、仁には到底できるはずもない。そもそも華花の性根は仁も知るところだ、彼女が悪意を持ってこの力を振うところなど夢に見ることもないだろう。

「ま、そうだな。むしろカナちゃんがエンチャンターなら心強えーや」

 エリも驚きはしたものの、流石の順応力ですぐに華花の特殊性に興奮し始めた。

「うん、ちょっとびっくりしたけど。ハナハナやるねぇ、かっこいいぞー」

 自分で言っておきながら情けない話だが、やはり不安がないわけではなかった。どうしても今までこの秘密を抱えていたために一歩を踏み出せずにいたが、華花はようやくこれで本当の意味で彼等の友達になれた気がして、不謹慎ながらも嬉しくて、顔が独りでに笑み崩れるのを止められなかった。

「ありがと、みんな……」

 だが、そんな幸福に浸るために告白したわけではない。大きく息を吸って気を張ると、華花はこれからの事をみんなで成功させるために、自分の考えをはっきりと言葉に変えていく。

「わたしなら崇神会のエンチャンターを相手に勝てる。でも、アミュレットを持ってない人達には勝てない。きっとあいつらはそういうわたしに対抗するための人も用意してくると思う」

「そっか、それでボク達を呼んだんだ」

「うん、わたしが崇神会のエンチャンターからみんなを守る。だから、みんなにはわたしを守って欲しい。その間にわたしが崇神会のリーダーをなんとかできれば、たぶんそれでわたしたちの勝ちだから」

 単純な話だが、以前に崇神会と戦闘した時に彼等のリーダーに依る所はかなり大きいように見受けられた。となればリーダーが潰れた時点で彼らは崇神会という集団を維持することが難しくなるはずだ。壊滅まではいかずとも、半壊は確実に望めると華花は踏んでいた。

「……話は分かったよ。確かにそれなら僕達でもなんとか出来るかもしれない」

 助はこの中で唯一、実際に華花の実力を目の当たりにしている。この中で最も慎重だと皆が口を揃える助が出来ると論じるということは、他の二人からすれば太鼓判を押されたも同然だ。

 しかしここで一つ、助が難色を示した。

「でも、どうして田中さんがいるの」

 密かにエリが身を強張らせたのは気付かなかった振りをして、華花は神妙な顔つきで助を見詰める。

「喧嘩したままじゃ、辛いから……」

 少しでも人手が欲しいという実情はあるものの、それこそが本音だ。このまま有耶無耶に作戦が実行されれば、たとえ成功しても助とエリの間に消えないしこりが残るような気がしたのだ。しかしエリの存在が華花の心配りだと知っても、助は頷かなかった。

「そっか……でも……やっぱり田中さんは直接関係ないし……だから危険な目にはあわせたくないよ……友達だから」

 それが偽らざる助の本心なのだろう。もしかしたら余計なお節介だったのかもしれないと、華花ははにかんだ。

 助はやはり良くも悪くも助だった。あの頃と変わらない、正義感が強くて、優しくて、少し臆病なまま――不意に心の中がざわつくがそれは無視して気持ちをエリに向ける。

 エリはじっと助の言葉に耳を傾けていたが、話が終わった後も少しの間咀嚼するように黙り込んでいた。

「……二人ともありがとう」

 やがてゆっくりと口を開くと、感極まって上擦った声が二人に向けられる。

「でも、たすくん聞いて。確かにボクはちょっと調子に乗りやすいところがあって、たすくんに色々迷惑かけてるけどさ……たすくんに傷ついて欲しくないと思ってるのは本当だよ。たすくんだけじゃない。今はまだクオリアを見せられなくてもさ、ボクは本当にキミ達の事心配してる」

 エリがここまで自分の考えを吐露したのは、この場にいた誰にとっても初めての事だった。それだけに、言葉の重みは三人の心にしっかりと伝わる。

「だからこそ……友達だからこそ一緒に行きたの。ボクにも手伝わせて欲しい」

 それがどういうことかわからないエリでもないだろう。本人が言った通り調子に乗りやすいエリだが、物の道理は弁えている。崇神会と事を構えて無事に帰れる保証はないとわかった上で助の力になりたいと言っているのだ。

 この上断るようなら一悶着起こしそうな目の色をした仁に観念した眼差しを向けると、助は小さく息をついた。

「……わかった」

 それだけじゃ足りないと、華花が助の服の裾を摘まんで彼の顔を覗きこむ。助はそれで展望デッキでのやり取りを思い出したのか、応えるようにぎこちなく笑みを浮かべてエリに向き直った。

「田中さん、あの時は無理言ってごめんなさい」

 しっかりと頭を下げた助が顔を上げると、そこには待ち構えていたように満面の笑みを浮かべたエリの顔があった。

「わかってくれたならいいんだ! よし、エリちゃん本格再稼働だ!」

 早速いつもの調子を取り戻したエリに助は苦笑しきりだ。助とエリが一件落着したのも束の間、助とアイコンタクトをしてから俯いて何かを考えていた仁が、至って気軽に首を振った。

「わりぃ、俺はその話、乗れねぇ」

「そっか……坂神くんがきてくれたら心強かったんだけど……」

 華花が落とした肩を支えたのも、また仁の言葉だった。

「行かねえわけじゃねえ」

「じゃ、なにしにいくのさー」

 エリがまだるっこしい物言いに口を尖らせると、仁は華花に視線を合わせるように跪いた。

「カナちゃん頼む、オレにタツミとケリつけるチャンスをくれ! あいつとサシで話したいんだ! だから、連れて行ってもらった上でカナちゃんの護衛は出来ねぇ……ってテマエ勝手なこと言ってんのはわかってんだけどさ! でも頼む、やっぱりオレはあいつを見捨てらんねぇんだよ!」

 そんなに熱い眼差しで語られては、首を横に振る方が難しくなってしまう。いずれにしろ敵の一人を引きつけてもらえるのであれば、その話を拒否する理由はどこにもない。

「うん、仲直りできるといいね」

「ありがてえ、恩に着るぜ」

 すっくと立ちあがりにかっと笑う。もうすっかりいつものさっぱりと暑苦しい仁の顔だ。

「具体的な作戦はまとめて後でメッセするね。作戦っていうほど立派なものじゃないけど」

「ううん、蘭堂さん、僕の為にありがとう……頼りにしてるよ」

 助に真っ直ぐに微笑みかけられて、華花は頬が熱くなるのを感じて俯いた。

「背中は任せて!」

「カナちゃんの期待に応えねえとな!」

「明日の晩、頑張ろうね」

 いつもの三人のいつもの雰囲気が戻ってきた。華花は再びそれが見られただけでも自分の秘密を晒した甲斐があったと、僅かにこびりついていた後悔を拭い去る。これでもう明日の心配はなくなった。

 後は今晩に備えて気持ちを整えておかなければいけない。今日は睦に会ってきたのだ。きっとまた、夢の中で彼に出くわすのだろう。


  ※  ※  ※


 既に過ぎ去って久しい夏の陽射しに焦らされる感覚。弾けるような眩しさに目を細めて、輝く街を見下ろす。展望デッキの手摺りから身を乗り出せば気分は鳥か飛行機のそれだ。ひたすらに輝く深い青空を見上げながら、背後にいる彼に向けて少し声を大きくする。

「私ね、今、方舟の都市伝説集めてるでしょ?」

「うん、夏休みの課題だっけ」

「そう!」

 白いワンピースを翻して振り返ると、丹下・助は少し離れた樹陰の中からわたしの方を見ていた。陽射しと木陰のコントラストで助の表情は見てとれないが、きっといつもの優しい顔なのだろう。

「それでね、今度方舟の呼び出し方をまた一つ試したいんだけど……夜じゃなきゃだめなのよね」

 助が影の中から歩み寄り、隣に並ぶ。少し意地の悪い光がじっとわたしを見下ろした。

「なるほど、一人じゃ怖いと?」

 助はわたしの事ならなんでもわかる。

「えへ、その通り」

 胸を張るわたしに、助は呆れた様子で肩をそびやかす。

「どんなの?」

「えっとね、真夜中の学校で魔法陣を書いて呪文を唱えるんだって」

 わたしの説明に、助は少し小馬鹿にするように目を瞠った。

「それ、試す必要あるの?」

「えー、でも試せそうなやつってあとこれくらいなんだもんー、データが少なすぎてレポートになんないんだもんー、いまさら他の題目には変えられないんだもんー 」

 わたしは言いながら助の肩にぶら下がるようにしがみついた。助は困ったようにわたしが揺れるのに合わせて重心を保ってくれている。しっかりとわたしを支えてくれる彼の身体に触れていると、それだけでなにもかも安心できる温かさに包まれる。

「わかった、手伝うよ」

「やった! 助大好き!」

 普通に言ったらとても恥ずかしいけど、こうやってどさくさに紛れ込ませれば言える。助はわたしの気持ちを知ってかしらでか、いつも黙り込んでそっぽを向くけど、それが助の照れ隠しだって知っている。

 だからかもしれない、こんな表情をした後の彼は決まっていじわるだ。

「睦は昔から臆病だもんなぁ、知らない場所で急に泣き出したり」

「ちょ、そんなの七歳の時の話でしょ⁉」

 飛び退くように助から離れて目くじらを立てると、彼のいじわるな顔はより一層嬉しそうになる。

「そんな子供の時の話出してくるとか、信じらんない!」

「ごめんごめん……お詫びに何があってもきっと僕が守るからさ」

 そうやって助はいつもわたしを拗ねさせてご機嫌を取ってくれる。甘えさせてくれる。

 とはいえ、夜中の学校で守ってもらうものがあるとしたらそれこそおばけくらいのものだろうけど、その言葉が心強くて嬉しくて、顔がにやけるのを堪えるのが大変だ。今は顰め面でちゃんと約束させなければいけないのだから。

「……むー、ほんとに?」

「ほんとほんと」

 そう言って優しく微笑んでくれる。そうすると、わたしも助に何かしてあげたくなるから、もしかしたらこれは助の掌の上なのかもしれないと勘繰ることがない事もない。でも、正直どっちでもいい。

「……じゃあねー、私も助が困ってるときはなんでもしてあげる!」

「へぇ、何でも?」

「あ、えっちぃのはナシね」

 こうやって、助と他愛ないことでふざけあって、

「そんなこと考えてないよ」

「うそですー、目がなんかえっちでしたー」

 お互いの存在を感じあって、

「いやホントに! そう、クオリア送る! それ見ればわかるから!」

「あはは、うそうそ、わかってるよ! さっきのお返しですよー」

 ずっと笑っていられれば、それで十分だったのに。

 心から笑えなくなる日が来るなんて、この時の睦も助も想像だにしていなかっただろう。幸福を絵に描いたようなイメージと、現実の落差はたとえそれが我が身のことでなくても心に重く圧し掛かる。

 いや、もう我が事と変わりないのかもしれない。華花は目尻に溜まった涙を拭いとって、目を覚ました。

 これで三度目の睦の夢は、まるで華花の中に睦の思い出を溶かし込むように、鮮烈に繊細に心を染め上げていく。この胸の中にある意思が本当に蘭堂・華花なのか、それとも御陵・睦なのか……寝ぼけ眼の華花には判然とせず、寝巻の上から早鐘のような鼓動に触れた。

「たすく……くん」

 恐る恐る、彼の名前を呼んでみる。

「助くん」

 今度はっきりと。丹下よりももっと彼に近い名前。

 馬鹿なことをしている自覚はあった。華花はへばりつく眠気を吹き飛ばすようにかぶりを振って、掛け布団を弾き飛ばす勢いで上半身を起こす。肌寒い朝の空気に火照った身体を晒すと、しつこい眠気も次第に夢の中に消えていく。

(ずるいな、睦さん……あんなこと言っておいて自分の気持ちはわたしに押し付けるなんて……こんなの――)

 だが、胸の幸福感は火照りが冷めても消えなかった。


  ※  ※  ※


 その夜、街外れの廃校は異様な喧騒に包まれていた。

 どこから持ち込まれたのか、投光器が照らし出す廃墟のエントランスに華花と助とエリの姿が長い影を交差させて浮かび上がっている。

「そこな下郎を呼び出せば貴様ものこのこついてくると思ったぞえ、エンチャンターの童よ……今日こそ貴様らに断罪を下してやるわ」

「助くんのアミュ、返してもらうよ」

「ふん、手妻の明らかな貴様なぞ恐ろしくもないわ!」

 華花が相対するのは崇神会の中枢メンバーである皇と衣子と堅介だ。その背後に控えるその他大勢も、手に手にパイプや木の棒を武器としているが、どうにもその数が少ない。

「仲間、減ったね」

 伏兵か温存か、華花が牽制のつもりで発した感想は、思わぬ方向で皇の逆鱗に触れた。

「先の貴様の外法のせいで……我に主の資格なしと奴らは見限りおったのじゃ! これもすべて貴様のせいじゃ!」

「そうだそうだ! 皇様の器はあんな些末事では揺るがないんだから!」

 手妻やら外法やら、それまで華花には今一つ得心のいかなかった単語が繋がった。要は前回の襲撃で、助のアミュレットが暴走した時、一目散に逃げだした皇達を見限ったという事か。

