エピローグ
アリサが病室で目覚めたのは、一ヵ月後のことだった。
目覚めた時には鼻と口を完全に覆う呼吸装置と、眼の粘膜を防護するためのゴーグルを着けられており、さらにベッドは透明なビニールで取り巻かれていた。アリサが微かに視線を横に逸らすと、ベッドサイドの椅子にはミランダが腰掛けていて、熱心にヴァンパイアとの恋愛を描いた小説を読みふけっていた。アリサが手を振ってみせると、彼女は椅子から転げ落ちそうになった。
当分、アリサはここで過ごすことになりそうだ、とのことだった。「ルーム」は犯人グループによるシステムへの侵入の結果、外部からの操作を受け付けないままになっており、いったん解体の後、再構築までする必要があるらしい。だから、今のところ特別病棟の病室に擬似的に「ルーム」を作り、アリサを外界から隔離している。といっても、以前ほど強固ではない。透明のビニール越しに、ミランダと軽く触れ合うことも出来る。アリサが指を撫で回すと、ミランダは照れて酷く赤面していた。
犯人は弁護士のリサとその関係者らしい。汗をかきながら、懸命にルジンスキが報告をしていた。看護師の一人、ブライアン・レザーマンが共犯で、本来外部から独立している「ルーム」のシステムにコンピュータ・ウィルスを仕込めたのも、彼の協力があったからだとか。レザーマンは自分のハンバーガーショップ開店資金にするために犯罪に手を染めたのだとか。リサが長い時間を掛けてアリサと接触していたのは、病院側に対するアリサの不信感を高めて事態の解決を遅らせつつ、院内への侵入を容易にする狙いがあっただとか。ルジンスキはあれこれと小声で言っていたが、小声過ぎてよく聞き取れなかった。
ルジンスキの背後には、大柄な白髪の男性が座っていた。彼は病院の院長らしい。今まではルジンスキに全権を任せていたが、これからは院長が責任を持って現場を管理していく、とのことだった。どうやら、ルジンスキの判断力不足がアリサをこんな目に遭わせた、と上層部にも判断されたらしかった。少しはアリサの置かれる状況も変わるのだろうか。しかし変わるといっても、せいぜいネットの接続を監視されなくなるとか、その程度のことだろう。
「何か、ご要望はありますか?」
院長は紳士的な低い声でアリサに尋ねた。新しく作り直す「ルーム」の話である。アリサはしばらく考えた。
「……窓を、作ることは出来ますか?」
その言葉を聞いて院長は少し意外そうな表情をしていたが、すぐに、検討してみます、と優しく返した。アリサはほっとして、息をついた。小さくてもいい。外があるのだとわかれば、それでいい。
ある日の夜、夕食を終えた後、アリサは病室でミランダと一緒だった。彼女はほとんど付ききりで、アリサの面倒を見てくれていた。
「あなたは趣味を持つべきよ」
唐突にミランダは言った。戸惑ったアリサは問い返した。
「なぜ?」
「趣味に理由や意味なんて要らないわ。目的もなくていい。私の友達に世界中のグミのパッケージを収集している人がいるけど、たぶん大抵の趣味はそれより有意義よ」
ミランダはそう言ってウィンクした。
アリサは困惑していたが、やがて、こう答えた。
「じゃあ、小説を書こうと思うわ」
それを聞いたミランダは、とてもいいと思う、と嬉しそうに褒めてくれた。続けて当然のように、最初に読ませてね、と言う。そんな期待されてもまともなものは書けないだろうとアリサは思ったが、しかし、なんとなくだけれど、悪くない思いつきのような気がした。
そして、なんとなしに周囲を見回した。こんな子どもっぽいことを言ったら必ず出てくるあいつ。皮肉の一つも告げるためにやってくるに違いないあいつが、部屋のどこかに現れているんじゃないか。そう考えて、アリサは病室の隅を見やる。
だが、どこにもイライザの姿はなかった。
アリサは胸の内で呼びかけた。
――イライザ?
けれど、その後も生涯、イライザが現れることはなかった。
アリサとイライザの誰よりも小さな世界 彩宮菜夏 @ayamiya_nanatsu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます