夕空のマクガフィン

羽黒

プロローグ

 都心から少し離れた閑静な住宅街の一角に、瀬戸直樹が構える探偵事務所がある。

 独り立ちし早十数余年、一国一城の主として今まで手広い相談を受けた彼であったが、今回ばかりは荷が重いのか、表情は重く沈んでいた。


 瀬戸はデスクに広げられた封筒と写真、送り主本人による手書きの投書を交互に眺め、チビた煙草をくゆらせ頭を掻いていた。


 差出人の名は、井上誠二。


 初恋も知らぬ頃から戯れ合った兄弟も同然の親友だ。

 彼は寝ている時以外は常に走り回っている騒がしい男で、彼と最後に言葉を交わしたのは今から四年も昔のことだった。

 井上はなにを思ったのか結婚を間近に控える五月の終わり、名も聞いたことがない女を追いかけだして、そのまま失踪してしまっていた。

 当時の衝撃は四年経った今でも瀬戸の胸には強く残っており、次に会ったら四年間温めていた説教でこってりしぼってやる腹積りだった。

「本当にアイツ、今どこにいるんだよ」

 ……姿を消した理由を問い詰めてやる。どこで何をしていたか、キッチリ吐かせてやる。

 そう意気込んだ瀬戸は、咥えていた煙草を灰皿でもみ消し、空いた手で件の手紙をとった。


 随分久しぶりな報告が、もし色恋沙汰にまつわる懇願だったら、すかさず破り捨ててやるつもりだった。

 乱暴な胸臆に身を任せ、雑に三つ折りされた手紙を開けば、随分な走り書きで『ミツコを頼む』と、案の定女絡みの用件が書いてある。

 ミツコの名に、瀬戸は記憶から居酒屋で聞かされた結婚予定の交際相手を思い出し、連鎖的に、自慢げに近況を報告した井上のニヤケ面が浮かんできた。

 失踪半年前に居酒屋で聞いた彼の弁によれば、当時二人は互いの両親へ挨拶は済ませ、指輪も買い、あとはプロポーズと式を挙げるだけだった。

 それだけ進展していただけに、花の蜜を求める蝶が如く、ヒラヒラと飛び回る井上の行動は、酷く軽薄に思えたし、同じ男として寛容出来るものではなかった。

 勝手に飛び出し、かと思えば置手紙なんて残す友人の態度も無礼極まり、いけすかない。

 ましてミツコにとって井上の消えた四年もの歳月は、悠久とも呼べる寂寥感を与え、互いに交わした結婚の契りを解消するに十分な理由となっていた。

 そうとは露も知らず、こんな手紙を瀬戸に送り付けた井上の、一途に燃えたる傲慢な恋心は神経を疑わざるを得ない。だいたい、少し考えればわかりそうなもんである。

 今や二人の間で広がってしまった絶望的な温度差は、他者の介入を挟む余地などない。すでに寄りを戻せる時期を大幅に超えている。いくら上手く説明したところで、相手の激昂を買うばかりか、場合によっては一笑にふされてしまうのが関の山だ。


 手にした手紙を机へ投げると、瀬戸は椅子に深く腰掛け背もたれへ頭を乗せた。新しい煙草に火を付け、溜息と共に煙を吐く。摂取したニコチンが瞬間に脳へ達し、欺瞞によって得た満足と共に軽く目を閉じれば、補完によって形どられる、井上の事務所訪問がイメージ映像として浮かび上がった。

 この手紙が小一時間事務所を留守にした間に投げ込まれたものであることは間違いない。その点から察するに、彼がそう遠くにいない事は確かだったが、探偵としての勘が、捕まえて直接話を聞き出す難しさを告げている。

 それどころか瀬戸は井上と二度と会えない気すらしていた。

「まさかこれ、アイツの遺書じゃないよな……」

 厄介に巻き込まれている、事件独特のキナ臭さが、書き殴られた文面から滲んでいた。

 瀬戸の脳裏には、タチの悪い連中に追われた井上が、最後の希望を託し自分へSOSを宛てたシーンが再生されている。

 一度恐ろしい想像に囚われた瀬戸は、首を横に振り杞憂だと自ら言い聞かせることで、心の安寧を確保した。思考を切り替えるため、写真へ目を落とせば、二階建てのやや薄汚れた白い民宿が写っている。

 斜め下から見上げるアングルで撮られた一枚は、三角形の瓦屋根が古風な趣を感じさせた。電信柱に電光看板が写っているが、ピントがボケて宿の名を知るには心もとなかったが、写真は眺めているだけでも不思議と懐かしさに浸ることが出来た。

 庭に植えられた手入れの良き届いた植物が持つ、青々とした生気溢れる力強さが日本人の精神に訴えかけるのか、はたまた厳粛な井出達をした宿の面構えが起因させるのか、見知らぬ地にも関わらず瀬戸は見覚えもない写真に郷愁をくすぐられていたのだ。


 何枚か取られた写真を注意深く観察している内に、瀬戸は建物の二階、窓から見下ろす髪の長い女を発見した。

 暮れ行く西日に照らされた民宿を撮った一枚で、女の顔は生憎よく見えなかったが、それでも不思議と興味を引く。

 生活の様子がたまたま写真として切り取られたわけではなく、かと意図して彼女を撮った風には見えない。

 不思議な写真だった。夕焼けに照らされオレンジ色になった民宿を撮影するためシャッターを落としたところ、たまたま彼女の覗き込んだ顔が入ってしまった。そんな印象だ。

 数ある写真の中でも、この一枚だけは何故か見ているだけで堪らなく不安な気持ちにさせられる。胸元からせり上がってくる漠然とした不安で一方的に情動が揺さぶられ、原因を探ろうと注視するも、幽霊などの異物を発見してしまった、ある種超自然の理を拒絶する常識が働き、解明を嫌がる防衛本能を呼び覚まし、沸き上がった原始的な恐怖に体は震えるばかりで、これ以上この件に関わるべきではないと、内心に住まう常に客観的で冷静な自分が、写真に後ろ髪を引かれる瀬戸へ注意を呼びかけている。

 異常なまでに鳴り響く警鐘の要因の探求へ、自ら奮い立たせて導き出すまでの勇気を彼は持ち合わせていなかったのである。


 気が付けば長い時間、瀬戸は写真を見つめていた。

 口に咥えた煙草の大半が灰になり、机へ落ちたことでようやく我に返り、今更吸う気にもならない残りの煙草をもみ消した。

「この人が『ミツコ』さんなのかね?」

 呟くと薄ら寒さが込み上げ、夏場にも関わらず露出した腕に鳥肌が立っていた。

 

 無意識のうち瀬戸が写真の女に重ねたイメージは、窓辺で一人ひっそりと最期を迎えた、死体そのものだったからだ。

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