あひみての

玉鬘 えな

 仙人掌



 お前を抱くと、目がくらむ。


 そのうなじに顔をうずめて、お前の匂いを肺一杯に吸い込んで、細い腰を抱き寄せて両腕でしばる。

 そうすると脳が甘くしびれるような感覚に襲われて洪水のように神経を持っていかれてしまう。頭のてっぺんから爪先まで、ぴしりと熱が行き渡ってたされて、俺はその怒濤どとう恍惚こうこつとする。


 ――その次に襲ってくるのが日照ひでりのような猛烈な暑さ。


 からびていくようにじりじりとさいなまれ、喉がからからに渇く。俺はもう一度、ぬるい濁流に飲み込まれて沈み落ちてしまいたくて、お前の頬に鼻面はなづらを擦り寄せる。

 だけど細い身体をき抱いてもき抱いても満たされることはなく、母にすがる赤子のように、ただその背をまさぐって必死にしがみつくだけ。



早苗さなえ

「なぁに?」

「明日は、一緒に帰れるか?」

「うーん……明日も部活があるから。コンクール前だからどうしても遅くなっちゃうし、やっぱり先に帰ってて」

 ごめんね、と優しく頭を撫でられる。困ったように眉根を寄せて、あやすように笑う。

 早苗がちらりと時計に目をやった。ああ、彼女の門限が近づいている。


 放課後は毎日、一緒に過ごすようになってもう何年になるだろう。彼女の家で定められた門限は最初の頃よりは少しずつ延びてきてはいるものの、まだ未成年だから、といまだに夜は早めに設定されている。

「もう帰るのか?」

「うん……ごめんね、最近なかなかゆっくりできないね」

「明日も、これくらいか」

 そだね、と早苗は淡く微笑んで呟く。俺は不満の色を隠しもせずに唇を噛み、もう一度、彼女の背に回した腕にぎゅうと力を込めた。


 彼女は演劇部に所属している。普段はまったりとしたペースで活動している部だが、年に数度、コンクールだかなんだかの発表の場が近づくと、にわかに日程スケジュールが過密になる。許可の下りるぎりぎりの時間まで学校に居残いのこって練習と打ち合わせ。その度に、こうして二人で逢う時間を削られるのだ。




 翌日、俺は彼女に言われた通り、仕方なしに一人で帰り支度をする。玄関脇の多目的ホール前に差し掛かった時、中から賑やかな音声が聞こえてきた。大声での会話にめ事でもあったのかとぼんやり考えながら外履きのスニーカーに片足を納めた矢先、耳が拾ったのははっきりとした滑舌かつぜつの芝居の台詞。

 素早く両足の靴を整えて玄関を出て、吸い寄せられるように屋外からそちらへと足を運ぶ。多目的ホールの窓はすべて全開で、中で行われている演劇部の稽古の様子が玄関前の広場から一望できた。


 数いる部員たちの中に早苗の姿を見つけ、我知らずうっすらと微かに口端が上がる。ジャージ姿で、額に汗しながら仲間たちとともにほがらかに練習に励んでいる彼女を、眩しげに目を細めて見守った。

 と同時に、ひどく喉が渇いてくる。


 ――まただ。またこの感じ。まるで彼女の成分を得て熱のともった身体が、その熱によってかえって干からびて枯渇こかつするかのような――。



「なあ」

「うん?」

「やめないか、部活」

「え……」

 門限まであと一時間足らずというところで、ようやく顔を見せてくれた恋人に俺はのっけから切り出した。待ちわびていた両腕の中の彼女は、きょとんと目を見開く。

「今日、練習ちらっと見えたんだけど、お前恋人のいる役なんだな」

「そ、そうだけど、でも……」

「手つないでた」

「ああ、一瞬ね! 一瞬だけね! 別にメインの役じゃないし、はけるときに一度、手をつないで走るだけだから……」

「でもやだ」

「う……」

 早苗はまた、困ったような顔で俺を見た。

「一緒にいる時間も減るし」

「でもほらっ、それは本番前だけだからっ」

「でもやだ」

「うーん……」

 早苗は俺の身体に手をつき、距離をとって背筋を伸ばした。それから露骨に真剣な顔つきになり、腕を組んで考える仕草を見せる。

「……でもあたしも、部活やめるのはやだな。中等部からずっと続けてきたんだし、何よりお芝居が好きだし、お芝居してる私を息吹先輩にも見ててほしい」

 そうだよな、と、俺は乾きにひりつく喉の奥のほうで独りごちた。


 ――ああ、暑い。かんかん照りの太陽が目の前にぐいぐい迫ってくるみたいな気分だ。


 早苗はそんな俺に気づいているのかいないのか、あ、と鮮やかに顔をあげた。

「そうだ! じゃあこういうのはどう? 友だちが軽音部でバンド組むんだけど、男性ボーカル探してて、先輩にお願いできないかなって言われてたの。先輩、歌が上手いしギターも弾けるし、そっちに参加してみない?」

