解キ放ケク詞(ときさけくうた)

立津テト

前編

 丹下・助(あかした・たすく)が忘れ物を取りに夕闇迫る教室を訪れると、そこには一人で居残る蘭堂・華花(らんどう・かな)の寂しげな姿があった。

 彼女と助はクラスメイト以上でも以下でもない、ただそんな人物もいたなという程度の認識――少なくとも助はそう思っている。

 だが、彼女の方は少し事情が違うようだった。気が付くとあまり好意的ではない瞳でじっとこちらを注視している彼女が、助は苦手だった。

 そんな素行であるから普段の愛想も付き合いも悪く、蘭堂・華花の評判はクラス内でもすこぶる悪い。危うきに近寄らずではないが、あまり関わり合いになりたくないクラスメイトだった。

 助は今年で十七になる、県立久早高等学校の二年生だ。中肉中背、特にこれといった特徴もなくクラスでも本人としてはあまり目立たない種類の人間だという自負があり――その自負がここ最近ある人物のせいで脅かされているのだが――性向としては臆病で優柔不断だと自覚している。

 それ故に、助は教室の入り口に立ち尽くして困窮している。寄りにも寄って、その蘭堂・華花が、助の忘れ物がある席に陣取っているのだ。この学校は学級で指定の席を決めたりしない。それ故の不幸だった。

 晩秋の陽が釣瓶落としになずんでいく中、教室の明かりもつけずに自分のノートに集中する彼女の背中を見ながら、助はどうやって席の脇に掛けられている袋を持ち出そうかと思案に暮れた。

 そもそも蘭堂・華花はどうしてこんな時間まで一人で自習しているのだろうか。それも一番座っていて欲しくない席で。筋違いとはわかりつつも、助は恨みがましく思うのを止められない。

 忘れ物の中身は今時珍しい紙製の書籍だ。すぐに持って帰らなければいけないものでもないのだが、珍しい故に放っておくのも気掛かりだった。

 そもそも苦手とはいっても特に仲が悪いわけではない――はず――の級友と少し話すだけだ。

 そんなことでいちいち頭を悩ませるのも馬鹿らしいと思い直した助は、意を決して華花の方に歩を進めた。

 肩で切り揃えた黒髪を斜陽に赤く濡らす彼女は、音楽でも聞きながら勉強しているのか、背後から忍び寄る助の存在に気付いていない。

 椅子と肘掛け程度のテーブルが一体になった机の合間を縫って彼女のすぐそばまで移動すると、助はどんな言葉を投げかけようかとまたもや思案を巡らせ始めた。

 そんな中、思考に集中した視線が泳ぎ、不可抗力的に彼女のノート――机の上に置いたアミュレット端末の機能で空中に結像させた、淡い光を纏うミディア・ディスプレイの中の例題に目を止めた。

 数学の補習でも受けていたのだろうか、ディスプレイの中に丸っこい文字で筆記されている問題は大分前の授業で教わったはずの範囲だ。難しい顔をして首を捻る彼女には悪いが、単純な公式を使う簡単な例題だった。

 そもそも彼女がその問題を解けないのは公式の解釈が間違っているからだ。しかも代入する場所を間違えるという間抜けなミスも重なって、一見すると公式が間違っているような、混乱の坩堝に嵌る悪循環に陥っているのだろう。数学が苦手な人間が陥りやすい初歩的なミスだ。

 正しくは――

「こことここ、それとここはこうだよ」

「え?」

 他人も操作できるミディア・ディスプレイであることも災いした。忘れ物を取る算段という難題から現実逃避した頭は、事もあろうに逃避先を蘭堂・華花の間違いの中に求めていた。

 助の指が半ば無意識に間違いの箇所を指し示すと、唐突に湧きだした人の手に驚いたのであろう、蘭堂・華花が弾かれたように椅子から跳ね上がり、身体ごと背後を振り返った。

 心臓が止まりそうなほどの驚愕だったのか、制服の上からでもわかるくらいに大きく胸を上下させる華花の顔を見て、助は一瞬それが誰だかわからなくなった。人間は意外な事に直面した時や驚いた時に飾り気のない素の顔を見せることがあるが、今の彼女はまさにその状態だ。

 振り乱された濡れ羽色の髪が夕陽を照り返して赤い輝きを散らし、同じく濡れたような黒の大きな瞳が助の視線を真直ぐに見返す。普段は何かを堪えるように固く引き結ばれている、形の良い唇も、今はぽかんと開いて愛嬌さえ漂わせていた。そのどこにも、普段の蘭堂・華花が助に向けてくる鋭利な印象は見つけられない。

 だがそれも本当に一瞬。自分の背後に立つのが助だと認めると、華花はたちどころに体裁を整えて、視線も険しく不機嫌そうな口を利いた。

「なに」

「いや、その……ここ、間違ってるよって」

 助は華花のアミュレット端末の描き出すコンソールに指を伸ばし、思わず唖然とした。コンソールが助の指にも反応したのだ。しかし驚くのも一瞬、これ幸いと助は公式の数か所を指先でなぞり、ハイライトする。

 助が驚くのも無理はない。助が華花のコンソールに触れられるということは、彼女のアミュレットと助のアミュレットがセキュリティフリーのミーティング・ラインで自動的に接続されたということだ。授業中は原則解放しておくものだが、そのまま作業しているなんてどこまで無防備なんだと少し呆れる。だがそれもこの成り行きでは好都合だ。

「ここをこうして……」

 タスクが手際よく公式を組み替えて式を構築していくのを、華花は意外にも大人しく見ていた。というよりも、自分がずっと苦戦していた問題がどんどん解読されていく光景に見惚れていたというべきか。

「すごい……解けた」

 軽い感動で目を瞠るその表情は、助を再び驚かせた。

 こんな顔もできるのにどうして普段はあんなに剣呑なのかと不思議に思っていると、たちどころに感激を引っ込めた華花がコンソールを消した。

 蘭堂・華花の次の行動が予測できない助が見守る中、彼女は黙りこくったまま机の上に置いていた腕輪型のアミュレット端末を左手首に通す。そうすれば人類の英知の結晶も控えめなアクセサリーにしか見えない。続けて机の脇に置いていた鞄を天板の上に置くと、開けっ放しだったその口を閉じた。

 ここまでくれば助にだって彼女が何をしているか見当がつく。帰り支度だ。

 このままその背中を彼女と同じく黙ったまま見送れば、助は晴れて忘れ物を回収して一人、帰路につくことができる。任務完了という訳だ。

 助としてもあれだけ集中して勉強している相手をどかすのも少し忍びなかったのでこれ幸いと言ったところだが、ほとんどこちらを無視するようなあまりにあっさりとした態度に、彼女が学校に馴染めない理由を改めて認識する。

 他人に無関心すぎるのだ、蘭堂・華花は。そうやって無視されているのが癪に障ったのかもしれない。彼女にこちらを認識させたくて、よせばいいのに声をかけていた。

「それで終わりなの?」

「うん」

 学校指定の飾り気がない通学鞄を肩にかけて、華花は素っ気なく頷いた。そのまま小柄な身体を動かして教室の出口に向かう。

 やはり、余計なお世話を焼くものではないなと、助が薄暗くなった教室に残される形で憮然としていると、

「……ありがとう」

 教室の出入り口の手前で振り返った彼女が、小さくそう告げた。睨むような険しい表情は相変わらずだが、その声にはわずかに感情を感じられた。

「……どういたしまして」

 思いがけないタイミングの謝礼に助は少し気後れしながら返事をした。それでも内心は、ちゃんとお礼は言えるんだな、となんとはなしに安心を感じていた。

 それにしても以前から気になっていたが、こうして近くに並んでみてはっきりと実感する。

 彼女は高校生と呼ぶには少し小さすぎる。せいぜい中学生がいいところで、小学生といっても通用するだろう。

 しかし身長だけでなく顔の造りも肩も四肢も全てが小さいので、子供っぽさはそれほど感じられない。少し大きな小人と言ったところか。もはやどんな存在なのか意味が分からないが。

 身体が纏う雰囲気とは逆に、表情を除けば面差しはかなりあどけない部類だ。じっとこちらを見詰める大きな瞳と比べて鼻と口が小さいのが子供っぽさを更に助長させている。少し細い頤とそれらが均整のとれた配置をしているところが唯一の大人っぽさだろうか。

「……あと」

「な、なに?」

 いつの間にかまじまじと彼女を観察していた自分に気が付いて、それを詰られるのかと助は気まずさに眼を瞬かせる。

「駅まで一緒に行く」

 彼女の言葉の意味がすぐには呑み込めなかった。出入り口の戸枠に手をかけて、すっかり暗くなった窓の外に視線を投げかける彼女の横顔を見ていて、ようやくその意図に考えが至る。

「あ、ああ……そっか、もうこんな時間か……」

 暗くなってきて一人で帰るのが心細いという事か。それ自体には可愛げを感じる。

 問題は、彼女にとって背に腹は代えられない状況なのかもしれないが、助を恃みとしなければいけない事がさも気に食わないと言わんばかりの不服そうな瞳から受ける理不尽さだ。

 であるにも拘らず、他人に嫌われることを良しとしない助は蘭堂・華花の願いといえども断る事に気が引けてしまった。

「……わかった、一緒に帰ろうか」

 助の了解を得ると、蘭堂・華花はつまらなさそうに息を吐いて教室を出て行った。

 全てはこの暗さが悪いのだ。黄昏時という時宜の悪さに諦めをもって、空笑いを浮かべた。


  ※  ※  ※


 久早市の東部は再開発の街だ。

 市電久早本町駅を中心に置いて市全域に散らばっていた主要施設を駅の周辺に再配置し、東側にビジネス街を誘致する再開発計画が完了したのが六十年前。

 再開発を計画の段階で疑問視する声は少なくなかった。人類が新たなフロンティアである宇宙に進出して二百年余り、地球に残る人間は確実に減少しているのだ。ないものを集めることができないのは火を見るより明らかだった。

 そんな地球規模の過疎化の影響の前では、久早市の再開発計画も悪あがきでしかなかった。

 施設の一極集中により利便性は上昇したものの、その利便性と市が誘引の為に打ち出した有利な誘致条件は、それに魅せられた市内住人を再開発地区に呼び集めて、元々あった住宅街――特に市中心部に鎮座する御山から西側を、ゴーストタウン化させただけだった。しかも本来の目的である県外からの市民はほとんど集まらなかったのだから、その思惑は不発に終わったと言わざるを得ない。

 県立久早高等学校はその煽りを受けて、北西部にあったものを駅に近い南部に移設された。人が住まない住宅街では交通の便が悪すぎるのだ。

 しかし学校の移設は開発計画が不首尾に終わる気配が濃厚になってからの事だった。当然、広い敷地の確保できる住民が少ない場所が選ばれた訳であり、再開発の最終段階から移住者がとんと来なくなった事もあって、新学校周辺にそれから入居者が現れることもなく、新築されたモダンな佇まいの久早高校周辺には人口のエアポケットが生まれていた。

 中心部に近づいたとはいえ結局人気のない通学路。そうして道の利用者が少なければ自然と街灯の数も少なくなる。

 間延びした間隔で置かれた街灯の寂しい光を頼りに、助と華花は遠くに見える繁華街の明かりを目指して暗く静かな住宅街の道を歩いていた。

 生活の匂いがしない建物の群れに二人の足音が絡まりもつれて不気味な反響を繰り返す。粘りつくような闇は助に華花の存在さえなにか異質な化け物ではないかと疑わせる恐怖心を植えつける。帰宅部の助がこんな時間まで残る事は稀で、滅多に味わわない感覚はまるで異世界に迷い込んだような心細さを湧き起していた。

「勉強、苦手なの?」

 それを払拭しようととりあえず蘭堂・華花に向けて声をかけてはみるのだが、返事がある時の方が希だった。それでも取り繕うように続ける。

「意外だったな、蘭堂さんって一人でなんでもこなせそうな雰囲気なのに」

 やはり無言。それどころか華花は助の隣を歩こうともしない。

 助としては華花に合わせてゆっくりと歩いているつもりなのだが、華花は助にあまり近づきたくないのか常にやや遅れがちだ。

 やはり避けられているのかとその理由をあれこれ自分の内に探っても、身に覚えがないものを思い出せるはずもない。そうなると蘭堂・華花の一方的な悪感情の可能性も視野に入れなければならなくなり、それはすなわち助に非はないかもしれないわけで――色々と考えを巡らせている内に、助の中にも蘭堂・華花を悪く思う心が生まれたのも致し方ない事だろう。人間、悪意を向けてくる相手に善意を向けるのは相応の理由があるか考える頭がないかのどちらかだ。

 しかして人の良さに定評のある助の悪心では、せいぜい蘭堂・華花を遠回しに困らせたり怒らせたりしたくなる程度だった。

「蘭堂さん」

 街灯の下を選んで足を止め、振り返る。あまり明るいとは言えない視界の中で、華花は助の急停止に対応しきれず、危うく彼の胸に鼻面をぶつけそうになった。それが不愉快だったのか、頭二つ分も上にある助の目に、文句を注ぎ込むが如く険しい眼差しを突き込んだ。

「なに」

 その木で鼻を括ったような態度にさっそく悪心が萎んでいくのを感じるが、彼女の無愛想は今に始まった事でもないと思い直して嫌味ったらしくなるようになるべく愛想よく勤める。

「良かったら、勉強を教えようか?」

 華花の睨みつけるような瞳が少し見開かれた。しかし、反応らしい反応といえばそれだけだ。肌寒い空気の中に乾いた沈黙が横たわる。

「ほら、蘭堂さんって意外と勉強できないみたいだし、それなら僕でも力になれるかなぁ、なんて――」

 暗に頭の出来を馬鹿にしているつもりの助だったが、言っている内に馬鹿らしくなったのもあり、蘭堂華花の視線に居た堪れなくなっていく。

 慣れないことをするんじゃなかった。そんな後悔が時を経るにつれて胸中に重く降り積もっていく。

 蘭堂・華花はただただ助を見つめている。一体何を考えているのか、値踏みするでもなくただただじっとだ。その得体のしれない視線と、いよいよ耐えきれなくなった後悔の重圧の前に助の敗北宣言が打ち出されようとしたその時、華花の小さな口が素早く動いた。

「教えて欲しい」

 気付けば、それまでの親の仇を見るような険悪な表情は鳴りを潜め、教室で見たような素直さを感じさせる真摯な瞳が助を見上げていた。

 その変化を受けて助の顔上にまずは驚きが広がり、次いで静かな笑みで上塗りされていく。悪心はどこへやら、瓢箪から駒に今度は好奇心が湧いてきた。静かな笑みはその変化の表れだ。

「うん、じゃあ、いつがいいってある?」

「いつでもいい」

「明日は?」

「大丈夫」

「じゃあ、明日の一時、図書館前でどうかな」

「わかった」

 とんとん拍子に予定が決まり、約束が成る。これはもしかしたら良いきっかけになるかもしれないと、好奇心が今度は期待に変わった。

 それは別段、異性として興味を持っているわけではないと、助はわざわざ自分に断りを入れておく。その期待とは、ずっと苦手に思っていた彼女と学外で交渉を持てれば、いずれ彼女の悪態の理由がわかるかもしれないという期待だ。

 助は予定を忘れないようにメモを取るべく、スケジューラーを開くためのコンソールを呼び出した。

 助が意識するだけで眼前の宙に操作用のコンソールが、淡い燐光を纏って出現した。それを撫でるように操作してスケジューラーを起動する。

 華花が教室で使っていた空中に光学映像を描き出すミディア・ディスプレイ――俗にアウディスと呼ばれるそれと違い、助がいま展開しているコンソールは本人にしか見ることができないインナー・ディスプレイ、インディスだ。よって華花には助が何もない空間を稚拙な指揮者よろしく指先を振り回しているだけにしか見えないが、こういった光景が一般的な世の中でそれを気にする者は誰もいない。

 そもそもアウディスを利用するにはアミュレット端末を自分の目の前にかざさなければいけない為、授業中にきちんとノートを取っているというポーズを取る時くらいにしか学生は使わない。わざわざ視覚器を介して見せるより、インディスを使って脳内に同じ映像を共有した方がよほど楽で便利だからだ。

 音に関しても同じことがいえる。ほとんどのアミュレット端末にはスピーカーが内蔵されていない――時たま思い出したように内蔵製品が発表されることがあるが、ほとんどが単発で終ってしまうことから需要の低さが窺える――のも、やはり共有が可能だからだ。

 そういった人体の感覚器官を介さずに情報を表示できるのが、アミュレット端末と呼ばれる端末の機能だ。身体の傍に置いておけば機能を発揮できるので、形は根付のようなものからアクセサリータイプまで幅広く存在する。内蔵する機能にそれぞれ若干の差異はあるものの、どんな形状でも全てが互換性をもっているのも特徴だ。

 一般的なのはブレスレット型で、助と華花もそのタイプを身に着けていた。ブレスレット型は邪魔にもならないしなにかの拍子に落とすようなことも稀なのだが、一つ難点を挙げるとすればアウディスを使用するのにいちいち腕を掲げていなければいけないのが辛かった。華花がそうしていたように、ブレスレット型愛好者がアウディスを利用する際は大抵手首から外して利用するのが常だ。

 しかしアミュレット端末の本分は情報表示ではない。ユニバーサル・アンコンシャス・ネットワーク、通称U2N(ゆーつーえぬ)に接続する事こそがこの機器の本来の目的なのだ。

 U2Nは現代社会の根幹を支える情報網の総称である。六百年ほど前に今はなき日本国――日本国は日本リージョンに変遷している――の研究者が発見した、同位種の知的生命体が共有する無意識領域――大昔の哲学者が提唱した概念になぞらえて普遍的無意識領域と呼称したその領域を、科学技術でもって情報網として開発したのがコレクティヴ・アンコンシャス・スペース、CUS(きゃす)だ。

 そのCUSの基盤を使って情報網を構築しているのがU2Nである。ところがCUS上に意識存在を置いている人類ではあるのだが、なんの機械も頼らず思惟的にそこから情報を組み上げることは不可能だった。

 そこで人間の脳をサポートするために開発されたのがアミュレット端末だ。アミュレットはCUS上に固定されたポートを開き、情報の出し入れを可能にする。それがCUSポートであり、CUSポートの存在場所がCUSポートアドレスである。

 U2Nはただ情報をやり取りできるパイプに留まらない。科学の進歩で解明された人間の精神構造を物理的・概念的に総称して精神系と呼ぶが、CUSを基礎にしたU2Nはこの精神系の情報を物理的に取り扱う事すら現実にした。すなわち、人間の感情の直接的なやり取りだ。

 オープン・マインド・システム、OMS(おむす)と名付けられたその機能は、〈クオリア〉と呼ばれる人間の感情の影、あるいは反響である抽象概念を、他人に譲渡することを可能としている。

 感情の影といっても、機械を通して統計的に読み出せばその個人の思考傾向や感情、そして本心までもを嘘偽りなく露呈させる。

 五百年前に歴史に姿を現すことになったOMSは、瞬く間に世界から有害な建前や方便を駆逐した。相手が信用できなければクオリアを要求する。相手がクオリアの提示を拒否すればそれはとりもなおさず何か隠したいことがあるということになる。提示したとしても自分の本当の感情に嘘をつける人間もそうそういない。何を隠しているかまで見透かされる。

 そんな世界で嘘をつくことは逆に自分の立場を危うくさせる。素直になることを強制された人類の混乱たるや如何程だったろうか。

 だが人類はその混乱すら追い風に変えた。

 OMSは過去から連綿と受け継いだ怨恨に突き動かされ、泥沼の感情の中で争っていた人類に転機を与えた。OMSの登場で己にしかわかり得なかった苦しみが共有できるようになると、自分達が最も苦しんでいるという幻想や誤解は瞬く間に融解し、誰もが同じように苦しんでいるという相互理解を可能にしたのだ。結果、地球人類は数十年というそれまでの歴史から鑑みれば非常に短い時間であっさりと争いの禍根を捨て去り、手を取り合って躍進する道を見出だした。

 そうしてOMSが世に解き放たれてからおよそ二百年後、相互理解は統一共和国という結実を迎える。それまで地球儀に書き込んでいた神経質な線――国境を撤廃し、国と名乗っていた地域ごとにリージョン政府を配置する惑星規模の議会政治に移行した。

 そうして一致団結した人類は早々に地球を飛び出し、地宇宙空間も人類のゆりかごに収めるに至った。それが、U2Nと呼ばれる通信網が為した変革のあらましだ。

 そんな六百年に亘る人類の躍進も、今日を生きる学生にとっては当たり前の日常の一部であり、授業中以外は意識することも少ない過去の歴史だ。今や彼等は世界を変容させた技術を、身体の一部のように利用して日常生活を営んでいる。

