第3話

 青森へ着く頃には、時計は正午を指していた。天気は雲一つない幸先の良い快晴だった。東京と比べ、青森の夏は幾分涼しく、行動するにも最適な気候である。

 特に新幹線と電車の窮屈なシートへ長時間拘束されていた瀬戸にとって、身を包む軽やかな外の空気は、重しを脱ぎ捨てたような開放的な気分へさせてくれる。

 見上げた空は手を伸ばせば掴めそうなほど近く、見知らぬ地へ踏み込んだ感動は、込み上げる奇妙な達成感と共に彼の胸を熱くしていた。

 視線を降ろせば、文明的な駅前の光景が広がっていた。

 綺麗に整備されたアスファルトは、余所者である彼の冒険心をくすぐる新鮮さに満ちている。

 ひとまず宿へ荷物を降ろし、体制を整えてから行動に移すと決めた彼は、適当にタクシーを拾い、早々に移動を開始する。

 再びシートへ体を預ける頃には、すっかり物見遊山な気分も影を潜め、自然と口数が減っていた。

 そんな瀬戸へ話しかけるドライバーは、細身で白髪が薄ら混ざった初老の男だ。気持ち濁音が混ざる独特な鈍り――俗に言う津軽弁――は早口で聞き取りにくい発音も多かったが、観光客とわかってか加減してくれているのがわかった。

 

 始めは他愛のない世間話に過ぎなかった会話も、宿にまつわる奇妙な噂へ発展するなり、僅かに不穏な空気が車内に流れ始め、僅かながら緊張が伝うのか、息苦しい空間を作り始めていた。

 日頃から人を観察する機会の多い瀬戸は、運転手の機微を見逃さない。


「実はですね……」


 と運転手が、地元の人間だからこそ知る奇怪な事実を口にしたのをきっかけに、瀬戸は自分を青森まで誘った、見えざる力の存在を信じざるを得なくなった。


「ここのところ、お客さん以外にも、あの宿に泊まるって人多いんですよ。今までそんなことなかったのに。えっとインターネットって言うんですか? 若い人はみんなソレやるでしょ。有名なんですか?」


「有名って言うか、僕は知り合いに教えて貰ったんですけど。どんな宿なんですか?」


「どんなって言われてもねぇ。特に料理が美味しいわけでもないし、お風呂が凄いわけでもない。よくある民宿ですよ」


 瀬戸を乗せたタクシーは大通りを左折し細道に入り、徐行しながら写真の景色へ近付いた。

 車は緩やかに速度を落とし、瀬戸は風景を見ながら緊張を高めらせ、顔を引き締めている。降りる準備を始め、ボストンバックに手を伸ばす。

 宿で待ち構える謎の解明に決意を固めていると、タクシーは突然、宿まで残り数十メートルの近さで停止した。

 不思議に思っていると、運転手が瀬戸へ振り返り話しかけてくる。


「ここだけの話、あまり評判良くないんですよ、あそこ。気が変わったなら違う宿に案内しましょうか?」


 料金メーターは千円を少し回っていた。邪推するなら瀬戸の心変わりを期待し、小狡く稼ぐ腹が伺い知れる。だが運転手の言葉は、良心から瀬戸の身を案じており、訴えかける言葉の響きは、今の瀬戸が分水嶺にいることを告げていた。


