狩人と美女の狂想曲(カプリッチオ)

上倉ゆうた

狩人と美女の狂想曲(カプリッチオ)

アヴェロワーニュ――。

影深き森にいだかれた、上古の記憶伝えし地。

ヴァルプルギスの夜宴に、妖魅怪異がつどう、人界と異界の狭間はざま

人の子よ、何故なにゆえ十字架にこうべれ、魔女狩りの炎にたきぎをくべる?

信仰の光こそ、最も深き影を落とすというのに。

中世の闇に、妖しく咲いた。

アヴェロワーニュ――輝けるフランスの影。


 狩人は、森で育ちました。

 かしの巨木が根を絡ませ合い、遥か頭上を緑の天蓋てんがいが覆う。昼なお薄暗い広大な森に、しかし、住んでいたのは、彼と、狩りの師匠でもある母の二人だけでした。

 こんなに豊かな森なのに、どうして? 幼い頃、母に聞いてみたことがあります。彼女は、遠い目をして語り始めました。

 昔は、こうじゃなかった。この森にはね、坊や。母さんの家族や友人が、大勢住んでいたよ。力を合わせて狩をし、獲物を分け合って、仲良く暮らしていた。この森は、私達の王国だった。

 それが、禁忌きんきの獣どものせいで――。

 禁忌の獣? 首をかしげる彼に、母は恐ろしい奴らさ、と身を震わせました。

 ある日、突然森に現れたのだそうです。

 そいつらに、母さんの両親も兄弟も友達も殺されてしまったんだよ。

 信じられませんでした。狩の名人である母とその一族が、獣に殺されるなんて。そいつらは、蛇のように毒の牙でも備えていたのでしょうか。そうく彼に、母はかぶりを振りました。

 み付いてくる訳じゃない、それどころか、触れもしてこない。遠くからじっと見ているだけなのに、皆ばたばたと倒れていくんだよ。きっと、奴らの視線には、魔力があるんだ。邪神ツァトゥグァから授かった、呪殺の魔力がね。

 奴らの通った後には、皆の死体が山になった。狩人の私達が、獣に狩り立てられる――まさに、悪夢だったよ。どうにか逃げ延びたのは、母さんだけだった。

 今でも、たまに奴らは、森をうろついてる。だけど、いいかい、坊や。奴らには、絶対に近づいちゃいけないよ。だから、母さんは、奴らを“禁忌の獣”と呼んでいるのだから――。

 ――そう教えてくれた母も、去年の冬に亡くなり、狩人は一人ぼっちになってしまいました。立派な獲物を仕留めても、褒めてくれる人はいません。ふくろうの夜鳴きを聴きながらの一人寝の、何と寂しいことか。

 この森には、七の七倍の七倍の獲物がいるぞ。一緒に狩らないか。縄張り破りは気にしないから、おいで、おいで――風に呼びかけを乗せてみたりもしましたが、返ってくるのは木霊こだまだけでした。

 そうして、孤独な月日がめぐり。すっかり、一人に慣れてしまった頃のことでした。

 狩人が、彼女と出会ったのは。

 兎を仕留めた帰り道、血と匂いを落とすために泉に立ち寄った狩人は、先客がいることに気付いて、大層驚きました。生まれて初めて見た、母以外の他人です。その人は、楽しげに水とたわむれているようでした。

 樹の陰から、そっとその姿をうかがい――再度、仰天しました。

 女性でした。それも、素晴らしい美女です。

 星々を散りばめた夜空のような黒髪、木陰に咲く百合ゆりのように白い肌、森そのものを内包ないほうしているかのような、深緑の瞳。いやはや、亡き母も美しい人でしたが、流石さすがに彼女には及ばないでしょう。

 狩人は、一目で恋に落ちてしまいました。

 よっぽど、すぐにでも声を掛けたかったのですが、思い留まりました。怯えて逃げられでもしたら、取り返しが付きません。散々悩んだ挙句、狩人はその場に兎を置き、そっと立ち去りました。

 それから、泉に通うのが日課になりました。

 足音を忍ばせて近づき、樹の陰から様子を窺う。誰もいなければ、肩を落として帰路に着く。期待叶って水浴びする美女がいれば、うっとり見惚みとれて――そっと、獲物をおすそ分けして立ち去る。