 黙っていれば書き割りの伏兵にでも仕立てられたであろう物を、皇と衣子は口々に不要な言い訳を並べ立てて華花の気掛かりを減らしていく。彼等は間抜けを演じているのではないかと勘繰ってしまうほどの語るに落ちっぷりだ。

「自業自得だよ……」

 あまりにも間の抜けた塩を送られ、思わず華花の意識も気が抜けて乱れる。とはいえ、敵の予想戦力が減少しているというのは好機だった。

「だが、先の外法も外連と聞いた! 今の余に死角はない!」

 吼えるが早いか、皇とエリ、そして堅介に統合紋が発生する。華花もすぐに対応できるように身構えながら、背後の二人に意識を向ける。

「助くん、エリさん、無茶しないでね!」

「わかってるよ」

「ここにいる時点で無茶だと思うけどねー」

 助は小脇に抱えるように長めの角材を、エリは華花に借り受けたスタングローブを楽しそうに振りかざして、三人程の崇神会下っ端を牽制している。特にスタングローブは前回の華花の容赦なさが彼等の中にまだ残っているようで、なかなか思い切りがつかない様子で周囲をぐるぐるしている。

「ここが貴様らの墓場となるのだ!」

「その自信、なにが根拠か知らないけれど、あなたたちじゃ絶対にわたしには勝てないから」

「ほざけ!」

 皇の害意詠唱の発動はまだ時間がかかる。衣子もせいぜいその位だろう。華花はすぐさま意識を攻撃――害意詠唱に切り替えると、牽制の一撃を構えた。

 既に仁は巽を引き連れて離れたとは思うが、あまり長引かせると戦場がどう動くかわからない。仁にはしっかりと巽と話す機会を与えたいと考える華花は、彼等をこちらの戦闘に巻き込みたくなかった。速攻で決着を付けるべく、まずはこの場で唯一こちらの一撃に耐えうる堅介の動的防護を全力でもって打ち砕く。

 華花がそう判断して詠唱に意識を注ぎ始めると同時に、棒を振り回して一人の接近を阻んでいた助があらぬ方向に発生した統合紋を発見して叫んだ。

「蘭堂さん、あれ何⁉」

 華花がそちらに意識を振り向ける前に、助の隣からその名前が飛び出した。

「改造端末⁉」

 エリが叫ぶ。何故エリがその名前を知っているのかという疑問はこの時の華花の頭には浮かばなかった。それだけ改造端末の存在は華花の想定した状況とかけ離れた存在だった。

 それはどこにでもある端末を改造して、害意詠唱を実行化できるように調整したものの総称だ。 傍目には何もない場所から害意詠唱を発動できるが、実行化前に人間と同じく統合紋が発生するので不意打ちには適さない。しかし即座には数が把握できない点と単純にその数で防御側に致命的な不利が発生する。

 インテグレイターを使った詠唱の勝負は、如何に自分の手の内を把握させず、相手の予想を誤魔化せるかに重点を置いてきた。この改造端末はその中でもシンプルに物量を求めて編み出されたトラップだ。操作にはそれ相応の技能と人員、なおかつあらかじめ設置しておかなければならない手間が必要になる為、専らその使用は局地戦に限られる。現に今も、衣子が統合紋を発しながら攻撃の様子を見せないのはこの改造端末の操作に全神経を傾けている可能性が高い。

「{"でろ";/*そして*/"まもれ";};!」

 華花の詠唱が実行化されると同時に、瓦礫の影から三条の光粒が飛来した。

「おもい……⁉」

 それは華花の動的防御に弾き散らされたが、その害意詠唱から華花が感じた衝撃は崇神会のそれとは比べ物にならない密度を物語る。設備といいプログラムといい、明らかに外部の介入が存在する。たかが衛星都市の不良集団と侮っていた自分に、華花は歯噛みした。

 そんな華花の苦慮は露知らず、助は消えゆく華花の動的防護の下で安堵の表情を浮かべていた。

「すごい、流石蘭堂さんの――」

「まだ」

「え?」

 華花の言葉が終わるかどうかといった時点で、すでに次の統合紋が闇の虚空に灯りはじめていた。

「見たか! これが我らの虎の子、夢幻陣なるぞ! さあ、彼奴らに更なる悪夢を見せるのじゃ衣子!」

「はっ!」

 今のやり取りで改造端末の操作管制は衣子一人で行っていると確定されたが、今の華花にはそれをどうこうする手立てがない。

「うわっ⁉」

「{"あらわれろ";/*そして*/"まもれ";};!」

 四方八方から噴水の如く放たれる害意詠唱に対応するのが精一杯だ。

「たすくん後ろ!」

 悲鳴を上げていた助はエリの声で振り向き、そのままの動きで背後に迫っていた崇神会のメンバーを打ち据えた。それほど強い一撃ではなかったが、思わぬ反撃に驚いた相手はまろぶように引き下がる。助の無事にひとまず胸を撫で下ろす華花だったが、それで危難の全てが去ったわけではない。助とエリの動きも精彩を欠いてきた。むしろここからが本番なのだと、華花は気を引き締めた。

 先程の詠唱で発生した静的防護は、殴りつけるような害意詠唱をよく防いでくれている。わざわざ詠唱した甲斐があったと言えよう。

 静的防護は耐久の点で動的防護に勝るものの、空間追従機能が皆無であることと実行化中は常時ある程度のリソースを割かなければいけないのがネックだった。いわば維持に手間のかかる簡易のバリケードだ。本来は広告の表示や一部の標識に使われるようなプログラムを応用している。

 これをわざわざこのタイミングで持ち出してきた理由はただ一つ、時間稼ぎだ。今の華花に必要なのは時間だった。その時まで持ち堪えることが、華花の勝利の絶対条件だ。

 その為に、ここからは一挙手一投足を間違えることのできない綱渡りのような駆け引きが必要になる。

「ほ、ほ、ほ、手も足も出ないようじゃな、しからばこれで止めじゃ!」

 皇が手にした扇を器用に片手で広げた。まるで水芸のようにその所作に呼応して害意詠唱が飛び出してくる。

 まだ、足りない。しかし状況は悪くない。皇の御託は間違いなく華花に有益な時間を稼いでくれている。

「これぞ我が秘奥義にして詠唱技能の妙技!」

 もう少し。改造端末の攻撃に耐えられなくなった静的防護が破られ、これで後は動的防御で防いでいくしか手段はなくなった。間に合うかどうかは際どい所だった。

「露払いはこの私にお任せ下さい!」

「{"でろ";/*そして*/"まもれ";};!」

 衣子が吼え、続く改造端末の一斉攻撃で華花の展開した動的防護が一瞬にして打ち砕かれる。

 この瞬間が天王山だった。衣子はこの瞬間を生む為に、改造端末に内蔵した詠唱の全てをここに投入した。そして、華花の動的防護が打ち崩されたこの一瞬は、皇が画策し待ち焦がれていた必勝の瞬間だった。

 詠唱は人間が扱う以上、どうしても実行化までに間ができる上、同時に詠唱できる数には限りがある。詠唱技能勝負が手数で決まると言われる由縁がここにある。相手の攻撃を防ぎ切った瞬間、相手の防御を打ち崩した瞬間に最大のチャンスが訪れるのだ。

「ひょっほっほ! エンチャンター敗れたり!」

 皇の哄笑と共に、詠唱もなく皇の眼前に二つの統合紋が現れる。既に八割方組みあがった統合紋から害意詠唱が放たれるのは皇の技能でもものの数秒、今から詠唱を開始したとしても華花では間に合わない。

「タスクマネージ……!」

 まさか皇がここまでやるとは思わなかった。

 華花が苦々しく呟くそれは、チャンスを最大限生かすために編み出された技能の名。タスクマネージは一度統合を終えた詠唱を実行可直前でアミュレットに移動し、意識下で常に管理・保持する。現象的には統合化無しで詠唱を実行化できるようなものであるから、チャンター同士の詠唱戦闘では必須とされる技能だ。

 これはチャンターとしてのスペックを量る尺度のようなものでもあった。訓練で最大数を増やすことは可能だが、意識を向け続けなければ組み上げた詠唱が霧散してしまうため、集中力や記憶野といった身体的な能力に左右されるためだ。正式なチャンターでも十程度が平均だといわれている。

 しかしチャンターとしては出来て当然の技能でも、自己流のエンチャンターが扱うには難度が高い事に変わりはない。華花もまさか不良崩れのエンチャンターがそんなものまで使ってくるとは予想していなかった。

「蘭堂さん!」

 立ち尽くす華花の前に、助が立ちはだかった。盾になるとでもいうのだろうか。だが実行化された詠唱はすでに対象が固定化しているので、CUS上に障害物を置かない限りその進行が阻害されることはない。

 それでも、目の前に聳えるその背中は嬉しかった。そしてこの背中を守りたいと感じる自分を、華花は改めて認識していた。

「これで終いじゃ! {"示し給え";"ヤツカノツルギのシルシ";};!」

 タスクマネージと動的詠唱の三つ構え。如何に華花が常駐防護に注力したとしても、動的防護なしでは一度にこれだけの量は防ぎきれない。良くてアミュレットの故障、悪ければ精神痛を引き起こしただろう。

「あなた、喋りすぎ」

 だが、三条の光が華花と助に届くことはなかった。

「……ほ?」

 皇の間の抜けた顔を、助は光り輝く壁の向こうに見た。当然のように二人を守り屹立するそれは、見慣れた華花の動的防護だった。しかし、皇の実行化直前まで華花が詠唱した様子はない。助が唖然と華花を振り返ると、奇跡を起こした少女はにこりと微笑んだ。

「わたしもできるもの、タスクマネージ」

 華花は守りに徹する中で、ずっと自分の手札が揃うのを待ち構えていた。詠唱勝負は攻撃の手数で決まる。タスクマネージで詠唱を蓄えて、一気に攻め立てるのも勝負のセオリーなのだ。

 幸い、皇のお喋りが長くて今回はなんとか間に合ったが、改造端末の存在や皇のタスクマネージという計算外の要因の重なりはかなり際どい賭けになった。

 そんな安堵などおくびにも出ない、彼女の宣言を耳にした皇の顔こそ見物だった。怒りに赤くなったり恐れに青くなったり、最後は器用に紫色に変じて半狂乱で叫び散らす有様だ。

「い、衣子、うてうてうてー!」

「は、はいぃ! {"宿り給え";……」

「やらせないよ」

 操作詠唱に入る衣子めがけて、華花は腕の一振りで害意詠唱を実行化する。

「ヌンッ」

 だがそれも今の今まで待ち構えていた堅介の動的防護に弾かれる。しかしそこまで今の牽制は織り込み済みだ。

「これ、防げる?」

 珍しく挑発的な台詞と共に虚空に現れた五条の光に、堅介は戦慄した。

「ヌウゥッ⁉」

 四条の光に動的防護を打ち砕かれ、一条の光に射抜かれた堅介が膝をつく。一体いつの間にこれだけの詠唱をタスクマネージしたのか、信じられない光景に堅介は畏敬の眼差しを華花に向ける。

「タスクマネージはね、無詠唱(サイレント)とセットで運用するものだよ」

 無詠唱もチャンターの間では一般的な技能だ。むしろそれが本来的というべきか、ライブラリパケットを思考の中だけで統合化し、実行化するだけの技能とも呼べない手法だ。

「無詠唱……こざかしい! こざかしいこざかしいこざかしいぃぃ! {"示し給え";……」

 さりとてただそれだけの事が、慣れるまでこれがなかなか難しい。華花もまだ完璧とは言えず、実戦で初めての運用だったということもあり、予想以上に詠唱密度が低下していた。その未熟を内心で恥じながらも、それを全く表に出すことなく油断のない眼差しで衣子を狙いすます。皇の詠唱もこのタイミングなら間に合わない。

「{"でろ";/*そして*/"――」

「しゃせんぞ! "ヤツカノツルギのシルシ";};!」

「ッ⁉ {"でろ";/*そして*/"まもれ";};!」

 だが、華花の予測は裏切られた。皇の眼前に二つの害意詠唱が現れたのだ。

 先程の堅介との戦闘の時に華花に気付かれないよう予め詠唱していたのであろう、皇のタスクマネージでストックされていた害意詠唱が華花に迫る。同時に実行化した通常詠唱を隠れ蓑にして意表を突く二段攻撃だ。

 衣子へ向けて害意詠唱を詠唱しようとしていた華花だが、皇の予測を上回る器用さに慌てて防御に廻る。それでも自分の方が詠唱技能を上手く扱えるという自負が意地を張り、奥の手に温存していたタスクマネージの害意詠唱を、無理矢理の態勢から衣子へと差し向けた。