「昔、食中毒でもあったとか、ですか?」


 冗談交じりに応えれば、運転手は静かに首を横へ振る。


「お客さんも、誰か探しにここ来たんでしょ?」


 彼の言葉は鋭く瀬戸の胸に突き刺さって、しばらく反響した。

 軽いパニック状態と言っていい。見透かした男の声は、カマをかけたわけでも、冗談を口にしたわけでもない。

 職業柄、知り得てしまった経験ゆえだった。

 そうわかるからこそ、瀬戸は返信に窮してしまう。先の世間話で、自分が青森を訪れた理由は観光が目的だと、つい十数分前に嘘をついたばかりだったのも堪らなくバツが悪い。

 加えて瀬戸は、少し早い夏休みを利用して、一人で旅をするのが趣味だと嘘を重ねていた。

 観光以外の目的など、まして人を探しに来たなどと、そんな内容はニュアンスも匂わせていない。


「ここの宿に行くお客さん、みんなそうなんですよ。私等の間じゃ、そこそこ有名な話でしてね。この間も……」


 と、まで言うと運転手は一度前方を向き直し、話を止めた。

 彼の視線の先には一人の女性がたたずんでおり、じっとこちらを見つめていた。

 肩のあたりまで髪が伸びた、二十代後半の女だった。手には薄半透明のゴムチューブが握られており、ぼじょぼじょと先端から水が飛び出し足元に水溜りを作っている。


 再び瀬戸へ向けた運転手の顔には冷や汗が浮かんでおり、表情が顔から消え蒼褪めている。

 話の途中にも関わらず、突然車のドアは開き、彼は口元を震わせ、怪しい呂律で瀬戸を急かした。


「お、御代は結構ですので……」


「いや、その、どうしたんですか急に?」


「いいから早く降りてくれ」


 最後は怒鳴られ、瀬戸は訳が分からず渋々従うしかなかった。

 その後タクシーが逃げるように走って行ったのは言うまでもない。

 あまりに突然の事で瀬戸は茫然とし、困惑を引き摺りながら宿へと歩を進めた。


「こんにちは。予約してた方ですか?」


 近づくと、彼女は笑顔を浮かべながら会釈した。

 運転手の豹変が、女の出現に関係している事は疑いようもなかったが、こうしてみる分には女の姿はあまりにも普通で、それだけに運転手の陥った慄きが異常に思えてしまう。


 女は名前を栗林茜といい、この民宿『かしわ荘』の主人だと挨拶した。

 先代である父母を五年前の事故で失い、以来彼女は一人でここを切り盛りしてるらしい。

 至らない点も多く、不自由な思いをさせるかもしれないと断りを入れられた時は、まだ二十代の若さでしっかりした娘だと、頭が下がる思いだった。

 ときおり彼女は、初対面間の緊張をほぐすつもりか、自分と歳の近い瀬戸へ、婚約者を募集している等とジョークを投げかけ、場を和ませてくれる。

 自分で言っておいて、微笑みに恥じらいを混ぜる仕草は、素直に可憐で瀬戸の胸を温かくさせた。


 かしわ荘は写真通り、二階建てで、室内は木造の古びた民家を改良して作った民宿だった。

 一階は食堂や浴室、客間、栗林家の住居スペースになっており、玄関口からまっすぐ階段を登った先にある都合三部屋を民宿として貸し出している。

 どこか昭和のノスタルジーな空気が残る空間は、綺麗に掃除が良き届いていおり、仕事熱心な栗林の仕事っぷりが伺える。

 両親が残してくれた大事なものだから、と彼女は哀愁を漂わせながら、しかし空気がしめっぽく重いものにならないよう振る舞い、瀬戸の好感をわし掴みにした。


 二階の角部屋へ案内された彼は、荷物を降ろし、予め置かれていた紫色の座布団へ腰かけながら、軽く周囲を見渡す。まっさきに黒いプラスチック製の灰皿が目に付いた。

 彼が部屋を探り出したのは、脳がニコチンを求め泣きだしたせいではなく、それもあるが、ほとんど探偵特有の陋習だった。

 個人で探偵を経営し、そこそこ腕もたち、知名度もあると、なぜか尋ねる客は決まって奇人変人が多くなるのだ。

 従って彼は部屋へ入るとまっさきに、室内へ散りばめられた小物などの情報を頭へ叩き込み、身構えてしまう癖がついたのだ。

 

 しかし、今回に限ってその必要はないだろう。

 六畳一間の畳部屋は、実に平々凡々とした和室だ。

 入口から見た正面、つまり東側に窓があり、開いている。

 外からの風にカーテンが揺らされると、レールへ吊るされた風鈴から涼やかな音色がちりんと一節、蝉時雨の祭囃子に合せて凛と部屋へ響いた。

 耳をすませば夏風にのった、子供達の無邪気な黄色い声が聞こえてくるようだ。

 窓枠は段が設けられ、栗林の趣味で飾られた小さなピエロ人形が楽器を手に演奏会を開いている。すぐそばに細長い木製テーブル。簡素な卓上には、短編小説がまとめられた文庫本が数冊積まれてあった。

 わきにはスタンドライト、メモ帳とボールペンが並ぶ。

 すぐ横に足が折りたたまれた丸い卓袱台。反対側は押入れになっている。中の布団は眠くなったら使ってくれとの事だった。


 全体的にこざっぱりとした内装をした部屋は、タクシーの運転手の言葉通り、よくある民宿だった。

 男の一人旅程度なら、このぐらいの簡素な空間は変に気を遣わずくつろげて都合がいいだろう。


 だが一見なんの変哲もない有り触れた民宿の一室に、瀬戸は薄らとした落ち着かなさを感じていた。

 何かが足りない気がして、さらに注意深く周囲を見るも、シンプルに整った部屋に自身が感じた違和感を探し出すのは容易でなかった。


「夕食は七時から、一階の食堂でお願いします。お風呂は五時から九時まで入れますので、お好きな時間にどうぞ。あと外出する際は十一時まで戻って頂けるようお願いします。出来ない場合は連絡いただければ助かります」


 正面にちょことんと正座しながら説明する栗林の左薬指には、小さい帯状の痕がある。

 細い指に残る白い痕は、指輪の痕と察しがついたが、彼女の口ぶりでは独り身のはずである。

 流石に本人へ訊くのは躊躇われたので、気が付かなかったふりをしたが、瀬戸はどうしても気になって、盗み見るよう時折目で追っていた。

 栗林は愛想よく屈託のない笑顔を浮かべる傍ら、しっかりと瀬戸の視線には気付いており、それとなく指を握ることで、触れられたくない過去があると自らの意思を示した。

 瀬戸の目には、そんな彼女の一連の行動さえも、未だ彼女の心を放すまいとする、前旦那が残した繋縛の跡に映っていた。

 一通りの説明を終えた後、栗林は御用があれば呼んでくださいと、両手を筒代わりにして口元へあてる。ジェスチャーを用いて瀬戸に大声を求めているのだ。

 僅かに見せた茶目っ気の後、彼女はそそくさと部屋を出ようとしたので、慌てて瀬戸は呼び止めた。


「ミツコさんの話を詳しく聞きたいのですが」


 やはり彼女は困ったような笑みを浮かべた。

 電話で言った通り、そんな知り合いは覚えがないと断ったが、わざわざ東京から青森まで足を運んだ瀬戸が素直に諦めてくれるとは思えない。

 口で説明しても納得させれる自信はなく、仕方なく彼女は一度一階の自室へ戻り、卒業アルバムを数冊抱えて戻ってきた。

 畳んだ卓袱台を組み立て、小学校から順にアルバムを並べ、好きなだけ調べてくれと瀬戸に任せたのである。

 これを瀬戸は歓迎した。しかし結果は到底喜ばしいものではなかった。

 瀬戸が欲したミツコにまつわる情報は皆無で、そればかりかミツコなる女の名前や顔は、アルバムを隅々見渡しても載っていなかったのだ。

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