ゴリ味

葦元狐雪

ゴリ味

 ピーン............ポーーーーン。

 間の抜けたチャイムの音が、簡素な木造アパートに鳴り響いた。

 こんにちは、先輩。彩です。起きてますか。

 はいはいと答えた。

 温もりのある毛布を惜しみつつ払いのけると、私は玄関へと赴き、寝癖のついた髪をワシャワシャさせながら扉を開いた。

「おはようございます、先輩」

 大学の後輩の彩が溌剌はつらつと言った。冷たい空気が鼻腔を刺した。

 おはよう。

 どうしたの、まだ朝の十時だよと私は言った。

「約束したじゃないですか。お忘れですか」

 約束。

 なんだっけ。

 彩は憮然としてため息をついた。

「もういいです。とりあえず、早く着替えてください。顔を洗ってください。寝癖を直してください。時間が掛かりそうなら、私が直してあげます」

 いかがですか。

 お願いしますと、私は低頭した。

 彩はペコリと一揖し、「お邪魔します」と言ってから、スニーカーを脱いだ。

「散らかってるけど」

「承知の上です」

「わるいね」

「いいんです」

 フローリングの短い廊下を行くと、私が自堕落的生活を営むための拠点である七畳の部屋へと彼女を招き入れた。

 乱雑に積まれた本の山の中から座布団を引っ張り出し、ガラクタを足で片してスペースを作った。

 そこに座布団を放った。

 私は指で示した。

「ちょっと待ってて」

「失礼します」

 彩は白いスカートを折って座った。

 好奇に充ち満ちた視線をあっちゃこっちゃに投げて、投げて、投げ捲っている。

 その辺にある本でも読んでてよと、私が言った。

「シャワー浴びてくるから」

「いけません」

 彩はピシャリと言い放った。

 何故。

 私は臭いぞ。臭いのがお好みか、彩よ。

 彩は嘆息して、

「先輩。何か勘違いをされているようで」

 と言った。

 勘違い、とは何か。

 私が思案していると、彩は本の山からひとつ取り出して、それを私の目の前に突き出した。

 ——激旨! 冬のラーメン特集!

 雑誌の表紙には、美味そうなラーメンの写真がデカデカと貼られていた。

 あ。

 ラーメン。

 約束とはそれか。私は彩とラーメンを食べに行くのか。そうか、そうか。

 思い出した。

「たった今、委細承知した」

「開店まであと四十五分です。急ぎましょう」

 彩は両手に持つ雑誌から、顔を半分だけ覗かせて言った。

「でもシャワーだけは浴びさせて欲しい」

 私がそう言うと、彩は「じゃあ、五分で済ませてください」と言った。

 私は顔をしかめた。

「善処するよ」

 去り際に雑誌でケツを叩かれた。

 無慈悲である。

 そろそろ彼女が本気で怒りだしそうなので、私は手早く服を脱いだ。

 では、しばし待たれよ——



      $



 先輩、学食のラーメン。あれはいけません。

 道すがら、彩は私にこう言った。

「ラーメンを冒涜しています。あの鍋に取り残されて忘れ去られたような、ふにゃふにゃの麺はなんです。唇で噛み切れましたよ」

 食べた気がしません。

「学食のラーメンは食ったことがないから、わからないや」

 私がそう言うと、彩は「それでいいのです」と言って、九天に向かって白い息を吹いた。

 雲ひとつない青空に、小さい雲がちょっとだけできた。たちまち消えた。

 ウチの学食はレベルが低い。

 そのことは周知の事実だったので、ことさら味を確かめてやろうとは思わなかったから、食べなかっただけの話だ。

 いわんや私と彩は無類のラーメン好きである。

 SNSでラーメンについて熱く語り合ったのち、「じゃあ、一緒にラーメンを食べに行きましょう」と彼女からお誘いを受けたのが馴れ初めである。彼女が大学の後輩だと知ったのは、プロフィールに書いてあったからである。遠くを見る。