「ぎゃん!」

 害意詠唱は守り手のいなくなった衣子に直撃したが、浅い。少しの衝撃を与えただけで、意識を奪うところまではいかなかった。今までの操作詠唱は中断できたであろうが、ここで仕留めきれなかったのは今後の展開を修正する必要が出てくる。

 それでも華花には今しがた無詠唱が終わった害意詠唱と動的防護が一つずつある。この戦力相手なら無詠唱と通常詠唱で手数を維持しながら十分に戦えると思った、その矢先だった。

 光が、噴出した。


  ※  ※  ※


 エントランスを飛び出し、中庭に転がり出た仁と巽の対決は、泥仕合の様相を呈していた。

「おまえがこんな下衆だとは思わなかったぞ!」

「下衆はどっちだ!」

 お互いに言葉と拳を同時に叩きこみ、一撃ごとに青あざを増やす。離れたところから幽かに届く投光器の光が、足元も覚束ない二人の珍妙な踊りを暗闇に浮かび上がらせる。

 仁は華花の作戦通りに崇神会のエンチャンターが対象指定できないよう十分離れた薄暗闇の中で巽と相対した。巽は仁の拙い挑発に簡単に乗ったように見えたが、その思惑は皇に教わった詠唱技能で完膚なきまでに仁の希望を打ち砕くことにあったようだ。

 事の初めに巽は仁に見せつけるように習得したばかりの害意詠唱を実行化した。だがそれも仁の小細工で泡沫に帰す。仁はCUS上にポートが残らないように前日からアミュレットをシャットダウンしていたのだ。おかげで巽はこの頭まで筋肉で出来ていそうな不器用な男と、埃っぽい廃墟で砂利の味を楽しむ羽目になっていた。

「お前達は睦の!」

 巽のフックが仁の肩に食い込むが、浅い。

「真実に目を瞑って!」

 それでも巽は逆の腕で続けざまのフックを無理矢理ねじ込もうとするが、読み切られていた。仁はスウェイバックでそれを回避すると、一気に距離を詰めて巽の額に自分のそれを打ち付けた。思わぬ反撃に巽はたたらを踏んで動きを止める。

「方舟に触っちまったのはムツ本人の意思だろうが! タスクは巻き込まれただけだ!」

 額から流れる血がその威力の程を物語るが、それをものともせず仁は投光器の光を背負って巽を睨み据えた。

「じゃあなんであいつは俺達の制止を聞かずに睦と行った……」

 額から目尻に流れる血を拭いながら、巽は屈めていた上半身を起こす。

「助は自ら巻き込まれたんだよ、睦に何を吹き込んでいたかわかったもんじゃない!」

「そんなんてめえの妄想だろうが!」

 仁の真正直な拳を構えた前腕で受け流し、巽は砂利を蹴散らしながら仁の懐に踏み込む。

「もう妄想するしかねえだろうが!」

 感情の爆発をそのまま拳に載せたアッパーが、裏返った声と共に仁の腹筋を抉る。

「ごへっ!」

 流石の仁もその一撃に膝をついた。汗と血と砂埃に塗れた旧友を見下ろす目は、冷たく獰猛な炎が揺れている。

「睦は人間じゃなくなっちまった! クオリアがなきゃ、何考えてるかも分かんねぇバケモノと変わりねえだろうが!」

「てん……めぇ……」

 巽自身、今の拳は渾身の一撃だと感じていた。人間である限りあの入り方をしてすぐに動ける者はそうそういないだろう。だが、仁の闘志はまだ消えない。ギラギラと煮える双眸の闘志が癪に触り、巽は地にへばりつく旧友の顔面に止めの一撃を放った。

「取り消せよ……」

 だが、信じがたいことに仁は巽が蹴り砕かんと蹴り上げた足を避け、それどころかその足を絡めとって巽の身体を捩じり倒した。油断していたせいで反応が遅れ、膝の関節から嫌な音が聞こえた。

「がっ……つぁ……」

「ムツもタスクも、その過去からなんとか抜け出そうと必死にあがいてんだよ……それを過去にすがって迷走してるてめえがとやかくいう資格ねえよ」

 仁は立ち上がった。汗と血が埃を溶かした泥に汚れながら、笑う膝を押さえつけて立ち上がる。

「助けられる存在を助けようともしないで……何が前に進むだ……お前だって同類だ……」

 巽も捩じられた時に痛めた片膝の痛みを庇いながら立ち上がる。その言葉で、仁の面持ちに一瞬の躊躇いが見えた。

「俺は睦を救う! そして俺が睦に一番相応しい男だって認めさせるんだ!」

 動ける足で巽が跳んだ。仁もそれを真向から受け止める。身体の自由もままならない二人は真正面から取っ組み合い、噛みつかん勢いで額を打ち付け合う。

「そのためなら、なにしたっていいってのかよ⁉」

「ああいいね! それだってもうすぐ全部終わるんだ! あの人なら! 小六さんなら睦を助ける道を開ける!」

「道⁉」

 仁の膝が力比べに耐えられなくなり、頽れた。

「睦のアミュレットは方舟の鍵になってたんだ! あれから小六さんがプロトコルを作ってる、それが――⁉」

 巽を見上げる仁に、巽の拳が振り下ろされる直前、光が噴出した。

「なん――だ?」

 仁も巽もそちらに意識を奪われたその瞬間を狙い澄ましたかのように、細く鋭い男の声が薄暗闇を引き裂いた。

「{"出ろ";"穿て";};」

 無感情な声から生まれた無慈悲な光が、巽を背後から打ち抜いた。


  ※  ※  ※


 突如として生まれた光の驟雨は助とエリ、特にエリに集中して降り注いだ。

「助くん!」

 華花の悲鳴が廃墟にこだまする中、助ははっきりとその声を聴いた。

「{"デュナミッシュ";"ヴァンツ";};」

 エリの静かな言霊は確かな実態を伴って光の驟雨も投光器の刃物のような明るさも蹴散らした。瞬く間に助の視界を埋め尽くしたそれは、崇神会の盾でも華花の壁でもない。助や華花だけでなくそばにいた崇神会のメンバーすら包み込む巨大な光の天蓋だ。

 改造端末から放たれた何十条という害意詠唱を、たった一枚で防ぎ切ったその物理防護はエリの詠唱から生まれ出たものだった。

「田中さんが……詠唱した?」

 助がその事実を飲み込む前に、今度は闇の中から新たな闖入者が声を上げる。

「相変わらず出鱈目だな」

「小六・聖(ころく・こうき)……!」

「小六さん⁉」

 エリの口にするのも吐き気がするといった様子の苦々しさと、華花の弾けるような歓声とが重なる。

 廃墟の闇から浮き上がるように姿を現したのは、やけに細い印象の黒いスーツの男だった。年の頃は二十代も後半か、落ち着いた雰囲気の好青年といった佇まいだが、その眼だけは背後の闇を溶かしたかのように、饐えた気味の悪さを湛えている。

 エリを知る男は悠然と構えてその場を見渡すと、華花の上で視線を止めた。華花もその姿を信じられないものを見る様子で窺っていたが、視線が合った途端に嬉々とした声を上げた。

「小六さん! 手伝いに来てくれたんですか?」

 華花が今まで見せたことのないような溌剌とした笑顔を浮かべて、小六に取り付いた。それを見た途端、助の心臓が一瞬鼓動を違えたように苦しくなるが、それも戦時の錯覚と飲み込む。

「ああ、よく頑張ったね華花、いい子だ。ほら、クオリアだ」

 小六・聖は華花の頭を撫でながら、片手で器用にクオリアメッセージを送信する。すぐさまその場でそれを開封した華花の表情は、眩しすぎて助には正面から見据えることができない程だった。

「まさか、こんなところでキミの顔を拝むことになるなんて、思いも寄らなかったよ――違うね、思いたくなかったのかも」

 立ち尽くす助の隣で全身に警戒を漲らせ、獰猛な笑みを浮かべるその人がエリだと、助はすぐに気付けなかった。あの男が現れた瞬間、自分の世界が反転する錯覚すら覚えて、助は微かな眩暈を噛み殺すように奥歯を食いしばる。

「む、む? 客人よ、これは一体……? 余の援軍に駆け付けたのではないか?」

 更には、華花を懐かせているその姿を不審に思った皇がそう口を挟めば、もう状況は混乱の一途だ。得体のしれない不協和音が、鵺のような男から発せられていた。

「ああ、今回は色々片付けに来たってとこだ」

「片付け?」

 おうむ返しに皇が問うた時、小六の背後の闇から仁の顔が浮かび上がってくる。その顔には濃い疲労と激しい焦りが浮かんでいる。

「おいカナちゃんなにしてんだ離れろッ! そいつタツミを撃ちやがった! タツミが、目ぇ覚まさないんだよッ!」

 仁の絶叫にまずエリが走った。油断なく小六と呼ばれる男の脇を通り過ぎ、仁が肩に担いで運んできた巽に取りつく。小六はまるで仁と巽の姿をないものとして扱うかのごとく、意識すら向けずに燥ぐ華花の相手に努めていた。

 僅かな時間で巽の容体を確認したエリが小さく舌打ちする。

「きゃ、客人よ、それはどういった仕儀ぞ⁉」

 仲間を撃ったのが小六だと聞き、皇が色めき立てば衣子が追従する。

「貴方、返答次第じゃ――」

「うるさいな」

 小六が衣子を軽く睨みつけた瞬間、衣子の背後にソーマトロープを返したかのように突如として統合紋が浮かび上がった。エリが顔色を変えてそちらに身を乗り出すのと、闇を切り裂く害意詠唱が走ったのはほぼ同時だった。背後から害意詠唱にCUSポートを砕かれて頽れる衣子を、小六は拍子抜けした顔で観察した後、統合紋が浮かび上がった先の闇を見た。

「彩か」

「彩さん!」

「聖、貴方は加減しないんだからむやみに人を撃たない方がいいわよ」

 闇の中から現れた女性は、口の中に笑みを含んだまま物分かりの悪い少年を叱るような叱声を小六に投げかけた。続けて阿須賀・彩(あすか・さえ)は、抱き付いてきた華花の頭を慈しむように撫でつけて、慈愛に満ちた笑みを見せた。

 今しがた彼女が潜んでいた闇をそのまま固めたような、深いオニキスの長髪を高く結い上げた利発そうな女性だった。こちらも年の頃は小六と同じくらいだろう、すっと一本筋の通った佇まいの颯爽とした立ち姿だ。

「加減? 不要だな」

「小六さん、人を傷つけるのはよくないです」

 華花が頬を膨らませて抗議すれば、小六は降参といった風情で肩をそびやかす。

 彼女は――蘭堂・華花は今の状況が見えているのだろうかと、声に出来ない疑問が助の中で渦巻く。彼の手で既に巽が意識不明の状態に陥り、躊躇いもなく衣子を気絶させた女性にも良く懐いた声を上げる。まるで別人を見ているような違和感に、助の全神経が逆撫でされる。

「い、いいい、衣子……?」

 皇がそっと衣子を揺するが、反応はない。生きてはいるようだったが、すぐに目を覚ます気配はなさそうだ。

「そこの子はちょっとやりすぎだったんじゃないの?」

 彩が自分を棚上げして小六を詰ると、小六は仁に支えられて横たわる巽に、つまらないものを見なければいけない億劫さを隠そうともしない視線を向けた。

「そこの餓鬼は仕方なかったんだよ、機密を喋ろうとしたんだ」

「キミってヤツは……」

 巽を見ていたエリが立ち上がった。その双眸には怒りと悲哀と助には計り知れない情念が潜んでいた。助の知る誰も彼もが、姿はそのままに別人へと変貌してしまった現実。違う、これは違うと全身がその現実を否定する。

「自分が何をしているのかわかっているよね。たっつんのは傷害罪、ハナハナには思惟攪乱罪、合わせたら懲役五年はくだらないよ」

「そこの餓鬼は機密保持の為の緊急対処だ。華花は現場行動の為に必要な処置だ。どちらも現場判断による特例事項に該当する」

「よくもまあそこまで変わり映えせずにいられたものだと思うよ!」

「御前も変わらず美しいままでいてくれて嬉しいよ、アイヒホルン」

 エリの気炎に呼応するように、男の表情から匂う饐えたものが濃さを増した。

「それでこそ、壊し甲斐もある」

「ハナハナをたぶらかしたのもそんなことの為だっていうの⁉」

「ふん、御前の存在は奇遇だよ……それに華花はここで解放する」

「かい……ほう?」

 華花がきょとんと小六を見上げた。

「そう、最後の仕事だよ、華花……リリースだ」

 小六の言葉に反応して、華花の身体から統合紋が発生する。それを見た瞬間、助は何故か初めて見た統合紋を思い出した。華花が秘密を明かしてでも庇ってくれたあの時の、歪で、醜悪で、奇怪な統合紋――すっかり記憶の片隅に追いやっていた、黒ずくめの怪人の統合紋だ。それが華花の身体を包み込むように多重に展開していく。

