郷愁

@mrkid

1話完結

 目が覚めると、雨が降っていた。


昨晩飲んだ睡眠薬が、口の中に苦みを満たしている。

今日は何曜日だろう?


私は、霞の掛った頭を懸命に動かした。

ここのところ、曜日の感覚が麻痺している。

週末を目指して生きているサラリーマンにしては、珍しい状態だ。


なんとか月曜日であることを思い出した私は、煙草に火を付けた。

とりあえず目を覚まして、シャワーを浴びなければ………。


今日の予定を思い出しながら、ぼんやりと煙草を吹かしていると、頭が段々と醒めてくる。

ふと、自分の隣の布団の膨らみに気が付いた。


  なんだろう?


去年、二十年間連れ添った女房に死なれてからは、私はずっと独身だ。

中年のしがないサラーマンである私に、すぐに新しい女ができる筈もなく、そのまま寡夫暮らしである。


恐る恐る布団の上から確かめようとした時、その柔らかいモノが寝返りを打った。

どうやら、思い出さないといけないことが一つ増えた様だ。


昨日の日曜日、私は殆ど家から出ていない。

夕飯も、家であり合わせのもので済ませた筈だ。

夜も飲みになどは行っておらず、ひとしきりパソコンを弄った後、十時前には睡眠薬を飲んで寝てしまった………と、思う。

では、この柔らかいモノは何だろう?


  何も思い出せない………。


これだけ考えても思い出せないということは、元々記憶になかったということか?

とりあえず布団をそっと脱け出た私は、足音を忍ばせて寝室を出、ドアをそっと閉めた。


  考えなければ………。


リビングでひとしきり頭を捻っていると、いきなりドアが開いた。


「喉渇いた。 何か飲むものある?」


敷居に立ち、気怠げに呟く女を見て、私は更に驚いた。

「女」というよりも「少女」と言った方がいい。

少女の小柄な肢体は腕や足がすらりと伸びており、その若さを主張している。

ラフに着ているTシャツの胸の部分は形良く膨らんでいて、目のやり場に困る。

何よりその調った顔立ちで特に目立つ大きな眼が、私を揺るぎなく見ていた。

そして一番の問題は、私の子供と言っても通りそうな、この少女の記憶が全くない。

何も思い出せない以上は、直接聞くしかないだろう。


「あの………正直に言うけど、君は誰やろう? 全く記憶にないんやけど・・・・」


おずおずと切り出す私を、ぼんやりと見つめながら少女は言った。


「の・む・も・の」


仕方がない。

私はキッチンに行くと冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取出し、食器乾燥機に入ったままになっていたコップを取り上げた。

テーブルの空いているスペースにそれらを置きながら、再度聞いてみる。


「で、どこで会ったんやろう? というか、どこから入ったんや?」


少女は問いには答えず、ペットボトルの水をコップになみなみと注ぎ、一気に飲み干した。

ぐぐっ、ぐぐっと喉が動く度、体中に水分が広がっていく様が見ていて解る。

気持の良い飲みっぷりだ。


彼女はすぐに一杯目を飲み干し、二杯目を注ごうとペットボトルを持ち上げた。

それを右手で押さえながら、私はもう一度聞く。 

三度目だ。


「なぁ、俺は会社員で今日は月曜日、今はもうすぐ七時や。 あんまりゆっくりしてる時間はないねん。 見た感じからしても不審者やとは思われへんけど、君にさっぱり憶えがない。 そろそろちゃんと返事してくれへんか?」


  そう、おかしい。


何故私は、朝起きていきなり隣に居る彼女に違和感がないのだろう?

「記憶にない」ということばかりで、全く不審感を感じていない。


自分で言って自分で頭を捻っている私を横目に、彼女はペットボトルを取り上げた。

コップにミネラルウォータを注ぎながら、


「そうね。 そろそろシャワーでも浴びてくれば?

おじさん、寝癖が酷いよ?その間にあたしも用意するから」


と言い、また美味しそうに水を飲む。

そんな彼女を見ながら返す言葉が見つからず、私は催眠術にでも掛ったようにバスルームへ向かった。


 シャワーから出ると、彼女は白いフレアミニと黒いTシャツで、小柄なその体を包装し直していた。

頭の高い位置で髪を括り、黒目の勝った猫の様な目は、私を吸い込むように輝いている。

私はバスタオルを腰に巻いた格好で、もう一度質問を試みた。


「何度も聞くけど・・・」


だが、言い終わる前に、彼女が遮る。


「あたし一度出掛けてくるね」


そう言い残すと彼女はすたすたと玄関に行き、まるで自分の家から出掛ける様に出て行った。

呆気に取られた私を残して。


-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-


私の会社はシステム開発と言えば聞こえは良いが、要するにコンピューターソフトに関する何でも屋である。

入社以来昼夜を分かたず働き続けた私は、今では開発部長という大層な地位にある。


  しかし、だから何だって言うんだろう?