 先輩。駅が見えてきましたよと、彩が言った。

 自宅から五百メートルくらい歩いたところに駅はある。我々は改札を抜け、電車に飛び乗り、三つ目の駅で下りた。

 しばし歩いた。

 スマホでグーグルマップを展開している彩が指をさした。

「先輩、着きました」

 どれどれ。

 それは理髪店の隣にあった。

 私は蝋色の暖簾を見た。

 ——麺屋・ゴリ

 ふと脳裏にカレーを持ったゴリラが過ったが、強く頭を振って打ち消した。

「入りましょう」

 彩に袖を引かれた。

 開店時間は午前十一時らしい。

 そして、現在の時刻は十一時五分。ちょうど良い。

 四角の磨りガラスの窓が嵌まった、アルミ製の引き戸をひいた。

「いらっしゃい。何名様」

 年配の女性店員が訊ねた。

 二人ですと答えた。

 奥のカウンター席へどうぞと、店員は手で示した。

 黒いタオルを頭に巻いた、店主らしき魁偉の男がこちらを打見遣うちみやると、「らっしゃいませ」と言って軽く頭を下げた。

 めいめい回転式の丸椅子に座った。先の店員がグラスを二つ持ってきた。

「注文がお決まり次第、お呼びください」

 では。

 店員は笑顔で会釈すると、新たにやってきた三名の客人の相手に向かった。

 店内は厨房を囲うコの字の赤いカウンターテーブルと、十脚の丸椅子と、壁に掛けてある巨大な木札に『味噌』と達筆に認めてあるくらいで、他に目立つものはない。

 強いて挙げるならば、ゴリラ顔負けの店主であろうか。

 私は彼に勝てるだろうか。

 あたかも松崎しげるが如く真っ黒に日焼けしているうえに、黒いTシャツを着ているものだから、いよいよゴリラだ。

「私、ゴリラにしようかな」

 唐突に彩が言った。

 お前はゴリラを食うのか。

 それとも店主を食うのか。

 きっと、食わせ者だぞ。食えたものではないぞ。否、逆に食われるぞ。

 やめとておけと、私は思った。

「やだ先輩。なんて顔してるんですか」

 彩に肩を叩かれた。

 スパァンという小気味良い音が店内に鳴り響く。スナップが効いていて良い。

 先輩。天井を見てくださいと、彩が言った。私は左に倣う。

「あ」

 ゴリラだ。

 天井に『数量限定・ゴリラ』と小さくあった。

 無論、達筆で。

「よく見つけたね」と私は言った。

 全然気がつかなかったよ。

 莞爾かんじと笑うと、彩は卓子の上で雑誌を開いて見せた。

 そのページには、麺屋・ゴリの特集が組まれていた。

 ——店内のどこかにある、秘密のメニューを探せ。

 見つけました。見つけてもらいました。

 しかし、普通は気づくまい。

 なぜわかったのだろう。なんとも素晴らしい洞察眼である。

 ともすれば、客が開口一番「あ、ゴリラだ」と店主を指差すことも無きにしも非ずではなかろうか

 心配無用か。

 胸奥で呵々大笑したのち、私は店員を呼んで、「ゴリラ二つ」と云った。

 すると、三人組のお客人方の視線が一斉にこちらに向いた。

 身長が低い、高い、低いの順で座っているので、漢字の『凸』みたいだ。

 てんでに狼狽している。互いにひそひそ耳語している。チラチラと店主を見ては、青冷めた顔をするから笑いそうになる。

「ゴリラ二丁です」

 店員がそう告げると、店主は重々しく肯首した。

 三人組が同じものを注文したけれど、「売り切れました」と断られてしまった。

 え。 

 早すぎる。

 運がよかったのだろうか。

「運がよかったですね」

 彩が言った。

 私は嬉しくなった。

「うん。お手柄だ」

「どんなラーメンなんでしょうね」

「楽しみだね」

「はい。私の舌は未知を求めています。その辺のラーメンでは、もはや私の味蕾を満足させることはできません」

 彩の目が輝いた。

 まるで食の探求者。ラーメンの後引き上戸。スープの大海に繰り出すマドロス。

 私は彼女の抜山蓋世たる熱意に瞠目した。

 同時に、負けたくないと思った。

 それからしばし、ラーメン議論を交わし合った。

 どの店が美味しいとか、新発売のカップ麺はイマイチだとか、学食のラーメンの改善点について話し合ったりとかである。

 十五分が経った。既に三人組の方には、味噌ラーメンが到着している。

 まだ出来ないのかなと思っていると、引き戸が開いた。客人の御来店だ。

 しかし、人ではなかった。

 黒。