「ッ⁉ キミはどうしてそんなことを平然と――ッ!」

 刹那、助には太陽が降ってきたように見えた。自分の目の前に現れた光の壁を通して、皇や残っていた崇神会のメンバー、そしてエリが次々とその光に焼かれて地に伏していく。

「馬鹿な女だ」

「……なに、これ?」

 華花はまるで今初めて自分がどこに立っているのか気付いた様子で、辺りを見回した。投光器に照らされた廃校のエントランスに浮かび上がるのは、身動ぎ一つせず横たわる人の群れと、呆然と立ち尽くす助、仁、そして小六と彩だった。

 小六は足元に倒れ伏したエリのそばにしゃがみ込み、心底呆れた顔で動かない彼女を見下ろしている。

「爆弾を庇って自滅するか……その上であれらも守ったと……やはり化け物だな」

 感情の無い声で驚き呆れながら助と仁を見て、小六は立ち上がり様にエリを軽く蹴飛ばした。

「あ……エリさん?」

 そこに倒れているのがエリだとようやく気が付いた華花が、小六の顔とエリの姿を見比べて、どうにかそこに自分の望む関係を見出そうとして――不可能だった。

 どう見ても小六が全ての元凶で、倒れ伏したエリを嘲弄している。しかも倒れ伏した彼女には既に興味も失った様子で、助ける様子などあるはずもなく他のなにかに気を取られている。それは華花の知る小六の姿ではないはずだった。華花は足もとが覚束なくなり、その場にぺたりと尻を着く。

「……ふん、シンギュラリティか」

 助に値踏みするような目を向けて、小六はそう呟いた。

「貴方は……一体何なんですか……」

 助の質問に小六は答えるつもりはないようだった。それどころか、彼の耳にその声が届いているかも怪しい。静かになった廃墟を見回して、小六はつまらなさそうに鼻を鳴らした。

「こんなものか」

 華花が立ち去ろうとする小六のスラックスの裾に取り縋る。

「ま、まって、小六さ――」

「離せ、塵が」

「――え?」

 華花の顔から表情が消えた。感情が消えた真っさらな瞳が映すのは、小六の苛むような蔑視だ。

「御前の役目はもう終わったんだ」

「わたし……終わり……?」

「そうだ――御前はここで役目を果たしたんだよ、爆弾としてな……だというのに、お前は壊れずにそこにいる。小癪な話だ」

「で、でも、わたしは……だって、小六さん言ってたじゃないですか、わたしなら方舟を解放できるって――」

「あれは御前を動かしやすくするための方便だ」

「ほうべん……え、でも、ほら、さっきのクオリアも……」

 尚も食い縋る蘭堂・華花に、小六・聖はあからさまな不快の舌打ちをぶつけて時間を確認した。

「もう一度言う。御前は使い捨ての駒だ。後顧の憂いを断ち切るためのな」

 小六は華花のアミュレットに、彼女のアドレスを持つ者と指定のアドレスにのみ作用する、超高密度の害意詠唱を予め仕込んでいた。それを作動直前に察したエリが、自分の身を顧みずに助と仁と、そして華花のCUSポートを動的防護で保護したというのが、小六の口から語られたあの一瞬の顛末だった。

 華花もようやく理解した。自分の存在が本当はとても滑稽な思い込みの産物であったことを。

「聖、そろそろ――」

 彩が一瞬だけ憐れむように華花を見たが、その視線に気付く余裕など、今の華花には存在しなかった。ただただ現実に打ちひしがれる。

「ちっくしょう、てめぇ好き勝手して逃げんのかよ⁉」

仁は涙や鼻汁でぐしゃぐしゃになった顔に憤怒を浮かべて、錯乱したように小六に殴り掛かる。だがその拳は小六に届く直前に流れるように角度を変え、小六に叩きつけるはずだった勢いは、そのまま仁の背中を廃墟の硬い床に叩きつけていた。仁がその衝撃を痛みだと実感するよりも早く、彼を投げ落とした小六が仁の腹部を容赦なく蹴り潰す。仁が腹筋を引き締めてその攻撃に備えられたのは喧嘩慣れした彼の直感だ。さもなければ臓器の一つや二つ傷ついていてもおかしくはない苛烈な一撃だった。

「チャンターってのは護身教練もあるんだよ」

 それだけ吐き捨てると、小六はもう仁に興味を失ったらしい。肺から無理に空気が抜けてむせる仁を置いて、革靴の底を擦るように歩いていく。

「ああ、ガキども、動けるならとっとと逃げた方がいいぞ。すぐに機動隊が大挙してくるからな……問答無用で捕まるぞ」

 小六は表情の窺えない顔で振り返り様に忠告を残すと、現れた時と同じように闇の中に溶けて消える。

「くっそぉ……」

 暗がりから染み出してくるような静寂の中に、仁が悔恨の呻吟を滲ませる。

 助は、全く動けなかった。小六の圧倒的な存在感と非常識なまでの非情さに、頭も身体も理解を拒絶している。呆然と成り行きを見るだけの自分が情けないと悔しいと、そんな感情を抱けるようになったのはもっとずっと後の話だった。

 だが、差し迫った現実はもうすぐそこまで来ているのだ。小六の言葉が真実であれば、ここにいれば間違いなく面倒なことになる。だが、巽とエリ、そして華花を引きつれて逃げるというのがどうにも現実的に思えなくて、助も、そして仁すらも途方に暮れていた。まだ、現実が受け止めきれていなかったのもある。このまま警察に身柄を確保された方がよほど気楽なのではないか――そんな考えに思考が染まろうとしている。

 そんな二人に喝を入れる声が、闇の中から響き渡った。

「丹下君、坂神君、田中さんと蘭堂さんを! 車を出しますよ!」

 それは知らない男性の声だった。小六の突き放すような怜悧なそれとは真逆の、アルトの人懐っこい声が切羽詰った高声で二人を呼びつけた。

 後の事はよく覚えていない。巽を仁が、エリをその男性が抱えて外に止めていた車に乗り込み、助はひたすら華花を励ましていた気がするのだが、助自身、その夜の出来事は全て夢か幻のようにも感じられて、その記憶が確かな現実だと信じることは到底不可能な難事だった。


  ※  ※  ※


 あれから一週間が過ぎた。

 謎の男性の手引きで廃墟を脱出した三人は、巽とエリをすぐに病院に運び込んだ。だが巽はどうやったらここまでと医者も呆れ返る程の重傷で、今も集中治療室の中だと、後になって助は仁からその事を聞かされた。エリも検査入院という形で病院に残してきたが、翌日に本人の希望で退院手続きを行ってから杳として行方が知れなくなている。車を回してくれた男性もいつの間にか姿を消して、礼を言うことも出来ていない。

 崇神会壊滅の一報はこの一週間、どのメディアでも一面に取り沙汰されている。報道の中で彼等は、詠唱技能を使っての誘拐事件や暴力団との関与が明るみになった極悪非道の不良グループという扱いだった。よく名を聞くコメンテーターやら犯罪心理学者やらCUS法理学者等々、様々な人種が崇神・皇やその腹心に思い思いのレッテルを張っていく。

 それらのほとんどが与えられた嘘の情報に基づいたいい加減な憶測だと知っている助は、小六・聖という男の行使する権力の大きさに戦慄する。同時に自分の立場、生活がいつどこから突き崩されるかわからない恐怖を感じる。だがそうやって戦々恐々と日々を過ごす助を嘲笑うように、小六・聖を筆頭にする恐怖の影、そして蘭堂・華花から始まった非日常はどこか遠くの世界に消え去ってしまった。記憶だけを助に刻み付けて。

 心は、傷が深ければ深いほど立ち直る時間が早い事がある。肉体の痛みを誤魔化すよりも心の痛みは誤魔化しやすいからだ。傷が深ければ深いほど、防衛本能は過敏に痛みに反応する。それは得てして現実逃避に走る事、すなわち心の異常を伴うのだが。

 助にとっての現実逃避はそれほど難しいものではなかった。あの事件に関わったものが目の前にないのだから。

 このまま全てが自然消滅してなくなれば、助は元の生活に戻れるのではないかと淡い期待を抱いている。だがそれは風前の灯火であり、唾棄すべき惰弱だ。元の生活に戻るどころかきっと御陵・睦に合わせる顔すらなくなる予感があった。

 その予感は、自分が捨て去ろうとしているものの中に、絶対に手放してはいけないものがあることを告げている。その衝動は助の身体と意思を揺り動かして、安易な遁走を許してくれない。

 助は蘭堂・華花の事が気掛かりでならなかった。詳しい事情は分からずとも、彼女があの男に手ひどく裏切られたという事実は分かっていたのに――あの時、華花の家までついていくべきだったと後悔したのは華花が学校に来なくなってから二日目だった。

 気掛かりに突き動かされる形で、助は以前エリが話していた蘭堂・華花の住居近辺――御山北側のアパートを虱潰しに探してみた。そうしなければ衝動に心が潰されてしまいそうだった。だが、ひとりぼっちの捜索は全て空振りに終わり、焦りばかりを募らせる結果に終わる。華花の住居はおろか足跡すら見つけられなかった。

 焦りが大きくなるにつれて、小六に対する怒りが滲み出てきた。だが、それだけだ。対抗心など微塵も起きない。助にとって小六は自然災害と変わらない対抗心を起こすだけ馬鹿らしい存在だった。悪意をもって思惟的に被害を及ぼす嵐。それが小六という男なのだと、助の心は了解してしまっていた。

 その了解は助の心をゆっくりと蝕んでいった。毎日のようにだだっ広い旧市街を計画的に歩き回り、繁華街を流れる人波を眺め、時にはビジネス街の方まで足を延ばして蘭堂・華花の姿を求めていた助だが、小六の影が心の大半を覆いつくすようになった頃には、御山に登って街を見下ろすのが精々になっていた。

 変わらぬ街の風景を眺めながら助は、もう蘭堂・華花はこの街にいないのではないだろうか。すでに別の場所で静かに暮らしているのではないだろうか。これだけ探して見つからないのだからと、自分を納得させようとしていた。

 そうやって色々な事を納得してしまえば、今の生活はとても静かなのだ。周囲だけではなく胸の中にも諦観の凪が訪れている。そうやって心が死んでいくのを恐れた衝動も、今は鳴りを潜めていた。

 果たしてこの一か月は一体なんだったのだろうか。あのエンチャンターの少女は、方舟は、勉強会は、崇神会は、一体なんの冗談だったのだろうか。

 ずっと求めていた蘭堂・華花の笑顔も、もはや記憶の靄の中に埋没しかけている。もう一度会いたいという欲求もすでに無事であってくれれば、という祈りに変わった。華花を探すという目的も、その祈りを確かめる巡礼の放浪に変わっていった。

 その日も、学校の帰りに助は御山公園に来ていた。西側にある小さな公園ではない。御山の東側、展望デッキの下に広々と拡がる市立公園の方だ。

 都市開発の一環で整備された小奇麗な園内は様々な遊具や設備が整い、休日ともなれば芝生の広場は家族連れで賑やかしくなる。だが平日の今は寒風吹きすさぶ冬空の下に枯木立が並び立つ、その隙間を埋める人の姿もまばらな寒々しい光景を晒していた。

 ジョギングコースも兼ねた遊歩道の緩やかな傾斜を登っていくと、少しずつその傾斜が強くなり、展望デッキの真下くらいにくると御山の南側の登山道とさして変わらない様相になる。助はそのまま展望デッキを通り過ぎ、華花と歩いた御山神社の参道に入った。ここから参道を登れば御山神社だが、助は華花の面影を求めてその道を下り始めた。この先には華花と二人で崇神会に襲われた小さな公園があるのだ。

 常緑樹の多い御山は冬場でも枯木立で寂しくなることはないが、黒ずんだ緑は眺めているだけで助の気持ちを暗澹とひずませていく。高い空の下、重い雑木林の中を助は喘ぐように進んだ。

 到着した小さな公園に人気はなかった。あの時は日暮もすぎて暗かった公園を陽の光の下に一望する。再開発に取り残された公園は地元の人間が気まぐれに手入れをする程度で、冬場ともなるとほとんど忘れ去られてしぶとい雑草をあちこちにはびこらせていた。公園を一望した助の期待に応えるものはなく、寂れた公園は思い出を映写する会場のように、ペンキの禿げた鉄パイプの手摺りの向こうに冬の寒空を広げるだけだった。

 このまま進めば旧市街に降りられるが、助はそうしなかった。未練がましく彷徨ったところで、もう期待することにすら疲れていた。全て終わった事なのだと、自分に言い聞かせて踵を返す。

 その時だった。公園の奥、樹木の茂みになっている方から水の音が聞こえた。吸い寄せられるようににそちらに駆けだした助の目に、薄汚れた公園の水飲み場で身を屈める少女が映った。

 濡れ羽色に輝いていた髪はくすみ、埃っぽい肌は黒ずみ、精彩を失った瞳が上下する水を口で捉えようと無機質に揺れている。見紛うはずもない。あの日、あの時からずっと求め続けていた姿がそこにあった。足元に通学鞄を置いたいつもの制服姿の蘭堂・華花が、ボロボロの姿で水を飲んでいた。