私はこんな地位を望んでいた訳ではなく、今にして思えば気付けばこうなっていたというのが本音である。

死んだ妻は私のことを冷めた目で見ながら、「仕事、好きやねぇ・・・」とよく言っていた。

が、私自身は仕事を好きだと思ったことは一度もない。


  その日は会社で散々な目に会った。


朝一番からの経営会議に出席した私は、頭に入っている筈の金曜日に作成した報告書の数字が出てこず、開発担当役員からの質問にしどろもどろで答える有様だった。


「どうした? 具合でも悪いのか?」


役員の声を聞きながら、それでも私は頭の片隅で少女のことを考えていた。


会議が終わり自席に戻ると、私の机にメモが乗っていた。

『至急連絡されたし』

私の担当する得意先からのものだ。


あまりにも簡単な伝言に嫌な予感のした私は、慌てて電子メールを確認する。

やはり届いている。

どうも得意先は怒り狂っているようだ。

先日納品したソフトが、仕様通りに動かないらしい。

一気に私の頭から少女が消え、燃え上がったトラブルの消火作業に取り掛かった。



 トラブルが一段落したのは夜の九時を過ぎた頃で、それから溜まっていた書類を片付けた私は、深夜になってやっと自宅に辿り着いた。

勿論食事を摂る時間も気力もあろう筈がなく、マンションのエレベーターを待ちながら、疲れた頭でぼんやりと夕飯をどうしようかと考えていた。

いつも通りに玄関の鍵を開けた私は、ぼんやりしていたせいもあり、不意を突かれて驚いた。

部屋の中は、電気が着いていた。

鍵は掛かっていたので、朝出る際に消し忘れたのかと思いながらリビングに入った私は、またまた驚くことになった。

リビングダイニングに隣接するキッチンに、朝の少女が居る。


「おかえり」


少女は言いながら、何やら料理をしているようだ。

煮物の甘辛い匂いと、炊けたご飯の良い匂いが部屋に立込めている。


正直なところ妻に先立たれてからというものろくな食事にありつけていなかった私は、少女に不審を抱くよりも空腹が勝ってしまっていた。


「何作ってるの?」

「肉じゃがと味噌汁。 好きだよね?」


少女が答える。

確かに肉じゃがは私の好物ではあるが、世の男性で嫌いな方が珍しいだろう。

しかし、味噌汁の鍋を覗き込んだ私は更に驚いた。

油揚げと大根の味噌汁。

これは確かに私の好物だ。

疑問符に圧し潰されている私に、


「とりあえず、着替えてくれば? その間に出来上がってるから」


と、少女は私の方すら見ずに言う。

いくら疲れ果てて空腹ではあっても、流石にここは問い質すべきだろう。


「で、君は誰やろう? 朝も聞いたけど、答えてくれへんかったし、俺には会った記憶すらないねんけど・・・」


スーツ姿のままで突っ立ったまま尋ねる私に、彼女が答える。


「それは後で説明してあげるわよ。

それよりお腹空いてるでしょ?

