オべロンの赤い悪魔
藍上央理
オベロンの赤い悪魔
スコットランドにある大都市、エディンバラの旧市街地。古い街並みと十九世紀の大火で焼けた跡地に建てられた新しい街並みが融合する、城下町だ。
高台に聳えるエディンバラ城が、市街地を見下ろしている。
その一角。旧市街地の住宅が集まっている場所に、とある事務所がある。
事務所と言っても、安い賃料で貸しているアパートメントの地下室だ。
「お腹空いたんだけど……」
ヴィヴィアン=ブーリンが綿のはみ出た、ブラウンのソファに寝っ転がってぼやいた。
長いブルネットの髪がコンクリート剥き出しの床に垂れている。
「右に同じく」
布地の破れた古いチェアに座り込んだ、ブラックが同意した。
「ぼくもヴィーに血を分けて欲しい」
黒髪の少年、ケイシーがテーブルに張り付いて呻いた。
「ヴァンプにやる血はない」
ヴィヴィアンが冷たい声で返す。
今年で二十一歳を迎える彼女は、白い肌に化粧っ気のない顔。
ダークチェリー色の口紅だけひき、濃い眉と褐色の瞳が、きれいな容貌を引き立てている。
肌に密着したどくろのロゴ入りのシャツに、赤いスカートから覗く白い脚をふとももまでのスパッツが隠している。
胸には古いクロス。銀の鎖が、大きな胸のあいだで揺れている。
「そうつれないこと言うなよ、ケイシーはそれしか食うもんないんだから」
手に古書を持って読みふけっていたブラックが顔を上げた。
反対にブラックは青白い病的な顔色だ。
脱色した金髪の根元は明るいブラウン、瞳は薄いブルー。
やせぎすの体を真っ黒い服で固め、銀の鎖で飾っている。
繊細な指にはいくつも銀の指輪が光っている。
彼の副業はエンバーマー。通称死体屋だ。
「ブラックが持ってくる死体の血じゃ、お腹は満たされません」
ケイシーがテーブルに突っ伏したまま、嘆いた。
ふいにあげた顔は非常に整っており、高貴な印象である。
瞳は燃えるような赤。
肌の色はブラックよりも白い。抜けるような透明さがある。一見病弱な少年にしか見えない。
服装も古風だ。ドレープの襟元と袖口のブラウスに、チュニック風のベスト。短いパンツをはいている。足にはなめし革にブーツ。
彼は現代に蘇ったヴァンプなのだ。古城の墓廟に忍び込んだヴィヴィアン達に蘇らされた。
三人は依頼がくるのを待っている。たまに親元でエンバーマーの仕事をしているブラックの差し入れで糊口を凌いでいる。
「この前の依頼っていつだった?」
ヴィヴィアンの問いに、そうだなぁ、とブラックが指を折って数え始める。すかさず、ケイシーが答えた。
「二週間前に、ストーンサークルのミッシングリングを、依頼者に渡したのが最後です」
彼らは、トレジャーハンター。しかもオカルト専門なのである。
ブラックが読んでいる古書をヴィヴィアンが横目で見た。
「またオベロン・サークレットの本? それ売ったらいくらかになるんじゃないの」
「酷いこと言うなよ。これはもう市場に出回ってない希少本だぞ。苦労して手に入れたんだ、誰が手放すか」
「でも、そんな秘文書、なんの役に立つのさ。魔方陣で飯でも出せるの?」
「君は夢がない。それにトレジャーハンターとしての気概もないな」
「気概だけじゃ食えないもん」
「じゃあ、俺のように副業を持て。飯の種にはなる」
「あたしは、トレジャーハンター一本でやんの」
「家賃も払えないのに?」
「ここはおばさんのアパートだから格安なの。一ヶ月二ヶ月くらい大目に見てくれるよ」
「なに言ってんだか……、もう三ヶ月払えてないだろ」
不毛な会話をふたりがやり合っているのを、ケイシーがふぬけた顔で見つめた。
「オベロン・サークレットって何ですか?」
ブラックがケイシーを振り向いた。
「よくぞ聞いてくれたな、というかおまえが来てから半年経つが、今更聞くのか」
「いえ、いつも気になってたんですけど、聞く機会が無かったというか……」
「オベロンは魔術師なんだ。エディンバラの悪魔とも言われてる。魔女狩りが盛んだったころにエディンバラに現れて、悪魔を召喚し、この町全体に自分の財産を隠したんだ。トレジャーハンター向きの話だろ?」