 そんなことを、幾度か繰り返して。

 その日も、狩人は美女に気付かれる前にと、いたちを置いて立ち去ろうとしていました。

 その時でした。

 ――親切な方、一緒に水浴びしませんか。

 想像もしていませんでした。まさか、美女の方から声を掛けられるなんて。

 ――ごめんなさい、なかなか御礼を言えなくて。最初から気付いていたのだけれど、急に声を掛けたら、吃驚びっくりしてしまうと思って。美味しいお肉を、どうも有り難う。

 何だ、彼女も同じだったのか。狩人は何だか可笑おかしくなり、気が付くと、樹の陰から歩み出ていました。

 それから毎日、二人は泉で逢引あいびきするようになりました。子供に戻ったように水を掛け合い、疲れると岸辺に上がって日向ひなたぼっこ。狩人が獲物を持っていってやると、お礼に美女は、様々な歌を聞かせてくれました。納骨堂に眠る木乃伊みいらの来歴。墓場で交わされる幽霊達のささやき。夢の国にあるナスの谷の秘密――生憎あいにく無学なので歌詞の意味は良く分かりませんでしたが、冬の大気のように澄んだその歌声は、彼の耳に心地好く響きました。

 きらめくような日々でした。あたかも、ずっと春が続いているかのようでした。

 ただ、一つ奇妙だったのは、逢引の最中、美女が決して泉から離れないことです。岸辺には上がっても、足だけは水にけたままにしているのです。その理由を知ったのは、狩人がついに想いを打ち明けた時でした。

 自分の子供を産んでおくれ。そして、皆で一緒に暮らそう。彼の求愛に、美女は表情を曇らせました。気持ちは嬉しい。しかし、私は貴方とは結ばれない定めなのだと言って――泉の水面から、足を上げました。

 狩人は息を飲みました。美女のすらりとした足は、山羊やぎのようなひづめそなえていたのです。ごめんなさい、今まで隠していて。美女は悲しげに項垂うなだれました。貴方と私は、種族が違う。だから、家族にはなれないの。

 狩人は諦め切れませんでした。せっかく、孤独を癒してくれる伴侶はんりょが見つかったのに。何か、何か、手段はないものか。あまりに必死な様子に、美女はついという口調でらしました。

 一つだけある、と。

 ある獣の肉を食べればいい。そうすれば、貴方も私と同じ種族になれる。

 その獣とは? 身を乗り出す狩人に、美女は慌てて頭を振りました。やっぱり止しましょう、あまりに危険だわ。無論、それで引き下がる彼ではありません。構うものか、君と結ばれるためになら、灰色熊にだって挑んで見せよう。

 しかし、その獣の特徴を聞いて、狩人は表情を強張こわばらせました。

 そう、美女の言う“ある獣”とは――禁忌の獣のことだったのです。

 母の一族を皆殺しにしたという、邪神ツァトゥグァの使い。奴らに比べれば、怪力の灰色熊の方が、まだましでしょう。なるほど、美女が危険だと止める訳です。

 しかし、想いを遂げるためには、挑むしかありません。決して近づくなという母のいましめを破るのは気が引けましたが、狩人は躊躇ためらいを振り切り、必ず成し遂げると美女に誓いました。

 餌や巣の場所など、習性が全く知られていない禁忌の獣は、探すだけでも一苦労です。それでも、狩人は執念を支えに森を彷徨さまよい――数日後、木々がまばらになる辺りで、ついにその姿を見つけました。

 生まれて初めてその目で見た、禁忌の獣。

 想像以上に、奇妙な姿でした。

 全身を覆うひらひらした皮は、赤だの青だの派手な色合いで、全く保護色になっていません。氷の塊のような、何やら透明な物を手に持っており、時折それを口にくわえ、ちゅうちゅうと吸っています。

 鋭い爪も牙もなく、動きも遅く――と言うより、生まれたての仔鹿のようにふらふらしています。挙句の果てに、樹の根に足を取られて転びそうになっている始末。何て鈍い奴だ、あれなら簡単に狩れそうだ――油断しかけた狩人の脳裏に、母の言葉がぎりました。奴らは、見るだけで相手を殺せる――そうでした。禁忌の獣には、爪も牙も、素早く走れる足も必要ないのです。

 ならば、視線を向けられる前に仕留めるしかない。狩人は覚悟を決め、気配を殺して、獣に忍び寄りました。奴は、樹に寄りかかって――何と、いびきを立てています。自分が襲われるなど、想像もしていないのでしょう。

 茂みから飛び出し、背中に覆いかぶさります。どんな獣にも似ていない、異様な叫びが上がりました。透明な何かが地面に落ち、粉々に砕けます。その中から、妙な匂いを放つ液体があふれます。あれが餌でしょうか。

 目論見もくろみ通り、さすがの呪殺の視線も、背後には向けられないようです。突然、心臓が止まったりはしませんでした。それでも獣は、手足を振り回して抵抗しましたが、手負いの猪のそれに比べれば、大した勢いではありません。