「蘭堂さん!」

 助は思わず叫んでいた。その声は小動物が驚くような仕草で少女を振り返らせるが、蘭堂・華花は助の姿を認めるや否やとるものもとりあえずその場を逃げ出した。しかし動きに力がない。虚空をもがくようにふらつきながら走る華花を捕まえるのに、助は全力で走る必要もなかった。華花は助に腕を掴まれたと解ると、今度は必死にそれを振りほどこうと暴れはじめる。

「ごめんなさいッ、ごめんなさいっごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」

 まるで呪文のように謝罪を繰り返す華花に、助は必死に声を届けようと冷たい空気を肺一杯に送り込む。冷気にやかれた喉がひりつくのも意に介さない。

「落ち着いて蘭堂さん! 僕だよ!」

「許してください許してください、知らなかったんですっ、あんなことになるなんてわたし――!」

 助は恐慌状態の華花を見るのはこれで二度目だ。奇しくも前回華花が取り乱したのもこの公園だった。

「華花っ!」

 ほとんど怒号のような声で少女の名を呼び、力任せに抱き寄せて、自分の腕で縛り付けるように抱きすくめた。

 それでも華花は助の腕から逃れようと暴れ続けたが、これが本当に十七歳の少女の力なのかと疑うほどかよわい。抱きしめた感触からも、行方不明になっていた間、ろくに食事をしていなかった事が窺えた。

「大丈夫、何も怖いことはないから……もう大丈夫だから」

 腕の中の華花の抵抗が弱くなったのを見計らって、助は少女の顔を窺い見た。夢にも見たあの少女の顔が、今そこにあることが感慨無量の喜びだった。自然と助の表情もほころぶ。

「あ……」

 その顔を見て、華花は初めてそこに助を意識したようだった。目を見開き、そしてくしゃりと泣き顔になったかと思うと、華花はそのまま助の腕の中で意識を失ったのだった。


  ※  ※  ※


「……なるへそ、事情は分かったわ」

 息子を居間の中央に正座させ、腕を組んだ丹下・朝来(あかした・あさき)はそれを見下ろした。奥のダイニングキッチンでは、華花が朝来お手製のおかゆを啜っている。

 このとても愉快で非常識な状況に、朝来は大きく息をついた。息子が空腹で倒れた女の子を持ち帰ってきたとあれば、致し方のない心境だろう。

「で、あんたはあの子を家に置きたいと」

「はい……」

 流石に無茶なお願いをしていることは助も承知している。朝来にはそれこそ聞かせられない部分を誤魔化して事情を説明してあった。すなわち、この蘭堂・華花という少女は養父に見捨てられて住む所も奪い去られ、それからずっと街を浮浪していたという話だ。

 朝来としては確かに可哀想な話だと思うが、あまりにも内容が荒唐無稽すぎる。同情には値するが信用に値しないのだ。そもそも頼る相手が間違っている。この家は児童相談所ではないのだから。

 それでもすぐに本当の児童相談所に連絡しなかったのは、珍しく――本当に珍しい事に、あの助が我を通そうとしているからだ。助からすれば華花がエンチャンターであることが外部に漏れることを警戒しての措置なのだが、朝来にとっては息子の変化が重要だった。だからこそ、ここはもうひと押し必要となる。

「クオリア見せなさい」

「え」

「それが手っ取り早い」

 断言して不動の構えを見せる母の姿を前に、助は必死に思考を巡らせる。華花の事情はかなり端折って説明している。もしここで華花に関するクオリアを見せれば、間違いなくここ最近の事件と華花の素性も勘繰られてしまう。そうなれば余計な心配を親にかけることになる。なによりそれも華花を見つけられた今、それらの出来事はすべて助の中で終わった事なのだ。今更ほじくり返されて生傷に触れられるのは御免被りたかった。

 そもそも華花の同居も華花が次の住居を見つけられるまでという期限付きであり、そんなに警戒することではないのではないかと思うが、それがまさしく『親の心、子知らず』だと、助が気付くはずもない。

 助はキッチンテーブルで所在無げに粥を口に運ぶ華花を見た。ここで自分が扱いを間違えれば、華花は間違いなくまた遠くへ行ってしまう。もはや賽は投げられたのだ、ここは一か八かに賭けるしかない。

 助は震える手でコンソールを開くと、華花に関するクオリアをまとめ上げて母親に送信した。朝来はそれをにべもない顔で再生して、しばし沈黙した。

「……嘘はないわね、それに……ふぅん」

 にんまりと母の顔に広がる笑みを見て、助は背筋がぞわりと総毛立つのを感じた。

「ま、いいわ。助の気持ちは分かった。で、よ」

 朝来はくるりと華花の方に向き直った。

「お嬢さん、あなたは?」

 華花は持ち上げた匙を一度椀に戻して、その椀の中に答えを探すように黙り込んだ。朝来と助が辛抱強く華花の言葉を待っていると、華花はまだどこか昏さの残る瞳を二人に投げかけて、口を開く。

「御迷惑なら、わたしはこれで失礼します……おかゆ、ありがとうございました」

「ちょっと待って、なんでそうなるのさ⁉」

 立ち上がりかけた華花を、助が慌てて押し留めた。

「失礼してどうするつもりなのさ? 住む所は? 食事は? 学校は⁉」

 助の剣幕に押されるように華花は俯くが、何一つ答えを持ち合わせていない現状を悟ったのか、大人しく椅子に戻った。助は椅子に腰かける華花と目線を合わせるように屈むと、これまでの半生で最も真摯にその瞳を覗きこんだ。

「どうするか決まるまででいいんだ、ここにいて欲しい」

 助の言葉に、華花の瞳が揺らいだ。

「そう、これは僕から華花へのお願いなんだ。君が安心して暮らせる場所にいてくれないと、僕が不安なんだよ。だからこれは親切なんかじゃない、僕が僕の為に華花の手伝いをしたいんだ。華花は僕に対して気に病む必要もないし、嫌になったらすぐ出て行ってくれて構わない」

 助は膝の上で行儀よく重ねられた華花の手に自分の手を重ねた。何故かそうしなければいけない気がした。

「それまで、ここにいてくれないかな」

 華花は助の瞳に吸い込まれるように頷いていた。お互いの意思を確認し合うように見つめ続ける二人の向うから、完全に蚊帳の外に置かれた朝来がどうにも気まずい声を上げた。

「あー……息子くん、それを決定するのは私なんだけど?」

「え? あ、あーあーあー……駄目かな?」

 ようやく母の存在を思い出した助が、いろいろ恥ずかしい気持ちを隠すようにぎこちなく空笑いを浮かべて見せた。今日何度目かの朝来の重い溜息が床を這った。

「ま、そこまで言われたらノーとは言えないわね」

 助の本気を見るのは一体いつ振りだろうか。態度とは裏腹に、朝来は華花の存在に感謝していた。

「でも、あの、わたし……」

 まだ煮え切らない華花に助が不安そうな顔をする。朝来は手間のかかる二人に近づき、何か言おうと口を開きかけた助の頭を押さえつけて華花の顔を見据えた。

「華花ちゃんだっけ? 私からもお願いするわ。この馬鹿の為にしばらくここで元気になってちょうだい?」

「……本当に、わたし……いいんですか?」

「もちろん」

 屈託のない笑みで肯定されれば、華花にはもう反論の余地がなかった。

「じゃあ、お世話になります……」

「ようし、そうと決まればお風呂入れてこなきゃね!」

「お風呂?」

 何故いきなり風呂なのか、と助の顔が疑問符を浮かべる。

「当たり前でしょ、あんた華花ちゃんをなんだと思ってるの」

 ほとほと察しの悪い息子に苦言を呈して、朝来はさっさとバスルームの方に消えてしまった。

 その言葉の真意を確かめようと助がなんとなしに華花を見る。

 夕暮れの公園でははっきりと見えなかったが、室内灯の黄みがかった光に浮かび上がる華花の姿はその苦労が忍ばれるみすぼらしさだった。

 エリ程ではなくとも日本人離れした雪白の肌は見る影もなく泥と垢に塗れ、夜もろくに眠れなかったのであろう、疲労の色を濃く映す眼下は特にどす黒い隈で覆われている。小奇麗にしていた制服も真っ黒に汚れて下地の色すらわからない有様だ。そんな状態のスカートから覗くすらりと伸びた大腿も顔より黒く汚れと垢が塗り込められ――そんな助のつぶさな視線に、少女はどこか居た堪れない様子で身を揉んでいた。心なしか顔が赤くも見える。スカートの裾をやはり黒ずんだ手で必死に伸ばしながら、助に咎めるような視線を向けている。

「その……まじまじと見られると、やっぱり恥ずかしいから……」

 華花のいじらしい姿態から羞恥が伝染したのか、助は短い謝罪を残すと慌てて自分の部屋に逃げ込んだのだった。


  ※  ※  ※


 その夜、助がまんじりともせず、ベッドの中から暗闇の天井を見上げている時だった。控えめな音を立てて部屋のドアが開けられる音がした。どうせ朝来がなにか小言を言いに来たのだろうと身を起こして、固まった。そこにはサイズの合わない朝来の寝巻に身を包んだ華花が、廊下から漏れる僅かな光を頼りに助の様子を窺って立っていた。

「えと……起こしちゃったかな」

「……いや、起きてたけど……」

 こんな時間に自室を女の子が訪問するような境遇に初めて遭遇した助は、固唾を飲んで華花の一挙手一投足に注意を払った。もし期待するような行動を華花がとった時、自分がとるべきリアクションを――無論、据え膳であろうが今は拒否する心積もりだ――いくつか準備していると、華花が意を決した様子で部屋に一歩を踏み込んだ。

「あの、少しお話したいの……」

「……お話し……」

 それは華花に確認を取った言葉ではないのだが、華花は律儀に首肯した。助としては肩透かしを喰らった気分に自分の中で道徳的な整合を付けるのに精一杯で、返答のタイミングを失してしまった。その沈黙を了解と取ったのかそれとも最初から返事を待つつもりはなかったのか、華花はゆっくりと助の部屋を横切り、助が横になるベッドに腰掛けて小さな背中を丸めた。

 こうして見ると、華花は本当に小さい。その小さい身体で、今まで一体どれだけの秘密と辛苦を抱え込んでいたのかと思うと、助の胸裏に苦味が走る。自然とそれは小六の唾棄するような眼差しと結びついて、ぐらりと身体が揺れた気がした。

「……わたし、実を言うとね……まだ小六さんのこと信じたくなる時があるの」

 まるでこちらを見透かしたような話に、助の感情も一気に引き締まる。

「あいつは……許せないよ」

「……うん」

 エリがあの時小六に向けて発した言葉を思い出す。あの語り口だと、どうやら小六という男は華花の精神系に細工を施して、都合の悪いものを見えないようにしていた節がある。

 そしてそうまでして華花を良いように扱っていたのは、あの瞬間の為。助は後で仁から聞いた話を思い出す。巽が小六に撃たれる直前に述べた、『方舟のプロトコルが睦のアミュレットの中にある』という話。崇神会は小六がそれを手に入れるために利用され、そして棄てられた。華花はその時に使い捨ての爆弾として一緒に葬られるはずだったのだ。

 助は我知らず握りしめていた拳の痛みで思考から戻ると、ベッドから身体を抜き出して華花の隣に座り直した。

「方舟って、何なの?」

 小六がそうまでして解析したがる方舟とは何なのか。以前聴いた話では五百年前のプログラムだという話だったが、一体何のプログラムなのか、あの時の話では今一つ掴み切れなかった。

「方舟は、疑似的な不老長寿を目指して、当時の科学の粋を集めたプロジェクトの中核を担うプログラムだったって、小六さんが言ってた」

 それは人間の精神系を吸い上げ、別の肉体に転移させて結果的な不老長寿を得ようという計画だったという。計画そのものは技術的な障害から立ち消えたが、今この世界の根幹をなすU2Nはその研究の副産物だという。

「それで、方舟にはまだ解明しきれていないU2Nの秘密が残されてる可能性があって……」

 共和議会はそれを血眼で求めているのだという。方舟そのものが無作為に現れては人間の精神系の一部――クオリアを吸い上げて遁走する事件の収束も兼ねて、U2Nが整備された三百年前からずっと追い続けているという。だがその苦労は空しく、方舟はまだ整備されていない集合無意識の未開領域、プリミティヴ・スペースを自在に行き来し、なかなかその尻尾を掴ませなかった。