「じゃあ、それはその隠し場所が書いてあるんですか?」
「いや、秘文書と言って、術者の心得とか、魔方陣の書き方や呪文が書いてあるだけだ。それも、オベロンが一番好んだ特殊な字体でな」
「特殊な字体?」
ケイシーが言うと、本を開いてブラックが中身を見せてくれた。
羽ペンで書かれた、装飾が多い美麗で流線的な字体だ。
「これ自体が呪文になっている。これを発明したのが、オベロン・サークレットなんだ」
「オベロン・サークレット――妖精王の冠……。なんだか眉唾ものですね」
「何百年も眠ってたヴァンプがなに言ってるんだか……。あんたのほうがよっぽど眉唾ものだよ」
横で聞いていたヴィヴィアンがのたまった。彼女は口が悪い。
「こいつを蘇らせたのはヴィーだぜ?」
ブラックが肩を竦めた。
ケイシーはヴァンプと言っても吸血鬼とは一風違う。怨霊や魔物のほうが呼び方としてはあっている。憎しみを胸にいだいて死んだ人間が、死後、ヴァンプとなって蘇るとスコットランドでは言い伝えられている。
しかも、一番最初に吸った人物の血液だけが力の源になるのだ。それなしでは力を無くし、そこら辺の子供より弱い。
三人がため息を吐くと、また暇を持てあましたように、各々ぼんやりと天井を眺めた。
そのときだ。ふいに呼び鈴が鳴った。
まずヴィヴィアンが飛び起きた。
「飯だ!」
「依頼者かな」
「どっちでもいいです……」
ヴィヴィアンはふたりのぼやきを無視して、玄関に向かい、扉を開いた。
目のまえには、くたびれたスーツ姿の中年の男性が立っていた。冴えない顔に黒縁眼鏡を掛け、顔中無精髭だらけだ。髪もなんだか乱れている。いかにも金がない感じだった。
「物乞いなら帰れ、うちには何もないよ」
「いえ」
男が口を開いた。
「わたしはロバート=アッシュ。ゴールデンアッシュホールのオーナーです」
「ああ、ランセイ・レーン沿いにある、つぶれかけたぼろっちい劇場の……」
アッシュがこくこくとうなずいた。
「そのオーナーさんとやらがうちに何の用なのさ?」
「実は、オカルトトレジャーハンターというチラシを見かけて、もしかしたらと思ってやってきたんです」
「じゃあ、依頼者だ。でも、金があるようには見えないけど……」
「はぁ……、後払い、もしくは成功報酬であればお支払い出来ると思うのです」
「どういう意味なの?」
ヴィヴィアンは首をかしげて、アッシュを招き入れた。
「ゴールデンアッシュホールをご存じでしょう?」
アッシュがまず口を開いた。浅くソファに座り、身を乗り出す。
ヴィヴィアンは彼の右隣で肘掛けに腰を掛けて、腕を組んだ。
ブラックが先ほどと同じ椅子に座って、足を組んでいる。
ケイシーだけが興味無さげにテーブルに突っ伏していた。
三人が、依頼者の話を聞く基本的な姿勢だ。
リーダー格のヴィヴィアンは口を挟まない。質問するのはいつもブラックだった。
「ああ、ランセイ・レーンって、大昔、大火に巻き込まれた市街地で、唯一焼け残った劇場だろ?」
「そうです。あの大火でエディンバラにある、市民住居の大半が焼けました。たまたま風向きの関係からか、私の劇場は焼け残り、その後何度も修復を重ねてきました。しかし、とうとう、全面修復が必要になったのですが、その費用が私にはないのです。それで、このままだと劇場を潰さなければいけなくなってしまった。そんな折に、昔から劇場に伝わる噂を思い出したのです」
「へぇ、どんな?」
「十七世紀にあった魔女狩りは有名でしょう?」
「ああ、スコットランドだけなんでかしらないが、長いこと魔女狩りに精を出してたな」
「あのとき、エディンバラに住む人々を戦慄させた人物、オベロンを知ってますよね?」
「オベロン・サークレット?」
ブラックの眉尻が上がった。非常に興味深いといった面持ちで身を乗り出す。
「その、オベロンという魔術師が、わたしの劇場に財宝を隠したというのです。だから、大火でも焼け残ることが出来たらしいのです」
「興味深い」
「その財宝を探して欲しいのです」
ヴィヴィアンが素っ頓狂な声を上げる。
