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家庭にある窯は食事と薪を一緒に入れる小さなものが多い。
しかしファンシアン城の窯は燃料室と料理を入れるところが二層に分かれているため、火力の調整が楽だし、一度にたくさんのパンを焼くことができる。
「そろそろだな」
窯の蓋を開け、中身を取り出した。
小麦の焼ける香ばしい匂いが立ち昇り、ディミが瞳をきらきらと輝かせた。
「おお~~~~~! これは何じゃ、何なのじゃ? 見た目にはパンのように見えるがのう」
「これは《ベーグル》というものだ。母の得意料理だった」
天板の上には、キツネ色に焼きあがった丸いベーグルが等間隔に並んでいる。
パンより固くしっかりとした質感、表面には独特の照りがある。
「まだ熱いが食べてみるか?」
「ディミ様にとっては熱さなど敵ではないわ!」
ひとつ投げてやると、大きな口を開けて勢いよくかぶりついた。
「はふっはふ! …………む、これは! しっかりモチモチカリカリふわわーん、だな!」
よくわからない感想が返ってくる。
ノルンもひとつ取ってちぎり、口の中に放り込んだ。
カリカリに焼けた表面が、歯に押されて小気味よく砕ける。
続いて、熱とともに小麦の香りが口いっぱいに広がった。
生地を寝かせる時間が短かったせいもあり、食感はしっかりとしていて、焼き立てパンより固い。空気の入る穴の大きさが小さすぎるのだ。だがそのぶん小麦の味が詰まっていて、噛みしめると滋味としてうまい。
料理好きなノルンの母は、一週間も硬く冷たいパンを食べるのが我慢ならない性分で、ときどきこんなような手早くできるものを作って出してくれた。
手伝いついでに間近で作業を見ていたので手順はよく覚えている。
「うん……いい出来だな。焦げてもないし、上出来だ」
パン窯は火力の調整が難しい。上手く行ってよかった。
満足して飲み下そうとした瞬間、ノルンは不意にここで焼かれた死体のことを思い出した。
「…………」
だが、ディミの前で吐き捨てるわけにもいかない。この街で人を食らうことを嫌うのは、ノルンだけなのだから。
こみ上げるものをぐっと堪えて飲み下す。
「ずるいですわずるいですわ、ずるいですわ~~…………」
恨みがましい声と視線が注がれるのを感じ、振り返ると、勝手口に黒髪の美少女が立っていた。美しい髪の一房を噛みながら涙目でこちらを睨んでいる。
「どうしてディミだけご飯を食べさせてもらっているの? しかも、何故ディミはノルンの服を着ているの? どうして水でしっとり濡れているの? 人魚でもないのに!」
ネッヤがそう喚きちらす。
「面倒くさいのが来てしまったな……」
ディミは食べかけのベーグルを口に咥え、ムグムグと噛んだ。
ノルンは凄まじい命の危険を感じつつ、生き残りの策を考えていた。
女の嫉妬は国をも亡ぼす、とは父親の言葉である。
*
準備に手間取ったせいもあり《最果て亭》は今日は通常のメニューは休みである。
その代わりに大量に焼けたベーグルを上下ふたつにスライスして表面にバターを塗り、野菜やハム、薄切りの玉ねぎを挟んだベーグルサンドが売りに出された。
客の好みによって蒸した鶏肉とカボチャのサラダを挟んだもの、ローストした魚や牛肉を挟んたもの……具によって様々に味の変わるベーグルサンドは見た目にも楽しく、文句を言う客は幸いにもいなかった。
「さっきの話だが……人がパンを食べる理由は、やはりうまいからだと思う」
ノルンはカウンターの内側で注文通りのサンドイッチを作りつつ、ディミは鳥と豚のハム・牛肉のローストを挟んだ特性のベーグルを口いっぱいに頬張っている。
「単純な結論だのう」
