第34話
「早く。早く乗んな、風邪ひくから」
私は何も言わなかった。何も言えなかった、という方が正しいかもしれないけど。どうしようもなく、胸がつまった。口を開いたら早坂さんに対する気持ちがあふれて止まらなくなりそうだった。
私が彼女の腰に手を回すと、早坂さんはペダルに足をかけて、ゆっくりと漕ぎ出した。ぶっきらぼうなのに優しい。後ろにいる私を気遣ってくれているのが良く分かる。いつもそうだった。この人は私なんかよりも、私よりもずっとずっと、優しい女の子だから。
月の光に照らされてぼんやりと発光する自転車に乗って、私たちはどこまでも闇の中を駆けてゆく。それが前か後ろか良く分からなかったとしても、ただひたすらにペダルを踏んで。私たちはそれでも、お互いの存在を確かめ合いながら、自転車を漕いでいくしかない。
私を飲み込もうと大きく口を開けているブラックホールの中に、ふたつの鎖を落としていく。えりかとゆりか、私を縛っていたふたつの鎖。とっくに鍵のありかを知っていたのに、今まで見つけにいこうとしなかった私の弱さを、どうか許してください。ジャラジャラと音を立てて、身体から外れていく鎖を未練がましく見つめる私の肩には、いつの間にか大きな手のひらが添えられていた。
点滅する黄色信号を見て即座にブレーキをかけた背中に、私は小さく語りかける。
「早坂さん」
「どうしたの」
—大好きな貴女が私を救ってくれたみたいに。今度は私が貴女の助けになるよ。
「こんな私を、見つけてくれてありがとう」
[了]
ハッカドロップ ふわり @fuwari
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