 明日の予定に関する簡単なメモを取り終えた助は、コンソールから幾分か晴れやかになった顔を引き剥がした。

「足を止めさせてごめんね、行こうか」

 華花も同じようにスケジュールを書き込んでいたのであろう、無言で頷くと片手で目の前を払う。その動作でコンソールを閉じたのだと察せられる。

 それを見届けて、助は軽くなった足取りで踵を返す。振り返ったその先の暗がりに、何かがいる気がした。

「え?」

 少し先の街灯と街灯の隙間に目を凝らす。最も闇の濃い部分にその闇よりも黒い、細長い暗黒がぼうっと立っているように見える。

 それがなんであるか助の意識が理解するより前に、暗黒の背後から光の糸が伸びた。

 それは暗黒を中心にした空間に直径一メートル程に伸びて、止まる。そうやって次から次へと幾筋も伸びる光の線がお互いに緊密に絡まり、蜘蛛が巣を張るような幾何学模様を描いていった。暗黒はそれを二人に見せつけるようにじっと佇んでいる。

 線が増えるにつれ濃くなる網の光に照らされて、暗黒が人影である事が理解できるようになる。だがわからないのはその背後の網だ。恐らくCUS上の現象をアミュレットが視覚化しているのはなんとなく理解しているが、助は初めて目撃するその光景にこれから起こる現象を計りかねた。

「統合紋(エンタングル)⁉」

 その疑問に答えを与えようとするかのように張り上げられた声が、助の興味を一瞬にして奪い去る。普段は言葉少なに喉の奥で喋る彼女が、感情も露わにはっきりと発した声――それが蘭堂・華花の声であるとすぐには気づけなかったのだ。それが異常事態を告げる切迫した感情でも、小動物を思わせる鼻にかかった声が助の耳の奥で新鮮に響き渡る。

 だがそんな感慨も、振り返って見てしまった、彼女の行動に吹き飛ばされた。

「{"でろ";!」

 なにかに命令するような強い口調と共に彼女もまた、人影が展開した輝く紋様を描き出したのだ。彼女のそれは、人影の発生させているゆっくりと伸びて獲物を絡めとる蜘蛛の糸とは違う、早回しの時の中で成長する蔦のような、優雅で繊細な光だった。

「/*そして*/"まもれ";};!」

 二人の対照的な紋様は印象こそ違えど同じように――華花の光の蔦が伸びるのは人影よりも圧倒的に早かったが――数を増やし、伸び、絡まり合い、複雑化していく。そしてほぼ同時にそれらは光の円盤にしか見えないくらいに密度と輝きを増す。

 次の瞬間、助の意識は暗黒から放たれた光の粒子の奔流と、それを塞き止める華花が紡ぎ出した光の壁を見ていた。これも現実の光景ではない。CUS上で起こっている出来事をアミュレットが情報化し、脳の視覚野が錯覚した結果で見えているだけの代物。

 すなわち、CUSプログラムの攻防、害意あるプログラムが動的に作り出された防護壁に防がれる顛末だ。

「チャンター……?」

 その存在は世界の常識であり、同時に秘奥だった。

 人の精神系を行き交う情報を統べるU2N、それは人の構築するプログラムで成り立つ。そして人間の精神にすら作用するそのプログラムを操る職業がCUSプログラマー。巷では〈チャンター〉と呼ばれる職種の人間だ。

「あなたはわたしから離れないで」

 唖然として、逃げ出す事すら忘れていた助は、口早な華花の言葉に状況を思い出す。

 見遣れば一つむこうの街灯の下、およそ十メートルほど離れた場所に、漆黒の姿がのそりと姿を現した。

 人影は黒ずくめだった。それまで潜んでいた闇で染め上げたような黒いシャポーに黒いコート。ご丁寧に顔まで黒いマスクで覆った人影がぼそぼそと聞き取れないくらいの小声で何かを唱えると、同じような紋様――蘭堂・華花が統合紋と呼ぶ光が再び展開した。

 チャンターはU2Nのエキスパートである。この世界のライフラインともいえるU2Nを自在に構築することができる彼等の、人類に対する貢献は計り知れない。今時は看板や広告塔もほぼすべてCUS上に設置しているし、生活インフラの整備や情報基盤等々……社会は彼等が日夜保守保全に勤めてくれているからこそ成り立っていると言っても過言ではない。

「{"でろ";/*そして*/"まもれ";};!」

 少し興奮した声の調子で蘭堂・華花が再び同じ文言を詠唱すると、先程と同じように黒ずくめから放たれた光と華花の壁が衝突し、弾ける。指を咥えて傍観するしかない助にも、二度目で理解できた。プログラムの構築は黒ずくめより華花の方が圧倒的に早い。

 華花も既にその点は心得ているようで、弾けた粒子が収まるのを待たず、すかさず新たな統合紋を展開する。

「{"でろ"/*そして*/"うがて";};」

 今度は少し口上が違った。攻撃的な言葉面が示す通り、今度は華花の眼前から黒ずくめがそれまで放っていたのと似たような光の奔流が噴き出した。

 だがそれは光の粒子を吹きつけていたような黒ずくめのそれとは密度が違った。相手を害する情報の塊が、黒ずくめ目掛けて殺到する。対して黒ずくめは防御する素振りも見せずその光の中に呑み込まれ、光輝の塵は輝く飛沫となって助の視界一面を覆い尽した。

 目も眩むような――実際には視覚器がこの光景を見ている訳ではないのだが――光の粒子が収束すると、そこにはすでに黒ずくめの姿はなくなっていた。

 あくまで人間の精神に作用する詠唱は物理的な破壊力は持っていない。たとえ害意詠唱が直撃したとしても、その姿まで消え去ることはありえないのだ。つまり、黒ずくめはどこかに逃げ去った事になる。それにしてもまるで幻だったかのように跡形もなく消え去った去り際は、魑魅魍魎の類を連想させて気味が悪い。

 だが、黒ずくめの行方を勘案できるほどの余裕を持つ者はこの場にいなかった。助も華花もそれぞれ別々の戦慄に身を浸している。

 先に口を割ったのは、初めてCUSプログラミングを目の当たりにした助の方だった。ただただ驚愕の光景を噛み締めていただけの助であれば、薄気味悪い静寂が戻ると危難を過ごしたという実感が伴って気持ちの余裕もできる。

「……違う、君は……エンチャンター?」

 U2Nは人間の精神系に直接作用する。肉体や記憶の操作はできないものの、人間の脳を欺いたり感情を揺さぶるくらいはチャンターであれば容易な事だ。そしてその力は結果的に人の命にすら作用することもある。あの黒ずくめが揮っていた力はそういう類いの力なのだ。

 確かにこの世界はチャンターが支えている。だが技術そのものに善悪はないのだ。扱う人間にその危険度が大きく左右される。そんな危うい技術を、地球共和議会が――世間が野放しにする訳がない。

 チャンターは技術に加えて人格も厳しく評価され、議会が直接統括する協会で厳格に管理運用されている。チャンターを目指した瞬間、その人間は議会政府の下で世界の根幹と向き合いながら生きくことを余儀なくされる。それがチャンターという人間に課せられた力の代償であり、人類が正しく叡智を振るう為の制約だった。

 だがそれを窮屈に感じる人間も当然のように、いる。それが〈エンチャンター〉だ。

 チャンターであることに耐えられなくなって身を持ち崩した元チャンターから学習所に通わず独力でCUSプログラミングを収めた者まで、世間は悪意の有無だけではなくチャンター資格を持たない者を総じてそう呼んだ。

 自由を求めた者にとってはある意味チャンターであることよりも厳しい制限の中で生きる事を余儀なくされる状況なのだが、それでも世の中にエンチャンターは蔓延っている。しかも完全管理されたチャンターと違い、皮肉なことにエンチャンターの方が一般には卑近だった。

 それほど、エンチャンターの関わる犯罪は世の中に溢れている。しかし、存在を知っている事とそれが目の前で実際に猛威を振るうことはまったく別次元の話だ。ましてやそんな恐ろしい力が同じ教室の中にあることなど、信じたくない現実だった。

 そこで考え得るのは二人が正式なチャンターである可能性だ。だが徹底管理されているはずのチャンターが同時に二人現れ、しかも片方は明らかな害意をもってこちらを攻撃してくる事態はエンチャンターが襲ってくるよりも非現実的だった。

 そもそも害意をもって攻撃している時点でそれはエンチャンターなのだ。その理屈で言えば、黒ずくめは間違いなくエンチャンターである。

 では、その害意から助を救った彼女は?

「蘭堂さん、君は……」

 助の続く言葉を拒絶するように、華花は振り返ることなく繁華街の方へ走り出していた。

「待って!」

 追いかけようと足を踏み出して、初めて自分の身体が硬直している事に気が付く。それが恐怖によるものだと思い至った途端、全身から冷たい汗が噴き出して眼の焦点があやふやになる。

 地面に張り付いて動かない足の裏につまずいたその隙に蘭堂・華花の姿は更に先へ、闇の中へと消え去ってしまっていた。

 暗中に取り残された助の目蓋の裏に、あの強烈な光が瞬く。もし、あの光の粒子を直接浴びていたら、助のアミュレットは破壊され精神系に間違いなく異常を来していただろう。そうならなかったのはあの小柄な少女がいてくれたからこそだ。

 確かに蘭堂・華花は丹下・助を守ったかもしれない。だが恐らくあの少女もエンチャンターだ。確かな資格を持ったチャンターであれば、ここで逃げる必要はない。エンチャンターであることは彼女にとって絶対に隠しておかなければいけない秘密であったのだ。

 闇の中に消えた黒ずくめと、先程までただの無愛想な級友だった少女。光源が地球上よりも衛星軌道に多くなった世界の空は、星とそうでないものの光で際限なく彩られている。

 その眩いばかりの夜空の下に二人のエンチャンターの存在を意識して、助は言い知れぬ恐怖を削ぎ落とそうとするかのようにその身を掻き抱いた。


  ※  ※  ※


 喉元過ぎれば――というが、今ほどそれを実感したことはない。

 あれから暗闇に怯えつつなんとか自宅まで戻った助は、誰にも相談できない恐怖と戦いながらそのまま眠りこけてしまった。

 冷静に考えれば、あれは犯人がエンチャンターであっただけの傷害未遂事件だ。警察に連絡すればそれで済みそうな話なのだが、助は彼女を――蘭堂・華花を抜きにして上手く説明する方法を思いつけなかった。もしこのまま届け出れば自然と彼女も事情聴取を受け、遅からずエンチャンターであることが罪に問われるだろう。

 エンチャンターはそれだけで法を犯している。だが彼女にはひた隠しにしていたはずの正体を晒してまで、助を守った事実がある。

 助は今まで、メディアで報じられているエンチャンターに纏わる事件を見て、深く考えずに彼らが悪者であるかのように捉えていた。それはあくまでマスコミを通した情報だ。

 蘭堂・華花が丹下・助を守った。それは与えられた情報などではなく助自身の経験だ。眼前で起きた現実を直視できないほど、助は狷介な性分ではない。

 その一事でもって、蘭堂・華花の事は信じられる気がした。だが、彼女の方はどうなのだろうか? 今この瞬間も正体がばれたことに不安を抱いているのではなかろうか?

 そう考えると、助は妙な責任を感じてしまう。それが手前勝手な独り善がりだとしても、とにもかくにも彼女にもう一度会って話を聞くべきだった。

 その結果如何では今後も彼女に守ってもらえるかもしれないと考えるのは都合が良すぎるだろうが、警察に彼女を差し出すことができない以上、黒ずくめ再来の脅威から助を助けられるのは同じエンチャンターである彼女だけだろう。交換条件のようで後味の悪さはあるが、それくらいしか今の助には自衛手段がない。それに危ない所を助けてもらった礼もまだだ。

 助は昼前に自室のベッドから這いだすと、意を決して出掛ける支度を始めた。

 無論、目的地は昨日約束した図書館だ。とは言え、昨日の今日で彼女がここに姿を現す可能性に、助はあまり期待していない。それどころか正体が割れた彼女はもうどこか別の場所へ行方を眩ませている可能性だってある。

 そうなれば助の目論見もご破算だが、気兼ねなく警察を頼ることはできるかもしれない。いなくなってしまった相手を気遣えるほどの余裕も猶予も、今の助にはない――図書館の入り口に据え置かれたベンチに座り、そんな思考を五順ほど繰り返した頃だったか。

 時計の針が十四時を少し回り、蘭堂・華花が約束の時間に一時間遅れで姿を現した。

 再開発で新築された図書館は、この小さな市でこんなに大きな図書館が必要なのかと呆れる程に立派な代物だ。おかげでゆったりと席を確保できる館内はちょっとした休憩にも重宝する。

 紙製の本がなくなった現代、図書資料は全て閲覧期限付きのデータとして各々のアミュレットに貸与される。そのままフリースペースで読んでもいいし持ち帰って自宅やカフェで読んでもいい。

 そうして本が汚れる心配がなくなったことで、常識的な範疇で飲食も可能となっている。さらに空調も完備とくれば、集まって勉強するにはもってこいの場所だ。図書館と言えばそんなレクリエーション施設を差すのが今の一般だった。

 館内には長机と椅子が並ぶフリースペースの他にも、一つのテーブルを簡単なパーティションで囲んだボックススペースがあり、助と華花はその内の一つを占有していた。

 ここに来るまで一切会話は交わされていない。華花の無言の圧力の前に、助は言いたいことも口に出来ない状況だった。

 コンソールを開き、直近の小テストの結果を呼び出しては最小化していく。昨日の出来事など素知らぬ風に黙々と勉強の支度を進めている華花を、手持無沙汰に眺めているだけの助だが、このまま口を利かずに勉強を教えることは不可能だ。なにより我が身の安全の為にもきちんと話を付けなければいけない。そう覚悟を決めると、言葉を詰まらせている原因――昨夜の事を口に上せた。

「蘭堂さん、昨日の事なんだけど――」

 今日は半分以上、この話の為に出向いたようなものだった。にもかかわらず、助は口を噤んでしまった。

 固く結んだ拳を膝の上に揃え、次に繰り出される助の言葉に脅かされる恐怖を堪え、痛々しいほどに思い詰めた様子で俯く彼女を前に、それ以上言い募ることができなかった。

 実際に目の当たりにして助は痛感した。このままその小さな少女を苛む覚悟が、決定的に足りていなかった。それを自覚した途端、彼の口は予定していたものとは全く別の言葉を紡いでいた。

「昨日は、助けてくれてありがとう……それだけ言いたかったんだ」

 少しでも華花の緊張をほぐしたくて、可能な限り自然な振る舞いで笑みを作った。

 それは確かに助の紛うことなき本心の一つでもあったが、本当に言いたかったことではない。その差が不自然に表出しないかと心配したが、思ったよりも違和感は少なく出来た。そのことにある程度の満足は感じつつも、内心にこぼれる嘆息はどうしようもなかった。

 これで黒ずくめの対処は振り出しに戻る。しかし重く垂れこめた暗雲に切れ間がないわけではない。

 華花が遁走した直後にでも、黒ずくめにその気があれば助に襲い掛かることが出来たはずなのだ。それが出来なかったということは、姿を眩ませた黒ずくめは華花の攻撃が功を奏していたのかもしれない。

 そうであってくれればしばらくは安泰だろう、と根拠のない皮算用を自身に言い聞かせる。問題を棚上げしているだけだが、助は気が重くなる思索でそれ以上気に病むことをやめた。

 そんな助の内心を見透かそうとするかのように、彼の愛想笑いを映し込む濡れ羽色の黒瞳の中では、動揺と不安と安堵がない交ぜに揺れていた。

「……聞かないの?」

 それほど背の高くはない助だが、華花が頭一つ分以上も上にある助の目を見ようと思うと、自然と上目遣いになる。

「聞かれたいの?」

 身を竦ませてこちらを窺う華花の姿がいじらしくて、助は諦観の反動からか少し意地悪い感情に煽られた。

「聞かれたくない」

 助は彼女が怒るか拗ねるかとも思っていたが、意外にも素直に困った顔で首を横に振った。彼女の意思を見届けると、助は出来る限りにしかつめらしい口調を装って手打ちを告げる。

「だから聞かない。それよりも、一時間遅れた分、すぐにでも始めよう?」

「……うん」

 華花は頷きつつ顔を隠すように俯いた。その口元が少し弛んでいたような気がして、助は密かに幸先の良さを感じた。

 それから数時間、わだかまりも少し解けた中で並んで勉強していれば、その人の性格や癖のようなものまで色々と見えてくるものがある。

 実際、思っていた以上に蘭堂・華花は素直だった。教えたことは実直に守れるし、すぐに吸収する。むしろ今までどうして成績が伸びなかったのか不思議なくらい、呑み込みも早い。

「こんなに素直に覚えてくれると、教え甲斐があるよ」

 始めはどこか硬かった華花の態度も勉強の理解が進む高揚の熱に柔らかくなったのか、それまで助に見せたことのない表情も見せるようになっていた。大分、高校生の勉強会らしい雰囲気になってきたと思う。

「このペースだと、その内僕が教えてもらう事になるかもね」

 そんな雰囲気に乗せられてか、助から珍しく冗談が飛び出す。それは彼女も同じだったのか、続く華花の反応に助は息を呑んだ。

「ちがうよ、そんなことないよ」

 蘭堂・華花が精一杯目を見張って、濡れ羽色の艶やかな髪と一緒に大袈裟に首を振って謙遜する。同時に、春がきたかのような麗らかな声が耳朶をまろやかにくすぐった。まるで普段の華花とは違う穏やかで可憐な様子が、静かな水面を吹き渡る風のように助の心臓を騒めかせる。

「あなたの教え方がわかりやすいから――」

 しかし華花は嬉しそうにほころんだところではっとして口を噤んだ。目の前の相手を今更思い出したように、気まずい顔を逸らす。

「……おかげで勉強のしかたがわかった」

 一拍置いて冷静さを取り戻した華花の態度は、既にいつもの突慳貪なそれだった。

 だが、一瞬垣間見えた華花の素顔は助の興味を掴んで離さない。一体どんな理由があれば、あんな表情のできる少女がここまで肩肘を張っていられるのか。エンチャンターという秘密があるにせよ、それだけではない不可解を感じる。蘭堂・華花の素顔はのっぴきならない想像を膨らませる助の表情に影を差した。

 そんな重苦しい気分を助長するように、今度は物悲しい音楽が館内に流れ始めた。閉館を知らせる音楽だ。

「終わりだね」

 追い打ちのように華花の寂しい言葉が投げかけられる。それそのものは単純に勉強会の終わりを指すのであろうが、助には華花との一切が隔たれられる気がして、青ざめた顔を華花に振り向けた。

「帰るね」

 無感動な黒瞳が無情に告げ、言葉通りにそそくさと帰り支度を始める。

 そんな今までとなんら変わりない、表情らしい表情が消え失せた華花の面持ちが、あの素顔を知ってしまった助には無表情を装った渋面にしか見えなかった。

 何か声をかけなければいけない。義務感に似たそんな欲求に突き動かされ、助は全ての思索を動員して華花にかけるべき言葉を探した。

 そもそもどうして華花に声をかけなければいけないのか? 黒ずくめから守ってもらう為?