もたもたしてると、日付が変わっちゃうわよ?」


確かにそうだ。

疲れ果てた体と頭、更には空腹を抱えた私にはそれ以上問い質す気力もなく、寝室に隣接する洋間に着替えに向かった。

とりあえず着替えて、私に作ってくれていると思われる食事を摂ろう。

聞きたい事はその席でも聞ける。

そう自分に言い聞かせながらネクタイを外し、スーツを脱いで部屋着に着替えた。


 リビングに戻ると、少女が味噌汁をよそっているところだった。


「すぐ食べるよね?お漬物は要る?」


少女が私に問い掛けてくる。


「味噌汁と肉じゃがか・・・。懐かしい献立やな。漬物はいいよ」

「それじゃ早く座って。あたしもお腹が空いたから」


少女に促されるままに食卓に着くと、美味そうな匂いに包まれた。

自分の掌から零れて消えた家庭がそこにあるような気がした。

こんなアットホームな感覚はいつ以来だろう。

ふと思ったものの、去年の今頃はまだ死んだ女房が同じようにしてくれていた事を思い出した。

たった一年・・・。

しかし、私はもっと長い年月を一人で過ごしてきた様な気がする。


「どうしたの、ぼおっとして?暖かいうちに早く食べようよ」


「ああ、ごめんごめん。ちょっと色々と思い出してね。いただきます」


「いただきます」


味噌汁を啜った私は思わず唸った。

美味い。

更に言うなら、どこまでも私の馴染んだ味に近いようだ。


「ほんと、美味い・・・。若いのに料理が上手いなぁ」


「そう? 口に合って良かったよ。 味噌汁なんかは、人によって味が違うもんね」


含羞んだ様な、嬉しそうな顔で少女が言う。


「でもさ、あたし誰かのために料理作るのって初めてなんだ。

そもそものレパートリーも少ないしね」


「ん? そうなん? そんな風には見えへんね。この味噌汁も肉じゃがも本当に美味しいで?」


空腹で多少がっついた様に料理を口に運ぶ私に、少女は眩しそうな顔を見せた。


「おじさんさぁ、ほんとに良い人だよね」


突然の少女の言葉に、私は思わず箸を止める。


「普通なら、理由も説明せずにこんなことしてたら、追い出されててもおかしくないよね。

うん。 あたしの目に狂いはなかった」


「んっと・・・。 話が見えへんな。そもそも君はどっから来て、ここで何してるの?」


「どこから、ね。 それを言わなくちゃだめかな?」


「まぁ、普通は聞くやろうし、聞きたいやろうね。

言いたくないにしても、せめて何故ここに居るのか、どうやって家に入ったのかだけでも教えてくれへんか?」


問い掛ける私に、少女は静かに味噌汁を啜った。

伏せた睫毛が儚く揺れている。

暫く躊躇うように俯いていた少女は、意を決した様にその猫の様な目で私を見つめた。


「ここに居る理由はね、おじさんが優しそうだったから。 

おじさんが寂しそうだったから。

おじさんが私を必要としていたから。

あたしにはそう思えたから。

どうやって家に入ったかって言うと・・・」


少女はスカートのポケットに手を入れ、鍵を摘み出した。

それを見て私は固まる。

鍵自体はどこにでもある鍵だ。

しかし、鍵に付いているキーホルダーには見覚えがある。

いや違う、見覚えがあったどころの話ではなく、私がつい最近まで探していたものだ。


生前の女房は、普段の冷静な性格とは対照的に酷くおっちょこちょいなところがあり、よく物を失くしていた。

二度目に鍵を失くした際に、女房をからかいながら私がプレゼントしたのが、彼女の星座を模ったこのキーホルダーだった。

女房が事故に遭った後で遺品の中にこれが見つからず、とはいえない筈がないものでもあったので、私は軋む心を宥めながら、女房の行きそうなところや事故現場の近辺を探し歩いていたものだった。


「なんで・・・」


流石に言葉を繋げられずに絶句する私に、少女は静かに話し出した。


「これはね、道で拾ったんだ。

正直言うとあたしの星座だったんで、ラッキーと思って拾ったんだけど、暫くは拾ったことさえ忘れてた・・・」


少女は一息つき、お茶を飲む。


「この間ね、その場所を通り掛ったときに、きょろきょろしてるおじさんを見ちゃってね。

最初はなんか怪しい人だなぁと思って眺めてたんだけど、あまりに悲しそうな顔で何かを探してたんで、ちょっと気になったんだ。

あたしね、この近くには良く来るんで、おじさんの顔は見覚えがあったんだけど、いつもはもっときりっとした感じなのに、その時は本当に悲しそうで、寂しそうで・・・。

凄く気になったんで、実はそれからずっとおじさんを観察してたんだよ。

あそこで車に轢かれた女の人、おじさんの奥さんだったんだね。

それはすぐに判った。

だからこの鍵はその女の人の物で、おじさんはこの鍵を探してるのかなって、漠然と思った。

それからも朝おじさんの後ろから尾けて会社の前まで行ったりして、おじさんを・・・半月くらいかな?