「でも、小六さんは六年前に方舟の出現を予測できるシステムを構築した」

 小六はその可能性に呑まれた。華花の知る由のない話だが、小六は当時の仲間を捨て、研究資料一式と一緒に当時の研究機関であった大学院から消え去った。

 華花の話を聞くにつれ、助はこれまでの疑問が少しずつ溶融する感触を感じた。小六が呼んだ〈シンギュラリティ〉という名と、睦のアミュレットが助を通じて繋がる。

「……僕は方舟の鍵を持っていたんだね」

「そう……そして助くん、あなた自身も重要な要素だった……だから、わたしとエリさんがあなたのそばに監視として送られた」

「田中さんも小六の仲間なの?」

 とてもそうは見えなかったが、華花の言い様がそう聞こえて、助は訊き返した。

「ううん、エリさんは……実はよくわからないの。でもすごいチャンターだった」

 エリを評価する華花の言葉には実感が篭っている。素人目にはわからない、チャンターにしか理解できない領域はもっと広いのであろうが、その一部は助にも理解できる。降り注いだ光をたった一度の詠唱で止めて見せたり、あの一瞬で三人を守ってみせたりと、まるで本物の魔法使いのような手腕だった。

「……小六さんに言われてあなたの監視についた時は、こんなふうになるなんて思いもしなかった」

 華花が助の肩にその小さな額を寄せる。厚手の布地越しにもその体温を感じて、助はどうにも落ち着かない感情に翻弄された。

「わたし、監視のためだったけど、高校に通えるって聞いてはしゃいでたんだ」

 静かな華花の声に、助の平常心が戻っていく。

「でも、転校前日に監視対象があなただって知って……ちょっと運命を恨んだよ」

 監視任務の概要は嫌というほど確認させられた。その中に監視対象との接触、可能であれば常時傍に居られる程度の親密が盛り込まれていたが、まさか長年恨みを募らせていた相手が監視対象になるとは夢にも思わなかった。

「あぁ、だから最初あんなに睨んできてたのか……」

 その頃を思い出して助は暗闇に苦笑を浮かべた。あれは監視というより命を狙っていると言った方が正しいような殺気の篭った視線だった。

「えへへ……よく怒られてたよ」

 助の記憶の中では悪鬼羅刹もかくやという様相の二人が、華花の胸の内には家族として住んでいる。それは少なからず助を動揺させたが、それを口にすることは華花の古傷を抉るような行為だと気付いて踏み止まる。これからその思い出にどうやって向き合うかはゆっくり決めればいい。助は華花に話を促した。

「そうだったんだ……怖い人だったの?」

「うーん、彩さんは優しい人だったよ。逆に小六さんは少し厳しい人で、彩さんはわたしが詠唱技能の練習で失敗して落ち込んでたらいつも励ましてくれてた」

 両親に他界され、損得勘定だけで自分達を預かった親戚に疎まれ、兄のクオリアを失い、独学で必死に詠唱技能を習得しようとしていた華花に手を差し伸べたのが小六と彩だった。あの二年間は、それまでの華花の人生の中では確かに幸せな時間だったろう。

「……でも、わたしはあの二人にとって、道具でしかなった……」

 華花の声は震えていた。その震えを取り除きたくて、助は華花の細い肩に手を置くが、それでも少女の震えは止まらない。それどころか次第に大きくなっていくように助には感じられた。

「わたし……棄てられちゃったんだ……もうお兄ちゃんのクオリアを取り戻すこともできなくて……なんにもなくなっちゃった……生きてる意味がなくなっちゃったよ……」

 今にも泣きだしそうな華花は、肩に乗せられた大きな手に自分の小さな手を重ねた。まるで縋るように、求めるように差し出された手の温もりは確かにそこにあるのに、助は妙な距離を感じて焦った。

「僕がいる。華花がいなくなったら、僕が悲しいよ……だから、そんなことは言わないで……」

「……うん」

 華花が助の胸に顔を埋める。次第にそこから体温とは違う、湿り気を帯びた温もりが広がっていく。それが涙だと気付いて、助はそういえばここまで華花はずっと涙を流していなかったことを思い出した。

「会いたかった……一人でずっと彷徨ってる間、助くんのことばかり考えてた……すっごく、すっごく会いたかったんだよ……」

「僕もだよ、華花……」

 しがみついて静かに嗚咽を漏らす少女の肩を、助は抱けなかった。腕を動かそうとすると目の前を睦の顔がちらついて、助はこのまま華花を抱き締めることに躊躇いを覚えていた。


  ※  ※  ※


 学校側には助と華花が同棲していることを伏せたが、事情を知る仁には説明して黙っていてもらうことにした。仁も驚きはしたものの、すぐにいつもの調子で美少女と一つ屋根の下で暮らす助の幸運を羨んでいた。

 あの事件で仁とて何も変わらなかったわけではない。今も巽は集中治療室の中で、精神の傷と戦っている。仁は時間が許す限り毎日のように病院に通い、彼が目を覚ますその瞬間を待ち構えていた。「目が覚めたらとりあえずぶん殴ってやらねえと気が済まねえ」と嘯いてはいたが、それを己の責任だと一身に背負っている姿は四年前の自分と重なり、助にはその心中が痛いほど理解できてしまう。それでもなお、仁は普段の自分を崩さず、日常を続けている。

 いつの間にか日常になっていたもう一人、エリの姿は相変わらずそこになかった。一応学校側に休学届は出ているようなのだが、その理由は誰もしっかりと理解していないらしい。助も仁も華花も「あの人の事だから……」と余計な心配はしていなかったが、このまま二度と会うことがないというのはどうにもバツの悪いものが残る。

 しかし、そういった事後処理的な諸々が意識の端にあっても、華花の居る日常、華花と過ごす平凡が、助に四年振りの平穏をもたらしているのも事実だった。それは二人の距離にもしっかり現れている。

 学校の級友に「一体あの二人に何が起こったのか」と色々な想像を働かさせて楽しませる程、二人はそれこそ四六時中一緒に行動していた。助と華花が抱えていた謎の因縁は、級友の間にも広く知れ渡っていたから、周囲の興味もひとしおだ。

 一つの家に住んでいれば登校も下校も同じになるのだから一緒に居る時間が増えるのも当然と言えば当然だが、それ以上に二人からは必死に離れまいとする執念のようなものすら感じられた。

 それでいて級友にいつから付き合っていたのかと問われても、二人は別に付き合っていないと答える。勿論、問い質した方は怪訝顔で信じない。単に照れているだけだと解釈して追求しないが、仁は気に食わなかった。

 華花の方はわからないが長い付き合いの助の方はどうしてもその思考が透けてくる。ここの所の助は本当に傍から見ていてうんざりするほど幸せそうだ。それが仁には『華花と居る以上、幸せでなければいけない』と、助が自分を脅迫しているように思えた。それがいずれ二人に決定的なずれを生じさせるのではないかと、仁は二人の笑みの裏の影に不安を感じていた。

 そしてそれは華花自身も感じていた。助は間違いなく笑顔の裏に何かを隠していた。『隠す』という表現が適切でなければ、誤魔化していた。そんなものを抱えたまま優しく微笑まれても、不安しか覚えない。それ以前に華花も自分自身の行いからいまだに解放されていないのに、助はそういった腫れ物に触れないよう、慎重に気を使っているように感じられる。

 そんな華花が助の本心が知りたいと思うのは当然の成り行きだろうが、二人はあれから一度もクオリアを交換していない。仁が聞けば開いた口が塞がらなくなるであろうほど、それは恋人として異常だった。今時の若い恋人同士なら、言葉の前に相手を好きだというクオリアを見せあうのがマナーですらあるのだ。本人達がどれだけ否定しようが事実上の恋人であろう二人が、それをしていないとなるとお互いの気持ちを疑っても仕方はない。

 そんな、軋みながらも進む当たり前の日常の中、よりにもよってクリスマス・イブの前日にその手紙は届いた。

 紙製品が数寄者の嗜みになってから幾星霜、一般家庭の郵便受けもそれに合わせて様変わりした。チラシや配達物もデジタル化した昨今、郵便受けはそうした外部からのデータを蓄えておくストレージであると同時に、悪意あるデータを跳ね除ける防衛機構としての役割も備えている。然るに、紙の手紙が入るようなスペースを設ける必要性はないのだが、丹下家の郵便受けは家長である丹下・喜助の趣味で旧来の受け口が設けられていた。

「いってきます」

「お母さん、いってくるねー」

 助に続いて華花が元気よく出掛けの挨拶を残す。朝来は華花の母親ではないが、華花はそう呼べる事を喜んでいる節があり、助も朝来も細かい事は言わずにいる。

 門を出る前に、助は郵便受けの取り出し口を開けた。毎朝の郵便受けの確認は助の仕事だった。アミュレットで郵便受けにアクセスし、デジタル・アナログ両方の中身を確認する。特にこれといったものがなければそのまま登校するし、あれば母に内線でその存在を通知して取り出してもらう――そう、郵便の受け取りはどこからでもできるのだが、折角ちゃんとした『郵便受け』があるのだからきちんと調べないのはもったいないという両親の意向で助が毎朝要らぬ労力を強いられている――というのも言い過ぎだが、その日、助は初めてその仕事の本来の作業である、紙の手紙を取り出す行為を体験した。

 郵便受けの中にちょこんと投函されていた、薄桃色をした長方形の封筒に差出人はなく、裏の隅に『丹下・助様へ』と丸っこい手書きの宛先があるだけだった。

「助くん、どうしたの?」

 先に門を出た華花が足を止めたままの助を少し離れたところから窺う。とりあえず珍しいものではあるが自分宛ということもあって助は母親に伝達する必要性を感じず、それを制服のポケットに仕舞込んで駆けだした。学生にとって朝の時間は一分一秒が貴重なのだ。

「なんでもないよ、行こうか」

「うんっ!」

 助と華花は並んでゆっくりと歩き出した。二人で歩くこの時間は学生の朝といえども急かすことのできない大切な時間なのだ。

 二人はそんな感じで、助の家から学校までの約二キロ程の道のりを、毎朝歩いて登校していた。

「よう、御両人」

「おはよう」

「仁くんおはようー」

 そうして駅前の繁華街に入る前ほどで仁と合流し、そこからは三人で昨日の番組や他愛もない噂話などを口に上せて笑いあう。そんなどこにでもありそうな登校風景の中で、珍しいものがあれば取り出したくなるのが人情だろう。

「そうそう、今日こんなものが届いてたんだ」

 繁華街に入れば人が増え、歩きながら見せびらかす事は難しくなる。助は少し気を急いて、後からきちんと中身を確認しておくべきだったと後悔する事になる手紙を自慢げに取り出した。

「それ、さっきの?」

「お、なんだなんだ? 紙?」

 見たままの仁の物言いに込み上げたおかしさが、助の口角を吊り上げる。

「手紙だよ」

「手紙? ラブレターか!」

「なにそれ、助くん」

 仁の安直な発想に、華花の声が急速に冷え込む。仁が自分の失言を自覚した時には閑静な住宅街の風景が一気に氷点下まで凍り付いたように思えたが、助だけは何処吹く風で封筒を開封している。肝が据わっているのか慣れただけか、助の妙な成長に感じ入りながら、仁は助が取り出した紙片を覗き込む。華花も一先ず中身の確認を優先してそれ以上の追及はしなかった。

 封筒の裏に書かれていた文字と同じ丸っこい文字で書かれた五枚の便箋の内、四枚はU2Nでやり取りされるメッセージと大差ない、というかそのままの内容だった。

 メッセージを宛てた相手とこれをしたためた人物は相当に親密だったのか、いちいち名前の記入を省いている為に誰に宛てたメッセージなのか部外者にはわからない。とりあえず、その内容はその誰かの誕生日を祝うような内容だ。ありきたりな言葉の端々に収まりきらない思いの丈を感じて、華花は少し気持ちがざわつくのを感じた。そのざわつきの正体をはっきりと理解したのは、手紙を三枚目まで読み進めた時に助が発した一言がきっかけだった。

「これ……睦からのメッセだ……」

 それまではただ珍しいものを見たい好奇心で覗きこんでいた二人の気配がにわかに強張ったものへ変わる。信じ難い事実に瞠目して身を固くする助に対して、華花が恐る恐るその言葉を糺す。

「睦さんが書いたってこと……?」

 助は沈黙を守ったまま五枚目を一番上にもってくる。そこには市内のビジネス街付近の住所とU2Nアドレス、そして田中・エリスティーネ・アイヒホルンの名前が記されていた。

 この手紙は二か月前にエリに頼んだ文字化けメッセの解読の成果なのだと、助は理解した。やはり、囚われたクオリアは方舟の中に健在する。これらは『まだ何も終わっていない』というエリのメッセージだ。新しく手に入れた日常を突き崩す宣告。