 だとすれば、助は前言を翻してエンチャンターの話をしなければいけなくなる。そんな事は今の自身が望むものではない。

 直接言えないのであれば、仲良くなって友達として結果的に守ってもらうのは? そんな打算を挟んだ関係は助の良しとする所ではない。

 それよりもあの一瞬をもう一度見たい。そんな衝動を不謹慎だと打消し、さらに浮かんだ希望を思考の俎上に上げようと臨んだ途端、助が思った以上の活きの良さでその希望が口から跳ねだしてしまった。

「またやろうよ、勉強会」

「……え?」

 出し抜けの言葉が、席を立った華花を振り向かせた。意表を突かれて表情を取り繕うことを忘れた無垢な瞳が、助の思考をさらに暴走させる。

 そう、この欲求は本来もっと単純な感情なのだ。あれこれ体裁ばかり考えるから纏まらないだけで、もっと単純に、単純に――。

「僕は、君の事をもっと知りたい」

 それを口にしたところで、ようやく助は飽和状態で軽く錯乱している自分に気がついた。慌てて誤魔化そうとしても、込み上げてくるのは上滑りな言葉ばかりでとても口にできない。華花のこれといった表情のない顔が、嫌な顔をされるよりも辛かった。

 彼女のようにこちらに好意を持っていない相手にこんな直截的な物言いは逆効果だろう。口が滑ったとはいえ後の祭り、今更取り消せば余計にこちらが惨めになるだけである。

 きっと次の言葉は手痛い手切れの言葉になる。そう覚悟した助に投げかけられた言葉は、そんな生易しいものではなかった。

「……いいよ、その代わりに〈方舟〉の事を教えて」

 脳に冷水を直接かけられたような鈍い衝撃が、助の背筋を伝って全身を痺れさせた。その痺れは心臓を先程とは別の意味で波打たせ、麻痺した身体の隅々にまで怖気を染み渡らせる。

「は、〈方舟〉って……あの洪水伝説の?」

 はぐらかす言葉も上擦る有様だ。これでは何かを知っていると白状しているようなものだが、元より相手は助の知識を疑ってなどいないようだった。

「違う。四年前にあなたが接触して、無事生還した〈方舟〉のほう。その時の話を聞かせてほしい」

 〈方舟〉――それはよくある都市伝説だった。宇宙人は既に人類と接触していたとか、十三日の金曜日の四時四十四分に使われていないはずの周波数帯にテレヴィジョンを合わせると自分の死に顔が映るとか、U2Nに取り込まれて意識不明になった人がいるとか、そういった類の噂話の一つ。

 U2N上に存在する死者を運ぶ舟。それを見たものは数日で死んでしまうとか発狂するとか、酷いものだと見た瞬間にその人は煙のように消え去ってしまうとか、馬鹿げた尾鰭歯鰭に彩られた戯言。

 勿論、助はそんなものは信じていない。そんなものは嘘だからだ。本物は――。

「どうしてあなたは……あなただけは無事だったの?」

 華花の言葉は見えない鈍器となって助の頭に重い衝撃を与えた。

 その言葉は無遠慮に助の心中に押し入ると、四年来堆積した都合のいい言い訳から、疑問と後悔と罪悪感を抉りだして見せつける。

 無神経極まる蘭堂・華花の所業に、横暴さすら感じた助の感情が平静でいられるはずもない。

「言いたくないんだ」

 自覚できるほどの嫌悪を孕んだ口調で吐き捨てる。だが華花は一歩も引く気がないらしい。いつにも増して険しい眦を助に押し付ける。

「話して。わたしには聞く権利があるの」

「思い出したくもないんだってば……」

 他人の心に土足で踏み込んでくる眼差しを跳ねつけるように顔を背けると、助は立ち上がり様に鞄を掴んでブースから抜け出す。

「待って!」

 助の意図に気付くのが遅れた華花は一拍遅れて立ち上がった。慌ててその背中に腕を伸ばすも、届かなかい。そんな気配にも振り返ることなく、助は早足にその場を後にした。図書館のエントランスを出ても、蘭堂・華花の悲壮な声は追いかけてくる。

「もうわたしにはあなたしか選択肢がないのにっ――!」

 それを振り切ろうと、助はいよいよ走り出した。無我夢中で住宅街を駆け抜け、繁華街の路地裏と表通りを縫うように歩き、気がついた頃には悪夢の如く追ってきていた華花の声は心のどこかの残響に変じていた。

 そうやって蘭堂・華花の制止を振り切った帰路は苦い心地だった。その感情から逃げるように、あるいはいまだに華花がついてきていたら自分がどう出るかわからない不安からか、助は息を切らしながらもほとんど走るような早歩きで急ぎ、自宅へと逃げ込んだ。

 帰るなり自室に転がり込んだ助の様子を訝しむ母親の声も無視してベッドに潜り込むと、憤慨と後悔の狭間で悶々と責任転嫁を繰り返す。

 どんな理由があるにしろ、他人が嫌がることをすれば相応の反応を返されるのだ。あれは自分が矮小なのではなく人として当然の仕打ちなのだ。だから、蘭堂・華花がどれだけ打ちひしがれた声で自分の事を呼び止めようと、無視も仕方がなかったのだ。

 そんな言い訳そのものが子供じみた自己正当化だとわかっていても、今の助にはその防衛本能に縋るしか彼女の残響を掻き消す方法が思いつかなかった。

 華花が口走った〈権利〉とはどんな権利なのか? それが気になりはじめたのはまんじりともせずに日付を越えたぐらいだったか。

 その頃には自分が蘭堂・華花に与えた仕打ちの方に嫌悪感が膨れ上がり、彼女への贖罪の気持ちすら芽生え始めていた。


  ※  ※  ※


 繁華街の色とりどりな広告や看板、太陽光発電建材の鈍色に覆われた建物全面に映し出された賑やかしい街頭テレヴィジョン、そして夕暮れが近づく街並みを急ぐ雑踏の全てが、独りで気鬱に沈み込む助の気分をより一層惨めなところへ追いやった。

 正確に言えば助は一人ではない。左右を男女の友人に挟まれる形で歩いている。だが助はその二人の気遣わしげな視線すらも重たそうだ。ついこの間まで残暑に項垂れていたのが嘘のように、街を吹き渡る風が冷たく乾いている。それは助の気鬱を引きうつしたかのようだった。

 蘭堂・華花の悲鳴にも似た声の残響は、今も耳孔の奥にこびりついている。あれからずっとそれを引きずっていた。

 きっかけになった方舟の存在は、四年間かけて必死に忘れようと努めてようやく忘れかけていた代物だった。にも拘らず、蘭堂・華花はその封印をこじ開けた。だから致し方なかった……。

 言い訳と方舟、二つの重さが助の全身に圧し掛かってくる。

 理由は不明だが今日に限って蘭堂・華花が登校しなかったのは助にとって不幸であり幸いだった。ゆっくり考える時間を持てたが、彼女は昨日のことが原因で学校に来れなくなったのではないかと、益体もない考えを廻らせる羽目になったからだ。

 蘭堂・華花が原因であることはそんな助を心配する左右の二人も知っている。二人の押しに負けてついさっき、秘密の部分は誤魔化しつつ事情を話し終えたところだ。

 二人の友人の女学生の方――田中・エリスティーネ・アイヒホルンは、言葉の代わりに気持ちを直接伝えようとするかのように、助の腕にしがみつく形でそっと寄り添った。制服の上からでもわかる感触に助も落ち着かないものを想起させるが、そんなものに振り回される元気も湧いてこなかった。

 一歩踏み出すごとに、白銀に輝く長い髪が助の頬をくすぐり、柔らかな香りが鼻孔をかすめる。有り体に言えば、田中・エリスティーネ・アイヒホルン――田中・エリは美しかった。

 賢そうな瞳が今は助を慮ってか憂愁の色彩を帯び、すっと通った鼻梁の下には花弁のように色づく唇が今にも溜息を零しそうにほころんでいる。それらを載せた造顔も小造りに、モデル顔負けの均整がとれた長い四肢、無駄のないボディラインと怜悧に過ぎない立ち居振る舞い。そしてなにより目を引くのはやはり、輝くアッシュブロンドの長髪だろう。

 U2Nのおかげでほとんど言語問題が存在しなくなった現在、他人種間・他リージョン籍間の婚姻もまったく珍しいものではなくなっている。だがここまで美しいと、混血だなんだとそんな問題ではなく道行く人、特に男性の視線を自然と吸着させていく。

 となれば当然、そんな美少女をぴったりと侍らせている助にはその好感をそのまま反転させた眼差しが向くことになる。針の筵に包まっている気分だが、優越感があることも否めない。

 やたらと距離の近い二人だが、それでいて恋人同士という訳でもないのはクラスの誰もが知っている意外な事実だった。それは無論、助を挟んで歩くもう一人の少年、坂神・仁(さかがみ・じん)も知るところで、羨望の眼差しを向けながらも助の心中を慮って苦笑を浮かべている。

 色々な要素が絡み合った複雑な心境がその気鬱を少しは押しのけたのか、助は弱々しい笑みを浮かべて田中・エリに「歩き辛いよ」と冗談めかして不平を漏らす。すると、助の腕に回されたエリの細腕に一層の力が込められた。

「田中さん、ちょっと痛い……」

 段々力強さを増すエリの腕に流石に耐えきれなくなり、往来の片隅に足を止めてやんわりと苦情を述べる。しかし力は緩まない。エリはその思いの丈を伝えようとするかの如く、相応の力で強く強くその腕を捩じりあげた。

「待って本当に痛い! なんなの⁉」

「別にー? ボクというものがありながら別の女と二人きりで図書館デートとかありえないなんて思ってないしー」

 他人が聞けば納得しそうな理由と状況だが、それを言うだけの資格をエリは持ち合わせていない。それはこの場にいる三人ともに了解している事であり、これがエリの悪乗りであることは助も重々承知しているのだが、流石に今はそれに付き合う気分も気力もなかった。

「そういうのじゃないよ」

 腕の痛みを堪えながら、弱々しい笑みと共に否定するのが精一杯だ。

 平生であればここでキレのいい切り返しをくれる助の曖昧な返事に、エリの茶番も事の深刻さを再確認しただけに終わる。つまり、普段通りのやり取りで助を元気付けようとしたエリの思惑は失敗に終わったのだ。

 助の陰鬱な表情がうつって、しおらしくなったエリが力なく助に寄り添う。周囲は賑やかなくらいの繁華街のはずだが、すっかりしょげかえった二人の周りに重苦しい空気が流れ始めたその時だった。

「よし、タスク、これを見ろ!」

 声を上げたのは仁だった。特にスポーツをやっているわけではないが無駄に健康的な肌の、四角い顔が印象に強い快活な男子だ。最近転校してきたエリと違い、助と仁の付き合いは小学校の頃から続いている。いわゆる幼馴染の間柄だった。

 出し抜けに仁が押し付けてきたのは、彼が作成したと思われるクオリアだった。プロパティ欄の日付が昨日の夜になっているところを見ると、プライベートな時間のクオリアのようだ。

 一口にクオリアと言っても、大まかに二つの意味がある。一つはCUSポートで利用している精神系感覚器官としてのクオリア。そしてもう一つが、今まさに仁が助とエリに渡した感情の欠片としてのクオリアだ。

 それをアミュレットで再生すれば、作成時にその人が感じていた印象や感情を追体験できる。再生時の鮮明さは利用するソフトウェアと作成者の慣れが重要で、それ如何では本人とほとんど同じ感覚を共有することも出来るらしいが、そんなことが可能なのはそれこそチャンターくらいのものだという。

 それでも便利であることに変わりはない。世の中ではちょっとした意見交換やお喋りにも頻繁にクオリアは利用されている。そんな風に感覚を共有することが当たり前の世の中ではあるのだが、正直な所、助はクオリアが苦手だった。そしてそれは別段不思議なことでもない。世の中にはそんな人間も少なからずいる。

 クオリアはいわば個性の塊だ。クオリアを拒否する人達は生理的にその強いエゴを拒絶してしまう気質であったり宗教上の理由であったり様々だが、助は少し事情が違う。クオリアを視ることそのものに嫌悪を示すのではなく、クオリアを再生する瞬間が恐ろしかった。

 もしこのクオリアが再生できなかったら、それは精神系感覚器官としてのクオリアを失ったということ、人でなくなったことの証明だ。そうなれば化け物として世界から隔離される。――彼女のように。

 それが無性に恐ろしかった。しかし同時にそれが、悪魔に呪い殺される事を恐れる狂信者と変わらない馬鹿げた妄想だということも理解している。現に仁から受け取ったクオリアはなんの問題もなく再生され、助の中にくだらない笑いの感覚を見せつけている。

「これ、テレビかなにか?」

「うっわー……くだらなー」

「ほんとに、笑っちゃうくらいくだらないね」

 二人に口々に散々に言われても、仁はめげるどころかしたりと破顔する。

「くだらなさ過ぎてあれこれ考えるのもバカらしくなるだろう!」

 仁らしい体当たりな励ましに、少し憂さが晴れたのは事実だ。助はさっきよりはよほど健全な笑みを浮かべて仁と、そしてエリに謝意を表す。

 助が少し元気を取り戻すと、自然と話題はその原因となった少女に移った。

「しっかしまぁ、なんでまたよりにもよって蘭堂なんかに手を出したんだよ?」

「手を出したって、仁じゃないんだから」

「オレは頼まれても蘭堂なんかにゃ手は出さねえよ!」

「たすくんそっち詰めてー」

 カウンターでコーヒーとスナックを買ってきたエリが、四人席の助の隣に尻を押し込む。助も特に抵抗せず席を譲った。

 場所を行きつけのファストフード店に移して、小腹を満たしながらの座談会だ。店内は三人と同じように午後の小腹を持て余した学生や主婦でほとんど満席の状態だった。その中で三人が座れるボックス席を確保できたのは幸運としかいえない。

 先に席についていた助もエリと同じくウーロン茶にスナックを一品購入していた。対して向かいの仁は十分夕食として通りそうな量を、すでに半分以上平らげていた。本人曰く、「これからバンドの練習があるから食っておかないと身が持たない」らしいが、助にはそれだけのエネルギーを発散するような練習風景は想像がつかなかった。

「でもほんとにさー、なんで蘭堂さんの頼み事なんて聞いたのー?」

「頼まれたというか、なんというか……」

 実際は助の方から言い出した事なのだが、この際事実は脇に置いておく。問題は二人の言う通り、どうしてそんな行動に出たかということだが、助ははっきりとした理由を持ち合わせていない。

 知っての通り、蘭堂・華花の評判は悪い。特にこれといって何か悪事を働くわけではないのだが、言い換えれば本当に何もしないのだ。

 学校行事にもレクリエーションにも無関心で、クラスの輪を乱す。その上、本人はその事に悪びれた様子もなく、一体なにが悪いのかと首を傾げる。いくら周囲が道理を説いても納得せず、何一つ譲ろうとしない。

 それに加えて助は彼女によく睨まれているのだから、良い印象を持っているはずがない。それが気付いてみれば一緒に下校し、大きな秘密を共有し、仲悪く勉強していたのだから驚きだ。

 確かに助は蘭堂・華花と接点を持ちたいと思うところもあった。黒ずくめの存在だ。あれから二日経つが、助の周囲にこれといった変化はなかった。黒ずくめの目的がわからない以上油断はならないが、そもそもあれは本当に単なる通り魔に出くわしただけ――野良犬に襲われたようなものなのではないかと思ってきていた。

 確かにあんな恐ろしいものが付近を徘徊しているとすれば脅威だが、あの鮮烈な恐怖は助の中で過去のものになりつつあるのだ。黒ずくめの脅威がなくなればいよいよもって蘭堂・華花と接触する理由はない。

 さりとて、蘭堂・華花と関わったことそのものについては不思議と後悔はしていない。少なくとも彼女の素顔が垣間見れたし、間違いなく力にはなれた。その点にはある程度の満足を感じている。

「ま、助はお人好しだからな、なんかほっとけなかったんだろ」

 言って、仁は半分以上残っていたフライドポテトを飲み物のように口の中に流し込んだ。

「ふーん……」

 エリは至って面白くなさそうに相槌を打つ。

「お人好しかどうかはともかく、まあ、放っとけなかったっていうのはあるかな……ほとんど成り行きだけど」

「へぇー……」

 エリの方から更に陰湿な響きを増した相槌が飛び出す。助が隣から発散される黒い気配に居心地悪く身を竦ませていると、今度は前方から仁が嫌らしい笑みを浮かべて身を乗り出してきた。

「なんにせよ、おまえが女子に興味を持つなんて初めてじゃね?」

「興味って……」

 助は仁の言葉を呻くように反芻して、

「興味か……そうなのかな」

 その言葉の持つ響きが思いの外に自分の感情に馴染むのを感じた。それは方舟の恐怖の影に隠れていて気付けなかっただけで、あの時からずっと助の内にあったのだ。

 蘭堂・華花が方舟に興味を持つ理由。それこそが助の興味――いや、懸念だった。

 あれは好奇心で触れていいものではない。それを知っている助だからこそ、蘭堂・華花にそれを伝えたかった。もう放っておけばいいにも関わらず、彼女の事で思い悩むのは黒ずくめの脅威や罪悪感だけではないのだ。

 何より、あの悲しそうな剣幕の下の素顔が、あまりにも痛々しかった。

「そんなに、悪い子じゃないのかもしれない」

 その時丁度、蘭堂・華花の悪評をあげつらっていた二人は、その言葉に意表を突かれた形で口を噤み、助を見た。

 意図せず視線を集める結果を招いた本人が居心地の悪さに空笑いを浮かべると、唐突にエリが眦を決した。

「よし、次の勉強会にはボクも行くよ!」

 宣言は店内に高らかに響き渡った。どうしてそうなるのか、助にはとんと見当がつかないが前提が間違っている。

「いや、行くもなにも次回の予定は……」

「いまメッセ送った!」

「なんで⁉ っていうかどうやって!」

「えりっち、えげつねぇな……」

 狼狽も極みの助に、さすがの仁も憐憫を込めた眼差しを向ける。

 男子の混乱もそっちのけで、エリはインディスのコンソールを触る仕草を見せて不敵に笑う。

「おっけーだって!」

「そんな、勝手に!」

 憐れっぽい声で不平を訴える助に、椅子に座り直したエリはしかつめらしく向き直る。

「たすくんだってさ、いつまでもあーだこーだ他人の事情を考えてたって仕方ないってわかってるでしょ? そーいうのは面と向かって話せば案外あっさり解決するもんなんだから」

 一理あるが、理屈があまりにも乱暴だ。

「他人事だと思って……」

 恨めしくぼやく助を見るエリの瞳に、艶やかで妖しい光が灯る。

「他人事じゃなくしていーの?」

 含みのある声が助の耳朶を打つ。

「たすくんがいいんなら、ボクもあんな風にこんな風に協力してもいいんだけど……?」

 一体どんな碌でもないあんなことやこんなことをしでかすのかという興味はあったが、きっと聞かない方がいいのだろうと助は観念して諸手を上げた。

「よくないです……」

 呻くように言ったその言葉と重なって、頭の中にメッセージの着信音が響く。よくメッセージのやり取りをしている二人が目の前で騒いでいるこの場で、送り主の想像がつかない助が不思議そうにコンソールを開くと、そこには蘭堂・華花からのメッセージが届いていた。

 中には「ありがとう」の一言だけ。それがまた勉強を教えてもらえることに対してなのか、それとも方舟の情報を聞き出す機会をくれたことに対してなのか、どちらにしろ助の背筋を落ち着かなくさせるには十分な効果があった。

 ふと、別の着信があることに気付く。この気分を誤魔化せるものはないかと飛びつくようにもう一通のメッセージを開封して、助はげんなりと更に肩を落とす羽目になった。

 そのメッセージは徹底的に文字化けしていた。本文は元より、宛先も送信元もプロパティ欄もなにもかも全てが意味をなさない文字と記号の羅列だった。こんなものを送りつけられても困るのだが、なにより困るのはこれが毎年必ずある特定の日に届いている事だ。

 ここの所の非日常的な騒動ですっかり忘れていたが、今日この日は丹下・助の十七回目の誕生日だった。

「また、か……」

 今年も届いてしまった文字化けメッセージを、助は専用に作成してあるフォルダの中に放り込んでコンソールを閉じた。

「なにがまたなん?」

 そして至近距離にあったコバルトの瞳に驚いて大きく仰け反った。インディスに集中していて、エリの接近に気付けなかった。

「いや、ちょっと変なメッセージがね……」

 誕生日であることをエリに話せば、きっと面倒な事が待っている。そう直感していた助は適当に誤魔化してこの場はやり過ごそうと胸の内に決めたのだが、

「変なメッセ? あ、今日オマエの誕生日か」

 思わず両手で顔を覆いたくなるのを堪えて、迂闊な幼馴染に恨みがましい視線を送る。

 助がすぐさま弁解せんとエリの方に向き直るのとほぼ同時だったろう、振り向いた助の耳のすぐ横でエリの声が爆発した。

「なんで教えてくれなかったのさー!」

「いやだって、僕も忘れてたくらいだし……」

 つい先程思い出したという点では嘘はついていないが、隠そうとしていた事実が助の語勢を弱くする。

「自分の誕生日忘れるとかしんじらんないー!」

 元はといえば仁の迂闊な一言が原因である。助が非難とも救難ともとれない視線を仁に送ると、彼も責任を感じているのか悪びれた様子でエリの憤懣に嘴を容れた。

「まあそう言ってやるなよえりっちさん」

 芝居がかった物言いがどうにも鼻につくが、助け船に文句は言えない。

 名前を呼ばれてエリの不貞腐れた眼差しが仁を射竦めた。

「あんでよ」

「こいつにとっちゃ、誕生日ってのはあんまりめでてぇ日じゃあありゃあせんのよ」

「どゆこと?」

「ほら、あれ見せろよ」

 エリの疑問符に仁は助を促した。初めはエリと同じく怪訝顔で仁の顔を眺めていた助だが、思い当たる節に気付くとアウディスでコンソールを起動し、二人に見える形で数回操作して四通のメッセージを呼び出した。

