夏の日は告白日和

深水えいな

第1話

【就職決まったよ! 少し遠い場所だけど、やりたい仕事だったから嬉しい】


  大学四年になる咲から、スマホにメッセージが送られてくる。その場所はここから車で四時間ほどの場所。僕は返事を送った。


【おめでとう。いい会社じゃん。よかったな!】


【ありがとう。でもたっくん、遠距離イヤじゃない?】


【大丈夫。俺は浮気なんかしないし、咲のことも信じてる。自分の行きたい道を行きな】


 我ながら格好つけたことを書いたと思う。本当は遠距離なんか嫌だったのに。

 でもお互いの将来のためには仕方ないことだ。ため息とともにスマホを置くと、虚しい音がこだました。


 咲とは付き合って六年。付き合い始めのころみたいな熱い気持ちはないけど、咲以外の女を好きになるなんてありえないし、咲だってそう。だから大丈夫。自分にそう言い聞かせる。


 僕と咲は、高校で同じ陸上部の先輩後輩だった。

 咲はつも笑顔で、一生懸命でキラキラしてて。成績も良く、陸上部でもエース。

 草原を駆け抜ける馬のように姿勢よく軽やかに走る、そんな咲の清涼さが好きだった。

 

 玉砕覚悟で告白したのは、入道雲が空の青さを引き立てる、夏の暑い盛りの日。

 僕は成績も運動神経もさして良くはなかったが、こういう時の行動力だけはあった。随分突然だった。無鉄砲で、後先なんて考えていなかった。


 でも僕が告白すると、咲は少し赤くなって小さく頷いてくれた。その時の制服の袖の白さは一生忘れないだろう。


「さて、行くか」


 スマホを鞄の中へ放り投げ、僕も仕事場へ向かう。

 彼女が就活で頑張っているその頃、僕は丁度社会人一年目。僕もまた、社会と言う名の広大な海で溺れないように必死でもがいていたのだ。

 毎日電話をしてお互いの近況を報告しようと約束をし、僕らの遠距離恋愛は始まった。




「すごいんだよー。パソコンとか電話とかがずらっと並んでて、こう社員証でピッとやると電源が入るの! 先輩とか、みんなお洒落だし。覚えることも多いけど舞い上がっちゃって全然頭に入ってこない!」


 咲が嬉しそうに電話越しに話す。

 目を細めて自分が新入社員だった頃を思い出す。

 咲の会社とは規模が違うが、僕にもそんな風に新しい職場にワクワクしてあっという間に一日が過ぎていくような時期があったような気がする。


「じゃあ次の土日に」


「うん」


 次に会う約束をすると電話を切る。

 思ったよりも元気そうでよかった。真新しいスーツ姿で働く咲の姿を想像する。咲の長い手足はスーツにきっと映えるだろう。

 僕たちは、土日のたびに会うようになった。

 僕が咲の所へ行く日もあれば、咲が来てくれることもあった。今までと何も変わらない、そう思っていた。


 五月になり、連休が開けた。

 僕の会社では、春に会社に入ったばかりの社員が一人辞めてしまった。 

 入ったばかりなのに何を考えられているのだろう? お陰でこちらは忙しさにろくに休みも取れない。


「――ってな理由で大変なんだ。しっかし五月病なんて本当にあるんだな」


 電話越しに近況を愚痴っていると、咲は笑った。


「一人辞めたんだ。じゃあ私がそこ、受けちゃおっかなあ」


「馬鹿言うなよ。こんな会社、ろくなもんじゃないよ咲には咲に合ったもっと立派な会社があるんだからさ」


 僕は電話を切ると、咲がうちの会社で働いている光景を思い浮かべた。

 そりゃ毎日会えれば楽しいだろうが、咲にしてみりゃ狭いし汚いし、給料だって大分下がるだろう。咲にとっては良くない。せっかく希望の会社に入れたのに。


 少しして、僕の会社には新人が入った。これで仕事も少しは楽になるかと思われた。

 だが今度は新人の教育係を任されるようになり、逆にさらに多忙を極めるようになる。


 週に一度会っていた僕たちは、会う回数が二週間に一度になり、一か月に一度になり、ついには、二か月も三か月も会わないようになってしまった。

 土日に休みが取れても、疲れて三時間も四時間も車を運転するような気分ではなく、僕は身も心もボロボロになっていった。

 毎日の電話の約束も少しずつ疎かになり、文字で済ますことが増えた。


 八月のある日、さすがにこれはまずい。来月は何としても会う時間作らないと、なんて考えながらベッドに横になっていると、咲からのメッセージが来た。何の気なしにメッセージを開いた僕だったか、その文面を見て心臓が止まった。



【別れよう】



 は? 