「これはまた! オベロンの財宝伝説か。ちょうどオベロンの話をしていただけに奇遇だね」
「この財宝が見つかれば、わたしの劇場は取り潰されずに済みますし、全面改修も出来る。古き良きエディンバラの文化財として観光客の呼び込みも出来ます。依頼を受けていただけますか」
「藁にも縋るといった感じだねぇ……」
ヴィヴィアンが笑った。
「面白い。エディンバラの怪人、魔術師オベロン・サークレットに、いざ勝負、ってとこか」
「面白がるな。相手は希代の魔術師だからな。そう易々とは行かないぜ」
「引き受けていただけるんですね」
ヴィヴィアンはにやりと笑い、左手をアッシュの肩に置いた。
「まず前払いに昼飯おごってくれないか」
劇場の鍵を受け取ったあと、アッシュと別れた。
ヴィヴィアンは、フィッシュアンドポテトをつまみながら、ランセイ・レーン方面を指差した。
「とにかく、腹ごしらえも済んだことだし、道具持って出かけるか」
トレジャーハンターの道具といえば、方位磁石、ロープ、シャベル、はけ、たがね、ハンマー各種、ルーペ、地図だ。ほとんど化石堀りと変わらない。あれも一種のトレジャーハンターだ。化石や宝石といったお宝を掘りまくっている。
事務所である地下室に戻り、道具を持って出ると、三人はゴールデンアッシュホールに向かった。
「オベロンの隠し財宝だなんて信じてるの?」
ヴィヴィアンが呆れたように肩を竦めた。
「確かに、かつて彼の隠し財宝を見つけた物はいない。なぜなら、彼が隠した財宝には魔術が仕込まれているからだ。その魔術を解かない限り、なんぴとも財宝を手にすることは出来ない」
「おいおい、魔術なんて簡単にうそぶいてるけどさ、そんな物存在しないって」
オカルトトレジャーハンターはゴーストを退治したり、モンスターに出くわすことなどない。あれはお話しの中だけのことだ。もちろん魔法なんて物もお目に掛かったこともない。
「でも、ぼくは存在します」
ヴァンプであるケイスが、ふたりのあいだに顔を出した。
「わかったわかった。でも、普通は居ないもんなんだよ」
「感じないだけだろ、ヴィーは」
「悪かったな、鈍感で。日頃死体と付き合い慣れてないもんでね」
嫌味に聞こえるが、ブラックにとっては真実なので、何を言われても平気だ。
今はまだ夕刻前で明るいが、ケイスにはどうってこと無い。
彼はヴァンパイア・吸血鬼とは違う。日の光を嫌うことはない。魔物である彼が嫌がるのは匂いのきつい植物だけだ。たとえばニンニクやネギ類。ハーブ類も時としていやがる。けれど退治出来るほどではない。というか、少年の姿である今の彼は誰よりも弱い。
旧市街地の明るい場所から、だんだんとさびれた路地に入っていく。ランセイ・レーンの店は、不景気でどこも店を閉じていた。
「劇場が賑わっていたときはこれほどじゃなかったらしいね」
前情報として、アッシュから状況を仕入れていたヴィヴィアンが呟いた。
「まぁ、より人を多く寄せ付けていた場所が寂れれば、そのおこぼれにあずかっていた物も寂れるって言う具合だな」
ブラックが劇場を見上げてため息を吐いた。
劇場の看板の色ははげ、硝子は曇っている。内部は暗くて見通せない。古い興行のポスターは色あせて、ピンから外れて片側だけ垂れている。両開きのドアの金文字も剥がれかけている。辛うじて、「ゴールデンアッシュホール」と読み取れる。
「さて……、今回はご丁寧に鍵がある。蹴破る必要なんて無いみたいね……」
ヴィヴィアンが少し残念そうに言った。
「毎回蹴破られてたまるか。そんな調子で乱暴だから、こんなお荷物を背負い込む羽目になったんだぜ?」
「お荷物じゃありません!」
「あたしの血がないとおチビのままじゃないの。お荷物以外にどんな用途があるのさ? 重たい石碑を押しのけられるの? パンチ一発で固い扉を打ち割れるの?」
「全部、ぶっ壊してないか?」
ブラックが呆れた。
「オカルトトレジャーハンターなんてクラッシャーの別名だろ。だいたいオカルトと名の付くものでお上品なものってあったっけ?」
「まぁ、たいがい、石とか岩とか墓廟とか、遺跡とか、廃屋だな」
「だろ?」