「これ?」

「そうそう」

 仁は幼馴染の以心伝心に満足そうに頷いた。

「こんなもんが毎年届くんじゃあ、気味悪くって祝う気も失せるってぇもんだよなぁ」

 仁の言い様は口調と共に些か大袈裟な嫌いがあるものの、当たらずとも遠からずの説明に助は苦笑を浮かべて曖昧に肯定する。

 四人席のテーブルの上に展開されたアウディスに四通のメッセージ。そのどれもがメッセージとして致命的に文字化けしていて、とても意味を理解できたものではない。

 そもそもきちんとした意味ある文章なのかも怪しいそれに助と仁が不審がるほど真剣な眼差しを注ぐエリの姿が、テーブルの上に異質な静けさをもたらした。

 その横顔は、助の知る田中・エリスティーネ・アイヒホルンのそれではなかった。

「たすくん、これもらってもいい?」

 ついさっきまでの激情に彩られた声音も鳴りを潜め、どこか呆けた声が確認する。

「別にいいけど……どうするの?」

 勿論、それはこのメッセージのコピーが欲しいという要求だということは助も理解している。これを渡したところで助にこれといった損はないのだが、エリがこんなものを欲しがる理由に見当がつかず、その動機が気になった。

「んとね、もしかしたら解読できるかもしれない――ボクの知り合いがね」

 慌てて付け加えたような知り合いがどんな人物なのか気になりはしたものの、それ以上に気になるこのメッセージの中身がわかるかもしれない可能性の方が助にとっては重要だった。

「そっか……あ、でも」

 ふと、現実的な思考が過ぎる。

「代金とか取られない?」

 そんな助の心配に返ってきた返事は明朗だった。

「大丈夫、そういうのはないよ。だから気兼ねなく、ボクからの誕生日プレゼントってことで!」

「そっか、それなら――」

「あ、それとも」

 お願いしようかな、と続いたはずの言葉はエリの声に遮られた。

「たすくんがどうしてもっていうんならぁ、仲介料にぃ、キスしてくれてもいいんだよ?」

「いや……そういうのは遠慮しておくよ……」

「……マジ引きされるとけっこー傷付くんですけど……」

「あ、じゃあオレが代わりに――」

「あはは、ありえないし」

「わかっちゃいたけど地味に傷つくぜ……」

 演劇のワンシーンのようにテンポよく進む何気ない乾いた会話。示し合わせたように三人で失笑して、その下らない三文芝居の成功を確かめ合う。

 そんな日常の一コマは、助にかけがえのない安堵をくれる。そこにダメ押しのように仁が仕上げの一言を被せた。

「その不気味なメッセに比べたらさ、蘭堂なんてかわいいもんだろ?」

 不意に、昨日からずっと掛かっていた目の前の霞が晴れた気がした。

「そう、だね……仁の言う通りだ」

 相手は人間、しかも同じクラスの級友だ。エリと仁が言う通り、言葉が通じるのであればただ送り付けられてくるメッセージや、理由も正体も不明の黒ずくめの通り魔よりもよっぽど与しやすい。なにより、今の助にも蘭堂・華花に伝えたいことがある。

 どうしてそんなに方舟にこだわるのか、あれは本当に危険なものだと、言葉を尽くして伝えなければならない。

 助が密やかな使命感に燃える隣で、仁からこれまでになく真剣で熱心な声が上がった。

「あいつ、そんなかわいいの?」

 言った本人が助の肯定を勘違いしていれば世話はない。

 仁の真顔にエリの馬鹿笑いが交差して、助もほとほと開いた口が塞がらない心持ちで苦笑を浮かべたのだった


  ※  ※  ※


 教室で毎日のように姿は見掛けたが、あれから一週間、幸か不幸か助は華花と口を利く機会は無かった。助が華花と二人きりになるのを避けていたのもあるが、華花の方も表立って助に方舟の話を持ち掛けるつもりはなかったようだ。

 だからこそ、今日という日は助にとって勝負の日だった。蘭堂・華花との身に覚えのない因縁に決着をつけ、先日の仕打ちを清算するのだ。そしてあわよくばあの黒ずくめの再来に備えて友誼を結ぶ――というのは大袈裟だが、少しでも仲良くなれればいいとも考えていた。

 その公算はエリと仁の心強い味方に支えられている。助は様々な感情が織りなす淡い期待を胸に、先週と同じ図書館に足を運んだのだった。

「お、タスクきたきた!」

 エリは予めボックススペースの予約まで入れていたらしい。そうした甲斐甲斐しさも人気の秘密なのだろう。予約したブースから上半身を伸ばした仁が、通路を歩く助に呼びかける。

 図書館でとる行動としてははしたないが、エリと一緒に勉強できる日をずっと楽しみにしていた仁の気持ちを考えると、小学生のように燥ぐ彼の様子が微笑ましくて苦言も苦笑止まりだった。

 ブースには既に助以外の顔が揃っていた。まだ待ち合わせの時間前だというのに、エリと華花は既に勉強箇所の打ち合わせを始めている。

 二人は図書館での勉強会ということもあってか、つい先日切り替わった冬季制服を着込んできていた。同じ制服に身を包んで二人が並んでいると、色違いのよくできた対の人形にも見える。

 それ程に二人の造顔が端正だということだが、それだけではない力が助の視線を二人の上で引き留めた。エリの人間離れした容姿には妖力のようなものを感じることがままある。その横に幽微な蘭堂・華花が並ぶ事でお互いの特徴を助長しあうのか、魔力すら感じる均整の取れた眺めに目を離しがたくなってしまったのだ。

 ブースの入り口で立ち尽くす助の心中を察したのか、仁が椅子を傾げて助の近くに寄ると、声を潜めて告げた。

「気持ちはわかるぞ。カナちゃん、近くで見ると結構イケてんのな」

「……なんの気持ちだよ」

 先週の仁の態度を思い出して、その変わり身の早さに失笑が漏れる。仁の下世話が二人の魔力から解放してくれたらしい。気を取り直した助は適当に空いている席を見繕って鞄から飲み物を取り出すと、コンソールを開いて今日の予習範囲を確認した。

 あと一か月もすれば後期中間考査が待っている。華花に教えながら自分の勉強を進める予定で考えれば、あまり悠長に構えていると後が詰まることになるだろう。

「お、たすくんいらっしゃーい」

 席に着いた助に気付いたエリが、愛想よく片手を上げる。今更気付いたのかと思わないこともなかったが、それほどに集中して華花の面倒を見ていたということだろう。エリと華花の不和を懸念していた助にとっては心強い限りだった。

「これ、よかったら食べてね」

 確かにこのブースに入った時からこの香りと景観は気になっていた。エリが指し示すテーブルの上には、ジェリーで飾った色とりどりの焼き菓子やマドレーヌ、スコーンなどが所狭しと並んでいる。これだけ見ればとても勉強会とは思えない。茶会や誰かの誕生会といった風情だ。

 菓子の山を視線で舐めていると、その向こうからこちらを窺う華花の視線とかちあった。助が会釈しながらぎこちなく笑みを投げかけると、華花も会釈を返す。心なしかその口元が笑っているように見えたのは、エリの笑顔を見過ぎた影響だろうか。

「これからねー、かなちんに情報科学史教えてるから、これ終わったらたすくん数学教えてあげてねー」

 仁もエリも既に蘭堂・華花の事を下の名前で呼ぶ程度に打ち解けている様子だった。その屈託のない性分は実に羨ましい。

「うん、わかったよ」

 エリはアウディスを華花とだけ共有しているのだろう。二人の眼前には何の情報も表示されていないが、話の内容から今現在の授業で教えている部分までの大まかな流れを説明しているようだった。

 そうであれば、あと三十分程度は時間があるだろうか。それまでは自由に自分の勉強に打ち込めるという訳だが、そこで一つ気になったのは仁の存在だった。

「仁は蘭堂さんに何を教えるの?」

 助の素朴な疑問に、エリお手製のスコーンを齧っていた仁は胸を張った。

「オレは教わる方だ!」

 どうやら、自由に時間を使うのは難しいようだった。

 長い付き合いから仁のこの反応はある程度想定の範囲内だったが、エリの方は少し予想外――正しくは予想以上だった。

 人付き合いを好む性向やその口調と威勢の良い調子のせいで遊び呆けているような印象を持っていたが、彼女は思いの外に博識だった。

 学校の勉学もしっかり要点を押さえていて、教え方にもそつがない。もしかしたらエリだけで勉強会の教師役は十分だったのではないかと思ってしまう活躍ぶりだ。それも生徒役が一人であればの話ではあるが。

「と、いうわけで、一度ケン・ロイドの『田園』は読んどいたほうがいいよー、マジ! 泣ける! ほら、クオリア!」

 エリが手早くクオリアを華花に送りつける。華花はそれを再生しながら身を縮めた。エリの勢いに気圧されているのだろう。

「……努力する」

 エリの授業は楽しそうに見えるが、惜しむらくはその気まぐれさだろうか。そもそも情報科学史の後は助が数学を教える予定だったのだが、エリは興が乗ったのか情報科学史から世界史に飛んで、そこから人文学へシフトするという荒業をやってのけた。ちなみに人文学は考査の科目にないエリの趣味だ。

「タスクせんせぇい、ジン、ここがわかんないのぉ~」

「その喋り方を改めてくれたら教えるよ」

 嫌味っぽい笑顔で通告する助に、仁は口を尖らせた。

「なんだよ、人がせっかくカナちゃんの代わりをつとめてやってんのに」

「頼んでないし」「似てない」

 奇しくも助の言葉を華花が継ぐ形になった。不思議な気まずさにお互い明後日の方を向いて口を噤む。その姿はまるで意表を突かれて照れる男女そのものだ。

「なんだなんだ、以心伝心ってヤツかぁ?」

「そう言えば、田中さんはいつの間に蘭堂さんのアドレス貰ったの?」

 仁のからかいは頭から無視して、助は話題を切り替えた。蘭堂・華花から渡すとはとても考えられないからそう聞いたのだが、答えは意外にもシンプルだった。

「かなちんが転校してきた初日だよ」

 半ば強引にアドレスをむしり取るエリの姿が安易に想像できて、助は覚えずに苦笑した。

「ボク、全校生徒のアドレス集めるのが目標だから!」

「すごいね」

 そう反応したのは蘭堂・華花だった。

 華花はエリの大言壮語に軽く目を剥いて驚いた後、少しだけ笑った。道端の小さな花が揺れる程度の小さな笑みだが、助の意識に妙に残る印象的な微笑だ。彼女の笑みをまともに見たのが初めてだからだろうか。

 そんな風にして、昼前から始まった勉強会はエリのお菓子と雑談を挟みつつ順調に進んだ。

 何より意外だったのは口数こそ少ないが、華花が助とエリの二人の講師役の話を真面目に聞いていたことだ。ここに来るまではこの二人と華花が会話している状況など助には想像も出来なかったが、こうして始まってみれば彼女も年相応に笑ったり困ったりできるのだと気付かされた。

(……僕の前では笑ったことがないってことか)

 至った結論に少し気分が重くなる。

「――それで、これをこっちに――」

「――わかった」

 前回の勉強会では気付かなかったことがあった。

 助がコンソールに触れようと華花の方に身を寄せると、彼女は無意識なのだろうが明らかに身を硬くして警戒する。それで勉強に集中できているのかと助は不安に思うが、蘭堂・華花はやはり優秀な生徒だった。

 蘭堂・華花の緊張に気付いた初めは助の方も遠慮がちだったが、教えた分だけ理解してくれる彼女に教える事は楽しかったし、こうして他人に教える事は自身の理解を深める効果もあって有意義だった。生徒の質で言えばやるやると言ってエリのお菓子を食べて喋ってばかりの仁とは雲泥の差だ。

 結局最後まで、どこか一本緊迫した線が張られていたが、逆にそれが功を奏したのかもしれない。勉強は滞る事なく、密度の濃い時間はあっという間に図書館の閉館時間となった。

「ありがとう、とても捗った」

 その頃には、相変わらず言葉数と声量は少ないものの、華花は大分自然に微笑む位はするようになっていた。

「どーいたしまして!」

「また一緒に勉強しような!」

 閉館を告げる軽妙な音楽を頭上に聞きながら図書館を出ても、四人は別れを惜しむように、目に染みる夕映えの中で駄弁るのをやめられなかった。

「仁は勉強してなかったじゃないか」

「してたぞ、睡眠学習だ」

「……いつの間に寝てたの」

 助と仁の遣り取りにエリが破顔する。その横で華花もくすりと笑んでいるのを見て、助は妙に嬉しくなった。

「よし、じゃあ次もこの面子でやろうか」

 それに気をよくしたのか、珍しく助が音頭を取る。

「お、いいな。じゃあ次はオレもなんか持ってくっかな」

「いいねいいねー、ボクもまたなんか作るよー!」

 疑いもしなかったが、二人は案の定その提案に乗ってくる。助は華花に目を向けた。

「蘭堂さんもいいかな?」

「方舟のこと教えてくれるなら、いいよ」

 一瞬にして、場が凍り付いた。まさか、この状況この場所このタイミングで方舟の名前を出されるとは夢にも思わなかった。

 意図してやっているのだとしたら相当な博打だが、助はこの不意打ちを計算だとは考えなかった。恐らく彼女のこうした言動は無意識なのだろうと感じた。クラスで浮くのもこの間の悪さが原因なのだ。

 助と仁の顔に戦慄が走る中、エリだけが急変して緊迫した場の空気についていけずに、珍しくおどおどと三人の顔色を窺っていたが、

「あ、いけない、ボクこのあと用事があったんだ!」

 と、言い訳としてはとてもオーソドックスな理由を並べて、別れの挨拶もそこそこにそそくさと姿を消してしまった。

 助は気まずい思いをさせたエリの背中を気に病む目で追ったが、むしろ仁にとってはその方が都合がいい。場合によっては女の子を締め上げる現場を彼女に見られるのはバツが悪い。

 気が付けば日は暮れていた。駐車場の硬質な街灯の光に、三人の薄っぺらい影が浮かび上がる中、仁は華花を真直ぐ見据えた。

「カナちゃん、それ誰に聞いた?」

 普段は愛嬌で隠れているが、彼が笑みを消して眉を引き寄せると厳つい顔はそれだけで十分な脅威になる。女の子には優しい彼がこの少女を肉体的に傷付けるようなことはしないと思いたいところだが、彼がまた短気な性向であることも助はよく知っていた。

「仁、ちょっと待ってよ」

 そもそも仁のその気持ちは在り難いが、助とてその話をする覚悟は持ってきたつもりだ。仁の性急な気配に嘴を差し挟む。が、仁に引き下がるつもりは見当たらない。

「えりっちも言ってたろ、こういうのははっきりさせた方がいい」

 こんなものに迫られれば小柄な少女でなくても少しは怯えそうなものだが、華花は仁の凄みを正面から見返して言った。

「誰でもない。わたしが知っているだけ」

 わかるようなわからないような曖昧な問答に、仁はすぐさま問い質すことは諦めた。彼にとって大切なのは助の気持ちを守ることなのだ。

「タスクと方舟の関係を知ってんのか?」

「わからないから、聞いてる」

 尤もな言い分だが、仁はこの手の禅問答に耐えうる気の長さを持ち合わせてはいない。

 その瞬間に、剣呑な気配を濃くした彼が青筋を浮かべたのが助に伝わる。このままではこの小さな女の子相手に仁が手を上げないとも限らない。それは華花にも仁にも、そして助自身にも良い結果をもたらさないだろう。仁の怒りは助を思っての事なのだから。

「わかった、話すよ」

「タスク!」

 ここが潮時だ。だが、一筋縄で教えるわけにはいかない。あれは本当に危険なものだ。たとえ相手が蘭堂・華花であっても、むざむざ危険に飛び込ませるような愚挙は犯したくない。彼女には間接的に方舟の恐怖に触れて貰うべきだと、助は予め考えていた作戦を思い起こす。

 その決意の固さは長い付き合いがあるからこそ、言葉を介さずとも仁に伝わった。

 助と仁。睨み合い対峙する幼馴染二人の内、先に折れたのは強面の仁の方だった。

「わぁーったよ、オマエがそこまで言うならオレはもうなにも言えねぇ、言う資格はねぇしな」

 からりとした口調で引き下がる仁に、助も柔和な笑みを浮かべた。

「うん、心配かけるね、仁」

「毎度のことだよ……話聞いてたらまた頭に血が上りそうだし、オレも帰るわ」

「うん、また明日」

「またな」

 短い挨拶の中にも、彼が十分な理解を持ってくれた事が窺えた。ひとまずそれで仁の事は安堵した助が、本題の蘭堂・華花に向き直る。

「教えはする。でも条件がある」

「……なに?」

 華花の瞳にあからさまな警戒の色が浮かんだ。それをほぐすように、助はできる限り温和な態度に努める。これは先日の罪滅ぼしでもあるのだ。悪い雰囲気にはしたくなかった。

「会って欲しい人がいるんだ」

「わかった、会う」

 即答。その潔さに助は内心で舌を巻く。

 助が蘭堂・華花と顔を合わせる事にどれだけ思い悩んだか、迷わずに即断できる意志の強さがどれだけ羨ましいか……助はこの四年間、願っても願っても飽き足りないそれを華花の中に見つけて、嫉妬した。

 しかし今はその感情を表に出すわけにはいかない。先に片付けておかなければいけない後始末がある。

 助は蘭堂・華花の正面に畏まって相対すると、一歩下がってしっかりと頭を下げた。神前に奉納するような最敬礼だ。

 それまで警戒色の濃かった華花の眼差しが、それを目の当たりにして困惑を生んだ。面喰うのも当然だろう、これほど見事に頭を下げられる機会などそうそうない。それがあの丹下・助であれば尚更だ。

「この間はごめんなさい」

 助の言葉に、蘭堂・華花は困惑をさらに深めた。

「……このあいだ?」

「ほら、初めての勉強会の時の……」

「……謝れるようなこと、あったっけ」

 初めのうちはそれは蘭堂・華花なりの気遣いなのかとも考えたが、彼女は本当に気付いていないようだった。

 本当に、この一週間なにを悩んでいたのだろうか。馬鹿馬鹿しさに笑いが込み上げてくる。

「はは、それならいいんだけど……」

 乾いた笑いも止むを得ない。そんな助に、華花は不思議な生き物を観察するような目を向けて、

「へんなの」

 と、微笑んだ。


  ※  ※  ※


 助にもどうしてこんな事になったのかわからない。約束の時間はもう三十分も前に過ぎ去り、それなのに助と華花は待ち合わせに指定した駅前のロータリーで待ち惚けしている。

 待たされていることもさることながら、同じ待ち合わせのはずなのに妙な距離を置いて他人のように振る舞う蘭堂・華花そのものが助に苦行のようなストレスを与えていた。勿論、そんな状況であるからして会話なぞ欠片も存在しない。

 声をかけようにもこの距離で会話というのもおかしな話で、近づこうにももし避けられたらと考えてそんな勇気も持てない。さりとて完全に他人という訳でもないのだから何か声をかけない方が失礼なのではないかと悶々としている所に、この状況の元凶がようやくやってきた。

「ごっめーん、遅くなっちゃったー!」

 改札の方から耳慣れた快活な声が響く。助は声のした方に角の立った視線を向け、じっくりとその意味を味わわせるつもりで遅れてやってきた田中・エリスティーネ・アイヒホルンを観察した。

 助の通う高校は指定制服はあるものの原則服飾は自由だ。だが別段気に入っているわけではないが、助のように選ぶのが面倒臭いという理由で常に制服を着こんでいる人種もいる。同じく制服であることの多いエリだが、助とは違いあの制服を気に入って着用していると以前言っていたのを思い出した。

 よく考えればプライベートで出かけるようなことも今回が初めてだ。だから、助もエリの私服姿を拝むのはこれが初めてだった。

 少し長旅になると伝えておいたからか、エリは颯爽とした動きやすい格好に身を包んでいる。かなりだぼだぼしたウォッシュジーンズのツナギにスニーカーを合わせ、ツナギの足元は脛の中頃まで巻いてたくし上げてある。白い脹脛から視線を上げれば、シンプルなボトムを補うようにやたら派手な色遣いのトレーナー、そして同じく明るい色の紗々のストールをケープのように結んで肩から掛けていた。

 そのストールがエリの僅かな動きにもふわふわと反応して全体の賑やかさを演出している。

 少なくとも、子供っぽいトレーナーに妙齢御用達の印象がある紗々のストールを組合せてここまで自然に着こなせるのはエリの独特の雰囲気があっての賜物だろう。

 視界の奥に見えた蘭堂・華花で思わず想像してしまう。もしも華花にこの格好をさせた日には、お母さんのストールを借りてヒーローごっこに興じる男勝りの女児にしか見えない。ちなみに華花は無難にも制服だった。

 久早高校の制服は県立高校にしてはモダンな風貌が人気だ。しかし生徒に着用者が少ないのは見た目通りの着心地の悪さがあるからだ。デザイナーの趣味としか考えられないその細いシルエットが原因だった。