観察してて思ったんだ。

この人は平気な顔をして普通に暮らしてるけど、そんなんじゃない。

この人は疲れた顔をして帰ってくるけど、仕事に疲れてるんじゃない。

あたしね、今までほとんど世間と関わって生きてこなかったし、それで良いと思ってたんだ。

現実って、凄く嫌なことばっかりじゃない?

別に誰とも関わらずに居てもちゃんと生活もできるし、あたしは何も困らない。

ずっとそう思ってたんだ。

でもね、おじさんを見てるうちに、違うんじゃないかと思い始めちゃって。

少なくとも、この人は誰かを求めてる。

そう思うとね、あたしは自分のことが可哀想になってきちゃって。

今まで一人で生きてきた。 これからもこのままじゃ一人で生きていくんだろう。

そう思うと、たまらなく寂しかった。

そこで思ったんだ。

ひょっとしたらあたし、おじさんと一緒に居れば変われるんじゃないかって。

そして、あたしなんかでもおじさんの力になれるんじゃないかって」


私を瞬きもせずに見つめながら話す彼女の瞳は、寂し気でもあり、悲し気でもあり、何かを訴えていた。


  そう、彼女の言っていることにはリアリティがない。


彼女の生活が百歩譲って彼女の言う通りだったとしても、それだけの理由で他人の家に上がり込み布団に潜り込むというのは、私の理解どころか想像を超えている。

幾ら私が世間に取り残された「おじさん」であり、若い人たちの感性を理解できていないとはいえ、流石に世間と私の常識のずれはそこまで酷くない筈だ。


戸惑っている私に彼女は重ねて言う。


「そうだよね。 いきなりこんなことを言われても、おじさんも困るし信じられる筈がないよね。

でも、本当にそう思い、感じたんだ。

あたしはおじさんの傍に居るべきだって・・・」


そう宣言する様に言う彼女の瞳は、既に寂し気でもなく、悲し気でもなく、強い光を放っていた。

何が彼女をこうまで思い込ませているのだろう?


「あたしね、おじさんの奥さんには及ばないかもしれないけど、頑張るよ?

暫くここに置いてくれないかな?」


そういう彼女の目は真剣で、その猫の様な目に私は引き込まれていく様だった。


返す言葉もなく、黙々と彼女の作ってくれた食事を摂りながら考える。

彼女の言葉自体は理解できるものの、内容はまったく理解できない。

こんな少女が、本当にそれだけの理由で転がり込むものなのだろうか?

そもそも彼女の言葉が本当だとして、他人と関わるのが嫌な人間がたったそれだけのことでいきなり他人の家に上がり込み、布団に潜り込み、食事を作るなんてことは、私の常識ではあり得ない。

本来ならここで怪しみ、追い出すのが普通の対応だろう。

がしかし、この状態で未だ違和感を持てない自分自身も理解できない。


  何が起こってるんだ?


「ねぇ、おじさん。 おじさん今、怪しんでるよね?

ひょっとしたら、新手の詐欺やなんかだと思ってない?

でもまぁそれが普通だよね。

だけど、本当に信じて欲しいんだ。

あたしが欲しいのはお金やモノじゃない。

今はただ、おじさんの傍に居たいんだ。

こんなに可愛い娘がそこまで言ってるんだから、試しに置いてみてよ?」


そういうと彼女はにっこりと笑った。

その笑顔は私の不信感を吹き飛ばし、思わず吸い込まれそうになる太陽のような笑顔だった。



 結局、結論を出せないまま食事を終え、食後のお茶を飲みながら私はまだ考えていた。

しかし、「どうするか」ではなく、「彼女をここに置くにあたっての問題点」を考えている自分に驚愕を覚える。

そう、私は既に彼女をこの家に迎え入れる前提で考えていた。

私自身猜疑心に塗れた人間ではないと自負するものの、人並みの警戒心は持っているつもりだ。

しかし違和感を感じない上に、彼女との生活を始めることを何故肯定しているのだ?

考えが纏まらないまま彼女に返す言葉もなく、ぐるぐると空転する思考に嵌り込む。


 いったい、私はどうしたんだろう?


今、彼女は風呂に入っている。

私は考え続ける。

何故だろう?

今の私には解らないことで一杯だ。

どうして、こうなったんだろう?

どうして、私は彼女を疑えないんだろう?

しかし、現実として私は彼女の存在を否定できない。

どうしてなんだ?

普通で考えれば、おかしなことだらけだ。

そもそも彼女の言葉は、私の疑問に対して何も答えていない。

なのに何故、今になっても彼女を肯定できるのか?

