第5話

 夕暮れを背に、瀬戸は老婆の言葉を繰り返し思い出しながら帰路についていた。

 黄昏時の弘前の街並みは、瀬戸へ今日一日無駄足に終わった事実の反省を強いるようだった。

 かしわ荘が見えてくるにつれ、敗北感と無能さが心中で幅を利かせ、自責の念が強く心を支配する。

 ふと顔を見上げれば、写真とまったく一緒の景色が目の前にある。

 そこで一度足を止め、井上はここで何故写真を撮ったのか考えた。

 都合よく物事が運ばぬことなど、重々承知していたし、散々思い知らされ辛酸もなめてきたが、それでも観測的な希望が彼の視線をかしわ荘の角部屋――ちょうど女の顔が写った窓へ向けさせたとき、神、あるいは悪魔が、彼の努力に報いるべく微笑みかけた。


 電流を流し込まれたような、ひらめきを瀬戸は得た。


 急いで借りた部屋へ戻り、窓を開けて外を確認すると、彼の予感は確証に変わった。


「部屋が一個足りない」


 肌身離さず持っていた写真をポケットから取り出す。

 不気味な写真は井上が残した重大なメッセージに変わっていた。

 この写真が示す通りなら、瀬戸が借りた角部屋の窓は、夕日を浴びる西側に、つまり東側にあってはならない。

 窓を開けて首を出して確認すれば、自分の部屋の隣にちょうど一個分、別の個室が設けられており窓もあった。

 衝動に身を任せ、部屋を飛び出せすと、部屋の隣は白い壁で塞がれている。


 まだこの民宿には未知の空間が壁の向こう側に広がっているのだ。


真実に気づいた瀬戸の目は、目の前の壁が作為的な意図により封印されている事実を看破していた。

 試しに軽く壁を叩き、音の響きを調べてみれば、薄さはせいぜい十数センチといったところで、後から作られたことがわかる。

 瀬戸は取っ手らしきものはないか調べた。

 しかし、いくら探しても見つからず、彼は視点を一旦壁から離し、作戦を屋根裏越しの侵入へ切り替えた。


 部屋に戻り、押入れの戸を開け、布団を引っ張り出し、同じように区切られた壁を叩いて音を確かめた後、屋根裏へ通じる隠し通路を探すべく頭上を調べてみた。

 指を天井に這わせれば、どこからか微かに空気が漏れている。ひんやりとした感触が指先に伝わった。

 少しずつポイントをずらして調べると、一か所天井が外れるようになっている。

 開いた空間は人一人なんとか入れる大きさをしていた。

 彼に躊躇いはなかった。バックに入れた小型の懐中電灯を口へ咥えて、穴へ体を捻じ込み、力任せに潜り、屋根裏を這う。


 しばらく進むと行き止まりの壁にぶつかり、それは彼が探していた目的地であり、調査の終点だった。


 ついに瀬戸は隣室への侵入に成功したのだ。

 到着点は出発と同じ押入れ。布団は入っておらず、ガランと空いた空間に暗闇が広がっている。

 咥えたライトを切った彼は、戸へ手をかけ、恐る恐る開くとそこには――。


「なんだこれは⁉」


 彼の目に広がったのは、辺り一面、血文字で書き殴られた、おびただしい量の名前だった。

 壁という壁、床、天井に至るまで真っ赤に書き殴られている。

 異常な空間だった。生理的嫌悪感が潜入で昂った彼の興奮を瞬時に冷ます。

 びっしり埋め尽くされた文字は、民宿に食われた被害者達の断末魔のように感じ、瀬戸へ危機感を与えた。

 今、自分は魔物の腹の中にいる。そう思うと心臓の鼓動は一層早まり、今すぐ部屋から逃げ出したくなった。

 ……いや、即刻荷物をまとめ民宿から脱出するべきだ。

 そんな彼は、ふと無数に刻まれた名前の羅列から井上誠二の名を発見した。

 血文字で書かれた筆跡は、紛れもなく本人のもので、ゆえに彼の身に訪れた絶望的な状況を告げている。


「もう限界だ、戻ろう」


 ついに得体の知れない恐怖に耐え切れず、黍を返した瞬間、彼ははっと息を飲む。

 栗林が、いつから居たのか、物言わずじっと自分を見ていたことに気付いたのだ。

 彼女は音もたてず、ただただ瀬戸を見つめていた。

 

 瀬戸に悲鳴なんて上げる余裕はない。彼女の手に握られた、およそ小柄な体躯に似つかわない、大きな鉈のせいだ。

 鉈が意味するところは明らかだった。恐らくこのままでは自分も鬼門へ入り、この部屋に名前を刻んでしまうことも。

 抵抗しなければ殺される。

 すぐに瀬戸は逃げる準備をした。

 だがすでに侵入経路が経路だけに、逃げ出せる気がしない。

 瀬戸は自身の頭脳へかけた。頭を捻って活路を見出すのは探偵の十八番であるはずだ。

 彼は観察、そして考察。ただその一点に全神経を集中させる。

 

 そして栗林が指に指輪をはめてあることに気がついた。


 それは、かつて井上が瀬戸に相談した、どう渡せばいいか悩んでいる結婚指輪によく似ている。


「見つかってしまいましたね」


「あなた、まさかミツコさん?」


 栗林は小首を傾げた。瀬戸には頷いたようにも見えた。

 彼女は物言わず瀬戸との距離を縮める。

 鉈を振り上げ……。

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