 華花が着用している女子制服は特にその傾向が強い。首元は細く絞ったウイングカラーをチョーカー然と巻いた学年を表すカラーリボンが引き締め、腰回りは丈の短い濃紺のブレザーを補うように、プリーツスカートと一体になったコルセットが締めている。このコルセットが曲者で、エリや華花のように細身でスタイルの整った者が着用するには見栄えするのだが、少し肉付きの良い生徒になるとまるで剣道防具の胴か寸胴鍋を連想させるものだから、この制服を着こなしている女生徒は一種の憧れと羨望を得ることになっていた。

 男子生徒は女生徒よりはハードルが低く、濃紺と白の二色で統一されている点と細いシルエットであることは共通しつつも、育ち盛りを考慮してか幾分か余裕を持たせてある。女子と同じく首回りに大きな特徴があり、詰襟に学年を現す色付きカラーキーパーになぜかピンホールカラーの衿羽根がついていた。そのせいで首回りが不自由なのだが、制服を着る以上はこれを付ける事が校則で義務付けられており、これが原因で男子も制服着用者を制限している嫌いがある。

 幸いに助は首が細いこともあってそれほどこの制服に不自由していないし、華花の方も線の細さと相まって制服姿が様になっていた。

 そう、本来はその蘭堂・華花だけを連れて行く予定だった。だがなにをどうやって知り得たのか、次の日にエリが自分も連れて行けと騒ぎ始めた。ただでさえエリは周囲の注目を集める。そのままの勢いで教室で「二人でデートとかゆるせーん!」などと喚き散らされたら、瞬く間に助と華花の間に変な誤解が生まれてしまう。黙らせるためにも止むを得ず勢いで同行を承諾してしまったのだが、まさか連れて行ってもらう立場で堂々の遅刻とは恐れ入る。そのあたりは徹底的に話し合っておかないと、助の気が済まなかった。

「三十分も遅刻ってどういうこと」

「てへ」

 舌を出して片目を瞑って見せるその所作に更に苛立ちが上乗せされる。

「……蘭堂さんにちゃんと謝ってよね」

 半眼で促すと、エリは少し離れたところに佇んでこちらの様子を窺っていた華花の元に駆け寄った。

「ごっめーん」

 軽い謝罪に華花の目がぱちくりと動く。華花が何かを返す前に、背後から助の鋭い追及が割り込んだ。

「ほんとに反省してるの?」

「してるよー! クオリアだす⁉」

 むしろ嬉々として目を輝かせたエリに、助はそれが眩しすぎるように顔を逸らす。

「いや、それはいいや……」

「なんでよー!」

 視(み)たらなんだか疲れそうだからとは言えない。すると、二人の会話が途切れたのを見計らって華花が控えめな声を差し挟んだ。

「気にしてない。なにもしないのは慣れてるから」

 あまり感情の読めない瞳がしっとりとエリを見つめる。その言葉には嘘も遠慮もないように聞こえた。

 勉強会でも感じていたが、蘭堂・華花は態度こそ素っ気ないが根はとても素直だ。間の悪さは玉に瑕だが、エリの全力フルスィングに振り回されようとも反感を抱かないあたりに――先日のように単なるマイペースなのかもしれないが――度量の深さも感じる。

 そんな華花に感化されたかエリのペースに乗せられたか、助は一人で眦を吊り上げているのも馬鹿らしくなって肩を落とした。

「はぁ、まぁもういいや、怒ってるのが馬鹿らしいよ」

「よしじゃあ話もまとまったところでデッパツだー!」

「……いいけどさ」

 遅れてやってきた上に自分のペースで勝手に音頭を取りはじめる彼女に助は投げ遣りな一瞥をくれて、市電の改札をくぐるのだった。


 とは言え、エリが「ボクも行きたい!」と言い出した時に安堵を覚えたのも事実だ。もし華花と二人きりで行っていれば、片道二時間の道程の会話を一人で維持しなければいけなかった。そんな離れ業を自分に出来るとは到底思えない。途中で気まずさに耐えきれずに諦めていただろう。そうなれば華花に対する苦手意識は更に堅固なものになっていたかもしれない。

 三区間で電車を降りると、今度はバスに乗り換える。この先に待っているものは助にとって因縁深い、それでいて敬遠できない場所だった。そんな場所であるからして一人で行くときはいつももやもやとしたものを抱えていたバスの中だったが、エリの底抜けに明るい雰囲気と尽きぬ話題、そして細やかな気配りのおかげであっという間に感じられた。そうなると、つい先程までは少しの怒りと不平を感じていた筈がいつの間にか「こんな風に行くのも悪くはないな」と、エリの存在を肯定的に捉える自分が出てくる。自分の調子の良さが一番呆れる所なのかもしれないと二人に知られないように流れゆく景色に嘆息するのだった。

 最後尾の座席に陣取った三人を揺らすバスは、いつの間にか寂れた住宅街を抜けて山間の気配漂う道路を走っていた。両側を木々に挟まれた二車線の道路はしっかり整備されているものの利用された形跡は少なく、対向車とすれ違うことも一度もなかった。

 そんな違和感にエリはすこぶるご機嫌だった。

「すごー、なんか異世界の入り口ーって感じ? トンネルがあったら完璧じゃない?」

「それは雪国の話でしょ」

「いきなり雪景色になったら、十分異世界だと思う」

 助の指摘に突っ込みをはさんだのは、それまで聞き手に徹していた華花だった。助が目を瞠ってそちらを振り向くと、彼女はどこか気まずそうに視線を逸らす。

「じゃあどっちにしろ異世界じゃん」

「そ、それもそうだね」

 からからと笑うエリに同調して、意外な出来事に固まっていた喉が乾いた笑い声をあげる。

 華花は窓の外の代わり映えしない緑に視線を固定してしまっているが、助には窓ガラスに映った彼女の顔がいつもより柔らかいものに見えた。

 やはりエリはすごいと思う。クラスで爪弾きにされている相手とも屈託なく会話して笑っている。もうここまで来ると羨望を通り越して尊敬の念しか浮かんでこない。どうしてこんな人が自分の周りにいるのか、助が少し不思議に思っている内にバスは目的地の停留所を目前にしていた。

「すっごー……」

 停留所に降り立ったエリの第一声がそれだった。流石の華花もこの景観には圧倒されたのか、ぽかんと口を開けてほとんど真上を見るように首を傾けている。

 そこは人目を忍んで中央に樹叢を盛った大廻りなバスロータリーを備えているので、直前までこの光景が視界に入ることはなかったのだ。二人からしたらこの建造物は手品で現れたかのように見えただろう。

 一言で言えばそれは壁だった。ダムの貯水壁を思わせる灰色の壁が切り拓かれた視界一面に広がっている。それは比喩のしようがないくらい壁であり用途も壁だ。まごうことなき壁が、ずっと森の奥まで延びていた。

「これ、刑務所?」

 エリの何気ない一言が、助の心に見えない錘を載せる。

「違う……んだけど、大してかわらないか……」

 壁の高さにばかり目を奪われていた二人を促して、助は車道を挟んで正面にある検問所を目指した。そこはこの壁に外部の訪問客が入る為の唯一の出入り口だ。確かに警備の厳しさも刑務所並だが、助は犯罪者を拘留するような場所とここを比べたくはなかった。

 検問所の詰所では数人の警備員が暇そうに銘々の仕事をこなしていた。その中で一番歳を喰っていそうな初老の警備員が目聡く助の接近を見つけて、脇の通用口からわざわざ出てきて出迎えてくれる。

「助くん、最近よく来るねぇ」

 この顔見知りの警備員が言う通り、実は先週の土曜日にも助は所用でここに来ていたのだ。

「はい、ちょっと用が多くて……それで、今日は遠藤さんに相談があるんですが……」

 遠藤はここ最近めっきり皺の増えた目元を助の背後の二人に配ってから、困ったような笑みを浮かべた。

「彼女達の入門許可かい?」

「はい」

 歳のわりに回転の速い頭が壮健振りを教えてくれる。だがそれは同時に助の相手取る彼が難敵であることの証左でもある。

 ここが助の計画の最初の難関だった。実のところこの施設は助が思う以上に機密性の高い施設で、規定に則って発行された許可証を持っていない人間の侵入を絶対的に禁止している。それをわかっていながら、助はこの遠藤に甘える形でなんとか入れてもらえないかとここまで足を運んだのだ。わざわざ華花を連れてきたのは、彼の人の良さに付け込んで、少しでも取りつく島を見出すための小手先だ。遠藤は助の真摯な瞳をしばらく覗きこんでいたが、小さく嘆息すると踵を返して詰所に戻った。

「中に連絡はしてみるから、ちょっと待ってなさい」

「ありがとうございます!」

 遠藤の親切に、助は謝罪も込めて身体がくの字になる程の礼をした。

「……入れないの?」

 背後から華花が心配そうに声をかけた。助はそちらに向き直ると小さく首を振って見せた。

「まだわからない。お願いしてるところ」

 思えば、華花にも騙すようなことをしてしまったわけだ。

「ごめんね、入れないかもしれないって言わなくて……騙すつもりはなかったんだ」

「……もし入れなかったら?」

 こくりと小首を傾げて、感情の薄い瞳が探るように助を見上げた。その疑問に答えられずに沈黙してしまう。そうなれば助としては論を尽くして彼女に方舟を諦めるよう説得するつもりなのだが、今はそれを言っても仕方のないことだと思えた。代わりに口を衝いて出たのは、いつの間にか姿が見えなくなっているエリの事だ。

「そう言えば、田中さんは?」

 助がそう言った矢先だった。それまでぴったりと口を閉じていた壁のゲートが、重い音を立てて左右に開いた。正直、助としては一時間くらいここで説得する構えでいたものだから、この呆気ない許可に一番驚いたかもしれない。

「あそこ」

 華花の声と小さな人差し指を追って開きつつあるゲートの元を見ると、エリはそこで元気に手を振っていた。

「おーい! あいたよー!」

 見ればわかることを大声で口にして燥いでいる。そちらに駆け寄り様、助は一番の功労者であろう遠藤の事を思い出して詰所の方を見た。外が見渡せるようにガラス張りになった詰所の中には、遠藤がやけに固い面持ちで敬礼し続ける姿があった。


  ※  ※  ※


 その施設は二重構造になっているらしい。

 らしい、というのは助も外壁と内壁に挟まれた第一区画に入ったことがない――どころかどんな場所なのか見たこともない。助に許可が下りているのは施設の最も奥である第二区画だけなのだ。

 ゲートをくぐると、待ち構えていたようにボックスタイプの自動車が三人の前に滑りこんできた。運転手を必要としない完全自動の車は、機械音声で乗車を促し続けてくる。訪問者に乗る以外の選択肢はなく、三人がそれに乗り込むと窓のない自動車は来た時と同じく滑るように発進した。

 自動車の中では特に会話はなかった。窓のない車というちょっと珍しい代物にエリが興味津々だったのもあるが、その好奇心が言葉に変わる前に自動車が目的地に到着してしまったからだ。

 車を降りると、そこはまるで楽園だった。

 澄んだ水を湛える湖を抱いた森はどこまでも広がり、小川のせせらぎに合わせて野鳥が囀る。視界の中心、僅かに傾斜した丘陵の上に無粋な近代建築が鎮座しているが、そこから少し視線を右に外せば趣のあるコテージの屋根が、まばらに落ちているのが見て取れる。

「うわぁ、中もすごいねー」

 ある意味、無機質な圧倒感があるだけの外の壁よりも衝撃的な光景だろう、その壁の中にこんな楽園があるのだから。

 助は驚嘆する二人に先立って芝生の地面をゆっくりと歩き始めた。目指すはむこうに見えるコテージの群れだ。

「なんだか、本当に別世界みたい……」

 ほぅと小さな嘆息と共に、可憐な声が助の耳朶を打った。それが華花の発した言葉だと理解するのに数秒要するほど、普段の彼女とはかけ離れた印象の声音だったのだ。平生がどこか無理をして肩肘張っている彼女をここまで無防備にするこの世界に助は初めて感心した。

 というのも、助はこの場所の心象が芳しくない。ここにあるものはただの慰めだ。無限に続くかに見える森も湖水も、壁に光学投影された映像に過ぎない。実際は壁の内側を隠す程度に雑木林が茂り、水溜と呼ぶのが妥当な親水池がある程度だ。ビオトープも芝生も全て人間が完璧に管理する世界。本物の世界の目に晒してはいけない隠し事を秘匿するための箱庭なのだ。

 感心しきりの二人を引きつれて、助は童話に出てきそうな赤い屋根のコテージに近づいていった。住人が丹精しているのであろう、コテージの周囲は晩秋にも関わらず、そこだけ末枯れを忘れたように観葉植物の青い香気が満ちていた。

 コテージも見れば見るほど味わいのある趣だ。こじんまりとした建屋を覆う白く塗りあげられた木板の外壁と鮮やかな対比を見せるのは、L字の建屋に抱え込まれるようにして置かれたデッキテラスの緑色。どちらもところどころ塗装のはげ落ちた風情が生活感を醸している。

 デッキテラスに設えられたテーブルには読み止しの本が伏せられていた。それが伊達でも飾りでもないことは、その隣に置かれた飲みかけのグラスが物語っている。紙製本などそれこそ装飾品のように扱われる時代で、ここの住人はついさっきまでそこで実際にインクの文字を読んでいたのだ。

 時代劇のワンカットのような光景を前に、エリも華花も息を飲んだ。

「あら……助、早かったね」

 そうして建物の前で立ち尽くす三人に声が聞こえた。円い声は彼女が着ている紺のサロペットのようにゆったりと聞こえて心地良く、声のした方を向けば濃茶の髪を荒い三つ編みにした少女が、コテージの裏からゆっくり近づいてくるのが見えた。

「紹介するよ。彼女が君に会わせたかった人」

 少女は手にしていたジョウロを脇に置いて片付けると、華花とエリに向かって上品に笑って見せた。

「初めまして、御陵・睦(みささぎ・むつ)です」

 なんてことはない会釈すら優雅に見える彼女に、華花は少し戸惑ったように「蘭堂・華花です」と小さく頭を下げた。どことなくはにかんだように見える華花の仕草に、助は感触の良さを感じた。

「田中・エリだよ!」

 こちらには特に不安も期待もなかったが、助が思った通りの押し込むような勢いの挨拶を返す。むしろ不安があるとすればこの騒がしさに睦がどんな反応を示すかという点だったが、睦はおっとりとこげ茶の目を瞠る程度だった。

「すごい、銀色の髪に白い肌、綺麗な顔~」

 驚いた様子でエリに駆け寄り、初対面にも拘らず、エリの顔を両手でぺたぺたと無遠慮に触れる。エリも嫌な気はしないのか、くすぐったそうに目を細めている。

「それで名前が『田中・エリ』?」

 睦の疑問ももっともだろう。だがそれに答えるには今の状況は少し落ち着かない。

「とりあえず、中に入ろうよ」

 勝手知ったるなんとやらで助はコテージの玄関を開け放つと、銘々に初対面の感嘆を味わう三人をその中に招き入れたのだった。


  ※  ※  ※


「彼女のフルネームは『田中・エリスティーネ・アイヒホルン』なんだよ」

 ひとまず室内に移動して主賓のエリと華花と、そして主人である睦を落ち着かせる。それから助はエリに渡された手作りのお菓子を携えてキッチンに向かった。

 コテージそのものはさほど大きくないが、1LDKの室内は外観の印象ほど手狭には感じない。落ち着いた色と質感の調度品で統一された室内は、四人でも息苦しさはない。そうした室内の雰囲気は十代の少女が独りで暮らしているとは思えない落ち着いたものだが、それも当人を前にすればなんとなく納得できる。御陵・睦はとても同学年とは思えない大人びた風情の少女だった。

 とはいえ、その睦に負けず劣らず、客人の二人も一風変わっている。助はキッチンから、リビングセットのソファに身を寄せてお喋りに興じる三人の姿を観察していた。

 やはり場の流れを舵取りするのは社交的なエリの役目だった。睦がどういった人物なのか全く知らないはずであろうに、物怖じなく、それでいて無礼にならないように会話を弾ませる話術は流石の一言だった。それを受ける睦も相変わらずののんびりとしたマイペース振りだが、久方振りの『他人』に少し燥いでいるよう助には見て取れた。その裏に潜む期待と不安を思えば難しい感情が顔に滲みそうになるが、後で十分に味わわなければいけないことだと今はその事を忘れておくことにする。

 残った華花はというと、教室ではまるで自分一人が世界に存在しているかのように振る舞う彼女が、どこか所在無げではあるものの、エリと睦の会話にきちんと相槌を打って会話に参加していた。むしろおたおたと状況に流されている様は、いつもの冷淡さはどこへやら、愛嬌すら感じられた。

「ふーん、ドイツ系のお父さんと日本人のお母さんなんだ……じゃあ、海外で暮らしたりしてたの?」

「Nein! ハーフにして生粋のジャパニーズ!」

 一体何を誇っているのか、エリは自信満々に胸を張っている。今時外国暮らしも珍しいものではなかったが、エリのこの容姿で日本から離れたことがないというのは逆に新鮮に聞こえた。

「なるほど~……じゃあ、日本人ってこと?」

「どっちなんだろうね」

 睦が助に尋ね、助はキッチンの向こうでお座成りに首を傾げた。結局その疑問に答えはなく、答えるべきエリは身を乗り出して睦に迫った。

「日本じゃ田中・エリって名乗ってるの。長いっしょ?」

「そっかー、なんだかかっこいいね」

 感心する睦の正面で、華花も「そうだったんだ」と小さく首肯していた。

「日本から出たことないから本名忘れがちだけどねー! 田中・エリシュティーネ・ハイヒオルンとか、噛むし!」

「本当に噛んでる」

 エリのテンションに引っ張られることなく、睦は静かにころころと笑った。そこに、紅茶とスコーンを盆に載せた助が割って入る。

「で、こっちが同じクラスの蘭堂さんね」

 わざわざ助が、蘭堂・華花の紹介を買って出た。

 自己紹介はソファーに落ち着いてすぐにしていたが、蘭堂・華花らしい名前を告げるだけの簡素なそれでは彼女が誰なのかわかりづらいだろうと思ったのだ。すると彼女が助のクラスメイトだと聞いた睦は、助の想像を超える――というかなぜかとても驚いてみせたのだった。

「へぇ、同じ――同じクラス⁉」

 その頓狂な悲鳴に、給仕をする助の手元が狂い、危うくティカップを取り落としそうになる。

「そ、そうだけど」

 睦はその驚きぶりに少し身を引いた華花を、穴が開くのではないかと思うくらい凝視して、

「小学生かと思ってた」

 と忌憚なく漏らした。

「しょうがくせい……」

「あ、ご、ごめんね、気にしてた?」

 流石にショックを隠せない様子の華花を、睦はそれこそ子供を慰めるように頭を撫でてあやしつける。それは逆効果なのではないかと助が気を揉んでいると、

「むっちゃん、さすがに小学生はないよー」

 朗らかな声音で間を取り成したのは、やはりというかエリだった。彼女が出てきたならば助の出番はないだろう。紅茶とスコーンを配り終えてひとまず役目を終えた助も席に着こうと腰を落としたところで、続くエリの言葉に危うくソファから転げ落ちかけた。

「ハナハナ、ぱっと見こうだけどよく見ると出るとこ出てて小学生ってのは無理あるもん」

「ほうほう……確かに」

 エリの奇妙な角度からの説得に、睦も矯めつ眇めつ華花を観察して唸り声をあげた。思わず華花の方に動きかける視界を辛うじて自制しながら、助は気のない振りをして紅茶を啜る。気の毒に、華花が身を縮めて恥ずかしがっているのが気配からも伝わってくる。恐らく顔も真っ赤に染まっている事だろう。

「顔も手足もちっちゃいし、お人形さんって感じ?」

「うーん、そっかー……じゃあ、妹じゃなくて嫁が妥当かなぁ」

 流石に紅茶を吹きだしそうになって、助はむせた。

「あれ、なになに、むっちゃんってそっち系?」

「別にそういう訳じゃないけど、華花ちゃんかわいいなぁって思って、色々妄想してみた」

 あれから四年も経つ。睦の人柄も当時に比べて大分落ち着いたと思っていた助だが、なんてことはない、訪れる客が助だけで刺激が少なかっただけだったのだろう。改めてつついてみれば、御陵・睦という少女の素顔は当時からまったくと言っていいほど変わっていない。

「あー、わかるわかる、ハナハナは妄想しがいあるよね」

「うん、いろいろ着せ替えたりしたい」

「この顔でこの身体は反則だよねー」

 もう一体どこから場を収束させればいいのか、助には見当もつかない。華花に至っては自分の事を話しているという状況はわかっているようだが、自分の身体的特徴からどんな話が繰り広げられているのか、その内容まではよく理解できていない様子でぽかんとエリと睦の暴走を眺めている。それがせめてもの救いだった。本当に華花が純朴で良かったと思いながら、助が嵐の過ぎ去るのを待つ構えに入った矢先だった。