私は自分自身が解らなくなっていた。


「おじさん、お風呂入る?」


一人頭を抱えていると、突然彼女に呼び掛けられた。


「いや、入らない。ところで、君の家族はこんなに遅くまで連絡しないで心配しないんか?」


「あたし・・・家族なんて居ない・・・」


返す言葉が出なかった。


「あたし、小さい頃から独りぼっちなんだ。

二年前まで親戚の叔父さんが面倒を見てくれてたんだけど、亡くなってね。

今は、両親とその叔父さんの遺産で暮らしてる。

これでも結構、お金持ちなんだよ?」


お道化た様に微笑む彼女に、何も言い返せなかった。

結局彼女に寝室を譲り、私は客用の布団を使ってリビングで寝ることにした。


「やれやれ。月曜日からこれじゃ今週は長いな・・・」


そんな事を考えながら眠りに落ちていった。



 翌朝、私はキッチンの物音で目が覚めた。

彼女が朝食を作ってくれているらしい。


「おはよう」


誰にともなく呟くと、


「おはよう。良く眠れた?寝室取っちゃってごめんね?」


彼女は満面の笑みで振り返ってくれた。

彼女の笑顔も、パジャマの上からエプロンを着けている肢体も、私の目を覚ますには十分だった。


朝食のメニューは、昨晩の残りの味噌汁と出汁巻き卵のようだ。

私はもう悩むことを止め、受け入れる選択をしていた。

そう、彼女の気が済むまで居ればいい。


ある意味諦観した私が洗面所に向かい顔を洗っていると、


「ちょっといいかな?」


彼女が洗面所の入り口からひょいと顔を出す。


「どうしたん?」


「あのさ・・・気を遣ってくれるのは嬉しいけど、寝室で一緒に寝れば?

あたしだって、男と女が一緒に居ればそうなるっていうのは解ってるし。」


顔を洗っていた私は思わず固まっていた。


「おじさん、優しいのは解るけど、優し過ぎるのも考えもんだよ?」


そう言って笑うと、彼女はキッチンに戻って行く。


上目で鏡を見ると、そこには無表情に固まる中年が居た。


硬直から復帰した私は慌てて洗顔を済ませると、玄関で新聞を取ってリビングに戻った。

そこには既に朝食が並べられ、彼女が微笑みと共に待っている。


そうか。

そういえば、ほんの一年前まではこんな生活をしていたんだ。

浮かびかけた涙を危うく堪え、私は食卓に着いた。


「あのな、さっき洗面所で言ってたことやけど、俺も正常な男やから、そらそんな気にはなるよ。

でもはっきり言って、君にそんなことをしようとは思わへんねん。

そやから、寝場所のことは追々考えるわ」


それだけ言って味噌汁を啜りだした私を、彼女は優しく見つめるだけだった。


 テレビのニュースを見ながら黙々と朝食を食べていると、彼女が突然口を開く。


「あのさ、今日荷物持ってきてもいいかな?」


断られることを全く考えていない口調に、私は少々たじろいだ。


「流石に服とか化粧品とか、身の回りの物がないと不便だしさ。

あんまり物は持たない方なんでそんなに量はないから、どこかに置かせてよ」


「ええけど・・・週末に片付けて置く場所を考えるから、それまでは適当なところに置いといて」


「そうね、そうするわ。

ところで、この鍵はあたしが持っててもいいのかな?」


「ええよ。なんか、君を追い出す気になれへんし、それなら鍵がないと不便やろ?

今日は早目に帰ってくるから、これからの生活のルールは今晩にでも話合お」


私がそう言うと、彼女は突然ころころと笑い出す。

そうやって笑い転げている姿は、どう見ても年頃の女の子だ。


「・・・どうしたん?」


「だって・・・ルールって・・・」


彼女の笑いは止まらない。


その笑顔は、いつまでも見ていたい笑顔だった。


「はぁ・・・笑い過ぎてお腹が痛いよ。おじさん真面目だよね。

でもまぁ、確かにルールは必要かもしれないね。

いいよ、今晩話しよう。だから早く帰ってきてね」


  『早く帰ってきてね』


こんなことを言われたのは、随分久し振りだ。

死んだ女房は、冷めたところがあったので、こんな言葉を掛けられた記憶がない。

私は朝食の箸を止め、胸に浮かぶ暖かいものを感じていた

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

郷愁 @mrkid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