「うん。それにな、パンが作れる余裕があるというのは、人の世界が穏やかな証拠なのだと思う。パンを食うというのは鳥や豚なんかの食い物を腹に納めるのにくらべると、ずいぶん特別なことなんだ」
手がかかるわりに奇抜な味がするわけでもない。ただ小麦の味を舌で感じるだけの食べ物。けれどそこには毎日の食事への感謝があった……と思う。
そんなことを感じたことは、ノルンは今までは無かった。
だが一晩で町が滅んだのを見た後ではちがう。
パンを焼けるようになるまでしばらくかかったが、再び口にした人間らしい食物は心の底からありがたかった。
「まあ、このベーグルとやらは、確かにうまいな。焼きたてを食べられるのなら、何時間でも待てそうだ」
「そうだろう……だからな、ディミトリアカ……ひとつ相談なんだが、近隣の村をむやみに襲うのはやめてくれないか。これ以上村を襲えば、麦が育たなくなる。俺も仕入れのために何日も何日も歩き遠くの街に行かなければならない。この通りだ」
ノルンはナイフを置き、カウンターに両手を突いた。
そして頭を下げる。
村を襲っているのは、厳密にはディミトリアカではない。
ただ彼女やネッヤは明らかに他の魔物と一線を画している。
魔物の世界は、基本的には弱肉強食だ。ディミが他の魔物に狩りを禁じれば、従う者もあるかもしれない。
ディミはにやりと笑った。
「聞いたか、ネッヤ。ノルンはそういう浅知恵で私を諭すために呼びだしたのだ。小狡い男だ。決してお前が想像をめぐらすようなことのためではない」
「ふん……どうかしら。だまされなくってよ」
完全にふて腐れているネッヤの前に、ノルンは皿を置く。
白く丸い皿の上に置かれたベーグルは他のものと違っていた。
生地には木苺が練り込まれ、蜂蜜と牛乳で練ったチーズとジャムが挟まれていた。サンドイッチそのものが、冷たく冷やされている。
「これはネッヤのために作った。甘いものだ。きっと好きな味だと思う」
ネッヤは必死にふて腐れた顔を維持しようとしていたが、甘いものと聞いて味が気になるらしく、ちらりとノルンを盗み見る。
そしてそっと両手で持ち上げ、齧りついた。
ジャムの甘さと酸味、そしてチーズの味が口の中で爽やかに混じりあう……はずだ。
「おいしい!」
ネッヤは微笑みを浮かべる。
それを聞いた他の客が、ノルンに同じものを求める。
「このベーグルとやら、包めば狩りの昼食にもちょうどいいのではないか?」
と、ディミが提案する。
ノルンは渋面を作った。
確かに携帯できる昼食用としてはパンと同じくらい便利だが、昼も店を開けるとなるとノルンひとりで切り盛りするのが難しくなるだろう。
「誰かに命令されるのはごめんだが、私のためにときどき焼きたてを用意するなら、人の肉を食うのは……まあ、考えてやらんでもないぞ。ほかの者にも言って聞かせよう」
「それは……」
村を襲わないということか、と問おうとしてやめた。
言質を取ったところで仕方が無い。
結局のところ、人の命は彼らの心ひとつ。
ノルンにどうこうできることではない。
「……寛容と親切に感謝するよ、ディミトリアカ」
「ああ。大間抜けだと言ったことを後悔するがよい」
ディミは似合わないすまし顔を浮かべている。
ノルンはヌリの村のことを一時、忘れて目の前の仕事に集中する。
かつての自分はどんなだっただろう。
この街に人がいて、家族がいた。そこでノルンは《錬金術師の息子》だった。城に出入りすることもあった。城主一家はともかく、使用人たちとは仲が良かった。晩餐の残りを分けてもらったこともある。
ベーグルを手に取り半分に切り分ける。
それが今の精いっぱいだ。
滅びの国、最果て亭の料理人 実里晶 @minori_akira
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