「で、たすくんの意見を聞きたいわけよ」

「お願いします、その話題を僕に振らないでください」

 慇懃だが絶対の意志を持って固辞する。

「えー、男子からみたハナハナってどうなのー?」

「そうそう、助は華花ちゃんどう思ってるの?」

「ど、どうって……」

 まさか本人を前にして苦手ですとは言い辛い。そもそもそれは男子全般の意見ではない個人的な見解であり、そういった私見を排除して彼女のことを評価するならば――そんな風に助が思考するその間を、二人は別の意味で受け取ったのか、勝手に妄想を逞しくさせはじめる。

「ま、まさかたすくんボクというものがありながら……!!」

「え、助とエリちゃんってそうなの?」

「いや待って、僕の話を聞いて欲しいな」

 あらぬ方向に向き始めた話を果敢に押し留めようとする助だったが、その声に二人は一瞥をくれただけだった。助の背筋に生暖かいものが走る。

「ボクがたすくんのことこんなに想ってても全然振り向いてくれなかったのはそういうことなんだね……」

 身を捩って芝居じみた愁面を作るエリに、睦は神妙な面持ちを近づけた。

「っていうことは、三人は三角?」

 耳打ちするような睦の顔を俄かに演技を止めたエリが正面から挑戦的に迎え討つ。

「四角かもよ?」

「あちゃー、そうだったんだー」

 一体なにがそうなのか。恐らくこの寸劇の最中、助はダシでありながら介入してはいけない観客なのだ。その事に気付いた助は、何を言ったところで彼女達がその耳にその言葉をいれてくれることはないのだろうと確信の諦念を抱いた。

 そこで、訳の分からないちぐはぐなテンションで助も華花も放って盛り上がる二人の視線が、不意に揃って助を捉えた。ぎらつく二対の瞳に助は嫌な予感しかしない。

「で、誰が助を刺すの?」

 不穏な笑みが睦の口元をかすめる。それが伝播したように、エリの双眸がすっと細くなった。

「ボクはキャラじゃないなぁ」

「私もこの歳で御縄はやだなぁ」

「ハナハナどうよ?」

「うん、ここは華花ちゃんに譲ろう」

 二人の期待を一身に受けた華花は、エリと睦を交互に見比べた後、静かに助に瞳を合わせた。その無茶振りを気の毒だとは思いつつ、他にどうしようもなく華花の様子を窺っていた助と視線が絡んだ。

「丹下くん」

「……何?」

 華花がゆっくりと小首を傾げる。

「わたしはどうしたらいいのかな」

 それはこっちが聞きたい。しかしそれを言ったら華花の質問を放棄することになる。言いたいのを我慢して、助は半ば自棄で二人が喜びそうな答えを選んだ。

「話の流れだと、僕を刺さなきゃいけないらしいよ」

 華花が今度は逆に首を傾げる。華花と助とにちらちらと期待の目を向けるエリと睦とを少し鬱陶しく思いながら、助は華花の言葉を待つ。

「刺せばいいの?」

 聞かれても困る。

「刺したいの?」

 意趣返しではないが、助は華花にそう反問した。だが、それは悪手だった。

「…………少し」

「なんでさ⁉」

 華花の思いも寄らない肯定に声を上げてしまった時点で、助は二人から指を刺されて笑いものにされる羽目に陥ったのだった。

 一頻り助を笑いものにした二人はすっかり打ち解けた様子でその後もお喋りに花を咲かせた。華花もぽつりぽつりと二人の言葉に返していたが、それは蘭堂・華花の本来の目的とは程遠い内容の会話だった。時折催促するように助を見る視線が、次第にその鋭さを増す。

 助とてこのままでは蘭堂・華花に方舟の恐ろしさを伝えるという目的を果たせずに時間が来てしまうと、頭を悩ませていた。そんな折だった。

「あら、賑やかだと思ったら」

 入り口から穏やかに割って入った落ち着いた声に、四人が一斉に振り返る。

「お母さん!」

「おばさん」

 睦と助がほぼ同時に声を上げた。

「御無沙汰してます」

 まだ二人と初対面だった時――ほんの小一時間前の話だが――の睦を思わせるやんわりとした雰囲気の女性が、顔をのぞかせていた玄関からゆったりとソファに歩み寄る。

「いらっしゃい、助くん。このお二人はお友達?」

 まず動いたのはエリだった。立ち上がり、しっかりと睦の母――御陵・夕佳(みささぎ・ゆうか)を正面に見据える。

「田中・エリです。初めまして」

 落ち着いた声で自己紹介し、自然な仕草で一礼する。一瞬にして大人と相対する雰囲気に切り替えたエリに、助は眼を瞬かせた。

「ご丁寧にどうも、御陵・夕佳です」

 エリの挨拶に少し遅れて、華花が立ち上がる。少し慌てた様子があるのはこういう挨拶に慣れていないからなのだろう。

「あの、初めまして……蘭堂・華花です」

「初めまして、随分可愛らしいお客様ね、助くんの従妹さんかなにか?」

 そのぎこちなさが初々しく映る華花に、夕佳も微笑みを隠せないようだったが、

「お母さん、華花ちゃんは助の同級生よ」

「あら、まあ」

 娘の指摘に今度は驚きを隠せなくなる。

「御免なさいね、あまりにも可愛らしいから」

 本当に申し訳なさそうに言う夕佳に、華花は少し困ったように微笑んで首を振った。

「いえ、慣れてます」

 華花が気を悪くしていない事に安心した夕佳は、しかし柔らかな笑みを浮かべる眉を少し顰めて助を見やった。

「それで……今日はどうして睦の所に?」

 やはり母親としてはそこが一番気掛かりなのだろう。ともすれば助を責めているようにも見える眼差しが、二人の少女を一瞥して揺れる。睦も母の言葉を耳にしてからは居た堪れなくなったようにしおらしくなり、板張りの床に視線を落としている。

 急に水を打ったように静まり返った室内の空気に呑まれたのか、この場を設けるよう頼んだ華花もその理由を言い出し辛そうに口を開けては閉じるを繰り返すばかりだ。助がなんとか場の空気を取り為そうと口を開きかけたそこに、見計らったような声が割って入った。

「助くんの幼馴染がどんな人か知りたくて、連れてきてもらったんです。とっても楽しい人ですね、むっちゃん!」

 明朗に、だが砕けすぎずに、エリははっきりと言った。その言葉に夕佳は何かを思い出させられたようにハッと息を飲んでまじまじとエリを見つめ、次いで羨むように悲しい笑みを浮かべた。

「人……そう、人なのよね……」

 あまりにも複雑な感情の推移に、エリと華花は戸惑った。助だけはその心中を察して、面持ちに暗い皺が寄る。夕佳は思いの丈を吐き出すように短く息をつくと、いつも通りに戻った優しい目を助に向けた。

「まだなんでしょ?」

「……はい」

「早い方がいいわ。アミュは?」

「ここです」

 沈鬱なやり取りの中で、助は制服のポケットからアミュレット端末を取り出した。助自身はよくある腕輪型の端末を既に装着しているから、今は使われていない端末だということになる。

 傷の目立つ兎のキャラクターを模した端末は少し子供っぽいし、男子が持つには可愛すぎる。助が昔使っていたアミュレットでもないことは容易に察せられた。であれば他の誰かの端末だという事になる。残る二人は御陵・睦と御陵・夕佳親子だが、夕佳もよくあるブレスレット型のアミュレットを装着している。御陵・睦だけが、それらしい装飾品も小物も身に着けていない。思えば、御陵・睦はU2Nに関わる一切の行動をとっていなかった。友達ともなれば当然交換するCUSアドレスも交換していない。

 助は慣れた手つきで兎のアミュレット端末の電源を入れると、それを睦に差し出した。華花とエリが固い眼差しで見守る中、睦はぎこちなく笑って「懐かしいなぁ」と呟く。受け取る睦の手は少し強張り、一瞬華花を盗み見た瞳は深い不安と諦観が窺えた。

「さ、お二人のどちらでも構わないわ、睦になにかメッセを送ってみて」

 それで一体どうなるのかと、つまらない事を口にする者はこの場にはいなかった。だが、すぐには誰も動けない。すると、何かに耐えるように俯いたままの華花に代わり、ここでもやはりエリが先に動いた。

 コンソールを開くと、ミーティング・ラインを使って手早くメッセージを送信する。アミュレット端末は人の意思に反応する。回線の種類に関わらず、送りたい対象を意識すればそれだけでアドレスは確定できる。

 だが、睦に送信したはずのメッセージは「宛先が存在しない」というエラーメッセージと共に戻ってきた。こんなこと、今の技術の信頼性から考えれば在り得ないことだった。目の前に確かに存在している相手に通信できない事など、世界の根幹を構成するU2Nにあってはならないエラーなのだ。しかし、何度やっても結果は変わらない。

 夕佳は睦から端末を受け取ると、簡単な操作で所持者登録を自分に切り替えてもう一回とエリを促す。エリが固い面持ちで言われたままにメッセージを送信すると、今度はなんの問題もなくメッセージは着信した。機械の故障ではない。睦の異常なのだ。

 夕佳はアミュレット端末を再び助に託すと、エリと華花に向き直った。

「この子はね、喪失者なの」

「喪失者……」

 エリがおうむ返しに呟く。

「原因不明の精神系疾患。お医者様はPDS(精神系疾患症候群)の一種だと仰って、療養のためとここに連れてきてくださったけど――」

 その後の言葉に詰まる。だが、夕佳は果敢に後を続けた。

「まるで牢獄でしょう? いろいろ調べたわ……世の中にはこの子みたいにクオリアを失ってU2Nに接続できなくなった『バケモノ』がいるんだって……」

「睦は……化け物なんかじゃありませんよ……」

「ええ……そうね、ごめんなさい、ありがとう、助くん」

 U2Nが一般に浸透して三百年。人の精神系を取り扱う技術は日進月歩の進化を遂げてきたが、実のところ未だに解明されていない部分の方が多い。CUSポートとクオリアの関係もその一つで、その仕組み――どころかクオリアがそもそも何であるのかすら人類は詳細を把握していない。

 それでもクオリアは人間が持つ確かな機能の一つであり、今の人類の寄る辺なのだ。その世界でクオリアを持たない〈人の形をしたモノ〉は異質の存在。世界を破綻に導くかもしれない存在は、化け物として扱われても仕方がないのだ。

 睦はそのクオリアを失った。その切っ掛けは四年前のあの方舟らしき物体との接触だと、助は確信していた。

 華花はともかくとしてエリまでこの隠し事に加担させて良いものか、助は深く悩んだ。今も少し後悔している。エリがもしこの事実を受け入れられず、外で睦の事を吹聴してまわれば、害が及ぶのはエリ本人なのだ。この事実は世界共和議会が必死に隠し通そうとしている。その中で騒ぎ立てる者がいれば、議会はいかなる手段を用いてもその人物を社会的に抹消しにかかるだろう。助もこの施設の許可証を受け取る際、暗にそう脅されている。

 助がエリの身を案じて彼女を見遣ると、青い瞳はいつになく静かな光を湛えて、居心地悪そうに空笑いを浮かべる睦を見詰めていた。ふと、エリは心の中の何かを崩したような微笑みを浮かべると、夕佳を振り仰いだ。

「こんな不思議なこと、いまいちピンときませんけど……ボクはその喪失症ってのになる前のむっちゃんは知りません。で、今日初めてむっちゃんに会って、いい友達になれそうって思いました。それじゃダメですか?」

 真直ぐに、沢山の感情を孕んだ海の蒼が夕佳に言葉以上のものを伝えようと煌いている。夕佳はその深さに堪えきれず、歪む口元を押さえて目元を拭った。

「そう、そうよね……この子は睦だもの……ありがとう、エリさん、私いつの間にか忘れちゃってたみたい。おばかさんね」

 感謝の意を込めて笑おうにも、溢れるものが邪魔をして自嘲の笑みにしかならない。エリは真摯にその笑みを受け止めて、凛々しく微笑んでいた。助には決して真似出来ない自信に満ち溢れたその瞳が心強い。

「わたしも……!」

 華花がそこに自分の存在を示すよう、声を高くする。後は彼女の気持ちだけだ。四対の眼が華花の思い詰めた表情に差し向けられた。

「わたしの兄も、喪失者です」

 彼女が方舟の関係者であることは予想していなかったわけではなかったが、予想以上の近さに助は絶句した。初対面の夕佳に至っては出し抜けの告白だったろう、限界まで見開かれた目が言葉にせずともその心中を物語っている。そしてその場の誰もが、エリの「リアル妹だったか……」という呟きは聞かなかったことにした。

「喪失者は人間です、きっといつか元に戻れます……だから、その……信じてあげてください……」

 言葉足らずは性分なのだろう。流暢に自分の考えを述べたエリと打って変わって、華花の言葉には裏付けも一貫性もない。だがそれ故に強い想いは伝わる。自分の言葉に兄を思い出したのか、言い切って固く引き結んだ口はまるで泣く事を我慢する子供の様でもあったが、涙を見せなかったのはまさしく彼女自身がそう強く信じている覚悟の表れなのだろう。

 自分の半分も生きていない子供が、ここまでの覚悟を持ってここにいる。その事実だけでも、夕佳の冷え切った心は忘れかけていた希望を思い出していた。

「ありがとう、華花さん……本当に、二人とも、ありがとう……」

 俯いた夕佳は、言葉にならない気持ちを反芻してその身を震わせていた。

「さてさて、湿っぽいのはここまでにしましょ?」

 さっぱりとした口調で場を取りまとめたのは、誰あろう睦だった。

「難しい話でお腹が減っちゃったわ」

 問題にされている本人がこうも気軽に構えているのであれば、外野があれこれ沈んでいるのも馬鹿らしい話だ。少なくとも助の知っている御陵・睦は、そうした場の空気の機微にきちんと対応できる気配りを持ち合わせている。クオリアがなくとも、御陵・睦は御陵・睦だ。

 そうして重苦しい雰囲気を追い払えば、打ち解けた空気が残る。そこからの夕佳を加えたお喋りは、まさしく女子会のそれで盛り上がった。唯一の男子である助は、気が乗らないこともあって、邪魔にならないようお菓子を運んだり、お茶を用意したりといった給仕に勤しむ。

 助は二人に感謝していた。夕佳の気持ちを知っていても、自分にはどうしても言えなかった――言う資格のない言葉を二人が伝えてくれた。おかげで今、睦は久しぶりに心から笑っている。さっきの鶴の一声も、二人が睦と夕佳の間にあった歪な遠慮を払拭してくれたからこそだ。

 しかし喜ばしい事ばかりではない。助の目論見――蘭堂・華花に方舟の危険を伝える目的は完全にご破算だった。

 恐らく華花は助と違い、方舟に向き合って生きているのだ。あの時垣間見た眼差しが、助の脳裏から消えなかった。言葉と瞳に宿ったその意志が、助の気持ちに後ろめたさのような暗い影を落とす。

 時折振り向けられるおしゃべりの矛先を逸らす際、その影が邪魔をして自然に笑う事が出来ない。給仕に専念できる状況にあったのは、和気藹々とした空気から逃げ出すのに丁度良い口実だった。

「ぜひ、お二人には許可証を受け取ってほしいのだけれど」

 夕佳が出し抜けにそう言ったのは、午後も大分回った夕方の入り口くらいだった。唐突な申し出ではあるが、確かに申請するのであれば早い内に声をかけておいた方が良いと夕佳の提案に助も賛同する。その取得には少なくない時間と条件が必要だからだ。

 助は二人に許可証発行のシステムをかいつまんで説明した。喪失者の一等親族の意思がなければ発行できない事、講習と誓約書の作成に一時間ほど掛かる事、月に一回以上の利用がなければ失効し、二度と手に入らなくなる事……おおよそそんな説明だった。

 特に講習と誓約書の部分には薄暗いものを匂わせて脅しつけたつもりだったが、二人の少女はそんなものには気付かなかったような気軽さで頷いた。

「ぜひぜひ! むっちゃんにはもっとボクのお菓子食べて貰いたいしねー!」

「じゃあ、わたしも」

 華花も受諾したのは意外だったが、話が纏まると夕佳に連れられて二人はこの管理区画の中心にある中央管理棟へと出向いていった。

 三人がいなくなったコテージに助と睦だけが残され、活気の残り火が燻る静かな室内に二人は並んで座っていた。

「助、ありがとね」

「うん……」

 お礼を言いたいのはむしろこちらの方だったが、助は他にかける言葉を見つけられなくてただ頷き返すのだった。


  ※  ※  ※


 旧市街に位置する御山駅は寂れた風情の漂う駅だった。寂れていても六十年前までは久早市の中心街にアクセスする駅であった名残で、地方の駅としては多い四車線分のホームがある。それも今は二車線分しか使われていないのだが。

 行きにも利用したその駅に、山奥の施設からバスで戻ったのはすっかり日も暮れた頃だった。

 華花はこの駅から徒歩で、エリは更にここから六駅ほど上ったビジネス街まで、乗り換えの電車を利用するという。自然、バスの改札前で今日は解散の運びとなった。

 助はここから三駅ほど上った久早本町駅まで電車に乗った方が早いのだがそれは口にせず、利用客もまばらな物寂しい照明の駅舎にエリが消えていくのを華花と並んで見送った。

「それじゃあ」

 少し緊張を孕んだ声で短く言って、華花が踵を返す。

「近道があるんだ。御山を越えていく道なんだけど、知ってる?」

 その背中を助が呼び止める。華花の足は止まるも振り返ることはなく、その言葉を吟味している様子だった。更に一押し、助は言葉を重ねる。

「山を回る道より明るいよ」

 明るいという言葉の効果は覿面だった。華花は黙ったまま助のそばまで戻ってくると、視線だけで出発を促すのだった。助は苦笑を浮かべつつも素直にその要求に従い歩き出す。

 駅舎を離れれば人通りも街灯も少ないこの辺りは原初の闇を彷彿とさせる暗がりに呑まれてしまう。看板や広告のほとんどがCUS上に表示されるようになったため、それは尚更の事だった。あれは脳内で情報がそこにあるかのように映し出すだけで実際にそこに光源はない。肉眼で感知できる光というものが、この現代は極端に少ないのだ。家屋から漏れる光に関しても、人類の半分が宇宙へ上がってしまったのでは頭上の方が明るくなる道理だ。実際、夜ともなれば衛星やスペースセツルメントの発する誘導灯やらが星に混じって輝いているのが天体に興味のある人間にはすぐ見て取れる。だが地球上に入る助達には二千キロ以上離れた光ではなんの役にも立たない。

 助が明るいと言う御山も、駅舎から見上げれば無数の星をちりばめた夜空を背景に黒々と聳える闇の塊にしか見えない。

 その中に飛び込もうとする助に、華花は緊張した眼差しを投げかけて足を止めた。それを気配で察した助は振り返り、微笑みでなだめすかした。

「大丈夫だよ」

 ここまで来ておいて元来た道を戻るのも癪に触った蘭堂・華花は、素直にその言葉を信じると、助の背中に張り付くようにぴったりとその後をついていく。

 御山は標高二百メートルほどの大きくはないが小さくもない山だ。現在の久早市はこの山を中心に東西で新市街と旧市街に分かれている。それはこの山そのものにも言えることで、再開発の折に山の東側――新市街側は広大な自然公園が整備されたが、西側と頂上付近はかつてのまま御山神社とその参道が取り残された。

 駅から御山に入る道は鬱蒼と茂る雑木林に抱かれた、舗装もされていない登山道だった。華花からすれば何時間もその闇の中を彷徨った気分だったが、木々の合間から白い光が見えれば恐怖心が薄らいで正しい時間感覚が蘇る。そこは駅舎からものの数分の場所で、山の端と樹々が邪魔して駅舎からはこの明かりが見えなかったのだ。

 助が案内した道は、確かに普段歩いている住宅街の道より明るく広い車道だった。参拝用の道路の為、車の往来がほとんどないのも臆病な華花には嬉しかった。夜道にすれ違う車に、お化けが乗っていたという怪談を聞いてから、華花は夜の車が恐ろしいのだ。

「ここを進むと山の北側に下りる道があるんだ」

 助は曲がりくねる舗装路の下り方面を指さした。

 なるほど、と華花は口にせず呟く。確かにこれなら御山の裾を回り込む住宅街よりも早いかもしれない。しかしこの道をただ進んでいては山の東側の市営公園に出てしまうという。具体的な道順を教えてもらう為にももうしばらく助と同道する必要があった。

 特にこれといった会話もなく、一日ごとに冬の気配を強くする空気の冷えに身震いしつつ舗装路を進む。すると大きく曲った道路の先に広く開けている場所が見えた。そのまま進み、二人は山の中の休憩所のような小さな公園に辿りついた。