 ガバリと飛び起きる。

 目を何度もこすった。見間違いじゃない。そこは確かに「別れよう」とある。


【もう疲れた。もうしんどい。別れよう】


 続けてメッセージが来る。「疲れた」って、それだけ? 他に理由はないのか? 


【なんで】


 返事は来ない。電話をかけてもつながらない。完全に着信拒否されている。なんでだ?

 なぜだ。思い当たる原因はない。あるとすれば、僕が忙しすぎることぐらい。他に好きな男でもできたのか? 

 とりあえず咲と同じ会社に就職した友人に電話をかける。

 

 電話を終えた俺は急いで車を飛ばす。時刻は夜の七時すぎ。暗い中、街の明かりが次々に走っては消える。

 友人が言うには、咲はもう何日も会社を休んでいるのだという。


「最近、眠れないみたいで、仕事もミスが増えて。トイレでずっと泣いてることもあったみたい。噂では、心療内科に通ってるって」


 心療内科? それは、俺の知っている咲とは全く結び付かない場所だった。

 だってあいつはいつも明るくて、元気いっぱいで、前向きで。仕事だって楽しいっていってたじゃないか。あれは全部、嘘だったのか?


「どうして」


 口に出し、頭を振った。決まっている。僕に心配をかけないためだ。アイツはそういうやつなのだ。


 咲のアパートにつくと急いでインターホンを鳴らした。返事がない。窓を見ると明かりが消えている。家の中にいない。いったいどこへ? 

 僕は車を走らせ街中を探す決意をする。が、びっくりするぐらい簡単に咲は見つかった。

 アパートから歩いてすぐの所にある高校のグラウンドを、手足のすらりとしたジーンズ姿の女が見つめている。暗がりだろうと、遠くからだろうと一目で分かる。


「咲」


 呼びかけると、びくりと咲は体を震わせる。そして僕の顔を見るとその場から走って逃げだした。あんな咲は初めだ。


「あ、おい」


 だが慌てて走り出したからか、咲は足をひねって転んでしまった。地面にうずくまる咲に駆け寄る。


「大丈夫か!?」


 見ると、足元のヒールが折れている。二人で買った靴だ。ピカピカで咲のお気に入りだった黒い靴。

 咲はヒールの折れたパンプスをギュッと握り締めうつむいた。


「なんで来たの」


「なんでって、そりゃ当たり前だろ。あんな急に別れるだなんて。一体どうして」


 咲は答えない。僕は大きく息を吸った。


「お前、病院に通ってるんだってな。全部聞いたよ」


 下を向き、肩を震わせる咲。昔と全然違う、その弱々しい姿に胸が痛む。僕は咲の肩をつかんだ。


「辛かったらさ、会社、休職してもいいし、辞めてもいい。親に泣きついたっていいんだしさ、俺のことは重荷になるんなら忘れたっていい捨てたっていい。だから――」


 まっすぐに咲を見据える。


「だから、一人で抱え込まないでくれ。みっともなくてもいい。一人で頑張ることなんかないんだから」


 夜風がグラウンドに吹き渡る。咲は赤い目で頷いた。

 本当は「別れたくない」「捨てないでくれ」って言うつもりだった。

 でも苦しんでいる咲に、そんな事言えるはずなかった。

 咲の負担にはなりたくなかった。せめて最後ぐらいは、格好いい男でありたかった。

 だから――結局僕は咲の望み通り、別れることにした。

 こうして僕たちの夏は終わり、僕はたちの恋も終焉を迎えたのであった。



 そして季節は再び夏になっていた。

 咲と別れてから一年が過ぎたのか。カレンダーを見ながらぼんやりと思う。

 この一年の間、僕は咲と会っていないし連絡も取っていない。

 友人たちは気を使って飲み会や合コンに誘ってくれるが、それでも僕の気は晴れなかった。

 別れて一年も経つのに、未練がましいかもしれないが、心の中にはいつも咲がいたから。



【別れよう】


【もう疲れた。もうしんどい。別れよう】




 外では蝉がやかましく鳴いている。

 部屋は冷房でキンキンに冷えているが、外はうだるような暑さだ。咲と別れたあの日みたいに。

 僕はスマホを開くと、咲とやり取りした六年分のデータを眺めた。ため息が出る。このままじゃ駄目だ。消去ボタンに指を伸ばす。



【 本当に このデータを 消去しますか? 】



 ご丁寧にもスマホが聞いてくる。心臓に氷でも押し当てられたような気分になった。



【 本当に このデータを 消去しますか? 】



 指が震えた。深呼吸をする。消去――できるはずがない。


 僕はスマホをベッドに放り投げると、横になりテレビをつけた。ああ、なんて女々しい男なんだ!


