第4話

 午後三時。

 青森まで足を運んでなお、瀬戸に収穫はなく、彼は袋小路に追いやられた閉塞感にもがいていた。

 物的証拠により、ミツコなる女との関係性を否定された事実は大きく、俄然井上が残した遺書まがいの書き置きを叶えてやるのは難しくなった。

 なにより今も失踪し続ける井上と自分を結びつける手掛かりが途絶えたのが痛い。

 栗林に井上誠二なる男が、この宿に泊まったことを覚えてないかとも尋ねたが、先月の頭に井上が訪れたまでは覚えているものの、その後の足取りに関して見当もつかないらしい。

 封筒が残された以上、一度東京へ戻ったとみて間違いないが、如何せん情報量が少なすぎて、調査の進展に繋がるかは微妙である。


 栗林が去った後、瀬戸は煙草を咥えながら、畳の上で大の字に寝そべった。

 唇から煙突よろしく伸びた煙草は、すぅと白い煙が直線状に天井へ向かって伸びている。気ままな煙が宙を漂う様を目で追うと、ズボンのポケットに入れていた携帯が小うるさく振動を持って着信を告げた。

 電話は井上夫妻からのものだった。

 

 栗林に話を聞いた後、近況報告で夫妻に連絡を入れたのだが繋がらず、留守電にメッセージを残しておいたのだ。

 気怠そうに彼は加えた煙草を畳に直置きした灰皿で消し、ゆっくり起き上がって着信に出た。電話は母方である井上里美だった。


「もしもし、直樹君、今大丈夫ですか?」


「ええ、ちょうど暇……じゃなくて、休憩していたところです」


 うっかり口を滑らしそうになったのを誤魔化し、彼は今自分がかしわ荘にいること、昨日聞いたミツコなる女性に関する情報に食い違いが発生していること、正直に手詰まりであることを告げ、ミツコの実家を教えてもらえないか丁寧にお願した。

 期待は薄かった。恋人の失踪が公になり、婚約を白紙に戻された段階で、井上夫妻は何度も頭を下げながら食い下がっていたことを瀬戸は知っている。

 一度直接会って話を交わそうともしたのだが、頑として断られたのだ。先方が住所を教えなかったり、会見を拒絶したのは、家の前で座り込みされる恐れを嫌ったからだろう。

 瀬戸が睨んだ通り、電話ではミツコに関する情報は得られなかった。

 

 その後はふらふらと出かけ、桜で有名な弘前公園に寄ってみた。

 公園を目的地に選んだ深い理由はなかったが、恐らく井上も足を踏み入れた公園へ寄ることで、彼の視点を会得し、なんらかの刺激を期待したのだ。

 つまり打つ手なし。とうとう困った彼は、気の向くまま気晴らしへ出たのだ。


 彼が訪れた弘前公園は、敷地の中央に観光の目玉、弘前城がある。

 当時の防衛セオリーに則り、公園の周囲は水が張られた掘りで囲われ、景観を意識してか等間隔に桜の木が植えてあった。

 生憎ながらすでに時期は過ぎ、桜など望むべくもないが、これが五月の上旬ともなれば、花弁は一斉に開き、辺りは艶やかな桃色へ包まれる。それはまさに絢爛の一言に尽きる絶景だ。

 水面に反射して映る虚像の桜と、頭上を賑わす実物の花弁が鏡合わせのように対となる様は、桜の名所と呼ばれるに相応しい。

 

 しかし先にもいった通り、今や八月ともなれば、桜など見る影もない。瀬戸が歩く周辺に植えられた木々も、健やかな青葉を茂らせた凡庸なものにすぎなかった。


 堀にかかる橋を渡り、時代を感じさせる堅牢な門をくぐる。彼を悩ます思考の渦が晴れる様子がない。

 砂利が敷かれた敷地を歩いても変化は現れず、流石に嫌気がさした頃、彼は池のそばに都合の良いベンチを発見した。

 彼は休憩がてら腰かけたが、ヘビースモーカーである瀬戸にとって全面禁煙の公園は憩いの場になり得なかった。

 ベンチから見える池と、朱色の立派な橋が合わさった景観は、単純に瀬戸の琴線に触れ、そこそこの感動を与えてはいたが……。

 事実、彼が視線を送る橋は、背後にたたずむ弘前城もあって、観光客に人気な撮影スポットの一つだった。


「アイツも、あそこで写真を撮ったのかな」


 漫然と考えを巡らせていると、彼の隣に腰の曲った老婆が現れ、朗らかに笑みを浮かべながら隣へ座った。


「いい天気ですね」


 長閑な会話の滑り出しは、眼前へ構える水面に似て穏やかだった。

 瀬戸は老婆のとりとめもなく話し始めた姿を見て、もしや話し相手を探していたのではないかと警戒してしまう。

 特に目的もなく公園へ足を運んだ瀬戸ではあったが、益体もない話に時間を費やすつもりは毛頭なかったのである。だが職業柄、社会的常識として、自分へ気さくに話しかけて来た老人を、無下に、厄介者扱いするのは躊躇われる。


「春は桜が綺麗だけど、冬も綺麗なんですよ」


 老人の言葉に操られ、瀬戸の脳裏に一瞬、雪化粧で覆われた公園が浮かんだ。


「そうなんですか。あの、ところでかしわ荘って知ってますか?」


 我ながら何を期待しているのか。

 瀬戸は内心苦笑を浮かべながら、老婆に向かって期待薄な調査を開始した。

 地元の住民なら興味深い話が聞けるかもしれないし、先のタクシードライバーの豹変が、やはり瀬戸の中で引っかかっていた。


「かしわ荘って、すぐそこの宿屋さんよね?」


「ええ、そこに泊まってまして」


「どうりで言葉遣いが綺麗なこと。実はね、アタシも出身はここじゃなくて、昔は東京に住んでたの。あの頃は……」


 脱線に脱線を重ねる会話は、必要以上に瀬戸の神経を知り減らしていた。顔には出さないものの、老婆の話へのった後悔は募るばかりだ。

 しかも、ようやく話題がかしわ荘に戻ったかと思えば、この老婆は痴呆からか素っ頓狂な警告を口にするのだ。


「あなた、今すぐ国へ帰りなさい。手遅れになる前に」


「手遅れ?」


「国に大事な人を残してるんでしょう。後悔する前に、さあ早く」


 老婆の言葉に、瀬戸は交際相手である国木香の顔を思い出した。

 国木は中学生時分に知り合ったクラスメイトの一人にしか過ぎなかったが、成人式で再会したのをきっかけに意気投合、以来瀬戸と交際を深めていた。

 奇遇にも井上同様、結婚まで秒読みの段階を迎え、すでにプロポーズと結婚指輪は渡し、互いの両親へ挨拶も済んでいる。

 瀬戸が井上の捜索に出たのは、義理固く親友を差し置いて自分だけ幸せになる後ろめたさも影響していた。

 もっとも井上を探し出したい気持ちとは裏腹、井上夫妻には悪いが、ダメなら諦めて引き返すつもりだった。

 そういった事情もあって、彼は全ての精算と第二の人生を迎える儀式として、今回の捜査を強行したわけだが、しかしそれも徒労で終わろうとしている今、老婆の一言は瀬戸の芯を揺さぶる誘惑が込められている。


 文字通り老婆心から出た警告は、瀬戸にとって友情をとるか、愛情をとるか、試されている風に聞こえていた。


「後悔するって、どういう意味です? かしわ荘に何かあるんですか?」


 老婆はなにも答えなかった。耳が遠く聞こえないと言わんばかりに、言いたい事だけ言って、トボトボと瀬戸から離れたのである。

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