「そ、そりゃ、故意じゃなかったとはいえ、ぼくはヴィーさんの血を飲みましたけど、そのおかげでぼくの本来の力はヴィーさんの血と紐付け……わっぷ!」
ふたりが立ち止まったせいで、ケイシーの鼻先がヴィヴィアンの背中にぶち当たった。
「流石、歴史あるホールの入り口だな……。彫刻だけでいくらかするんじゃないか」
「ブラック、あたし達は依頼されたものを取ってくる。それがオカルトトレジャーハンターの矜恃だろ。墓盗人じゃないんだ」
「ただ言ってみただけだろ」
「初めてお宝を見つけたときに、アニキと誓っただろ。俺たちは誇り高くあろうぜって」
「ああ、そうだったな」
アニキ――ヴィヴィアンの兄・ロイスの三人で始めたオカルトトレジャーハンターだった。だが、不運な事故でロイスを失う羽目になった。それ以来、ヴィヴィアンとブラックにとってロイスの存在が大きかった。
「アニキの話はこれまで。さぁ、ここから先は何があっても驚かない。いつもの約束だよ」
「そうだな、ここに、その生き証人がいるもんな」
と、ブラックがケイシーを指差した。
「生き証人と言っても死んでるけど」
「死んでて悪かったですね……」
ケイシーが拗ねた声を出した。彼の背中をヴィヴィアンが叩く。
「そんなあんたにうってつけの役目だ。この扉を開けろ」
「え!?」
「ああ、開けた方が良いな」
ケイシーが二の句も継げないうちに、ブラックが続けた。
「ずるいです」
「かわいい顔しても無駄だぞ、死んでるってことは何があっても大丈夫ってことだ」
「死んでても痛いとか怖いとかってあるんです」
ケイシーが反論するも、抵抗虚しく、扉の前に押しやられた。
「酷いです」
渋々、ケイシーが扉を引いた。
不気味な軋み音とともに扉が外側に開いていく。
劇場の照明は全部落とされ、真っ暗い。
七つ道具以上入ったリュックから、ヴィヴィアンとブラックがヘッドライトを取り出して装着した。ケイシーは闇を見通す目があるので必要ない。
いつの間にか、ヴィヴィアンがリュックからロックピックハンマーを取り出していた。いかにも壊す気マンマンである。
「おいおい、ここは板張りだぞ。壊すもんないだろ」
ブラックの言葉に、ヴィヴィアンが反論する。
「上を見ろ。石像がたんまりある。あの中のひとつに財宝が詰まってたらどうする」
ブラックとケイシーが上を見た。
舞台の真上に天使の石像がはねと両腕を広げている。ガーゴイルが、四匹鎮座していた。二階のスクエアになった観客席桟敷の四つ角にそれぞれ配置されている。
「確かにな。でもどうやってあそこまで行くんだ」
「天使もそう易々と壊れやしないだろ。ほら、ケイシー、出番だよ」
「え!? ぼくですか!!」
またも役目を振られていやそうにケイシーがぼやいた。
「たまにはヴィヴィアンがやれば良いと思います」
「何、馬鹿なこと言ってる。ぼく飛べるんですとか言って、このあいだこうもりの羽を見せてくれただろ」
「でも天使を持ち上げるほどの浮力はありませんよ」
「誰が天使を持って来いって言った」
ぱたぱたと頼りなげにこうもりの羽で飛び上がり、ケイシーが天使の像にロープをくくりつけた。
「良くやった、ケイシー」
「ご褒美くれますか」
笑顔のヴィヴィアンにケイシーがおねだりする。
「ない」
無情にもヴィヴィアンにはね付けられて、ケイシーはうなだれた。
ヴィヴィアンが垂れたロープの端に結び目を作り、手慣れた様子で脚を掛けてよじ登り始めた。
強度は充分。
ブラックよりは体重の軽いヴィヴィアンのほうが有利だ。
ブラックがリュックからオベロンの本を取り出し、ガーゴイルの項目を探し始めた。
ぼんやりヴィヴィアンの安否を気遣うなんてことはしない。
それだけ、ブラックがヴィヴィアンを信頼している証拠だ。
現に彼女はするすると猿のように天使像までよじ登った。
天使の像と向き合い、まじまじとその造形を観察する。
石膏像は煤けて灰色にくすんでいる。窪みには埃が溜まり、近くから見ると、結構汚かった。
天使像の横幅は、ヴィヴィアンが両腕を広げたよりも広く、縦幅は二メートルくらいあるだろう。