「……そっか、睦さんのクオリアが書いたんだ……」

「どういう意味だよ……?」

 仁がまるで超常現象のような華花の物言いに表情を歪めた。

「助くんには年に一度、計四回の方舟からのアクセスがあるって、だから監視しなきゃいけないって、小六さんが言ってた」

 それは年に一度、つまり助の誕生日に、これまでの四年間の計四回、睦が方舟の中から助に誕生日メッセージを送り続けていた事実の裏付けだった。

「睦は……まだあの中にいるんだ……」

 助の便箋を持つ手が震えていた。喜びと、憐みと、怒りと、後悔と、恐怖が渾然となって助の身の内で猛りうねる震えだ。

 それが華花の抱いていた胸のざわつきを一気に膨れ上がらせた。想いも感情も思い出も、睦には何一つ敵わない。そんな劣等感が、華花の声を震わせる。

「睦さんの手紙……うれしいよね」

「そう……だね、嬉しいっていうのはあるよ……」

 だがそれだけではない。今まで自分の中で誤魔化してきた『まだ間に合うかもしれない』という焦りが、そのメッセージで顕在化した。まだ間に合うのであれば、動く必要がある。動けばまた、あの男や方舟に向かい合わなければいけない。たとえ仮初めでも、むざむざ今の平穏を捨てなければいけない。助の手に嫌な汗が滲むが、そんな助の内心を華花が気付く由はない。

「やっぱり……睦さんは特別?」

 その気配に逸早く気付いたのは仁だった。それをなるべく表に出さないように助に視線を送るが、助も助で万感の想いに呑まれてそれどころではない。上の空で口を滑らせた。

「そりゃ、幼馴染だしね……」

「わたしより睦さんがいいの」

 突然沸き立ったような華花の刺々しい声に、助がようやく顔を上げてそちらを見た。だがすでに時を逸したのは、華花の思いつめた顔を見れば火を見るより明らかだ。

「そう言うつもりじゃ――」

「じゃあどういうつもり」

 華花とて本当にこんなことを言いたいわけではない。しかし膨れ上がった感情は次から次に湧き出して、言葉にして吐き出さないと息が詰まりそうだった。

「どうって、本当にただ幼馴染だってだけで――」

 はっきりせず、しどろもどろになった助の情けない姿が腹立たしい。そしてそんなことで腹を立てる自分が情けない。それでも一度決壊した堰はすぐには戻らない。とうとう、ずっと意識の湖底に押し込めていた願望すら露わになってしまう。

「じゃあクオリアみせてよ」

 その言葉に助は息を飲んだ。いずれそうしなければならないとは思っていた。しかし、今の自分のクオリアは見せられない。見せれば、華花に嫌われる。しかし見せなくても疑われる。どう転んでも不幸しか及ぼさない結果が見えていたから、そもそもその話題に触れないようにしてきたというのに……。

 助の沈黙を答えと受け取って、華花は踵を返した。

「もういいよ……ただの同情なら、もう優しくしないで」

 ゆっくりと立ち去る華花を、助は追いかけられなかった。

 ただ茫然とその背中が住宅街の角に消えるのを見送る幼馴染に、仁はこれ以上ないくらいこれ見よがしな溜息をついた。

「おまえ、カナちゃんをどうしたいわけ?」

「どうって……物じゃないんだから……」

 本当にこの唐変木は物を考えて言葉を発しているのかと疑いたくなる覇気のなさに、華花でなくとも苛立ちを感じる。仁は助の背中に渾身の力で手の平を打ち付けた。

 ただでさえ気の抜けている助がその衝撃に耐えることも対応することもできるはずはなく、盛大にアスファルトの上に転がって仰向けに空を見上げる格好になった。

「おまえがなに考えてるか知らねえけどさ、ムツの事が好きならカナちゃんにもそう伝えるべきだと思うぞ」

 きっと服の下は見事な手形が出来上がっているだろう。じわじわと増す火傷のような痛みを背中に感じながら、助はぼんやりと、表情らしい表情も浮かべず、何かを探すように冬の透明な空を見上げていた。

 華花が去ってしまった衝撃は、助からまともな思考と言葉をも奪い去ってしまったらしい。仁がその沈黙に飽きて立ち去ろうとしたまさにその時になって、助はのっそりと上半身を起こした。

「僕は華花が好きだよ」

 その迷いのない物言いに、仁の胸まで熱くなる。同時にそこまでわかっているのにどうしてそれを真直ぐに伝えられないのかと怒りに似た感情も湧き上がる。

「じゃあなんでクオリア見せらんねえんだ。お前に限ってエロい妄想ばかりだからとかはないだろう」

 実際それで破局したカップルの話をいくつか知っている仁だが、助は乾いた笑を浮かべて首を横に振る。

「怖いんだ……」

「何が」

「……情けない奴って思われるのが」

 助自身も細かい自分の心理は捉えきれていない。ただ華花にクオリアを送ることを想像すると、無性に恐怖が迫り出してきて躊躇してしまう。その恐怖の出処も察しはつくが、問題はそんな怯えを華花に知られるのが嫌だった。それは以前の助にはない感情だった。いつ頃からなのだろうか、華花に対して見栄を張るようになったのは。

 だがそんな助の述懐を聞いて、仁は開いた口が塞がらない事態に陥っていた。

「おまえ……けっこうアホだよな」

 意表を突くあまりの物言いに、助も怒りではなく虚脱感を抱いた。

「なんでいきなりそんな風に言われなくちゃならないのさ……」

「いやだって、おまえがいつ情けなくなかったよ?」

 確かに華花と出会ってからは特に頼り甲斐があったとは言えないが……。

「……ちょっとひどくない?」

「ひどくねえな。おまえがいまさらそんなかっこつけてどうすんだよ」

「仕方ないだろ……」

 子供染みていると自覚していても、華花の前に立つと虚飾が優先されてしまうのはどうしようもなかった。

 確かに仁の言う通り自分が情けないことは助も承知している。しかし怖いものは怖い。今までずっとそうしてきたように、怖いものから目を背けてしまうのは身についた防衛本能なのだ。それこそ、もうどうしようもない。

 そう、今、助の中で二つのどうしようもないことがせめぎ合っている。見栄を張る自分と逃げ出したい自分。

「カナちゃんはさ……見る目はあるよ。ちゃんと等身大のおまえを見てる」

「等身大の僕……」

 それはどんな丹下・助なのだろうか。少なくとも今わかることは、きっとそれは華花に聞かない限りわからないということだった。

「そんな見る目あるカナちゃんがおまえのこと本気で好きになってんだ、もちっとそこに自信持てよ」

「自信?」

「カナちゃんが後ろにいたら、さすがのおまえだって逃げるに逃げれねえだろ?」

 ずしりと、浮足立っていた助の心に重しが乗った気分だった。

「僕は……やっぱり逃げてたかな」

「逃げっぱなしだな。仕方ないとは思うけどよ……でも、タツミの言葉を思い出してくれよ」

 助は、改めて言われるまで忘れていたという事実そのものに、自分の逃避を実感した。

 仁からの又聞きだが、巽はあの時方舟が解析できる可能性を口にして小六に撃たれたという。華花に出会ってから今日まで、助は方舟に関する多くの情報を手に入れた。それらはこれまで正体の分からない『何か』だった方舟を、助の中で実態を伴った目的になりうるものに変える可能性を十分に持ち合わせていた。後は助本人が向き合うかどうかだった。だがその可能性からも目を逸らした。相も変わらず、方舟から逃げ続けた。

「そのえりちんの手紙だってそうだ。これってチャンスなんだろ? もしかしたらムツを取り戻せるかもしれねえんだろ?」

 睦の名前が助の頭の中を過ぎる。それが今であれば大切な幼馴染の名前であると同時に足枷なのだと理解できた。

 方舟に向き合わない自分。それはそのまま睦に対する罪悪感から逃げることに変わりない。不器用な助が、けじめの一つもつけられない自分を華花の真正面に出せるはずがない。そうやってずっと誤魔化して、先送りにして、本心を隠したまま華花に良い顔ばかり見せていたのだ。

「たしかにこええよ、方舟もあいつらも……でも、おまえにしか出来ねえことだからこうやっておまえの周りに集まってくるんじゃねえかな」

 華花だって不安だったろう。そんな彼女に自分は取り繕った姿ばかりを見せつけて、華花の存在に甘えていた。そんなものを見せたくて、自分は華花を引き留めたのではない。自分と違い、出来ることを一つずつ積み重ねてきてここまで来た蘭堂・華花の事を、一番近くで支えたかったからだ。

 だが、それらは助自身の願いだった。結局、今となっては華花自身が助の存在を本当はどう思っているのか、知る術がない。

 華花のいない視界が寂しくて、俯く。同時に、こんな独り善がりを押し付けられては華花とて愛想を尽かせて当然だと、助は得心した。

「僕には何も出来ないのに……」

「なに勝手に終わらせてんだよ。出来ないんじゃなくてやろうとしてないだけだろがド阿呆」

「また阿呆って……その通りだけど」

「もう阿呆って言われたくなきゃ、動けよ」

「でも、華花はもう――」

「ああもう! おまえ、カナちゃんにちゃんと好きだって言ったか? カナちゃんにつきあってくれって言ったか? また勝手に思い込んでんじゃねえぞ」

 その一言に、はっとする。それが仁に伝わるくらい大袈裟に表に出ていたのだろう、特大の溜息が仁の口から噴き出した。

「いってこいよ」

「それで本当に上手くいくのかな」

「ここでうまくいかなきゃどっち道うまくいきっこねぇよ」

「……至言だ」

 仁らしいシンプルな言葉に、助の思考も感化されたのだろうか。あれこれ考えているのが馬鹿らしくなると、問題の中核が二つに絞られた。喪失者も、小六・聖も、方舟も関係ない。華花と一緒にいるために立ち向かうか、一生このまま逃げ続けるか、だ。

 今までは独りきりであったから立ち向かう可能性なんて微塵も必要なかった。だが今は違う。仁の言う通り、華花の存在は助自身の中で自己と同等かそれ以上にまで大きく、重くなっている。それこそ、すぐに逃げ出してきた自分が逃げることを躊躇うほどに、だ。

 つまり、既に答えは出ていたのだ。であれば、動きださなければならない。

「仁、担任にうまく言っといて!」

「おうよ、がんばれよ!」

 仁のその声を背中に受けて、助は華花が消えた路地に向けて走り出していた。


  ※  ※  ※


 もうこれで三杯目だろうか? 睦は困惑した様子で紅茶を啜りあげた。

 肩を落として忽然と現れてから今まで、華花は一言も喋っていない。睦としては会いに来てくれた事を喜びながらも、何をしに来たのか説明もしてくれないこの状況にはほとほとお手上げの状況だった。

 あまり急かすようなことはしたくない睦だが、このままでは埒が明かない。手持無沙汰に三つ編みを弄り回していた手を止めて、華花を見据えた。

「助の事?」

 ただでさえ小さい身体を更に丸めていた華花の肩が小さく跳ねた。図星をついた自分の勘に睦は小さく嘆息する。あとは華花が自発的に口を開いてくれればいいのだが、と期待を押し隠してソファに身を沈める。

 もうそろそろ昼食の時間が近い。華花が来た時点で、施設の職員に配膳は結構だと断っておいたから今日は作る必要があるのだが、問題は華花が昼食を食べていくかどうかだった。

 三人四人と数が多くなればなるほど、一人減ったくらいでは食べる方の負担も少なくなる分、作る量は曖昧でもいい。だが一人分と二人分では、倍も量の差があるのだ。流石に睦も二人分を一人で食べるのは辛い。

 そうしたら、二人分作って華花が食べなければ夕食に回そうかと思い至ったくらいで、世話の焼ける少女がようやく重い口を開いたのだった。

「ねえ、睦さん……」

「なあに?」

 返事をするが、後に続く言葉はない。華花は口の中でもごもごと言葉を探している。訊きたいことは決まっている、だが口にするのが躊躇われる、そんな様子だった。

 それでもわざわざここに来た以上はちゃんと訊かなければいけないと覚悟を決めたのか、今日ここにきて華花は初めて顔を上げて睦を正面から見据えた。

「睦さんは助くんの事――」

「好きだよ」

 まだ質問を言い切る前に即答され、華花の面持ちは気の毒なほど揺らいだ。その青褪めた顔に、睦は安堵を与えるよう悪戯っぽく微笑んだ。

「んふふ、半分冗談」

「じょ、冗談……って、半分?」

 華花の瞳に再び憂慮がよぎる。睦はあえてそれを見て見ぬ振りをした。

「もし、もしねタスクが告白してくれたら、私は受けるよ。彼のことを愛する自信もある、それから家族として一生添い遂げる覚悟もある」

 はっきりと言い切る睦に、華花は息詰まる閉塞感を抱いて、胸に拳を押し当てる。そうして圧迫していなければ、膨れ上がる感情に胸が破裂しそうだった。

「助ならクオリアのあるなしも気にしないと思う。でも、助は私を選ばない」

 強い意思を持った断定に、華花は引きつけられるように睦を見た。睦は何かに蓋をするように微笑むだけで、華花の言葉を待っているようにも見えた。

 何を言うべきか、何を伝えるべきか、華花は度重なる動揺ですっかり痩せ衰えた自分の心の中を探るが、結局出てきたのは疑問の欠片一つだけだった。

「……どうして?」

 それを待ち構えていたように、睦は再び言葉を紡ぎ始める。

「理由は二つ。一つは負い目があるから」

「負い目……」

「助はね、ずっと私から逃げてるって思ってる。私のクオリアを取り戻す方法を探さず、初めから諦めている自分じゃ、私のそばにいる資格はないって考えてるのかな……それでいて私の事を大切に思うのは自分の義務・責任だって思ってるんだから、笑っちゃうけど」