「なんで俺が……」

 それとこれとは話が別だろう、と反論しようとしたのだが、早苗は頬を上気させてなおも言いつのる。

「だってもったいないじゃない。あたし、先輩の歌声、好きだよ。すっごく上手いと思う。せっかく神様からもらった才能をかさなくっちゃ」

「めんどくさい」

「そんなこと言わずにやろうよー。今からなら次の文化祭で一緒にステージに立てるし」

「興味ない」

「あたしがあるの! 先輩が歌ってるとこ、観たい! ――それにそれなら、お互い練習終わりに時間合わせて一緒に帰れるし」

 一緒に帰れる、と上目使いで言われて、現金にも言葉に詰まってしまう。早苗はここぞとばかりに身を乗り出してたたみかけてきた。

「ね、やろ。いいでしょ? 先輩が部活がんばってるとこ、わたし見たいよ」


 彼女はおねだりが上手だ、と思う。いやその実それは、俺が彼女の要望に対して途方もなく甘いだけなのだが。


 結局、俺の残りの高校生活は軽音部に所属して過ごすということが決定事項となってしまった。不本意だが、歌声が好きだとか甘い言葉を聞かされた挙げ句、少しでも一緒にいる時間が増えるかもしれないという希望的観測をちらつかされては背に腹は変えられまい。


 もとより演劇部を辞めろ、というのは完全な本心だったわけではなかった。部活をすることで奪われる時間と、部活動と称して人のものに気安く話したり触ったりされてしまうことが問題なのであって、俺自身は彼女の舞台上での姿を見ることが楽しみの一つであるには違いないのだ。


 そもそも、彼女を見つけたのは演劇部の舞台上でのことだ。中等部だった三年前、体育館の劇空間。その舞台に立つ彼女の姿に、俺は釘付けになった。

 演目は“真夏の夜の夢”だったか。彼女はヒロインでもなんでもない名もなき町娘のような役どころだったけれど、一目見て、そして一声聞いて、俺は彼女が欲しくなった。


 なぜそんなにもかれたのかはわからない。とにかくその存在が痛烈に脳と心を支配して、彼女から目を離すことができなかった。

 あかりの落ちた体育館で、ステージの上、俺の目にだけは彼女はありもしないはずのスポットライトをきらきらと一人、浴びているかのように見えた。神さまみたいだ、とさえ思った。今にして思えば、それはまるで憧憬どうけいのようなものであったのかもしれない。


 それから毎日、彼女にがれていた。


 近くで会ってみたい。こちらを見て、あの綺麗な硝子ガラス玉のような瞳に俺を映してほしい。話をしてみたい。あのやわらかな声音で、俺の名を呼んでほしい。触れてみたい。あの黒く健やかな髪を、思うままに存分に撫でてみたい。

 それはもう産まれてはじめて、誇張こちょうではなく食事の味もわからなくなるほどに執着を覚えた。家族とか友人とか、どういう類の人間関係にも固執しない性質だったはずなのに。

 とにかく彼女のことが気にかかって仕方なく、朝にも夕にも、のべつまくなし物思いにふけることが日に日に多くなっていった。

 そんな俺を見て、歳の離れた兄は「恋煩こいわずらいだ」と言い放ったが、俺にとってはそのもの自体の名前は重要な問題ではなかった。

 重大なのは、俺がかつてないほどの熱量を持って、身体の根底から確かに彼女の存在を求めていたということ。


 ――それからの経緯は、まあ今となっては小っ恥ずかしい思い出に過ぎないので割愛するが、端的に言えば共通の知人をかいすることをきっかけに、ほどなくして俺は彼女と、晴れて恋人同士になることができた。

 その時は文字通り天にも昇る心持ちだったし、心身の隅々に渡るまで満たされていた。切に想い続けた彼女は俺のなかですでに神聖な存在にまでなりつつあったから、互いに見つめ合ってそば近くにいられるのだと思うと神秘的な気持ちにすらなった。