 やがて、その体から、だらりと力が抜け、狩人は己の勝利を悟りました。

 鷹などに横取りされる前にと、急いで獣の皮を剥ぎました。その下から現れた肉は、何だかぶよぶよしている上、あの液体の匂いが染み付いていて、お世辞にも美味しくはありませんでしたが、我慢して平らげました。

 やった、これで願いが叶う。彼女のような蹄が生えてくるのを、狩人は今か今かと待ちびました。

 しかし――小川に蛍が舞い始めるまで待っても、足に変化は訪れません。狩人は、肩を落としました。きっと、一匹だけでは駄目なのです。えい、諦めるものか。彼女と結ばれるためなら、何匹でも狩ってやろう。

 それからも、狩人は禁忌の獣を追い続けました。

 いた! 最初に狩った奴より、大分小柄です。こいつは、一心不乱に花を引っこ抜いているようです。あんな物、食べられる訳でもないのに、何故? まあいい、利用しない手はない。花が沢山咲いている場所で、待ち伏せし――。

 見つけた! 今度は何と、つがいのようです。仲良く並んで、奇妙な鳴き声を交し合っています。二対一ではさすがに無理と諦めかけましたが、おや、片方が、その場を離れていくぞ。よし、あっちを尾行して――。

 そうして、計三匹の獣を仕留め、その肉を飲み下したというのに。

 未だに、願いは叶いません。

 大丈夫、今度こそ、今度こそは。狩人は自分に言い聞かせ、その日は木陰で休むことにしました。

 夢の中で、久し振りに美女と会い、大喜びで駆け寄ろうと――。

 ――した狩人は、不穏な気配を感じて、飛び起きました。

 森がざわめいています。何者かが、周囲を歩き回っているのです。十数匹、いや、もしかすると、数十匹? この匂いは――間違いない、禁忌の獣です。こんなに沢山、どこに隠れていたのでしょう。

 驚いたきじが、ばさばさと飛び立ちます。しかし――ぽとり。突如、落下して、そのまま動かなくなってしまいます。狩人は、戦慄せんりつと共に悟りました。獣の視線の仕業に違いありません。母とその一族も、こんな風に――。

 一匹狩るだけでも命賭けなのに、こんな大群に挑むなど自殺行為です。逃げるしかありません。狩人は木陰から木陰へ、茂みから茂みへ、無我夢中で飛び移ります。早く、早く、奴らの目の届かない所へ。ああ、しかし、周囲はすっかり取り囲まれているようです。獣達は荒々しく吼えながら、茂みを掻き分けています。彼を探しているのでしょうか。まるで、土竜もぐらの穴を掘り返す狐の様な執拗さです。何が、奴らを駆り立てているのでしょう。

 母が言っていた通りでした。狩人の自分が、獣に狩られる――それは、想像外の恐怖でした。やはり、奴らに手を出してはいけなかったのか。それでも、どうしても、彼女と結ばれたくて――。

 どん。

 突如、激痛が走りました。

 やられた――見られたんだ、奴らに。

 駄目だ、死ぬ訳にはいかない。必ずやり遂げると、彼女と、彼女と約束したのだから――暗い淵に落ちていく狩人は、気付きませんでした。

 己の肩に刺さった、木の枝に鳥の羽を生やしたような、奇妙な物体に。

 獣が、咆哮ほうこうを上げています――。

「ヤッタ、俺ノ矢ガ当タッタゾ!」


 ~曲調変更~


 その日、ヴィヨンヌの街の広場は、祭のような人込みだった。

 実際、集まった人々の心情は、それに近かったかもしれない。不条理な封建制と融通の利かない教会に抑圧された、退屈な日常をしばし忘れさせてくれる、楽しい楽しい莫迦ばか騒ぎ。

「あれが、噂の――」

「おお、何て気味の悪い!」

 広場の中央に立てられた柱には、異様なものが鎖で縛り付けられていた。

 髪も髭も伸び放題、その合間から除く双眸そうぼうは、暗い輝きを放っている。役人の手で巻かれた腰布以外は、何も身に付けていない。唸り声を上げる口からは、長い牙が覗いている。

「まさしく、人狼に違いない!」

 三人もの人間を血祭りに上げた、森の魔物。

 人々が木々を切り倒し畑を広げる度に、人智の及ばぬ異界というヴェールを一枚一枚剥がされていく森。その森が、陵辱りょうじょくの復讐にと刺客しかくを送り出したのだろうか。

 最初の犠牲者は大酒飲みの靴職人だった。クシム産の赤ワインで前後不覚に陥って、森に迷い込み――翌日、無惨なむくろとなって発見されたのだ。人々は困惑した。この森から、狼はとうに一掃したはずなのに。