天使はローブを纏い、両手を広げている。その両腕に何か彫られていた。少し降りて、足元を調べると、剥き出しの両すねにもなにか彫られている。
「ねぇ、ブラック。天使の両腕両足になにか描いてある」
「見たい。画像は撮れるか?」
「ちょっと待っててよ」
スマートフォンを取り出し、ヴィヴィアンは片手で体重を支えたまま、四カ所の図柄を撮影して、メールで送信した。
「なになに? ゲール語か。ああ、やっぱりオベロンの文字だ。彼独特の字体を使ってる」
ブラックが満足そうに言った。
「古ラテン文字、か……彼はケルト人だったのか? なら、魔術師と言うよりも、ドルイドじゃないのか」
スコットランドのケルト人は神官である、ドルイドを崇めていた。彼らの言語はゲール語で、オガム文字と呼ばれる古ラテン文字を使用していたと言われている。
その文字で綴られたオベロンの書物を、ブラックだけが読める。もちろん発音もしっかりしてる。何しろ、ラテン語が得意だからだ。一時期、ゲール語を習いに数少ない話者の元に学びに行っていたくらいの変わり者だ。
ブラックは大学で民俗学を専攻していたから、民俗学者にでもなるのだ、とヴィヴィアンは思っていた。けれど、彼は学校を行き直してエンバーマーになった。
志を諦めるのか? と、ブラックに問い詰めたことがヴィヴィアンにはある。
「志? そんなもん、いつでも始められるだろ。今はエンバーミングに興味があるって、それだけだ」
あっけらかんと言ってのけた彼に、ヴィヴィアンは一目置いているのだ。
「すすが邪魔だったら言ってくれ。払うから」
ヴィヴィアンが刷毛を取り出した。
「あ、触らないでくれ」
と、ブラックが注意するまもなく、彼女は刷毛で文字をなぞった。
そのとき――
ギギギという不気味な音とともに大きな軋む音がホール中に響いた。
「なんだ!?」
ヴィヴィアンが驚いた。
気が付けば、桟敷を守護するようにうずくまっていたはずの、ガーゴイルの目が赤く光り、膝を立てていた。
「ねぇ、ガーゴイルは置物じゃなかったの!?」
「ヴィヴィアン、早く降りてこい」
「OK!」
即座に返答し、ロープをすべるようにして降りた途端、ガーゴイルが飛び立った。
四匹のガーゴイルは大型犬くらいだが、その牙と爪は犬の比ではなかった。鋭く尖った爪で、ヴィヴィアンとブラックめがけて滑空してくる。
「こんな狭い劇場を良く飛べるな、あいつら!」
「なんで、刷毛でなぞるんだ! 呪文だったんだぞ!」
「そんなこと言ったって、しかたないだろ? 早く教えてよ!」
「君がせっかちなんだ!」
ふたりがガーゴイルを無視して言い合いを始めた脇で、頭を抱えたケイシーが叫んだ。
「ケンカしてる場合じゃないでしょう!? この化け物をどうにかしないと!」
「ちょっと待てよ、この本にガーゴイルの項目があったはずなんだ」
「本なんか読んでる場合なの!?」
「ガーゴイルを封じる方法が書いてあったんだ!」
「それを見つけるあいだに、僕たち殺されますよ!」
「おまえは死なないだろ!」
そのあいだにも、三人はかぎ爪を避けてうずくまり、観客席の隙間に隠れた。
「このままじっとしてるわけにも行かないだろ。それにこいつらが夜が明けたら静まるかどうかの保証もない」
ヴィヴィアンが呟いた。
「多分、暴れ続けるさ。こいつらは魔物でもなんでもない。呪文で動く人形だからなんだぜ」
しかし、攻撃が激しく、背もたれがどんどん削られていく。隠れる場所がなくなってきた。
「きゃっ!」
とうとう、ヴィヴィアンの頭をガーゴイルが掠め飛び、彼女の頬が血に濡れた。
ブラックがすばやくページを捲り、本の中からガーゴイル封じの呪文を探している。
ケイシーが堪らなくなって叫んだ。
「やつらの動きを止められるのはぼくだけかも。お願いです。ヴィヴィアンさん、ぼくに血を!」
「仕方ない、おあつらえ向きに血が出てる。こいつを舐めて良いぞ」
「ありがとう」
ケイシーがキスするようにヴィヴィアンの頬を舐めた。
瞬く間に、そこには胸板が厚く背幅の広い、黒髪の青年がうずくまっていた。赤い虹彩は縦に開き、牙の覗く唇に不遜な笑みを浮かべている。