「ここを抜けるともう山を下りるよ」

 となれば、これ以上助と華花が一緒に行動する理由もない。

「ありがとう、もういい」

 短く感謝を述べて、後ろにいた華花が助の眼前を通り過ぎる。助も華花にそれ以上を望んでいないのか、その背中を苦笑交じりに見遣った。

「また」

 別れの声を背中で受け、華花が公園の先を見据えた時だった。だいぶ先にある街灯の下に人が集まっている。その集団はこちらの存在に気付いているようで、何かの目的をもってこちらに近づいてきているのが分かった。先日の黒ずくめの件もあり、華花はすぐに対応できるよう意識を切り替える。

 街灯の光をスポットライトのように浴びて姿を現したのは、なんとも形容しがたい男と十数人からなる集団だった。

「……演劇の練習?」

 思わずそんな言葉を呟いてしまうほど、先頭に立つ男の格好は奇抜だった。

 目元に赤い隈取を施した顔は二十代前半のようにも見えるが、街灯の真上からの光源の下、長く伸ばした前髪の影に顔を半分隠されていては判然としない。

 なにより目を惹くのはその服装、薄暗い街灯の下でも見て取れる白の羽織だ。華花は知らなかったが、それは古代の指揮官『武将』が陣頭に立つ際に鎧の上から着用していた陣羽織である。それを左前の黒い小袖に紫の短袴といった出で立ちの上に着ていれば違和感も甚だしい。

 左右に立つ一組の男女が一般的な格好をしていれば尚更だ。と言っても、彼等もまた先頭の男とは意匠が異なる、白に黒い縁取りの入った揃いの羽織をその一般的な服装の上に着込んでいるのだが。

「余は崇神・皇(すじん・すめらぎ)である」

 耳につくイントネーションで名乗り出したのは、中央の奇抜な男だ。皇がそれまで閉じていた赤い隈取の目をくわっと見開いて、声を更に高くした。

「我等崇神会! 世に正義を示す者!」

 皇の咆哮に合わせて、およそ十人位の集団が一斉に皇にかしずいた。

 華花は動かない。進行方向に変態がいるのもあるが、あまりに唐突な状況に思考がついていけなかった。

「蘭堂さんどうし――何、これ」

 間も悪く助が華花の様子を訝しんで追いかけてきた。そして華花と同じく、目の前で繰り広げられている光景に身を反らして怯む。

「我等崇神会! 世に正義を示す者!」

 助の登場にご丁寧にももう一度名乗りを上げる。

「崇神会って……」

「知り合い?」

 助が彼等の名前を口にするのを聞いて、華花が視線だけそちらに向けて問う。助も彼等から視界を外さないようにしつつ、固い面持ちで首を振った。

「この辺を根城にしているっていう不良集団だよ……エンチャンターがいるって話で有名なんだけど……」

 エンチャンターという単語に、華花も強い反応を示した。

「不良とは聞き捨てならないわね」

 皇の横にいた女性が気色ばむ。皇の片腕を務める柴田・衣子(しばた・いこ)だ。赤い眼鏡が印象的な線の細い女性だった。年の頃は助達よりも年上に見えたが、頬に散ったそばかすがややその顔を幼く見せている。

「良い、衣子よ。常に正しきを行う者は世の反感を買うもの。これ即ち我らが正しきを行っている証であろう」

「は……」

 皇の鷹揚な物言いに、衣子は大人しく引き下がった。

 エンチャンターがいるという話だが、一体誰がそうなのか。華花は油断なく立ち塞がる集団を観察した。特に集団から突出しているのは三人。皇と衣子と、そして巨大と言って差し支えない大男だ。

 その大男、武本・堅介(たけもと・けんすけ)はここに姿を現してから一言も発していない。それどころか、華花の倍はありそうな巨躯を微動だにさせていない。木像の様にただ華花を見下ろし続けていた。

「その崇神会が、蘭堂さんになんの用なんですか」

 黙して状況を確認していた華花を臆したと判断したの、助が華花を庇うように一歩前に出て問う。皇がじんわりと浮かべた笑みを崩すことはなく、代わりに衣子が眼鏡を押さえつつ前に出てくる。

「知れた事、天誅である」

「て、天誅?」

 耳慣れない言葉を助が反芻する。

「蘭堂といったか? 貴様はエンチャンターだな」

 助の身体に電気のような緊張が走った。華花の返事を待つことなく、衣子は既にそれが事実として話を推し進める。

「先頃、我が会員が貴様の罪を見受けた。よってここに断罪を決行するものとする」

 それが崇神会の正義である。自信に溢れた衣子の態度からそんな言葉まで聞こえてきそうだった。

「ほんに、其方を探すのには手間取ったぞ? なんとかこの辺りに住んでいると判ったものの、とんと手掛かりもないでなぁ」

 皇はじっとりとした笑みを更に深くする。

「力を使ってこの辺りの端末を片っ端から覗いておったのじゃが、まさかこんな近くにやってくるとは……」

 芝居がかった仕草で両手を天に掲げ、ゆっくりと闇に染まる空を仰いだ皇は宣誓するように謳った。

「これぞ、天命である」

「流石です、皇様」

 感じ入った眼差しを向ける衣子に、皇では話にならないと感じた助は必死な顔付きを差し向ける。

「蘭堂さんは僕を助けてくれただけですよ⁉ 見ていたというのならなにも悪い事はしていないってわかるでしょう!」

 正義を行うというのが崇神会のポリシーであれば、この行いはどう考えてもそれに悖る。助はそう伝えたかったのだが、そんな理屈は彼等の中に存在していなかった。

 衣子が眼鏡の奥の瞳を冷たく輝かせて、二人を見据える。

「彼女の登録は確認できなかった。つまりエンチャンター……であれば彼女は絶対悪です。それを庇うあなたも、同罪ですね」

 あくまで、彼等は彼等の正義を行う集団なのだ。それが世間一般でいう悪であろうと関係ない。助の釈明は彼等が一丸となってその勘違いに邁進していることを確認するだけだった。

 崇神会に目を付けられた。その事実は少なからず助を怯ませたが、今はそれをどうこう言っても仕方ない。考えるべきはどうやってこの場を切り抜けるかだ。

「エンチャンターだからって――」

 そういえば、と助は自問する。忘れようとしているうちに本当に忘れてしまっていたが、あの時自分を襲った黒ずくめは何だったのか? 奴もエンチャンターではなかったか。

 チャンターは政府に厳しく管理され、ほとんど公衆の前に出ることはない。エンチャンターにもチャンターほどではなくともそれなりの情報規制を行って、可能な限り彼等の信奉者――まさしく目の前にいるような連中だ――の追従を防ごうとしている。故に、助はこの十七年間、CUSプログラムが目の前で詠唱される事態になど遭った事はない。ほとんどの一般人がそうであろう。本来、詠唱技能を持つ人間というのは管理されたチャンターも社会に潜むエンチャンターも――見つかればすぐに当局に拘束されてしまう――神経質なくらい人目を憚るものなのだ。そうでなければ恐ろしくてオチオチ外も歩けない。つまり、現場を偶然目撃したような口ぶりであれど、あの黒ずくめの正体が崇神会のメンバーである可能性は十分にある。

「もしかして、この間僕等を襲ったのも貴方達なんですか」

「先程も言ったでしょう……我々はその現場を偶然目撃したのです」

 故に蘭堂・華花の罪に気付いたのだと言い張る。それがそもそも崇神会の仕組んだ狂言の可能性は捨てきれなかったが、続く皇の言葉でその可能性が揺らぐ。

「あの漆黒の悪か……余は奴も探して居る。世に仇なす悪は制裁せねばなるまいて」

 その重々しく苦々しい声音に、演技は感じられなかった。

 実際に皇という男、自己陶酔型で信念だけは立派であるからこそ嘘をつくようには思えない。崇神会の噂にあるような直情的な性向を見ても腹芸を駆使するタイプではないだろう。となれば、あの黒ずくめはいったい何者なのかという疑問が残るが、今はそんなことを悠長に考えている時ではない。一方的な正義感で動くこの無法者達をどうにかしないと、黒ずくめの危険以前の話だ。

 助が改めて眼前の危機に向き直ったその時だ。その集団の中にどこかで見覚えのある顔が混じっていれば、思わずその名を呼んでしまうのも致し方無い事だったろう。

「巽……?」

 崇神会の三人の向こう、街灯の光が辛うじて届く範疇に立っていた男の一人は、助に気付かれたことを忌々しそうに俯いた。

 彼は四年前まではよく一緒に遊んでいた幼馴染の一人だった。仁と巽と助と睦と、四人は小学生の頃からずっとつるんできた仲だったのだが……それも中学二年のあの夏の日にすべて狂ってしまった。

「なんだ、斉藤、知り合いか?」

「知りません」

 そんなはずはない。今、衣子が呼んだ姓も助の記憶の中の名前と一致した。だが、斉藤・巽(さいとう・たつみ)はあくまで助の事を無視する構えらしく、目も合わせない。あの日から急によそよそしくなった巽とはそのまま自然と疎遠になり、助より付き合いの深かった仁に違う高校を受験したと聞いた時はもう会う機会もないと思っていたが……。

「まあ、いい。知り合いだろうがなんであろうが、悪は罰するのみだ」

 再び、一方的な正義感が助と華花の喉元めがけて牙を剥く。正義の為に悪を為す。お題目は立派だが、現実的には迷惑行為に他ならない。その勘違いに実際晒される羽目になれば、ぼやきたくもなる。

「やってることが支離滅裂だ……」

「ばかなんでしょ……やる気ならやるよ」

 身も蓋も無い事を吐きつつ、後半の言葉を勇ましく崇神会に投げつけた華花が前に出る。

「少し下がってて、でも離れすぎないで」

 視線は崇神会の方に固定したまま、少し助を振り返ってそう告げる。

 情けない話だが、助は確かにこの場では華花に守ってもらう必要がある。言われたとおりに助が距離を取ると、まるでそれが開戦の合図であったかのように崇神会の二人、皇と衣子の背後に統合紋が発生した。それはCUSプログラマーが〈インテグレイター〉を起動して、詠唱準備に入った事を示す。

「{"示し給え";……」

 皇が厳かに詠唱を開始する。

 一般に詠唱と呼ばれるこのプログラミング方式は、複雑な記述(スクリプト)を予めライブラリパケットと呼ぶパックにまとめておき、必要な時に音声で呼び出して使用する。詠唱を実行化するには八つのカテゴリ毎にライブラリパケットを組み合わせなければいけないが、ほとんど定常化されている六つのカテゴリはアミュレットの機能で無意識的に処理されている。チャンターが詠唱するのは特に指定の必要な属性詞(アトリビュート)と動作詞(ビヘイヴァ)の二詞だけだ。

 そうした利便性を高めているのが〈インテグレイター〉と呼ばれるソフトウェアの機能であり、その機能は一般のアミュレットでは規制されている部分だ。エンチャンターはまずアミュレットのプロテクトを解除してその機能を作動させるルート権限を獲得するところから始まる。

 だが実のところ、インテグレイターを利用してプログラムをインスタントに組み上げる技法は本来的なCUSプログラミングの姿ではない。

 チャンター自身はこうしたCUSプログラミングの使い方を邪道としている。だがそれを悪用するエンチャンターから身を守るために必要悪として習得せざるを得ないのが現実だった。

 こうして、音声に関連付けたプログラムを呼び出すその姿の印象深さから、対外的にCUSプログラマーの事を詠唱者と呼ぶ慣例が根付いたのだ。

 皇の統合紋は一メートルほどの直径にじわりと広がり、中心部から次第にその密度を上げていく。光る線が絡みあい密度を増していく統合紋が満ちれば、CUSプログラムは完成する。

 こうしている間にも向こうの統合紋は密度を増していく一方だが、華花は全く動こうとしなかった。

 詠唱技術に関しては門外漢の助だが、全く動かないというのはどうなのだろうか。皇の実力に気圧されているとでもいうのか。背後からでは華花の表情は窺い知れない。そんなことを考えている間にも、皇の統合紋の完成は目前に迫っている。

「"ヤツカノツルギのシルシ";};」

 それが彼の設定した詠唱音声なのだろう。そう叫んだ刹那、皇の眼前に統合紋が収束し、CUS上を走る害意あるプログラムがアミュレットに可視化された光の粒子となって華花に殺到する。

「蘭堂さん!」

 華花はあっという間に光の中に呑まれた。

「ほ、他愛な……い……?」

 勝利を確信した皇の顔色が変わる。光の残滓が消え去った後には、華花が直前と同じように自然体で立っていた。

「馬鹿な……皇様の害意詠唱(マリシャス・チャント)をまともに受けて無傷⁉」

 害意詠唱とは文字通り害意を以って相手の精神系を直接揺さぶることを目的としたプログラムの事だ。平たく言えば罵詈雑言のようなものだが、耳から入り理性で受け止められる言葉と違い、詠唱で叩きつけられる害意は精神系を直接的に容赦なく蝕む。直撃すれば重篤な心的外傷を負うこともある代物だ。

「……これが害意詠唱?」

 衣子の動揺に華花の呆れ声が追い打ちをかける。

「害意詠唱っていうのは、こういうものを言うの」

 華花の周囲に統合紋が発生する。それは一瞬で華花の小柄な身体をすっぽりと覆えるほどに膨れ上がった。皇のそれとは比べるべくもない速さと大きさだ。

 だがそれは記述を格納している容量の問題であり、真に恐るべきはここからだった。それがどれだけ尋常でないか、詠唱を知る崇神会の僅かな面々だけがその顔色を変えた。

「な、なんだそれは……⁉」

 衣子が慄く中で呟き、その声で我に返った皇が急いで身を守る為の詠唱――防護詠唱(ガード・チャント)を展開する。華花は相手が防護を展開するのを待つように、余裕を持ちつつ速やかに詠唱を組み上げる。

「{"でろ";/*そして*/"うがて";};」

 崇神会の二人の詠唱がゆっくりとコップに注がれる水のようだとしたら、それは全く別次元の速度だった。真空に空気が流れ込むように、一瞬で統合紋が密度を増す。密度も崇神会のものとは比べ物にならない程に緻密で繊細。

 放たれた粒子そのものは崇神会の二人と変わり映えはしないが、その粒子の強い輝きは圧倒的だ。助は以前に華花の詠唱を目の当たりにしているが、今のそれはあの時の詠唱よりも速く、力強かった。

「{"示し給え";"クサグサノモノノヒレ";};!」

 皇の展開した防護も華花の一撃で無残に光塵と帰し、再び崇神会の面々に動揺が走る。

「ば、馬鹿な!」

「動的防護が一撃で⁉」

 助には知る由もなかったが、チャンターはいくつものCUS防護を展開しているのが常だった。

 チャンターが利用する防護を大別すれば常時展開する常駐防護(レジデンシャル・ウォール)と、必要な場面で防護を厚くする動的防護(ダイナミック・ウォール)と静的防護(スタティック・ウォール)の三種類だ。

 先程の崇神会の攻撃を華花は常駐防護だけで守り切ったのに対し、華花の攻撃に晒された崇神会の二人は動的防護ごと常駐防護、さらにはアミュレットに搭載される物理防護(サージュ・プロテクト)にまでその衝撃を感じていた。もし動的防護が間に合わなければ物理防護を破壊され、良くてアミュレットの故障、最悪の場合は精神痛すら引き起こしていたかもしれない。精神痛はいわば悪化した心的外傷――精神系の怪我だ。程度にもよるが治療が終わるまでまともにU2Nが使えなくなってしまう恐ろしい状態であり、場合によっては命の危険すらあるという。

「次はアミュレットを壊すよ」

 戦慄する二人を前に、華花は淡々とそう宣言した。つまり、今までは実力を見せつけるためのデモンストレーションであり、これからあれ以上の攻撃をするということだ。

 崇神会に考える余裕はないだろう。このままであれば華花の声に含まれる自信が示す通り、一瞬で事態に片が付く。助の心中に安堵を含んだ期待がかすめた。

「{"でろ";」

 一瞬にして統合紋が完成する。

「/*そして*/"うがて";};」

 密度を増した統合紋が輝きを増し、華花の眼前に光の渦が現れる。華花は狙いを定めるようにして崇神会の二人に細い指を差し向けた。

 これで終わる。助がそう確信した瞬間、崇神会の二人の前に割り込んだ壁があった。

 それまでずっと黙して動じなかった武本・堅介である。彼はその巨躯に見合わぬ俊敏さで二人の前に躍り出ると、予め統合(インテグレイト)しておいたのであろう詠唱を展開した。

 基本的に害意詠唱よりも防護詠唱の方がシステムの負担も少ないために詠唱しやすく実行化も早い。堅介の防護詠唱は華花の害意詠唱が放たれる直前に完成した。

「"ウォール";};……」

 巨体を幾重にも覆う巨大な壁が現れ、迫りくる華花の害意詠唱とぶつかりあう。放電に似た閃光がはじけて散ると、信じ難い事に華花の害意詠唱を受け止めきった堅介の防護詠唱が、重厚な輝きのまま健在する姿が現れた。

 今度は華花の顔色が変わる番だった。ここまでの詠唱を駆使する存在を、華花は想定していなかった。崇神会の面々からも安堵と称賛の声が漏れる中、頼りがいのある手下の存在に息を吹き返した皇が気色ばんで華花を睨みつける。

「どうやら堅介には貴様の詠唱も通用しないようじゃな! ようしここから反撃ぞ! いけ! 堅介!」

 思わぬ伏兵に、今度は華花が気圧される番だった。

 堅介の実力は動的防護の密度から推察される害意詠唱の密度も、華花のそれに引けは取らないだろう。単純に能力差を比べるだけであれば総合的な実力は自分に分があると判断する華花だが、向うは少なくとも二人。加えて代表格と一緒に前に出ていることを考えれば、衣子もエンチャンターであると考えるべきだった。

 そうであれば三人ものエンチャンターを同時に相手取らなければいけないことになる。それは単純に詠唱だけを使った戦闘――つまり今の状況下であればどんな実力差であろうとひっくり返せる可能性を持つ数字だ。華花はすぐさま防護詠唱に入れるように意識を切り替えた。

 助もこの後の熾烈な攻防を想像して固唾を飲むが……その時がなかなか訪れない。

 沈黙したまま、まさしく壁の様に立ち尽くす堅介にその場の視線が集まる中、衣子がどこか気まずそうに告げた。

「皇様、堅介は防護詠唱しか使えません……」

「……スンマセン」

 堅介がぎこちなく謝罪する。

 それを聞いているのかいないのか、うっかり失念していた事実に固まってしまった皇だが、状況は考えるほど複雑なものではない。皇にはエンチャンターではない部下も十人近くいる。対してむこうは小柄な少女とその小さな背中に隠れている情けない男だけだ。

「者共! 我らが貴様らを護る! あの小娘から護符を奪うのじゃ!」

『応っ‼』

 お互いに楯と矛が拮抗するなら、単純な物量がものをいう。

「ら、蘭堂さん、大丈夫なの⁉」

 本当に情けない話だが、助はこの手の荒事に慣れていない。仁であれば勇ましい笑みを浮かべて喜んで殴り合うのであろうが、その仁もここにはいない。だが、狼狽えるタスクに対して華花は比較的落ち着いていた。いつの間にか黒いグローブをはめた右手の具合を確かめるように軽く握り、向かいくる男達に対峙する。

「大丈夫、そこで見てて」

 華花は凛々しく承け負うと、真っ先に掴みかかってきた男に自ら飛び込むように前に踏み出した。愛らしい少女が自分から飛び込んできたことと自分がエンチャンターを捕まえた功に眦を弛めた男だったが、次の瞬間にはその身体を激しく痙攣させて苦悶に歪んだ顔から地面に崩れ落ちる事になった。気絶はしていないようだが、意識がある分続く苦痛に悶絶している。

「スタングローブ⁉ そんなものまで……」

 衣子が察し、苦々しく呻く。少女が手にはめているただの合成皮革のグローブにしか見えない代物は、電気ショックを内蔵した護身用のスタングローブだった。エンチャンターであればこうした状況も想定するのが当然なのだろう。しかし、それとて彼女の細腕では決定的な戦力にはならない。崇神会の結束次第だが物量で押し切られる危機は依然そのままだ。

「ええい、貴様ら怯むな! 行け! 援護する!」

 言うが早いか、皇はすぐさま害意詠唱の準備に入る。そしてやはりエンチャンターであった衣子もそれに倣う形で詠唱を開始する。堅介も得意の防護詠唱を構えた。

 男達も華花に悶絶させられる恐怖はあるものの、頭目の手を煩わせながら立ち尽くしているわけにもいかないのであろう、銘々に彼女の周りを取り囲むよう慎重に動き始める。害意詠唱の完成で一斉に襲い掛かる腹積もりなのだろうが、華花とてそれを知って指を咥えて待つつもりはない。