 次の犠牲者は幼い少女だった。好奇心旺盛な彼女は、撫子なでしこや鈴蘭を摘んでいる内に森に深入りし過ぎ――哀れ、短い生涯を終えた。現場の周囲に残された足跡は、奇怪なものだった。強いて言えば、人に近いような――。

 ようやく犯人の正体が判明したのは、三人目の犠牲者が出た瞬間だった。

 彼女は村長の娘だった。使用人の青年と森で密会している最中、生理的な欲求を覚え慌てて一人その場を離れ――突如響き渡った恋人の悲鳴に駆けつけた青年が見たのは、悪夢のような光景だった。

 喉笛を食い千切られた恋人と、その腹を食い破ってずるずると内蔵を引きり出している凶影。しかも、刃物ではなく己の牙で。

 まさに、幼い頃、祖母の膝で聞いた昔話に登場する――。

「う、うわあ、人狼だああぁぁぁっ!」

 転がるようにして逃げ帰った青年の口から、森に潜む恐怖が伝えられ――ついに、白銀の鎧に身を固め、弓矢で武装した、ヴィヨンヌ候の騎士団が討伐に乗り出したのだ。

 さしもの魔物も勇猛で知られる騎士団にはかなわず、正義の矢に倒れた。中途半端な止めの仕方では、蘇る恐れがあるという伝承に従い、こうしてヴィヨンヌにまで運んで、聖なる火刑で浄化することになったのだ。

「神よ、貴方の勝利をたたえます!」

 司祭の合図と共に、薪束まきたばに火が点けられる。じわじわと迫る赤い舌と、朦々もうもうと立ち込める煙に、人狼は吼え猛り、鎖を引き千切らんばかりに身をよじる。その凄まじい姿に、処刑という名の祭は熱狂をいや増していく。

 ――人々は、知らない。

 その昔、ヴィヨンヌ候の妃が不義の子を身篭みごもり、思い悩んだ挙句森に捨てたことを。その赤子を、人による虐殺から唯一生き延びた雌狼が拾い、育てていたことを。

 ――人々は、思いもらない。

 人狼と呼ぶそれが、自分達と同じ人であることに。

 遂に、炎の衣が人狼を包み込んだ。人々の歓声を切り裂いて、長い長い遠吠えが上がる。

 ――人々には、分からない。

 市壁を越え、森にまで届いたそれが、愛する者への懺悔ざんげであることが。

 すまない、すまない、約束を守れなくて、すまない――。


 その夜。

 昼間の騒ぎが嘘のように静まり返る広場に、奇妙な影がたたずんでいた。

 星々を散りばめた夜空のような黒髪、木陰に咲く百合のように白い肌、森そのものを内包しているかのような、深緑の瞳――そして、突き出した口吻こうふん、蹄を備えた足、前屈みになったいびつ体躯たいく。全体像は、犬に似ていなくもない。

 食屍鬼グール

 墓場に出没し、最後の審判に備えて眠っているしかばねを食い散らかす、浅ましい種族――伝承は、そう語る。

 火刑台には、黒焦げになった人狼の亡骸なきがらが縛り付けられたままになっている。冷たい月光が照らすその光景を、食屍鬼はじっと見つめ――その異貌に、涙を煌かせた。

 御免なさい。私が、あんなことを教えたばっかりに。

 彼女の祖先は、かつて人だった。それが、同族の肉を食べた背徳感により、魂を歪ませ、このような身に堕ちたのだ。だから、同じことをすれば、彼も――そう思ったのだが。

 とんだ思い違いだった。

 彼は、自分が人間であると知らなかった。育ての母と同じ、狼だと思い込んでいたのだ。故に、いくら人間を食らったところで、共食いの背徳感は生じない。彼にとっては、獣を狩っている感覚でしかないのだから。

 御免なさい。貴方は私と同じだ等と思い込んだばっかりに。

 御免なさい。純粋な貴方を、私と同じ場所におとしめよう等とたくらんだばっかりに。

 けれども、その純粋さ故に――。

 人になれず、食屍鬼にもなれなかった、哀れな、哀れな恋人。ならば、せめて。

 食屍鬼はその焼け崩れた頬を、そっと撫で――。

 おもむろに、がぶりと食い千切った。

 ――これで、ずっと一緒ね。

 焦げ臭い彼の欠片かけら嚥下えんげしながら、食屍鬼は歌うように囁いた。


 ~終曲~


【参考文献】


 アヴェロワーニュ妖魅浪漫譚(創元推理文庫、C・A・スミス/著、大瀧 啓裕/訳) 

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