 言葉通り睦はくすくすと上品に笑って、唐突にその笑いを引っ込めた。

「そんなもので助を縛るのは嫌」

 決意がそのまま言葉の重さとなって、華花の心を揺らす。彼女は本当の意味で助の事を愛しているのだろう。それこそ、つい最近出会って、彼の事を知りはじめたばかりで逆上せあがっているような自分とは歴史が違う。敵うはずがない。対抗心を燃やすことそのものがおこがましい。華花の胸裏を埋め尽くすのはそんな後味の悪い理解ばかりだ。

 だが、その理解を払拭したのもまた睦の言葉だった。

「もう一つは華花ちゃんがいるから」

 その言葉に華花は耳を疑った。

「……わたし?」

 これまでの話からどうしてそんなところに話が繋がるのかわからず、我知らずに聞き返していた。

「そう、あなた。本当に、私に何が足りないの? って助にいくらでも問い質したいところだけど、どうしようもなく彼が選んだのはあなたなのよ、華花ちゃん」

「なんで……」

 どうしてそこまでわかるのか。どうしてそこまでわかるあなたじゃないのか。疑問が多すぎて言葉にならず、華花は再び俯く。

「私だってわからない。態のいい言葉を使えば運命ってことなんでしょうけど……華花ちゃん」

 名前を呼ばれて顔を上げる。ここまで、気持ちが篭って重くなった自分の名を呼ばれるのは、初めてだった。

「私は助の事ならなんでもわかる。その私が助の好きな人はあなただって自信を持って言ってる。きっとあなたなら助を私から解放できる。本当に助の力になれる。それを信じてもらえないかな?」

 睦の言葉はいつも華花の心を震わせる。力を与えてくれる。それでも、今の華花の萎んだ心が賦活されることはなかった。

 足りないのではない、睦と比較して気付いてしまったのだ。自分自身が、ここまで強く、助を求める意思を持っていないことを。

「わたし……助くんが優しくしてくれるから、甘えてただけかもしれない」

 誰かに親切にしてもらった経験の少ない華花が、助の性分的な優しさに絆されたのも仕方のない事だろう。小六という養父に裏切られ捨てられた直後の困窮の中であれば尚更だ。

 どうやったって購えない恩義を恋と勘違いした。それだけの事だ。だから華花はここに来たのだ。睦に助を返すために。

「もう、助くんの優しさがつらいの……わたしがなにをしたのか助くんだって知ってるのに、それでもあの人はわたしをそばにおいてくれる、守ろうとしてくれる……助くんがどうしてそこまでしてくれるのか、わかんないのが怖くて――」

 逃げ出してしまった。そう口に出そうとして苦い後悔がそれを押し留めた。口にすれば本当に認めてしまう気がした。自分の気持ちが思い違いであったと。

「それなら、聞きなさい」

 不意に華花の顔が睦の柔らかい手に押し上げられ、その凛々しい表情を押し付けられる。

「逃げずに、ちゃんと助に全部聞いて、それから逃げなさい。そんな中途半端な気持ちのまま助を返してもらっても、私は受け取れない」

 それがどれだけの難事か、華花は想像しただけで身震いする。だがそんな悠長な時間は与えられなかった。続く睦の言葉に耳を疑う。

「実はもう助を呼びつけてもらったから、そろそろ来るんじゃないかしら」

 既に手筈は整えてあると、睦は事も無げにそう言った。この時初めて、華花はこの人の本当の恐ろしさを知った気がした。


  ※  ※  ※


 自宅へ駆け戻り、学校に行ったはずの息子がとんぼ返りした事で驚く母に華花の所在を問い、説明もせず飛び出して方々を探し回った挙句、昼を回る前に施設から連絡をもらった助は迷わず最寄りの駅に駆け込んでいた。

 地方電車のまだるっこしい各駅停車を我慢し、バスのとろくさい速度に辛抱の限界が訪れそうになるのを感じつつ、挨拶もそこそこに検問所を駆け抜け、助は睦のコテージに激突しかねない勢いで転がり込んだ。

「華花ちゃんなら池の――」

 睦の言葉を全て耳に入れる前にコテージを飛び出し、芝生の地面を全力で走り、ビオトープを遡り、遊水池の畔に佇む華花を発見した時初めて、助はそのまま崩れ去るかと思うくらいに身体が疲弊していたことを知った。

 だがこんなところで倒れている暇はない。蘭堂・華花がすぐ目の前にいるのだ。もうその姿を見れないのではないかと、声を聴けないのではないかと不安の中を駆けずり回っていた助は、華花の方へ引き寄せられるように駆けだした。だが、その足を強い拒絶が絡めとる。

「こないで!」

 華花と助の距離はなんとか普通の声で会話ができる範囲で止まった。池を背後にする華花の思い詰めた表情を見て、助も無理に近づくことを止める。だが、足は止まっても伝えたい想いは止まらない。

「華花、僕はっ――」

「わたしがあの日、みんなを集めて焚きつけなきゃ、きっと今頃巽くんも仁くんも傷ついてなかった。助くんももしかしたらもう元気になってたかもしれない。エリさんだってなんだかんだきっと仲直りしてた」

 張りつめた愛らしい声に、助は息を飲んで聞き入った。華花は小さな手を胸の前で握りしめ、精一杯の声を絞り出す。

「全部、わたしが余計なことをしたせいでおかしくなった!」

 助は側頭部に鈍い衝撃を感じた。それは実際には存在しない、言葉の衝撃だった。

 華花の事を一番大切に思っていた。しかし実際は今初めて華花が何に追いつめられていたのか知った。これではやはり、仁に情けない奴だと言われて反論する余地などない。

 それでも、助の気持ちはもう揺るがなかった。想いは詰まることなく言葉に変わる。

「そんなことない。華花がいてくれたから、華花があの時アミュレットを取り戻そうと言ってくれたから僕はまたこうして睦に会いにこれた。巽だってきっとこれから助かる。そうすれば仁は巽と幾らでも話し合える、仲直りできるかもしれない。田中さんだってまたこうして連絡先を教えてくれた」

 それは希望的観測ばかりの妄言だった。だが助の本心そのものだ。こんなに無責任なことを口走ったのは、助のそれほど長くない人生の中でも初めての事だった。

 すべては華花を励ましたい一心だ。なにも重荷に感じることはない、そう伝えたかった。

「華花は余計な事なんてしてない。僕達の為にしてくれた華花の気持ちに、余計な事なんてあるもんか……」

 しかしどんなに言葉を重ねても華花の顔からは焦りを帯びた憂慮が消えない。助は自分の無力さに歯噛みした。

「……わたしね、いっぱいいっぱいあなたに迷惑かけてる、傷付けてる。だから、わたし自分が許せない……でも、なんで? どうしてわたしのこと責めないの? なんでおまえが悪いって怒らないの?」

 次第に感情的になる彼女の言葉に、助の声も苛立ちに似た激しさを帯びる。

「華花は何も悪くないからだよ!」

「悪くない……?」

 華花の瞳からついと涙が零れた。それは次から次へと数珠の様に繋がり落ちていくが、華花はそれも意に介さず声を張り上げた。

「ばかじゃないの? 全部わたしのせいじゃない! アミュレットがとられちゃったのも! エリさんが学校にこれなくなっちゃったのも! 巽くんがあんなことになったのも! 仁くんを悲しませるのも! 全部全部わたしのせい! 全部わたしが悪いの!」

 華花の声は底抜けの青空を満たして助に重く圧し掛かる。

「あなたは優しすぎるの! そこが大っ嫌い! 人の気も知らないでずけずけと甘やかして、どんどんわたしを駄目にする!」

 華花がそんな風に思っていたことなど、助は夢にも考えなかった。いや、本当は気づいていて、その上で気付かぬ振りをしていたのかもしれない。ただ彼女の事が大切で、大事にできればそれでいいとさえ思っていたから、真実など邪魔なだけだった。

 だがそれが華花に寄りかかっていたかっただけなのだと、ようやく本当に理解する。

「あなたといたらわたしは! わたしは……どんどん……幸せになっちゃうんだよ……」

 華花の声が涙の中に埋没して消えた。咽び泣く少女がこのまま消え入ってしまう錯覚が助を動かし、華花を抱き締めさせていた。

「お願いだから、ちゃんと叱って……そんなに優しくしないで……怒ってくれないと、わたしは……自分が許せないの……」

 それが彼女の抱えていた想いなのだとしたら、自分の抱えていたもののなんとちっぽけな事か。

「ごめんね、君のそういう気持ち、全然知らないわけじゃなかった……でも、こんなに追い詰めてるなんて思わなかった……ごめん」

「また、そうやって優しくする……」

「違うよ……僕は全然優しくなんてないよ……自分の都合で華花に逃げ込んでただけで……」

 本当に情けない。申し訳ない気持ちで一杯になる。だがここで泣いたら、本当に情けないだけの男になってしまう気がして、助は涙を言葉に変えていく。

「僕が君を許す」

 腕の中の華花が反論しようと顔を上げた。

「……それじゃ意味ないの、わたしは――ッ⁉」

 その唇に自分のそれを重ねて、声を封じた。

「もう、そんなのどうでもいいんだよ」

 浅く軽い口づけは一瞬だったが、出し抜けの事に華花の思考は完全に停止した。華花のぼんやりとした面持ちに吹き込むように、助は自然と微笑む。

「なにもかも全部どうでもいいくらい、僕は華花が好きだ。好きで好きでたまらなくて、ずっと一緒に居たくて、そのためにどれだけ恰好悪くても後ろ指差されるようなことになっても、華花と一緒に笑っていられるなら、もうどうなったって構わないって思ってる」

 それが助が行きついた答えだった。身も世もなく、ただ華花がいればそれでいい。巡り巡って辿りついた答えは結局そのくらいのものだった。

 華花はなにも答えずに助の胸に顔を埋めて、その背中に腕を回す。助も華花を抱く腕に少し力を籠める。

「君が君を許せないなら、僕が全部許してあげる。華花の気持ちも、睦も、お兄さんのことも関係ない、僕が華花を許す。今みたいにまた華花が押し潰されそうになったら、また僕が許してあげる。僕が……えっと、違うな……その……僕達でなんとかしていこう。二人で」

「……二人で」

 顔を埋めたまま、華花のくぐもった声が繰り返す。

「うん、二人で、許せるようになろう。だから、もう独りで悩まないでよ」

「……助くんは、やっぱり優しすぎるよ……」

 言いたいことは言い切った助だが、こんな独り善がりな宣言だけで終わりにしてはそれこそ無責任すぎる。そう思い直して、いつのまにか見通しの良くなっていた本心を見つめ直す。

「……正直言うとね、やっぱりどうしたらいいかはわからないよ。やっぱり方舟は怖いし、あいつだって怖い。もう二度と会いたくないって思ってる。あいつをなんとかできても、方舟をなんとかする自信だってない。……でも、華花に対する想いだけは信じられる」

 華花の涙を啜る音を返事として、助が続ける。

「その気持ちにだけは嘘をつきたくない。誤魔化したくない。真っ直ぐに向き合っていたい。その為にも僕は方舟に向き合わなくちゃならないと思う。どんなに怖がってたって、方舟がこの世界に存在する限り、来るときは来るんだ……だから、僕達の方から行こう。行って、失くしたものを全部取り戻すんだ。華花も、お兄さんを取り戻そう? そうしたらきっと、みんな笑顔になれるはずなんだ」

 結局、助が最も無知であり意地を張っていた。認めようとしなかったのはどれだけ自分が無力で小さな人間なのかという一点だ。それさえ受け入れてしまえば助は自分が取るべき道も覚悟も決められる。

「田中さんを頼ろう。あの人はきっと何かを僕達に見せたくて連絡先を寄越してくれたんだと思う。この先の選択権を僕達に与えてくれたんだ」

 これがきっと最初で最後のチャンスだと自分を奮い立たせても、それだけでは四年間培ってきた恐怖には立ち向かえなかっただろう。

 助は腕の中の小さな温もりを意識して、萎縮しそうになる覚悟に新たな想いを注ぎ込む。華花と二人であれば無限に湧き上がるそれなくして、小六にも方舟にも対峙できない。

 華花は助の言葉に真理も摂理も関係ない、ただそのままの純粋な感情の在処を見た気がした。そしてその途方もなく単純な感情は自分の中にも確かに存在している。答えはこんなにも簡単なものだったのだと、思い悩んで惑乱した自分がおかしく感じられた。そんなおかしさは自然と涙を乾かし、口の端を吊り、眦を下げる。

「助くん、大好き」

 こんなにも自然に微笑んだのはいつ以来だろうか。助の顔にもその幸福が映ったように笑みが灯り、言葉の代わりに唇が重ねられた。

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