 腰を低くして。

 入ってきた。

 おおどかに姿勢を正すと、二メートルはあるように見えた。

「あ、ゴリラだ」

 三人組の一人が指を差した。

 ゴリラだ。

 しかも、マウンテン・ゴリラだ。

 大きな唐草模様の風呂敷を担いでいる。

 何が入っている。

 我々客人を一顧だにしないゴリラは、凝然じっと店主を見つめている。

「先輩」

 彩が竦然とした声音で言った。

 大丈夫。ここは麺屋・ゴリだ。店主の野性味に惹かれて、ゴリラが訪ねて来ることもあるだろう。

 なんらおかしくはない。大丈夫だ。

 私は佇むゴリラから目が離せなかった。

 ややあって、

「何をボサッと立っている。支度しなさい」

 と店主はゴリラに叱咤した。

 ゴリラは慇懃に低頭すると、のしのし厨房へ入っていった。

 唖然。

 皆、開いた口が塞がらなかった。

 あまりにも衝撃的で、あまりにも慮外な出来事だったからである。

 豈図あにはからんや、ゴリラが店員だったとは。



      $



 お待たせして申し訳ございません。すぐに作りますので。

 店主は申し訳なさそうにそう言った。傍で本物のゴリラが律儀に手を洗っている。 

 石鹸で。

 仕上げにアルコール除菌も欠かさずに、である。

 どうやら、衛生面の配慮は行き届いているらしく、安心した。

 待て。

 安心して良いのか。安堵すべきだろうか。安着している場合なのだろうか。

 社会通念上、ゴリラがラーメン屋で働くのはおかしいだろう。

 そもそも、どうやってここへ来たのだ。

 電車に揺られて来たのか。車を運転して来たのか。はたまた、歩いて来たのか。

 ウホウホと?

 それは事件だ。

 警察に届けるべきだ。

 しかし、なぜかはばかられたので、私は固唾を飲んで見守った。

 ——ゴリラが作業する様子を。

「お客さん」

 店主の声だ。三人組に話しかけているらしい。

 私は目をやった。

「すいませんが、写真はご遠慮願います」

 殴り殺されますよ。

 三人組はブルッと震えた。

 次いで。お、お会計お願いしますと言った。

 蹌踉そうろうとして席を立った。

「お一人様、八百円です」

 店員が言った。

 三人組は千円札を三枚突き出し、「お釣りはいりませんから」と言って、倒けつ転びつ退店した。

「ありがとうございました。またのお越しを」

 店員の声を最後に、場は異様な空気に支配された。

 湯が沸騰する音、丼がぶつかる音、ドラミングの音、包丁がまな板を叩く音だけが聞こえる。

 彩は「先輩」と呟いたきり、一言も言葉を発しておらず、ゴリラたちが忙しそうに立ち回る様を、一所懸命に眺めている。見極めているのだろうか。あれが本物か否かという蓋然性を観照、玩味し、鑑定している。そんな感じだ。

 一隻眼を具する彼女は何を見る。

 私は見ている。たった今、ゴリラが風呂敷を解く瞬間を、見ている。

 出た。

 ケバブだ。ドネルケバブだ。

 巨大な肉の塊が露わになる。巨人が手掴かみで食べてしまいそうなほど大きな肉。

 ゴリラはグリラーという肉を炙る機械に、肉の塊を垂直な棒に突き刺す形でセットした。スイッチを入れると、緩やかな回転がはじまった。食欲を誘う良い匂いが漂いはじめた。

 グウと腹が鳴った。ゴクリと喉を鳴らした。

 ただのドネルケバブではない。

 あれは。

 チャーシューだ。醤油やニンニクなどが焼ける、香ばしい香りがする。

 店主が七輪の上で何かを焼いている。

 煮卵だ。煮卵を燻製に仕立てたものを、七輪で焼いている。

 美味いのか? 美味そうだ。美味いに違いない。

「先輩。もう、ゴリラとかどうでもいいです」

 食べたい。はやく、食べたい。

 彩は恍惚とした表情で言う。

 おそらく、彼女の頭の中はラーメンの事でいっぱいなのだろう。

 私も同じだ。

「ああ......ああ......」

 食べさせてくれ。求めているんだ。私のラーメン魂が、欲しているんだ。

 私は何度も肯いた。そして、深呼吸をした。

「ああッ」

「先輩」

 彩が私の背中を支えている。

 私は。

 失神しかけたのか。匂いで。

「しっかりしてください。ラーメンを食べずに帰るつもりですか。ダメです、許しませんよ。これは、伝説のラーメンかもしれないのですよ。だから、私たちは食べなければなりません。お願いです」