 テレビの中でキャスターがにこやかに告げる。


「さて、今年で第十七回目となる市民マラソン。見事な晴れの日となりました――」


 僕は何の気なしにその映像を見て、ベッドから飛び起きた。

 咲が映っていたような気がしたのだ。

 群衆の中に、きらりと光る宝石のような女の子。髪が少し短くなってはいたが、見間違うはずもない。

 スマホでゴール地点を検索する。ちょっと遠いが、急いで会場へと向かう。

 咲に、会いたい。迷惑かもしれない。女々しいかもしれないが、それでも――


 ゴール付近につき、肩で息をしながら辺りを見回すと、間もなくして咲がゴールに飛び込んできた。

 あのころと変わらない、真っすぐな、綺麗なフォーム。笑顔だった。笑顔の、咲だった。


「咲――咲っ!」


 人ごみに流されながら叫んだ。無様な格好で、転がるように、咲に駆け寄る。咲は僕の姿を見ると、驚いたように目を見開く。

 怒るだろうか? 困惑する? ストーカーとして通報されてもおかしくない。

 だが咲の反応は僕のどんな予想とも違っていた。


「あれ、久しぶり。ねえ水持ってない? 喉乾いたんだ」


 まるで一年前の別れなどなかったかのように、咲はそう言って笑ったのだった。


「結局あの会社は辞めて、今は実家の近くで働いてるの」


「そうなんだ、全然知らなかった」


「通勤時間が違うと意外と近くにいても会わないのかもね」


 僕たちは笑いながら他愛もない近況報告をした。

 聞けば、咲はあの会社を辞めて実家近くの小さな会社で働いているのだという。給料は下がったがのんびりしていて気は楽だよ、と教えてくれる。送って行くよ、と言うと咲は素直に車に乗り込んだ。

 テレビで先程見た番組を流そうとしたが、マラソン中継は既に終わっていた。ラジオをかけてと咲は言った。

 ラジオを聞くのは何年ぶりだろう。そういえば咲は、学生の頃お笑い芸人のラジオ番組が好きだったと思い出す。


「マラソンのこと、やってるね」


「うん」


 ラジオキャスターの声に聞き入る咲。

 僕たちの会話はそこで終わってしまった。

 何か言わなくてはと思ったが、言葉が出てこなかった。言いたいことが沢山あったはずなのに、一体どうして。脳みその中が炎天下で溶けてしまったようだ。

 あの時言えなかった言葉たちが、後悔が、色あせない思いの数々が、津波のように押し寄せてくるのに。


 咲が県外の会社に就職する、と言ったとき、本当は遠距離は嫌だったのに、格好つけて本心を言わなかった。

 咲が僕の会社に来るって言ったときも、嬉しかったけど、そう言わなかった。

 咲が別れたいって言った時も、嫌だったけど、嫌だと言えなかった。その結果が、これだ。

 どうしてだろうか。高校生の頃はあんなに素直に告白できたのに。

 どうして大人になると、こんなにも自分の気持ちに臆病になってしまうのか。

 いつのまにか増えてしまった下らない見栄やプライドが胸を押しつぶす。


 だけど――俺はまっすぐに前を向いて走る咲の姿を思い出す。



【本当に このデータを 消去しますか? 】



 ――できるわけない。

 するわけないだろ。



 僕はどうしようまなく臆病で格好つけだけど、こういう時の行動力だけはあるつもりだ。

 赤いトタン屋根が陽射しをうけきらめく。入道雲が白い。あの日も、真夏日だった。

 吹き渡る午後の風。車のラジオが市民マラソンの結果を伝える。


「本日は見事な晴天となりました。絶好のマラソン日和。ランナーたちは、ゴールへと向かってまっすぐに走っていきます――」


 僕はそれを聞いて決心した。

 勝敗は分からない。だけれどたまにはいいじゃないか。欲しいものを得るために賭けに出ても。大人になったって学生のころしたみたいな大博打をしても構わないじゃないか。



 そう。


 本日は晴れ。

 夏の日は



 絶好の告白日和だから。



 僕は車を停めた。

 瞼の奥では、白い夏服の袖がいつまでもはためいていた。

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