「後は俺に任せろ」
ケイシーが背中に折りたたまれた巨大なこうもりの羽を広げて、空へ飛び上がった。ガーゴイル並みのかぎ爪が指から生えている。
ジャキンジャキンという、刃物が擦れ合う音を立てながら、ガーゴイルとケイシーが空中で格闘しているのを、ヴィヴィアンが見上げた。
青年の姿になったケイシーは、生前のイアン・ケイス・フィッツロイ、ノーサンバランド卿の名にふさわしく勇猛果敢だ。恨みの念を残して若くして暗殺された彼は、安息の死を選ばず、魔物・ヴァンプになることを望んだのだ。彼の宿敵は悪魔と契約して、今もこのスコットランドを血で蹂躙している。
ケイシーの姿を見るとヴィヴィアンの胸がざわついた。落ち着かない気分になるから、彼女はわざと彼に血を与えないのだ。目覚めた彼を見たときから、恋をしてしまったのかも知れない。
「あったぞ!」
ブラックの声に、ヴィヴィアンは我に返った。
「これだ。詠唱するぞ!」
ブラックが立ち上がった。オベロンの書物を開いたまま、左指でページを押さえている。
「我は与えり! 我が成すエレメンタルを紐解き給え! 然らば血の涙流さん!」
イーグニス! アクア! テッラ! アーエール!
ガシャーーーン! 重たい石が観客席に降った。さっきまで飛び交い、ケイシーと戦っていたガーゴイルが石に戻ったのだ。
バラバラバラ! それだけではなかった。石つぶてもいっしょに頭上から降り注いできたのだ。
「いてて!」
ヴィヴィアンが頭をかばいながら、席の陰から這い出した。
ブラックは痛くないのか? 頭上から降り続ける赤い石に体を打ち付けられて笑っている。
「大丈夫か? とうとう頭がおかしくなったの」
「いいや」
ブラックがにやりと笑った。
床に落ちた赤い石を拾い上げる。
「オベロンの財宝は本物だった」
そう言った途端、ドタンガタンという音がして、少年に戻ったケイシーが観客席に落ちた。
「いったたた」
泣きそうな声を上げるケイシーを見て、ヴィヴィアンは苦笑いを浮かべた。
(あたしが愛してる、あの魔物はすぐに消えちまうね……)
でもその気持ちを明かさない。しょせん人間と魔物だ。悲劇にしかならない。
「間抜け面してないで、さっさと来いよ!」
「はーい」
オベロンの財宝…………
それは四匹のガーゴイルを象った赤い石、ゆうは三センチはあろうかというルビーだった。
「ありがとうございます! 助かりました!!」
ゴールデンアッシュホールのオーナーであるアッシュが、ヴィヴィアンの両手を握って涙した。
あんまり腕を振られて、ヴィヴィアンはうんざりしていた。
「感謝は聞き飽きたから、報酬をいただこうか」
「はい、お待ちください」
そう言って、恭しく封筒を取り出すと、アッシュがその封筒をヴィヴィアンに手渡した。
札束には見えない。
「なんだ、これ」
そう言って中身を出すと、ルビーが一粒。
「ちょっと待ってよ。あんだけルビーがあっただろ。それなのにこれだけなの!?」
すると、アッシュが肩を竦めた。
「劇場の補修費と壊れた観客席、その他諸々に当てると、残りはこれだけになったんですよ。これでも多いくらいで…………」
確かにガーゴイルが派手に壊してくれた。でも、それは自分たちが壊したわけじゃない。
「あれは……!」
アッシュに反論しようとしたら、ヴィヴィアンの肩をブラックが掴んだ。
「まぁまぁ、充分じゃないか。俺たちの報酬はほかにあるんだ」
アッシュが事務所を去ったあと、ヴィヴィアンが訊ねた。
「あたし達の報酬が別にあるって、どこにあるのさ?」
「ここに、さ」
不思議そうな顔のヴィヴィアンに、ブラックがオベロンの本を指差して見せた。
「ぼくも報酬が欲しいです」
従順な犬のような顔をして、ケイシーがヴィヴィアンを見上げている。
「あんたに報酬はない!」
しょんぼりしたケイシーを見つめて、ヴィヴィアンは微笑んだ。その代わり、あたしにも報酬はないのさ。
オべロンの赤い悪魔 藍上央理 @aiueourioxo
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