 気を、しっかり持って。

 彩の言葉に意識が醒めた。

 私は卓子の上に肘を乗せ、頭を抱えた。厨房を見た。

 視界が揺らぐ。黒い大きい背中が、陽炎のようにゆらゆら揺れる。

 背筋をシャンと伸ばして、肉の焼き具合を一意専心に見ているゴリラ。

 まるで、職人のようなゴリラだ。店主の背中と何ら相違ないくらい立派だ。信頼されているのか、店主は何も言わない。進捗を伺おうともしない。いったい、どれほどの歳月を経て、そのポジションに至った。涙ぐましい努力の末に辿り着いたことは自明だ。多大なる苦労を重ねてきたのだ。

 涙が溢れてきた。

 ゴリラの生い立ちを勝手に想像して、勝手に泣いた。

 お馬鹿さんみたいだ。

 どうやら彩も泣いているようだ。ゴリラとかどうでもいいなどと言っていたくせに、泣くのか。それとも、私に感化されたのか。

「はやく、ラーメンが食べたいです」

 彩は今際の際のように呟くと、卓子に顔を伏せて動かなくなった。

 おい。どうした。

 私は彩の肩を揺すった。

 反応が——ない。

「ふざけるな。許さないと言ったろう。必ず食べて帰るのだろう。あれは何だ、嘘か。いい加減にしろ」

 私は揺すり続けた。彩は目覚めなかった。

 何が原因だ。

 厨房に目をやると、二つ目の丼の中にスープの返しを注いでいるのが見えた。

 あれだ。

 返しを注いだ瞬間に放たれる、醤油ダレの香りに彩は殺されたのだ。なんということをするのだ。誰が耐えられようか。

 まさしく、鬼畜の所業なり。

 だが耐えるべし。私は後輩の死を無碍にはせん。この舌で味を確かめ、ラーメン界の歴史に名を刻むのだ。そして、我が命を賭したレビューを見るのだ。

 私は思索に耽ながらも、懸命に意識を保った。

 そのとき、店主がラーメンスープを丼に注いだため、香りの爆弾は恰も波濤の如き勢いで私の体内へ滑り込み、あっという間に私の意識は飛んだ。



      &



 先輩。麺屋・ゴリ。あれはいけません。

 道すがら、彩は私にこう言った。

「ラーメンを冒涜しています。なんですか、ゴリラがラーメンを作るって。ありえません。あれは夢です。幻想です」

 化かされたのです。

「何に化かされたの」

 と私が訊く。

「ゴリラです」

 と彩が答える。

 お馬鹿さんである。

「誰も信じてくれないよね」

 私はそう言うと、彩は「それでいいのです」と言って、ラーメン雑誌をうちわ代わりに顔を扇いだ。

 あの日以来、再び麺屋・ゴリにたどり着くことはできなかった。

 雑誌に記してある住所の通りに行くと、なぜかパン屋に着いた。

 理髪店の隣はパン屋だった。最寄駅の構内で目が覚めた、次の日のことである。

 私と彩はパン屋に入るなり、

「あの。ここって、営業をはじめたのはいつ頃からですか」

 という質問を矢庭に店員に問うたものだから、ひどく怪訝な顔をされた。

 五年前くらいですと、店員は答えた。

 それが、何か。

 私たちは顔を見合わせた。そして店員に笑顔で、

「いいお店ですね。サンドウィッチください」

 と言った。

 五ヶ月後。

 我々は大学付近に出来たラーメン屋へと赴いた。

 入ると、奥のカウンター席へ通された。

 丸椅子に座るや、私は卓子の下にスマホを落としてしまった。

「どうしよう。画面割れたかも」

 私は腰を跼めて足元を見た。

 すると、そこには小さい文字で、『数量限定・ゴリラ』とあった。

 無論、達筆で。



                                   <了>

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ゴリ味 葦元狐雪 @ashimotokoyuki

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