「{"でろ";/*そして*/"うがて";};」

 皇たちを巻き込む形で、目の前にいた二人に向けて害意詠唱を放つ。

「{"ダイレクト";"ウォール";};」

 だがそれも堅介の防護詠唱に弾かれてしまう。華花の顔に焦りが浮かんだ。

「{"示し給え";"ヤツカノツルギのシルシ";};!」

「{"ダイレクト";"アタック";};!」

 皇と衣子の害意詠唱が完成し、男達の合間を縫って華花に迫る。常駐防護で防ぎきれると言っても、しっかりと意識を集中できる時だけだ。自分より頭二つ分も背の高い男達が迫りくる状況の中にいて冷静でいられるほど、華花も場数を踏んでいるわけではない。

「{"でろ";/*そして*/"まもれ";};!」

 動的防護で二つの害意詠唱を受け止め、正面から来た二人の腕をなんとかかいくぐりながら電気ショックを与えて悶絶させる。

「{"示し給え";"ヤツカノツルギのシルシ";};!」

「{"でろ";/*そして*/"まもれ";};!」

 更に華花の隙を作ろうと放たれた皇の害意詠唱も防ぎきる。だが、戦闘訓練を積んでいない華花にはそこが限界だった。

 詠唱に意識を移したせいで把握しきれなかった男に横合いから襲い掛かられ、腕を取られてしまう。揉み合う中でなんとかその男も電気ショックで沈黙させるが、その間に距離を詰めていた男達の準備は万端だ。正面と背後から同時に襲い掛かられて、華花は一瞬対処を迷った。

「きゃっ⁉」

 背後の男に対処しようと振り返った所で、正面から襲い掛かってきていた男に腕を取られる。完全に羽交い絞めにされ、身動きが取れなくなったところに自由に動ける男の手がいやらしく迫ってきた。

「いや……っ」

 華花が思わず顔を背けたその時、目の前の男が勢いよく横に跳んだ。違う、跳んだのではなく押し飛ばされたのだ。華花の目の前には、呼吸を荒くする助がいた。意識の外に置いていた相手の意外な反撃に華花を捕えていた男の手も弛む。その隙を逃さず電気ショックを浴びせ、突き飛ばされて助に逆上した男も同じ運命を辿らせた。

 勢いだけで飛び出したのだろう、反動で尻餅をついた助を見下ろし、華花は複雑な表情を浮かべた。まるでそれは礼を言うか悩んでいるようにも見える。

「……ありがとう」

 結局、華花の口からはありきたりな謝辞が飛び出し、助も華花の無事に相好を崩しかけた。

「――後ろ!」

 油断していた。背後から襲い掛かってきた男に助が叫ぶが、遅い。男は華花がスタングローブをはめている腕とは逆の腕を掴んだ。華花は自由なままのスタングローブで電気ショックを与えるが、ショックで跳ねた男が弾き飛ばされたように地面に転がると同時に、華花の意識の中で何かが途切れた。すぐにそれが意味するところを悟って男の手を見れば、そこには華花のブレスレット型のアミュレットが握られている。最初から男の狙いはアミュレットだったのだ。

「アミュが!」

 華花の心臓が大きく跳ねる。アミュレットがなければ害意詠唱を防げない。CUSポートがなければ詠唱は届かないが、ポートはアミュレットを手放したからといってすぐには閉じない。それどころか、アミュレットの物理防護がなければ害意詠唱の精神系浸食をまともに受けてしまう事になる。そうなれば崇神会の拙い害意詠唱でもどうなってしまうかわからない。

「貸して!」

 華花は咄嗟に助にしがみついた。助が抱き付かれたことで驚いている間にも、華花は自分の意識の中に入ってきた助のアミュレットの反応にアクセスする。すぐさまそのアミュレットの占有を助から奪い取り、ルート権限を強引に獲得してインテグレイターを起動する。アミュレットにアクセスしたことでそれまで華花の目には見えなかった崇神会の統合紋も可視化された。短時間での過剰な情報交感に脳神経がぴりぴりと悲鳴を上げるが、無視して強行する。

 もはや一刻の猶予もない。ネットワークを介して自分のアミュレットのライブラリから拾い上げた記述と、頭の中の記憶を頼りに手っ取り早く間に合わせの防護詠唱を組み上げる。付け焼き刃の記述ではあまり防御能力は期待できないが、ないよりはましだ。後はアミュレットの物理防護で止まってくれることを祈るしかない。

 そうこうしている間にも崇神会の詠唱は実行化されつつある。スタングローブで沈黙させた男達の中にも動けるようになった者が出始めていた。

 針で刺すようだった頭痛は焼けるような痛みに変わっていた。それを堪えながら辛うじて組み上げた詠唱を統合化したその時だった。

「なっ⁉」

 華花が実行化したのは間違いなく簡単な防護詠唱のはずだった。だがアミュレットを介して現実空間に姿を現した統合紋は、半径数メートルにも及んで空間を占拠し、一瞬にして超々高密度の記述でその内側を満たした。それはインテグレイターを利用した詠唱では実現不可能なほど複雑で混沌としたプログラムだった。

「ななぁなななな!」

「な、なによそれ⁉」

「ヌゥ……」

 皇、衣子、堅介の動揺は、伝わる必要もなく周囲の会員達の中にも生まれていた。動ける者は遮二無二華花から距離を取り、まだ痺れの残る者も這いずってそこから逃げ出そうとしている。だが、予想外の出来事に怯えるのは崇神会の面々だけではなかった。

「なにこれ……やだ、助けて……」

「蘭堂さん?」

 華花にもこれがなんなのかわからなかった。あまりにも複雑で巨大で難解な記述が、華花の中で渦巻いている。その嫌悪感に我を忘れて助に縋る。

「蘭堂さん、どうしたの⁉ 落ち着いて!」

「やだ……怖いよ…………お兄ちゃん……!」

 華花が詠唱に呑まれつつある最中にも、崇神会は蜘蛛の子を散らすようにこの場から姿を消していった。いつの間にか皇や衣子、堅介といった中核を担っていたと思しき面々の姿もない。巽も既に立ち去ったようだった。

 ひとまず崇神会の脅威は去ったようだが、ある意味崇神会以上に厄介なのはこの現象だ。

「助けて、誰か……!」

「だ、大丈夫だから!」

 思わず、助は華花を抱き締めていた。それは錯乱する華花を押さえつける意味もあったが、多分に自分自身の恐怖もあった。こうして彼女の存在を確かめていないと、助もまたこの場から逃げ出してしまいそうなのだ。恐怖と、彼女を見捨てるような真似はしたくないとの矛盾に苛まれながらも、自分に言い聞かせるよう華花の耳元で鼓吹する。

「大丈夫だから、落ち着いて……ゆっくり息を吸って……」

 助の腕の中で、浅く荒かった華花の呼吸が次第に落ち着きを取り戻していくのが分かった。

 すると、眩しいくらいに輝いていた華花の統合紋が次第に光輝を失い、ゆっくりと収縮していく。そうして、広場を覆い尽すほど巨大だった統合紋も、やがて幻であったかのように消え去ってしまった。夕闇に染まった雑木林の中に、耳に痛いほどの静寂が戻る。

 発生した原因も収まった理由も何一つ不可解なままだが、その静けさは助に事態の収束だけはしっかりと伝えてくれる。緊張から解放された助がほっと一息ついた瞬間だった。

「あいたっ⁉」

 腹部に浅く弾ける痛みが走り、助は華花から逃げるようにたたらを踏んで尻餅をついた。華花に電気ショックを浴びせられたと気付いたのは、目の前に佇む少女の顔を呆然と見上げてからだった。

「いつまで抱き付いてるの……」

 どうにも腑に落ちないが、確かに相手が嫌がったらそれはセクハラ以外の何物でもない。とは言え、華花も情状は酌量してくれたのだろう、電気ショックは静電気程度の出力だったのか、一瞬ピリッとしただけでもう痛くも痒くもない。

「……ごめん」

 色々な感情を呑み込んでから、助は素直に謝罪して立ちあがった。


  ※  ※  ※


「タスクぅ、ここどこぉ」

 幼い声が涙を滲ませている。それが自分の口から発せられているのだと気付いて、少しばかり驚いた。聞き覚えのない自分の声、こぼれる涙を拭う小さすぎる自分の手、目に映る世界全てが普段よりなお高く、視界が低い事に気付く。

 思考はもどかしいくらい淀んでいるのに、今の状況がどういったものなのかはすぐに解る。

 幼い自分は当時流行っていたキャラクターのぬいぐるみが欲しくて、お小遣いを握りしめ助と一緒に近所のおもちゃ屋を探し回ったのだ。しかし近所では見つからず、小学校に上がったばかりで少し気の大きくなっていた自分は、背伸びして隣町のおもちゃ屋まで行くと言い出して――。

「だいじょうぶだよムツ、もうすこしいけばきっとすぐだから」

 少し幼いが、この声の主が助だとはっきりわかる。

 温かくて、いつもそばにいてくれて、いつでも助けてくれる。だからついつい頼ってしまう、彼の声。

「もうつかれたぁ、かえりたいぃ」

 それに引き換え、自分ときたら……。

 情けないとは思いつつも、確かにこの恐怖には抗いがたいものがある。自分の周りすべてが得体のしれないもので構成されている気がして、嫌悪と猜疑の入り混じった感情がとめどない恐怖を生み出すのだ。唯一、助だけがこの場で信じられる存在だった。

「ほら、ぼくがおぶってあげるから」

 助はすぐに甘やかす。しかし一番けしからぬのはこうすれば助が助けてくれると利用している自分自身だろう。

 当然のように彼の背中に覆いかぶさり、その温もりに身を委ねる。助の方が少し身体が大きいとはいえ、ほとんど体格差はない。助も相当辛いはずだが、彼は一言も不平を漏らすことなく一歩一歩慎重に歩を進めていった。

「きっとあそこならまだのこってるから。ぼく、こないだみたからきっとだいじょうぶ」

「うん……」

 きっと彼も不安だったであろうに、そんなものはこれっぽっちも顔に出さず、自分を励ましてくれる。

「だいじょうぶだよ、ぜったいだいじょうぶ」

 その声が透けるように遠退き、代わりにけたたましい目覚ましの音が頭の中に響き渡る。

 カーテンの隙間から零れてくる朝の気配に眼を瞬かせながら、華花は身を起こして自分の夢を反芻した。

「……なにこれ」

 動悸に混じって得体のしれない違和感が血管を巡っている。寝巻代わりのスウェットの上から自分の胸を強く押さえつけてもその違和感は収まらず、華花は心を抱きしめるように身体を畳み込んだ。

 華花は違和感に恐怖しているわけではなかった。むしろ、その違和感は温かく心地よいものだ。そしてこの違和感の源がなんであるかも理解していた。はっきりと残る夢の仲の出来事と感情だ。知らない光景、知らない状況、知らない感情、そして知っている名前。

「ありえない」

 この違和感を受け入れれば、自分は自分でなくなってしまう気がして、華花は渦巻くものを一言で切り捨てた。

 学生の朝は短い。こんな馬鹿げた夢で無駄にできる時間はない。華花は苛立ち混じりにスウェットの上を脱ぎ捨てた。


  ※  ※  ※


「昨日、巽に会ったよ」

「お、マジか、あいつ今何してんの?」

 朝、助は教室で仁の顔を見るなりそう告げた。正直なところ教えるべきか否か悩んだが、もし彼も知っている事であれば今更自分がどうこう言う問題ではないであろうし、知らないのであればやはり仁には話しておく必要があると感じた。

 ところが今の仁の言葉から彼も巽と接点がなくなっていたことに気付いてしまい、ここにきてまた躊躇う自分がいた。

「言えよ、知りたいぞ」

 助の沈黙から面白い話ではないと察したのだろう、仁は殊更にさっぱりとした声音で先を促した。

「崇神会に加わってた」

「……マジかよ」

 流石にそこまでは予想していなかったようで、仁から呻き声のような感想が出る。

 詳しい話を求める仁の視線に応えるように、助は昨日の出来事を掻い摘んで話した。勿論、エンチャンター同士の攻防と華花の活躍は一切伏せる。問答の最中に偶然通りかかった警官に保護されたことにした。

「あのバカ……」

 苦虫を噛み潰したように呻き、仁が岩のような拳を反対の手の平に打ち付けた。仁の馬鹿力で手加減なしに打ち据えるものだから、小気味の良い音が教室中に響き渡り、そこに丁度近づいてきていた華花が驚いて身を竦ませた。

「あ、ごめん、カナちゃん」

「……別にいい」

 華花は驚いた自分を取り繕うと、仁にはもう目もくれず助に向き直った。

「ぬいぐるみは買えたの?」

 藪から棒な質問に、助の顔が奇妙に歪んだ。華花も自分の言葉足らずに気付いたのか、少し考える素振りを見せて記憶から掘り出した単語をぽつりと付け加えた。

「十年前」

「十年前……ああ、あれかな」

 助の記憶に引っかかるものがあったらしい。

 華花はまさかと驚くと同時に、やはりと得心した。あれは華花の記憶にはない出来事だった。あんな夢を見る理由もない。残るは登場人物が関わる過去の出来事なのではないかと想像を飛躍させていたのだが、本当にそうであるとは確認が取れた今でも信じ難かった。あれが助と睦の思い出であったなどと……。

「結局売り切れで、睦のお父さんがネットで取り寄せてくれたはずだけど……なんで蘭堂さんがそのこと知っているの?」

 助の疑問の答えは華花も知りたかった。しかし、それを問うても助から明確な答えが返ってくるとは、華花も期待していない。U2Nが絡んでいるのだろうが、こんなもの超常現象以外の何物でもないのだ。馬鹿正直に説明したところで馬鹿にされると悟っていた華花は、誤魔化しを口にする。

「睦さんに聞いた」

「ああ、昨日――」

 昨日は女子達の給仕でばたばたしていた。助はそれで聞きそびれたのだろうと納得した。

「かっこよかったよ」

「え?」

 幸い、囁くような華花の言葉は、助の耳に届かなかった。

「……なんだありゃ?」

「さぁ……?」

 狐につままれた様な面持ちの男子二人を背に、華花はもう一度睦に会う心積もりを決めていた。睦に出会ったその晩にあんな夢を見た。つながりがないとはとても思えなかった。


  ※  ※  ※


 その夜、パーカーとジーンズという軽装で、仁は廃墟に立っていた。

 六十年前まで県立久早高校と呼ばれていた建物は、今や見る影もなく荒廃して無法者達の根城と化している。かつては下足場であった三和土は下足入れが消えてがらんとひらけ、登校してきた学生達が顔を合わせていたのであろう広いエントランスが彼等の吹き溜まりだった。

 そんな場所に、仁は身一つで乗り込んできた。

 僅かな照明に晒されるエントランスには破けたソファーやスプリングの壊れたベッド、そして中央に鎮座した異彩を放つ畳と屏風。それらに座したり暗がりに立って銘々こちらを値踏みするのは、言わずと知れた崇神会の面々だった。

「其方はなんぞ?」

 屏風を背にして畳に座る皇が、興味もなさそうに訊いた。

「ダチに会いに来たんだ。あんたらとどうこうするつもりはねぇよ」

「貴様、ここを崇神会の城と知っての狼藉か!」

 色を為して前に出たのは、赤い眼鏡が印象的な女性だった。一本筋の通った佇まいは仁の興味を引くものがあるが、今日の用事は喧嘩でも軟派でもない。

「ダチと話に来ただけなんだって」

「皇様を差し置いて――」

「良い、衣子、下がれ」

「はッ」

 衣子って言うのか……。仁は彼女の名前を脳に刻み付けると、ピエロのような化粧の男に向き直った。衣子と呼ばれた女性の発した名前には聞き覚えがあった。崇神会の頭領を名乗る男、崇神・皇。それがこの目の前のピエロだと知り、仁は話の早さにほくそ笑んだ。

「して、其方の友垣とは?」

 皇は脇息に寄りかかり、手にした扇子を回して遊んでいる。

 他人と相対する態度ではないが、今更この手の人間に礼儀を説いても意味がないことくらいは仁もわきまえている。気にせず先を急ぐ。

「斉藤・巽ってんだ」

「成程、巽、訪ね人ぞえ」

 とんとん拍子に話が進む。正直、こんなにすんなりとこちらの要望を受け入れてくれるとは思ってもみなかった。話に聞くよりは話の分かる相手であることに軽い驚きと敬意を払って、仁は軽く目礼する。

「ありがてえ」

 ほどなくして廃墟の奥の闇から進み出てきたのは、あの頃よりも少し精悍になった旧友の顔だった。

「何の用だ」

 不機嫌だと顔に書き殴ったような態度で、巽はかつての親友を迎えた。

「とりあえず、これ受け取れや」

 言葉よりも手っ取り早く気持ちを伝えるにはこれが一番だ。仁は予め用意していたクオリアを巽に送りつけた。

 それですぐさま巽の理解が得られると、仁もそこまで楽観はしていない。しかしそれをつまらなさそうに再生していた巽は全てを視ることなく終了し、切れ長の瞳に底冷えのする光を宿す。その眼と同じくらい冷たい声が、戦慄する仁に投げかけられた。

「これが何だ?」

「そんなこともわかんねえほど腐っちまったかよ……馬鹿なダチにケリつけてやりに来たんだよ」

 記憶の中の親友とはかけ離れた瞳に受けた戦慄が、逆に仁を滾らせた。怒りも悲しみも燃やしつくす焼却炉のような目が、かつての友を睨み据える。

「馬鹿、ね……誰の事だか」

 それを正面から受け止めて、巽はおとがいの細い口元を捩じって嘲った。

「どういう意味だ」

 巽は仁の一層鋭さを増した眼光をものともせず、逆に諫言する。

「お前こそ、あんな人形相手に話しかけて結局自分を慰めてるだけの腑抜けといつまでも一緒に居るな」

「人形だと……」

 それが睦の事だと、頭の回転が速いとは言えない仁にもすぐに察しがついた。巽は、あの睦は抜け殻だと、そう言っているのだ。

 そして本当の意味で救おうとしない――喪失者となった睦のクオリアを取り戻そうともせず、彼女の抜け殻を、そして自分を慰めるだけの助を腑抜けと言い放つ。

 あの頃の巽が睦に一方ならない感情を抱いていたことに、仁は長い付き合いでなんとなしに感付いていた。彼の怒りも、悲しみも、否定するものではない。だが、言っていいことと悪い事の分別はつける必要がある。

「てめえ……タスクだって苦しんでんだよ! おめぇだってそうだ! それを『はいそうですか』ってほっとけるかよ!」

 だがそれは助も同じことなのだ。我が身を顧みればわかりあえるであろうに、憎しみに囚われて同情の徒であるはずの助の気持ちを蔑ろにする、かつての友の言動が許せなかった。

 出来得る限り言葉で解決したいと思っていた仁だが、その決意が早くも揺らいでいる。

「それだよ」

「あぁ?」

 巽の、声の温度が下がった。続く言葉で、仁はいよいよ理性が怒りに押し流されることになる。

「その保護者面、昔から何様だって思っていた。そうやって上から見下ろして、優越感に浸って自分は高みの見物だ」

「てめぇ……人の気も知らねえで……!」

 だが、勢いでどうこうなるような場所ではない。ここはあの崇神会の牙城だった。

 巽に殴り掛かる仁の目の前に、壁が表れた。違う、これは人間の身体だ。仁がそう理解した時には、顔の下半分に強い衝撃を受けて視界が暗転する。次に目を開けた時には地面が目の前にあった。殴り飛ばされて一瞬意識が飛んだのだと理解するのに数秒を要する程の衝撃が思考を揺さぶる。

「ほ、ほ、ほ、それでよい、堅介」

 世界は歪み、耳の奥で割れ鐘を叩くような不快な音が響く。あらゆる音が血潮の音に流されていく中、皇の気色悪い笑い声だけがやけにはっきりと仁の耳に届いていた。

「……俺はお前達みたいに馴れ合ってる暇はねえんだよ……詠唱技能を手に入れて、この手で睦を救うんだ」

 巽は申し開く様にそれだけ告げて、出てきた時と同じように廃墟の闇の中に消えて行った。

 仁が朦朧とする意識をなんとか繋ぎ止めようと努力している中、巽と入れ替わるように男の声が涌いてきた。

「面白い見世物でしたねぇ」

「おや、客人よ、いかがなされた?」

「いえ、今の寸劇を観覧させていただいてねぇ、私も面白い余興を思いつきました」

「ほほう、申してみよ」

「では、僭越ながら――」

 その男の声に何かの中毒者のような饐えた響きを感じながら、仁の意識は深い混迷の中に沈んでいった。

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