 まるで未知の大海に生まれ落ちた稚魚ちぎょのようにまっさらに、俺はこの世界を生き直すような心持ちで、彼女との生活を順調にぎ出していったのである。



 彼女は神さまみたいだ、というのは言い得て妙だ。恋と信仰は、もしかしたら似ているのかもしれない。

 俺は彼女のためなら苦行にも耐えられるし断食や自爆テロだってやってのけられる気がする。彼女の言葉をメモにとって聖書にまとめて時おり眺め返して、心の安らぎを得ることもできると思う。そうして必死に求めて励んで、彼女から与えられる恵みや癒しという名の施しを受けて、俺はゆくゆく解脱げだつして憂いから解放されて生きていることを実感できるはず、だったのかもしれない。それをこそ、幸せと呼ぶのかもしれない。


 ――だが恋も信仰もやはり同じ。おそらく、深みにはまるとそれは徐々に空模様が変わっていってしまう性質のもので。


 彼女と恋人になれて、その視線に溺れたいとかそのぬくもりに触れてみたいとかその匂いに包まれたいとか、そういう諸々の念願が叶って、満たされて、解脱でも開眼でもなんでもして、そのまま浄化されてしまえば良かったのに。


 俺は貪欲にも『もっと』と願ってしまった。


 潤んだ瞳で見つめられれば目をらされることが怖くなって、やわらかなぬくもりに触れてしまえば二度と離したくないと思ってしまって、ふんわりと匂いに包まれればもうそれがなくては生きていけないような気にすらなって。


 気がつけば俺は果てることなく彼女を求めるようになっていた。


 これではもはや、恋や信仰などとは到底呼べない。恋人や神さまを万人に分け与えることをいとって独占したいという欲求を抱き続け、あまつさえ己の心のままに貪り続けることを、そういうなんだか神聖な言葉に当てはめて良いということはないだろう。



 恋というには渇きすぎている。飢えすぎている。



 そう例えるなら、俺は灼熱の砂漠に耐えうる旅人であったはずだった。それなのに彼女の一滴を与えられ潤いというものの存在を知った。求めれば求めただけ、恵みの雨をバケツがひっくり返ったようなどしゃ降りで与えられ、憩いの心地よさを知ってしまった。

 潤沢を知ってしまって、それと同時に枯渇をも知ったような。

 オアシスでの暮らしに慣れすぎて外側の炎暑の世界での耐性を失ってしまったような。


 ――だから、こうして抱き締めると目眩がするんだ。


 目が眩む。尽きることのない底なし沼のような欲求に焦らされてじりじりと渇いていく。


 ああもう、いっそ全部食いつくしてしまいたい、と俺は目の前にあった白い首筋に噛みついた。痛いよ、と小さく抗議の声が聞こえて、細い身体がぴくりと震える。口を離すと、歯列の形の傷跡にうっすらと血が滲む。それを見ると無性にたまらない気持ちになって、赤い筋にぺろりと舌をわせた。今度はこの小さな傷口から、彼女の体内に入り込んで溶け入ってしまいたい、と思う。


 あああ、目が眩む。責め立てるような極暑の日差しに身体も思考もすべて、蝋燭のようにどるどると溶けていってしまう。彼女を得ることで、はたして俺のすべては狂ってしまったのだろうか。



息吹いぶき先輩」

「なんだ」

「ライブ、楽しみにしてるからね」


 ぽつり、と空から降り落ちる一滴の雨のように、ふいに発せられた彼女の何気ない言葉に俺は目を上げた。


「……俺もな」

「うん?」

「お前の舞台を楽しみにしている」

「うん!」


 嬉しそうに笑う彼女が可愛らしくて背筋がこそばゆくて、次は一人舞台を俺ひとりのために上演してくれればいいだとか、この顔を誰にも晒すことがないように着ぐるみの芝居でもやってくれたらいいだとか、そんなくだらない妄想さえしてしまうあたりが末期症状で、本当に救いがたい。



 これからも、お前はそうやって、そらから恵の雫を与えたり、翼をひろげて天使みたいに飛んできて、気まぐれにそらすくいあげたりするんだろう。俺はその度に、飢えたり満たされたりを繰り返しては生に喘ぐ。それを思うと、絶望にも近いどろりとした幸福を感じてしまう。



 恋煩いなんて、そんなロマンティックな響きでもないだろう。


 求めて、与えられて、潤って、飢えて、また求めて――。




 俺は今日も、飽くことなく砂漠の夢を見る。








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